ドイツ年間ゲーム大賞:審査員の仕事

トム・フェルバー

ボードゲーム界最高の権威となっているドイツ年間ゲーム大賞。その審査員はどのようにして選考に関わっているのだろうか。スイス人記者のトム・フェルバー氏が公式ページに寄稿していたものを訳出した。

計画が全てメールニュースでゲーム倉庫にゲームのターゲットは誰か?第一印象がとても大切同じゲームを20回時間の問題

2月から3月という月は審査員にとって、最終会議を終えてほっとするまではストレスでしかない。ほとんど毎日新しいゲームの荷物が配達され、山と詰まれたゲームを全部、できるだけ何度もテストするのだ。この決定的な段階でもしゲーム倉庫が水浸しにでもなったら、急な事件が起きて警察に取材にいかなければならなくなったら、計画とタイムマネージメントだけが頼りだ。

 ニュルンベルク玩具見本市から約3週間後、ニューチューリヒ新聞では配送係のお姉さんに毎年恒例のつらい仕事の時期がやってくる。彼女はほとんど毎日、新しいゲームがいっぱい入った大小の荷物を3階にある私の部屋まで運んでこなければならないのだ。この瞬間から13平方メートルの私の部屋は、冗談好きな同僚たちが大好きな巡礼地となる。「プレゼントは着いたかい?」というのがいつもの質問。最初は信じられないような、いくらかうらやましがるような驚きの目が毎年発売される新しいゲームの山に投げかけられたが、何年も頑張って啓蒙活動をしてきたので、今では同情すらされるようになった。「それじゃ毎週ゲームばっかり?」毎週ってどういうこと? 2月から4月までは、週3,4日ばかりでは到底終わらない!

計画が全て

「審査員は実際1年に出たゲームを全部遊ぶ時間があるのか? どうやってやるのか?」―この質問は私も5年半前に審査員に呼ばれたとき、本当にたくさんの人からよくされた。ゲーム評論家として私は当時、1つのゲームに2週間もかけて記事を書いていた。残りのゲームは全く知る必要がなかった。

 それから新作の数はさらに増えている。周知のようにリメイクと拡張を含め、ドイツ語ルールを付ける小さいメーカー全部を考慮に入れると、毎年300〜600が発売され、そのうち少なくとも3分の1から半分までは自分のお金で買っている。自分で計画して時間配分するならこれぐらいは片付けなければならない。子ども大賞の審査員だった頃は12の幼稚園を訪れて、ゲームを遊んだり評価してもらっていた。週末はたいていゲームのことで終わる。

ここ数年はゲームをすることが私の存在価値の第一目標になったようにみえるが、ジャーナリストとしては非常に小さい記事を書いているに過ぎない。私の主な仕事はまだ警察や裁判所の報道である。少なくとも1年に20週くらいの週末、人生の4割はニュースの取材で働く。若いバイク好きが事故で死んだとか、ごく普通の父親が階段の吹き抜けでいつも耳の聞こえない人に親しげに挨拶をしていると彼の妻が斧を頭に振り下ろしたとか、全く予測のつかないことばかりでゲーム会が計画しづらい。

メールニュースでゲーム倉庫に

ゲーム会を計画するために、私は同僚のC.エッグとあるシステムを作った。ゲーム会開催日の提案を毎月、メールでチューリヒ中に送る。このメールによって、仲間が私に申し込んでくる。メール受取人のリストは目下200人ほど。毎日朝食前にBSWでサンクトペテルブルクを3回も遊んでくるほどの飽くことを知らないフリークから、ゲームの知識といえばモノポリーとカタンぐらいでたぶん1年に1度くらいしか申し込まないくらいのちょっとした知り合いまでさまざま。効率化のために私がゲーム倉庫として借りたマンションの地階にある80平方メートルくらいの店舗用スペースで遊ぶ。こうすれば私が急用で出られなくても、ホストが馬鹿を見ることがなく、ほかのゲームを十分遊ぶことができるというメリットがある。

 グループ分けのとき、私は特にいろいろな層をミックスすることに気をつけている。私にとって大切なのは、ゲームをさまざまなグループで試すこと。お互い見ず知らずのメンバーを入れることも多い。そのほかにも時間が許せば、公開のボードゲームイベントやチューリヒで開かれる数々のサークルでも遊ぶ。

ゲームのターゲットは誰か?

年間ゲーム大賞の審査員が賞を与えるのは一番よいゲームではなく、文化財として家族や仲間の絆を強めるのに最もふさわしいと審査員が考えるようなゲームである。よって私にとって、できるだけいろいろなタイプのプレイヤーやゲームをしない人とも接することは非常に大事だ。私が審査員になって以来、ゲームをやや別の目で評価しなければいけなくなった。評論家として個人的に面白いとか、個人的に気に入ったというものは確かに相変わらず大切だ。だが授賞に関して大切な問いは「そのゲームは誰向きか、誰が楽しめるか、誰が気に入るか」ということ。ゲーム評論家が70年代の新ドイツ映画のように、自分の精神にぴったりするが大衆には難しいものだけ賞賛するならば何か間違っている。この点で私がベルンで開かれる「スイス・トイ」で5日間にわたって我々のブースに立ち、我々が授賞したり推薦したりしたゲームを説明するのもためになる。

ゲーム評論家の生活には3つの大きな不安がある。1つは自分が記事を書いたゲームが3ヵ月後には聞かれてももう自分で説明できなくなるということ。2つ目は家に入った泥棒がどの箱を開けてもゲームしか出てこないので頭にきて、ゲームの用具を出して山にしてしまうこと。3つ目は床上浸水。

第一印象がとても大切

「ひとつのゲームを評価をするのに、何回ぐらい遊びますか?」と私はよく聞かれる。実際、ひどいルールブックであったり、その編集がひどかったりして、1回遊んだだけでもう二度とやらないようなゲームがある。しかしこれらのゲームでも、まだ選考レースから脱落してはいない。もし別のところで誰か―ほかの審査員や、シュピールボックスのネット掲示板の常連など―の評価がよければもう1度取り上げることになる。あるグループでうまくいかなければ、私は普通もう1度、さらに2つのグループで試してみて、それでも反応が悪いままならば最終的に落とすことにしている。

その際ゲームのルールブックが、何よりも決定的な要素となる。5年間審査員を務めた私でも、何と多くのルールブックがひどい編集で作られているものかと、信じられなさで驚くことがまだよくある。それはまるでルールブックを通してしかゲームを遊べない通常の購買者をゲームから遠ざけ、不快にさせ、混乱させるかのようだ。

同じゲームを20回

我々の推薦リストに入れてもよいくらい気に入ると、私は少なくとも10〜20回は遊ぶ。これは別に驚くことではない。結局はみんなが10〜20回も遊びたくなるようなゲームだけを推薦するべきなのだから。

ゲーム評論家にとって大きな問題は、たいていゲーム経験があまりに少なく、しかも批評するゲームをほとんど遊んでいない状態で評論を書かなければならないことだ。「このゲームにはさまざまな戦略があります」などという文章がよくあるが、これは本当だろうか。比較的簡単な数学的解析をすれば、一番よい戦略は1つしかなくてほかの戦略は劣ることが分かるだろう。それに重大な欠陥が隠れていて、何ゲームもやってからやっと気づくことがあるが、それをゲーム評論で読むこともめったにない。残念なことに我々は審査員としても、そのようなゲームを推薦リストにまで入れてしまう恐れがないわけではない。

評論家にとって次の大きな問題は、たいていゲームを説明してもらうので自分でルールを読む必要がないという状況である。とてもよいゲームなのに全く不必要なルールのせいで遊ばれなくなるというのは説明するまでもない。

時間の問題

ゲームは全くつらいものはないので、死ぬほどつらいほかの仕事と比べるとよいバランスがとれている。(床上浸水で)もうゲームを倉庫にもっていくことはできないので、オフィスが今の保管所だ。ゲームは毎日どんどん積もりに積もっていく。そして私が1日コンピュータの前に静かに座り、記事にしようのない男の事件―妻を撃ってから手榴弾を爆発させ、その養殖機が窓のところで見つかったとか―について考えているとき、ふと思うことがある。

―春になると毎日ゲームの荷物がオフィスに届き、楽しく遊んで資金洗浄の起訴状なんか見ないですむような毎日だったら、この40年間どうやって生計を立てただろうか?

そんなことを考えるほど、年間ゲーム大賞の審査員に参加することは私の生活を変えた。かつて私は朝早くから慌しく夜はたいてい外出していたが、ゲームを遊ぶ時間をつくるためにそんな生活を完全に変えなければならなくなった。私よりゲームが好きで評論家のような妻と本当に強い絆を深められたのも、私が審査員に所属してからである。

Tom Felber, Immer was zu tun: Aus der Arbeit eines Jury-Mitglieds (Spiel des Jahres)

2006.10

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