信心で唱える

梅花を習いたての私には非常に注意して聞くべきだと思わされた一節がありました。

ただひとつあまり上手とか下手とかの技法の部分が主流にならないよう、指導者は高いレベルの勉強をしていただくのは言うまでもないこと、できる人にはどんどん習得してもらうべきですが、それを第一義と考えるのはいかがなものか―と思います。その意味で検定会なども実力が「検定基準」にまで本当に達した講員さんのためにあればいいのであって、別にに無理することではないのではないか。
 「学問さかえて仏法おとろえる」のたとえもある如く、あまり固定化したり専門的にならず、門戸は広く解放していきたいものです。それが唯一、講員減少傾向に歯止めをかけ、梅花講全体が元気を取り戻していく道ではないかと考えます。

嶋津泰雄「信心で唱える」(曹洞宗山形県第二宗務所梅花講創設30周年記念誌『清香』より)

まさにその通りなのですが、勉強を進めていくと「自分はこれができる」といった慢心や「誰それはあれができない」といった軽蔑の心がどうしても生まれてきます。それは習得を第一義としてしまう誤った方向にほかなりません。

奉詠大会は信仰心の相互発揚の場であり、決してコンクールではありません。同様に検定会も実力判定の一基準にすぎないのであって、選別試験ではありません。ほかの人よりうまくお唱えし、それによって尊敬を集めようというのは、つまるところ何の得があるでしょうか。

スポーツでしたら勝つ喜びというものもあり得ます。そのために一生懸命練習を重ねるのもいいことでしょう(その場合も本当には、自分に勝つことが目的になるのでしょうが)。しかし、御詠歌に誰かが誰かに勝つという場面はあってはならないように思います。

梅花至上主義はいけない、梅花もあり、読経もあり、座禅もあっての曹洞宗だというある老師の言葉を思い出します。それぞれの信心で一生懸命お唱えしていれば、いつの日かそこに仏様が現前してくるはずです。その日まで精進を重ねて参りたいと思いました。このサイトも、よりよいお唱えのための一手段を提供するという趣旨を逸脱しないようにしたいです。