ンド哲学における推理(anumAna)

1.認識手段のひとつとしての推理
2.推理の分類
3.基体と属性による推理
4.証因の3条件と9(16)種類の証因
5.誤った理由
6.遍充関係

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1.認識手段のひとつとしての推理

 正しい知をもたらす認識手段(pramANa)とは何かという問題はインド哲学において大きな問題領域を形成し,認識手段の種類およびその内容について各学派で見解が分かれた.しかしながらその中で推理は,直接知覚のみ認めるCArvAkaを除けば内容の差こそあれ全ての学派で認められており,また自派において承認されない認識手段を推理の領域に含ませたことによってその汎用性と重要性は直接知覚に比肩するものとなった.

 各学派が承認する認識手段の種類を簡潔にまとめると以下のようになる.但し認識手段の名称が同じでも内容は学派によって大きく異なり,同じものとして扱うには注意を要する.(○は承認,×は非承認,= 〜 は別の認識手段〜に含むということを表し,「/」は承認する認識手段の数が同じ2学派で見解が異なる場合(順序はyathAsaMkhya)を分けた.無記入の個所は明確な典拠を見つけられなかったことを表す.)

  CArvAka Bauddha
VaizeSika
BhAsarvajJa
SAMkhya
NyAya PrAbhAkara BhATTa
VedAnta
PaurANika
直接知覚
(pratyakSa)
推理
(anumAna)
×
証言・聖伝
(zabda,Agama)
  =anumAna
類比・比定
(upamAna)
  =pratyakSa/ anumAna =anumAna/ zabda
対象の帰結・論理的要請
(arthApatti)
  =anumAna =anumAna =anumAna
非認識・非存在
(anupalabdhi,abhAva)
  =anumAna =pratyakSa/ anumAna =pratyakSa ×
包含
(sambhava)
  =anumAna =anumAna =anumAna =anumAna =anumAna
伝承
(aitihya)
  =anumAna =Agama =zabda ×または=zabda ×または=zabda  
身振り
(ceSTA)
    =Agama / anumAna        
直観
(pratibhA)
    ×        

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2.推理の分類

 インド哲学における推理の原初形態はCarakasaMhitA(ca.100A.D.),VaizeSikasUtra(ca.100-200A.D.),『方便心論』(ca.150-250A.D.),NyAyasUtra(ca.3c.後半),SaSTitantra(ca.300A.D.)に見られる.この段階においては推理の分類とその実例を示すことによって推理を説明していた.分類の仕方を見ていくとCarakasaMhitA-NyAyasUtra-SaSTitantraに見られるような現在・過去・未来という時間軸に沿った分類を行う傾向と,VaizeSikasUtra-SaSTitantraに見られるような関係の区別による分類を行う傾向とがある.これに間接的な推理方法である残余法(parizeSa)を加え,多様な分類が行われたため一定の見解を見るには至っていない.

 以下にこの時代に属する推理の分類を実例別にまとめた.なお,NyAyasUtra自体には実例がないためNyAyabhASya(ca.5c.)を参照した.SaSTitantraは原本散逸によりFrauwallner(WZKSO2,1958)によった.実例は意訳した個所もある.分類に記した括弧内はそのように明言されていないものの文脈から推定されるものを記した.

直接知覚によって知られる情報

推理の結果得られる知識

分類

出典

煙がのぼっている (隠れているけれども)そこに火がある (現在→現在) CarakasaMhitA 1-11-21
vizeSatodRSTa[同一の火]
sAmAnyatodRSTa[火一般]
SaSTitantra(F.)p.123
pUrvavat(既知の関係にある関係項A→関係項B) NyAyabhASya on NS 1-1-5
彼女は妊娠している (見なかったけれども)彼女は性交した (過去→現在) CarakasaMhitA 1-11-21
ある種から芽が出た (まだ出ていないけれども)同じ種からは同じ芽が出る (現在→未来) CarakasaMhitA 1-11-22
音声は存在し無常であり,1つの実体を拠り所とし,視覚されない/他の音の原因となる 音声は6つの存在カテゴリーのうち,属性である (残余法)
※推理の文脈外
VaizeSikasUtra 1-1-7,2-1-24〜28
zeSavat=残余法 NyAyabhASya on NS 1-1-5
以前に六本指で頭にあざのある子供デーヴァダッタを見て,後に成長した六本指の子供を見る (確認していないけれども)この成長した子供はかのデーヴァダッタだ 前比
(過去→現在)
『方便心論』大正32巻No.1632 p.25b
海水を飲んでみたら塩辛かった (全部飲んでいないけれども)海水はすべて塩辛いものである 後比
(現在→未来/部分→残余)
『方便心論』大正32巻No.1632 p.25b
人は移動することによって別の場所に至る.太陽・月・星も別の場所に至る. (動いているところはわからないけれども)太陽・月・星も移動する 同比
(現在→現在/共通性)
『方便心論』大正32巻No.1632 p.25b
sAmAnyatodRSTa NyAyabhASya on NS 1-1-5
ぼんやりとした状態で牛や馬の一部分を見る (全体は見えないけれども)あれは牛だ(馬だ). (既知の関係にある関係項A→関係項B) SaSTitantra F.p.124
牛乳から作られる乳製品は多様である.この開展した世界も多様である. 世界は無から生じたものではなく,根本的な原因がある. 残余法 SaSTitantra(F.)p.126
雲が隆起してきた これから雨が降るだろう pUrvavat=[原因→結果] SaSTitantra(F.)p.124(但し不確実として排斥),NyAyabhASya on NS 1-1-5
川が前と比べて増水したり,流れが速くなっている. 上流地域で雨が降った. zeSavat=[結果→原因] SaSTitantra(F.)p.124,NyAyabhASya on NS 1-1-5
欲求は属性であり,属性は実態を拠り所とする. 欲求の拠り所であるアートマンがある sAmAnyatodRSTa NyAyabhASya on NS 1-1-5

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3.基体と属性による推理

 以上のような分類は外界に実在する具体的な関係に依拠したものであり,「なぜその推理結果が正しいといえるか?」という推理の妥当性の根拠が十分に説明されなかった.これを批判して推理の仕組みを術語を用いて定式化したのがDignAga(ca.480-540)である.今までに見てきたような例からもわかるように,境界線は曖昧であるが推理にはおよそ自明で必然的に導かれるものとそうでないものがある.NyAya学派は前者を認識手段としての推理の文脈で,後者を論証の文脈で扱っていたが,DignAgaは推理の定式化を行うことによってこれらをすべて推理の文脈で扱った.以下にDignAgaによる推理の定式化の概要を示す.

<例1>
(主張)あの山に火がある.(理由)煙があるから.(喩例)およそ煙をもつものは火をもつ.例えばカマドのように.およそ火をもたないものは煙をもたない.例えば湖のように.

<例2>
(主張)音声は無常である.(理由)作られたものであるから.(喩例)およそ作られたものは無常である.例えば壺のように.およそ常住なものは作られたものではない.例えば虚空のように.

<定式化>
(主張)主題(pakSa)は所証(sAdhya)をもつ.(理由)(主題は)証因(liGga(=sAdhana))をもつから.(喩例)およそ証因をもつ基体は所証属性をもつ.その例として同類(sapakSa)がある.およそ所証属性をもたない基体は証因をもたない.その例として異類(vipakSa)がある.

 pakSa,sAdhyaにはいくつかの意味があつがここではpakSaを所証の基体(dharmin),sAdhyaをその属性(dharma)とする.DignAgaの定式化の基本構想は基体(dharmin)と属性(dharma)の関係による.すなわち主題は基体であり,所証と証因の2つはその基体に属する属性である.そして所証と証因という2つの属性は,同類(主題と同様に所証をもつもの)という別の基体の属性であることによって,また異類(主題とは異なって所証をもたないもの)というまた別の基体の属性でないことによって関係が正当化される.図示すると以下のようになる.

因の三相図

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4.証因の3条件と9(16)種類の証因

 この定式化を正しいものとして機能させるべくDignAgaは証因が正しいものであるための3つの条件を要請した.これが「因の三相説」である.証因が満たすべき3つの条件は以下のようなものである.

@主題所属性(pakSadharmatva)…証因は主題の属性でなければならない

A同類に存すること(sapakSe sattva)…証因は同類の一部または全部の属性でなければならない

B異類には決して存しないこと(vipakSe・/FONT>sattva)…証因はいかなる異類の属性であってもならない

 <例1>でいうと証因である煙はまず,@あの特定の山に存するものでなければその山の火を論証できない.次にA同類すなわち火をもつカマドなどに存するものでなければならない(火があって煙があるという事例が最低1つあればよい).そしてB異類すなわち火をもたない湖などには決して存してはならない(火をもたない異類は全て煙をもっていてはならない=火がないのに煙があるという事例があってはならない).

 さて,以上のような証因の3条件を満たさないものは誤った理由(hetvAbhAsa)になる訳であるが,DignAgaは証因の3条件によって証因を分類し,どれが正しい理由でどれが誤った理由になるかを明確にした.すなわちまず@主題所属性を満たさないものを不成立因(asiddha)として取り除いた上で,A同類の一部に存するか,全く存しないか,全部に存するかという3つの選択肢とB異類の一部に存するか,全く存しないか,全部に存するかという3つの選択肢によって3×3=9通りの証因を分類した.これが「九句因」説である.図示すると以下のようになる(北川秀則「中期大乗仏教の論理学」『講座仏教思想2・認識論・論理学』1974,理想社,東京,pp.189-241).
(主題の存する領域を「a」,証因の存する領域を「b+c」,同類の存する領域を「b+d」,異類の存する領域を「c+e」とする.すなわち「b」は同類でありかつ証因をもつものの,「c」は異類でありかつ証因をもつもの,「d」は同類でありかつ証因をもたないもの,「e」は異類でありかつ証因をもたないものの存する領域ということになる.そしてそれぞれの場合について,その領域に存するものがなければ斜線で消すことにする.)

九句因図

Cf. H.Kitagawa, `Chuuki Daijoo Bukkyo no Lorigaku(Logic in Medieval Mahayana Buddhism)',
"Kooza Bukkyo Shisoo(Buddhist Thought Lecture)", 1974, Risoosha, Tokyo, pp.189-241

 これらのうち,証因の3条件を全て満たすものは第二句と第八句である.第二句は<例2>「音声は無常である.作られたものであるから.…」というような場合で,証因(ここではkRtakatva)が同類(ここではanityaなもの.壺など)の全部に存し,異類(ここではnityaなもの.虚空など)には存しないことになる.第八句は「音声は無常である.意思的努力の直後にあるから.…」というような場合で,証因(ここではprayatnAnantarIyakatva)が同類の一部(ここではanityaなもの.壺など)に存し,また同類の一部(稲妻など)には存せず,異類(ここではnityaなもの.虚空など)には存しない.

 それ以外は誤った理由となる.第一・三・五・七・九句は所証が論証されるか¬所証が論証されるかわからない不確定因(第五句は非共通因とも),第四・六句は¬所証が論証されてしまう矛盾因となる.

 以上のようにDignAgaは定式化を行い,正しい遍充関係に基づいて正しい証因を取り上げれば推理は自ずと正しいものとなるという理論を提唱した.しかしながらいくつかの問題も残されることになる.同類・異類の存在を前提としているため,全く同類または異類がない場合(純粋肯定論証(kevalAnvaya)および純粋否定論証(kevalavyatireka))の推理に対応できないこと,主題の基体の存在を前提としているため,仏教徒が認めないもの(空華など)が主題になり得ないこと,証因の第2,3条件も限定詞evaを用いて(「同類のみに存する(sapakSa eva sattava)」「異類に存することは決してない(vipakSe 'sattvam eva)」というように)厳密にすれば同じことを言っていることになり,一方が不要になること,同様に喩例で述べられた2つの遍充関係は対偶であるので一方が不要になることというような問題である.これらの問題は仏教徒およびNyAya学派双方で検討され,それぞれの解決方法が模索された.

 同類・異類の存在を前提とすることによる問題に関して,Uddyotakara(ca.550-610A.D.)は十六句因を提唱した.これはDignAgaのように@主題所属性を満たさないものを不成立因(asiddha)として取り除いた上で,A同類の一部に存するか,全く存しないか,全部に存するか,同類自体がないか(図でいうと左半分が全部斜線になる場合.DignAgaは「全く存しない」とみなす)いう4つの選択肢とB異類の一部に存するか,全く存しないか,全部に存するか,異類自体がないか(図でいうと右半分が全部影になる場合.DignAgaは「全く存しない」とみなす)という4つの選択肢によって4×4=16通りの証因に分類するものである.Uddyotakaraが追加したパターンは以下の7つである.

十六句因図

 これらのうち第十・十一句が純粋肯定論証である.第十句は常住なものを認めない学派に対して「音声は無常である.生じるという性質をもつものであるから.…」というような場合であり,証因(ここではutpattidharmakatva)は同類(ここではanityaなもの.壺など)の全部に存し,異類(ここではnityaなもの)はそれ自体ない.第十一句は同様に常住なものを認めない学派に対して「音声は無常である.外的な感覚器官によって直接知覚されるから.…」というような場合であり,証因(ここではbAhyendriyapratyakSatva)は同類の一部(ここではanityaなもの.壺など)に存し,また同類の一部(アートマン)には存せず,異類(ここではnityaなもの)はそれ自体ない.

 第十五句が純粋否定論証である.「この生命ある肉体は無我ではない(アートマンをもつ).[アートマンをもたなければ]感覚器官の拠り所でなくなってしまうから.…」というような場合で,同類(ここでは生命ある肉体以外でアートマンをもつもの)自体がなく,証因(ここではindriyAdhiSThAnatva)が異類(ここではアートマンをもたないもの.壺など)に存しない.

 第十二・十六句(第十六句は無限定な一切をpakSaとするもので「一切は常住である.認識対象であるから.…」のような場合)は不確定因(非共通因),第十三・十四句は矛盾因として誤った理由となる.第十・十一句についてDignAgaは異類がないという場合を異類に全く存しないと見なすため,自動的に第3条件が満足されて正しい理由であるとするが,第十五句は第2条件が満たされないとして斥ける.Uddyotakaraは証因の3条件が全て満たされなければならないのは異類・同類ともに存在する場合(第一から九句)のみに限定し,同類が存在しない場合(第十三から十六句)は第2条件は除外され(第1,3条件が満たされさえすればよい),異類が存在しない場合(第十から十二句)は第3条件が除外される(第1,2条件が満たされさえすればよい)とする.このようにして以降NyAya学派は純粋否定論証が正しいことを主張し,純粋否定論証に則ってアートマンや主宰神の存在論証を積極的に行うようになった.

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5.誤った理由

 「誤った理由(hetvAbhAsa)」はNyAya学派の論争学における論争上で守るべきルールのひとつだったが,DignAga以降,上記のような条件を満たさない証因の分類になった.仏教徒は上記に見てきたような3種類の誤った理由で全てを説明しようとするが,後代のNyAya学派では証因の条件にC対象が排撃されないこと(abAdhitaviSayatva)…証因は認識手段によって排撃されない主張対象に存するものでなければならないD対立主張がないこと(asatpratipakSatva)…証因は所証とその否定の両方について@〜Bの条件を満たしてしまってはならないことを加えることによってスートラ以来の分類にあるprakaraNasama,kAlAtItaを説明しようとした.その見解は同じ学派ないでも統一的ではなかった.

 各著作における誤った理由の分類を下表に示した.括弧内の数字は下位分類の数を表す.略号はNS=NyAyasUtra,NP=NyAyapraveZa(6C),PDhS=PadArthadharmasaMgraha(6C)NB=NyAyabindu(7C),ZV=ZlokavArttika(7C),NSA=NyAyasAra(10C),TBh=TarkabHASA(13C),TS=TarkasaMgraha(16C),MMU=MAnameyodaya(16C)とする.

NS NP PDhS NB ZV NSA TBh TS MMU
不確定因(avyabhicAra,anaikAntika,saMdigdha) ○(4) ○(4) ○(3) ○(8) ○(3) ○(2)
矛盾因(viruddha) ○(6) ○(6) ○(8) ○(3) ○(2)
論題類似因(prakaraNasama)
所証類似因(sAdhyasama)
過去提示因(kAlAtIta,kAlAtyayApadiSTa) ○(6) =bAdhita
不成立因(asiddha) ○(4) ○(4) ○(5) ○(2) ○(12) ○(2) ○(3) ○(10)
不決定因(anadhyavasita) ○(6)
主張対立因(satpakSa) =prakaraNasama
被排撃因(bAdhita)
非共通因(asAdhAraNa)

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6.遍充関係

 さて上記のような所証と証因の関係は,喩例において肯定的遍充関係(anvaya)と同類,否定的遍充関係(vyatireka)と異類を述べることで妥当なものとして確定される.九句因のうち正しいものである第二句および第八句の図からも,証因をもつならば必ず所証をもつということ,所証をもたないならば必ず証因ももたないということがわかる.すなわち所証の存在領域が証因の存在領域を遍充するのである.これによって証因をもつならば必ず所証をもつということになり,主張が正当なものとして確定される.

 正しい証因を判断する基準が同類・異類への存し方に求められたことに及び,所証の存在領域が証因の存在領域をカヴァーすることが意識されやすくなり,証因の3条件とその区分の理論が学派を超えて十分に浸透したDignAga以降の時代は「遍充関係とは何か」という問題と「遍充関係はどのようにして把握されるか」という問題について議論がなされるようになった.

 UddyotakaraはこのようなDignAgaのとなえた証因の3条件に基づく遍充関係をevaを用いて詳細に分析し,その不可能性を指摘している.Uddyotakaraにとって推理の基盤となる関係は厳密にNyAya学派・VaizeSika学派が6つめの存在カテゴリーとする内属関係(samavAya)であり,この立場から火と煙の不可離関係さえも否定した.しかしながらこのような厳密にすぎた見解は支持されることはなかった.これに対してKumArila(ca.7c.)以降の時代には遍充関係の根拠を外界実在論に求め,遍充関係とは外界に実在する普遍(sAmAnya)間の関係であり,その遍充のあり方はは時間的空間的なものであるという見解が仏教徒以外のバラモン教諸学派で幅広い支持を得た.

 一方DignAgaは普遍を承認せず,また推理自体を主観的な概念知であるとして真理の対応理論(真理は外界と完全に対応した知によるという説)を斥け,真理の整合理論(真理は外界に関わらず,知の内容に齟齬をきたさないことによるという説)を主張するため,バラモン教諸学派と全く異なる見解をとる.これを継承した上でDharmakIrti(ca.600-660)は先に述べたようなDignAgaの理論が抱える問題に解決策を示し,遍充関係に関しては同一性(tAdAtmya)および因果関係(tadutpatti)を基盤とする本質的関係(svabhAvapratibandha)を提唱した.同一性は自性因(svabhAvahetu)を支持し,「これは樹木である.シンシャパー(樹の名前)であるから.」というような推理を妥当にする.また,非知覚因(anupalabdhihetu)を支持し,「ある場所に壺がない.知覚の特質を備えたものが知覚されないから」というような推理(バラモン教学派ではこれを推理と見なさない)を妥当にする.因果関係は結果因(kAryahetu)を支持し,「ここに火がある.煙があるから」というような推理を妥当にする.この理論はバラモン教諸学派で盛んに取り上げられ,批判されることになるが,仏教徒内部ではこれを用いた刹那滅論証や喩例を全く加味しない内遍充(antarvyApti)論が展開することになった.

 一方,遍充関係はどのようにして把握(決定)されるかという問題は古くはNyAyabhASyaに遡るが,ここでは証因と証因基体の結合関係を「見る(darzana)」としか述べられていない.Uddyotakaraはこれを直接知覚(pratyakSa)であると解している.しかしKumArilaがこの直接知覚に質を要求して「繰り返し観察すること(bhUyodarzana)」として以降,MImAMsA学派・NyAya学派内部においてさまざまな見解が噴出することになった.そしてこれらの見解はUdayana(ca.11c.)の本然的関係(svAbhAvikasambandha)=条件をもたない関係(nirupAdhikasambandha)において一応の解決を見る.

 Udayanaは,繰り返し観察することによって遍充関係が確定されるということを条件(upAdhi)のないことが確認されるということであるとして繰り返し観察することを根拠づけた.条件とは証因とは別に,陰で所証を成り立たせているもので,「証因を遍充せず,かつ所証を遍充するもの(sAdhanAvyApakatve sati sAdhya(-sama-)vyApakatvam)」と定義される.例えば「あの山に煙がある.火があるから」という場合,所証(ここでは煙)と証因(ここでは火)の関係が繰り返し観察されることになる.すると「湿った薪との結合」という証因の存在領域より狭く,所証の存在領域と同じ領域に存するものがあることが判明する.そこでこの条件を付加して証因を限定すれば「あの山に煙がある.湿った薪と結合した火があるから」と結論され,「あの山に煙がある.火があるから」は誤った遍充関係に基づくものであることがわかる.

 以後,仏教徒の消滅と新NyAya学派の台頭によって遍充論は詳細な分類と術語の厳密な規定によって複雑化の一途をたどることになるがここでは省略する.

 以下に遍充把握に関する諸見解をまとめた.内容的に同じ見解であると見なしうるものは同じ欄にまとめたが,出典先の著作において直接その名前で言及されているわけではない.主張者がanye,apare,kecidなどで示され同定できる著作がなかった場合には「?」を付している.調査した文献はZlokavArttika(KumArila),それに対する3注釈であるZlokavArttikatAtparyaTIkA(UMveka),ZlokavArttikakAzikA(Sucaritamizra),NyAyaratnAkAra(ParthasArathimizra),MImAMsA学派の独立したPrakaraNapaJcikA(ZAlikanAtha),NyAyaratnamAlA(ParthasArathimizra),NyAya学派の独立した著作NyAyamaJjarI(Jayanta BhaTTa),NyAyabhUSaNa(BhAsarvajJa),Atmatattvaviveka(Udayana),そしてNyAyasAra(BhAsarvajJa)への諸注釈のうちNyAyasArapadapaJcikA(VAsudeva Suri),NyAyamuktAvalI(ApArkadeva)である.網羅的ではなく,他学派の文献も含めて検討しなおす必要がある.

主張者

遍充関係の把握方法

出典

KumArila(ca.7c.) 繰り返し観察すること(bhUyodarzana) ZlokavArttika
NyAyamaJjarI
NyAyabhUSaNa
UMveka(ca.8c.) 繰り返し観察した上での対象の帰結(arthApatti) ZlokavArttikatAtparyaTIkA,
NyAyabhUSaNa
NyAyaratnamAlA
Sucaritamizra(ca.9c.) 繰り返し観察した上での潜在印象(saMskAra)を伴った最後の観察(carama darzana) ZlokavArttikakAzikA,
NyAyaratnamAlA
NyAyamuktAvalI
マナスの直接知覚(mAnaspratyakSa) NyAyamaJjarI
NyAyabhUSaNa
NyAyaratnamAlA
NyAyamuktAvalI
Vasudeva Suri(ca.10-11c.) 繰り返し観察した上でのマナスの直接知覚 NyAyasArapadapaJcikA
PrAbhAkara(ZAlikanAtha(ca.8-10c.)) 最初の,一度きりの知覚(prathamapratyakSa,sakRd eva pratyakSa) PrakaraNapaJcikA,
NyAyaratnAkAra,
NyAyaratnamAlA
ParthasArathimizra(ca.1050-1120A.D.) 逸脱の知覚を伴わない繰り返し観察,すなわち推理(anumAna) NyAyaratnAkAra,
NyAyaratnamAlA
マナスの直接知覚及び直接知覚と非知覚(anupalambha) NyAyamaJjarI
論理的に要請された直接知覚 NyAyamaJjarI
BhAsarvajJa(ca.950A.D.) 最初の,一度きりの観察とマナスの直接知覚による一切への敷衍(sarvopasaMhAra) NyAyabhUSaNa
NyAyamuktAvalI
Udayana(ca.11c.) 繰り返し観察した上での条件(upAdhi)の非存在の確認 Atmatattvaviveka
NyAyamuktAvalI

 以上インド哲学における推理についての覚書を記した.ここでは取り上げなかったが,推理の過程とりわけ「証因の反省(liGgaparAmarza)」と「関係の想起(sambandhasmaraNa)」の問題(推理というのはどこからどこまでをいうのか),DignAgaが提起した自己の為の推理と他者のための推理という分類とNyAya学派が考えていた推理と論証・論争(vAda)との違いなど,さらなる研究を要するところが少なくない.

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