研究する意味(4)

 前回から今度は2年がたちました.この間,実生活上では祖父が亡くなりその後を継いで住職になり,修士論文を提出しました.今では実践としての仏教と,理論としてのインド思想との間を往来する生活を続け,宗教上の問題,学問上の問題にぶつかりながら悪戦苦闘している毎日です.

 前回は「哲学をすることは生きることと同じ」として広い文脈で捉えなおし,研究をすることを自分自身の人生そのものとして考えてみました.

 確かにそれはそうなのかもしれません.研究の対象は究極的には自分自身の中にあるのかもしれません.温故知新の精神で自身の知見を広め,今までわからなかったことがわかるようになっていくことは,研究の大きな喜びです.そしていつの日かその研究成果をもとにして内省を深め,「本当の自分」を発見していこうとする戦略は実現可能性が高いのかもしれません.

 しかし結局自分自身に帰ってくるということだけでいいものでしょうか?それは自己満足に陥る危険性をはらんでいます.誰にも理解されないことをやって自分だけいい気になっているとすれば,それはどうも研究とは呼べないような気がします.

 人生はひとそれぞれで,思想も信念も価値観も多様です.それでも昔インドに生きたある一個人の思想に打たれ,それをもっと正確に深く知りたいと研究している私がいます.そして解読を進めていくうちに,数多くの共感を経て自分の思想自体が感化されつつあります.感化されてくると今度はたくさんの人に知ってもらいたくなり,論文を書きます.

 研究者は多かれ少なかれこういった方向性を持っていると思います.自分が最も親しみやすいソース(それは何でもよい)から自分が正しいと信じきれる真理をつかみ,それが他の人にとっても正しいということをわからせるために発信を続けていく.真理を自他ともに信じきれるということはそれが普遍的であるということです(実はこれが問題なのですが,私は今のところ「信じきれる」という認識論的確実性と「実在する」という存在論的必然性は切り離すべきではないと考えています).これが今回の「何のためにインド哲学をするか」への答えです.

答え4:普遍的な真理を発見し,より多くの人にわかってもらう

 今,私自身の研究で気になっていることは「人は自分の考えを他人に伝えようとするとき,何を目指しているのか」という問題で,この答えもその問題に対するひとつの解答となっています.自明のことは伝える必要がありません.意味不明のことは伝えてもわかってもらえません.何を何のために伝えるのか?簡単に見えて深い問題です.この答え4というのも,もっと詳細に考察しなければならないと思っています.

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Takuya Ono ( hourei@dp.u-netsurf.ne.jp )