坐禅

Consignment Sale

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I cleared off some unused Indian books. These books are sold in Nagara Books (Hongo, Tokyo) on commission. If you would be interested in them, please contact Mr. Mori (info@nagara-books.co.jp) and order by each number. Some books of lacking number have been already sold.

人権擁護委員研修で講師だった方が編著者。

東京大学で、毎回さまざまな障がい者やその関係者を招いて行われたゼミの様子と、参加した東大生の感想が綴られている。

人工呼吸器がないと生きられないALS(筋萎縮性側索硬化症)、文字だけ読み取れない学習障害ディスクレシア、医療ケアの必要な障がい児をもつ親、障がい者の就労支援、障がい者の触法行為、精神障がいの幻覚や妄想、障がい者の性欲という7つのトピックについて、解説の後に東大生の忌憚のない感想が記されている。

勉強しかできない、運動が苦手、コミュニケーションが不得意といった東大生にありがちなコンプレックスに加えて、中にはトランスジェンダーや双極性障害の方もいて、障がい者の現実を目にして改めて自分自身を見つめ直している。優等生的な感想にならないよう気をつけて書かれた文は、心の機微を表現する力もあいまって、何か分からないけれども皆で途方に暮れていたあの頃の自分を思い出させる

彼女にはあって僕にはない何かがある。「自由」だ。厳密に定義すればややこしい話になるだろう。だがここではあえて定義せずに進めたい。それは生まれ持った体も生きる環境も周囲の人間も関係ない「自らの精神の自由」とでも言うべきだろうか。目の前で笑いながら話す、常に誰かに押してもらわなければ移動することさえ出来ない車いすの女性は、人生の地に足を付け、その足の指で地面の土を握りしめるように確かな日々を送っている。教室の中ではただ圧倒されるばかりだった。(御代田太一「自由」)

障害者差別解消法が施行されて3年目。自分の同じところがあり、違うところもあり、一括りにできないさまざまな障がい者について、自分と切り離さずに関心を持ち続けていきたい。

初期経典ですらお釈迦様が語ったものか、弟子が付け加えたものか定かではないのだから、仏教はその時代その時代を生きて衆生の悩み苦しみを取り除いてきた諸々の仏祖の教えと理解して、現代には現代の「ブッダ」がいてもよいという。「吾等が当来は仏祖ならん(『修証義』)」をさらに推し進めて、「いつ仏祖になるの? 今でしょ!」である。

仏教とは、最初に真理を悟ったゴータマ・ブッダと、それを追体験した仏教者たち、さらには真理が具現化された偉大なブッダたちが、そこに生きる人々にふさわしい苦悩からの脱却と救済を説き、一方でその教えを信じ、その道を歩んだ人々の総体である。

初期経典が全てお釈迦様が説いたと考えにくい例として、十二支縁起が、三・四・五・六・八・九・十とさまざまに説かれていることや、身分や女性の差別を当然にようにみなす経典(『小業分別経』など)、生苦が結果になったり原因になったりしていることが挙げられ、悟りを開いたお釈迦様が人を見て法を説いたという「対機説法」で説明するには無理があるという。

一方、仏教が伝播した国々では「菩提」が儒教や老荘思想の影響を受けて「成道」と呼ばれるようになるといった格義仏教や、神仏習合や念仏といった独自の発展が見られ、それぞれの祖師が厚く敬われているのは、仏教がお釈迦様だけの教えだけではなく、その国その時代に合わせて展開していくものであることを示している。
最後に筆者は日本仏教について悲観的な意見を述べ、既存の仏教の立場や価値観を一旦離れて、人々の苦悩と切実な声に向き合える僧侶(現代のブッダたち)を作ることが必要であるという。「けしからん!」とばかり言っていては、衰退は歴史的に見ても免れないと。実際、東日本大震災や自死者の増加を背景に、僧侶の研修会で「傾聴」がクローズアップされており、そこから新たな動きが始まりそうな気配もある。現代人は今どんな風景を見て、何を感じているのか。今に生きる仏教を問う者たちは、僧侶か否かを問わず、すでに現れ始めていると思う。

人に対する態度

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檀家の「お寺離れ」にどう対応するか お坊さんたちが緊急シンポ(産経ニュース)

「お坊さんが悪印象を抱かれる理由は、「人に対する態度」が22・8%で最多。「金銭感覚」が18・5%と続いた。これに対し、「読経の力量不足」(4・8%)や「法話の力量不足」(13%)などは低かった。」

どんな仕事にも当てはまると思うが、一番は言動。機嫌の悪そうな顔で人前に出ていないか、馴れ合いになってうっかり人を傷つけるようなことを言っていないか、自分のことを棚に上げて他人に偉そうなことを言っていないか、よくよく反省したいと思う。

『百年泥』

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作者は東大印哲で年上の後輩。チェンナイで日本語教師をしている経験から書かれているようで、作中の出来事とファンタジーの曖昧な境界が、著者自身と本作の主人公の曖昧な境界とリンクしていて、読んでいるうちに主人公の体験なのか想像なのか、それとも著者の体験なのか想像なのか分からなくなってくる。

借金返済のためチェンナイで慣れない日本語教師をすることになった主人公が、百年に一度の洪水で橋にあがった泥の山から出てきた品物から、自分自身や生徒のショートストーリーを思い出すという筋書き。ショートストーリーに起承転結があるわけではなく、美談も悲しい話もインドあるあるもごちゃまぜにされ、雑多で断片的で、収拾がつかなくなって結末を迎えるのはインドのお祭りのようだ。

小さい頃に母を亡くし、冷たい義母に育てられた無口な主人公は、自分の現実から距離をおき、現実にはならなかったがそうなる可能性があった世界のほうを見ている。それがこの作品の境界の曖昧さを自然なものとしている。現実か想像なのかなんてどうでもいいじゃないか、そこを分ける意味はないといわんばかりに。

これはありえた人生のひとつにすぎない、無限にある可能性の中で、たまたま投げた石が当たって鼻血を出しているのがこれにすぎない、そう思うとつい扱いがぞんざいになる。私にとってはるかにだいじなのは話されたなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。

私がインドにいた頃を思い出してみると、良くも悪くも夢のようであったように思われる。あるいは当時の私から見れば、今の私のほうが夢のような可能性だけの存在である。一度、道路を横断中、とばしてきた車にはねられそうになったことがある(インドは車が右側通行なので、左右確認を間違えやすい)。運転手に「パーガルホー(馬鹿野郎)!」ど怒鳴られた。あの時死んでいたら、今はどうなっているだろう。

無限にある可能性の中のひとつに過ぎない現実。洪水の後のアダイヤール川のように渦巻いて、無限にある可能性の中のひとつに過ぎない未来が作られていく。これまでも、これからも。

『新潮』2018年10月号に作者の新作『象牛』が掲載されているのでこちらも読もうと思う。

よぐござった 四季おりおり 洞松寺史 檀信徒の手引き リンク 森居山龍泉寺

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