『お葬式の雑学』
- author: hourei
- 2010/02/05 14:43
お葬式のやり方は、隣町に行っただけで全く異なることがある。なので、長年慣れた自分の地域のやり方が絶対正しいと思ってはいけない。本書は、日本発の葬儀相談員である著者が、全国各地から集めた風習を、葬儀の順序に沿って整理・紹介するものである。
火葬は葬儀の前か後かというのが、地域によって異なるのは知っていたが。前火葬は東北と沖縄と、一部の都市だけで、後火葬のほうが多いというのは初めて知った。そのほか、宗派別の焼香回数の一覧表とか、通夜・葬儀・法事別の服装の例など、丁寧で分かりやすい。
なるほど!と思ったのは次のような薀蓄。
・香典はふくさに包んで
・遺体に刀を置くのは、ヒゲをそって髪を短くしたのが起源
・秩父では会葬者全員が杖と天冠をする。また通夜に紅白の水引を出す(遅れたお見舞いという意味)
・出棺で棺を回すのは行道を表す
・天冠は悪霊や鬼から逃れるためのもの
・玄関以外から出棺するのは戻らず成仏するように
・心臓ペースメーカーは火葬中に破裂する
・葬式で「重ね重ね」「いよいよ」など重ね言葉はタブー
・会葬者まで喪服を着るのは日本だけ
・明治6〜8年まで火葬禁止令があった
・昔は赤飯を魔よけや厄払いのため葬儀で出していた
・喉仏は溶けるので、第二頚骨で代用している
・淳和天皇(840年没)や親鸞は散骨を遺言
・火葬船の構想がある
一方、一般的にそういうならば異を唱えたいこともあった。
・「香典」は葬式のみ→法事でも使えるのでは?
・霊柩車は故人の足から→頭からという葬儀社もある
・十七〜二十七回忌は行わない人がほとんど→こちらは行う人がほとんど
・祭壇は仏教的には意味がない→須弥壇と考えれば意味はある
あとがきで著者は、どんな風習にも、故人への優しさや遺族への思いやり、家族を大切に思う気持ちが溢れているという。そしてお葬式の心得として「故人の旅立ちを、心からの感謝で見送る」と説く。逆さ水や着物の反対合わせなど、死を恐れ、死の穢れから逃れるためのものと捉えがちだが、たいへんよい見方だと思う。本書全体も、単なるネタ帳ではなく、このような意識から作られていて好感が持てた。
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スキー授業
- author: hourei
- 2010/02/04 17:06
スキー場が近くにある長女の小学校は、スキー授業やスキー大会がある。私も同じ小学校の出身で、小学生の頃はクラスで中ぐらいだったが、卒業して初めて、かなり滑れるほうだと分かった。ほとんど毎日スキー場に通っていたし、それがこの小学校では普通だったからだ。いった正規の授業はどうしていたのだろう?
学校からのお知らせで、スキー授業のスケジュールが来て、その日に協力できる方はお願いしますという。長女の学年の日にマルを付けたら、「講師依頼」が来た。スキーの先生などやったことはなかったし、だいたいもう10年近くスキーをしていない。大丈夫だろうか?
長女が新しいスキーを試しばきするついでに、私も小屋からスキーを出してきてはいてみた。スキーは思いのほか古くなっておらず、エッジのサビを紙やすりで取るぐらいでよかった。ちょっと歩いているうちに昔の感覚がよみがえってくる。こういうものって、体のどこが覚えているものだろうか。
そして先週の1日目。開会行事が終わると、もう準備運動から班に分かれる。3人の男の子とイッチニ、イッチニ。カニさん登りから始めて、プルーク。後半からちょっとだけプルークボーゲン。教えたことといえば、転んだときの起き上がり方くらいで、あとは習うより慣れろという放任主義。
でも子供の上達は早い。ほとんど滑ったことがなくても、何回か転んでいるうちにすぐコツを掴む。ロープも始めは転んでばかりだったのが、3,4回でマスターした。
今週の2日目にはクラスで一番上手い女の子の班。小学校に入る前から滑ってきた様子だ。すぐに頂上まで登り、スキー大会の大回転用ポールを何度もくぐった。
長女は時折見かけたが、物怖じしないで直滑降するけれど止まれない。ストックを持たないでプルークから丁寧に教えてもらっていた。ありがたいことである。
今やこの小学校も全員が滑れるわけではなく、滑れるか滑れないかは親次第だという。私の母はママさんスキーの会長を務めていてアクティブだが、私は寒がりのインドア派。休みには奮起して連れていくか。太ももの筋肉痛が治ってからだが。
スキー用語には、ドイツ語が多い。プルーク(Pflug、ハの字の構え)、シュテム(Stemm、曲がるときだけハの字になる)、ゲレンデ(Gelände、地形)、ストック(Stock、棒)、ヒュッテ(Hütte、小屋)、シャンツェ(Schanze、ジャンプ台)、ラングラウフ(Langlauf、距離走)、シーハイル(Ski Heil!、あいさつ)など。当時は何とも思わなかったが、ドイツ語に親しんでいる今日この頃、改めて感心した。
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ぜんそく
- author: hourei
- 2010/02/02 09:19
去年の暮れに風邪を引いて、それからというもの咳がずっと続いている。咳止めをもらってさらに2週間、何の改善もないのでお医者さんにまた行ってきた。
つまりは季節性のぜんそくということになった。確かに毎年のように、1〜2月は咳で医者にかかっている。痰が絡んでぜいぜいすることはないし、アレルゲンとして思い当たるものはないが、天候(温度と湿度)が発作を起こす要因になるという(非アトピー型)。
処方は従来の咳止めであるフスコデと、新しい漢方薬である五虎湯に、吸入ステロイド薬のパルミコート、そして花粉症の薬であるアレジオン(のジェネリックであるエピナジオン)を前倒しして服用ということに。吸入ステロイドは、咳が治ったと思っても、自己判断で中止せず続けることが大事のようだ。
お医者さんで見せてもらったNHKテレビテキスト「きょうの健康」1月号を帰りに本屋で購入。ぜんそくで亡くなる若い人もいる(といっても50歳未満で子供を含め全国で200人くらいだが)ことを知る。
ぜんそくは生活環境病だという。手洗いやうがいなど、かぜの予防に努めることはもちろん、たばこの煙・線香の煙を避ける、アルコールは控える、急な温度変化や乾燥に注意するというのがあった。喫煙者が多い飲み会は欠席する、寒い本堂にはマスクをかけていく、法事では線香から抹香に切り替えるなどの対策をしよう。
ぜんそく持ちまではいかないが、気管支が弱いのは家系らしく、曽祖父も冬はゲホゲホしていたというし、大叔母も咳に困っているという。咳の発作で眠れないときなど、死を意識せざるを得ないこともあり、人の生き死にを考えるべき立場にある僧侶としては天から与えられた病気なのかもしれない。南直哉さんが僧侶になったのも、小児ぜんそくだった幼少時と深い関係があるようだ。だからといって、治療しないで苦しみに耐えるなんてことはないのだけれど。
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またもや税額変更
- author: hourei
- 2010/01/27 16:07
所得税の計算で小学生でもしないような計算間違いをして、税務署と市役所に行ってきたことは先の日記に書いた通りである。ところが税額の変更が発生して、また税務署と市役所に行かなければならなくなってしまった。今年になってからもう4回目である。
なぜ変更が起こったかというと、私が妻の被扶養者になっているからだ。被扶養者として控除や手当てを受けるには、年収を103万円に抑えなければならない。そこでお寺からの給与の大部分を母が受け取ることによって調整している。母は障害者の祖母と同居しているので控除額が大きい。
お寺の給与は毎月一定額支払われていることになっているが、お寺の収入は毎月一定ではないので、実際は使った分だけを半年に1回、6で割って計算している。そのため給与額は暫定的なものであり、また世帯主は母なので、使う額から言ってもこの振り分けは実際とかけ離れていない。
問題は、私の収入がお寺だけでないことで、1月20日を過ぎるといろいろなところから源泉徴収票が送られてくる。今年は4ヶ所あって、中にはすっかり忘れているものもあった。そのためすでに申告したお寺の給料を合わせると103万円をオーバー。そこでオーバーした分を母に振り分けなおして、改めて申告する必要が生じたというわけである。
書類を書き直してもっていくと、3度目であるにもかかわらず税務署も市役所も愛想よく引き受けてくれた。税額は3500円の増だが、控除や手当はこんなものではない。心からほっとした。
檀家さんには大きな声で言えないが、このような収入状況である分、家事や子育てをしっかりすることが求められる。つまり主夫である。
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『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』
- author: hourei
- 2010/01/23 11:55
日本人には論理が足りないとか、論理力を鍛えようということがよく言われるようになってきたが、それでは日本人は論理力がないのかといえばそうではない。詭弁にも一理あり、論理的であろうとしたために詭弁にだまされるということがある。修辞学、特に議論や詭弁について研究を続けている著者は、とうとう詭弁を通して人間の本質が理解されるという地点まで到達した。
議論の目的は真理の追及や問題の解決ではなくエロースにあるという。「議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営みである。」議論が嫌いな人は相手がしゃべる分だけ自分のしゃべる時間が減ることを恐れる。
「多義あるいは曖昧の詭弁」は、不寛容の原理(相手の議論が誤りになるように、できるだけ相手に不利に解釈しようとすること)から生じている面もある。子どもが「みんな持ってる」というのに、親が「みんなとは誰か」と聞いて、子どもが3人しか挙げられないとしても、それが「みんな」でなぜいけないのか。曖昧さを取り除こうとすることも、また詭弁になりうる。
「藁人形攻撃」(相手の主張を反論しやすいように歪める)には、騙す意図がないが読解力が薄弱であったり、自分の主張に強い信念を持つあまり行ってしまったり、とっさに反論が思いつかずに引き伸ばすために行うものもある。相手が鬼だったら、桃太郎がどんな卑怯な手で勝ってもよいようなものである。
「人に訴える議論」(人格、動機、行動、過去の発言との整合性から議論を否定する)は、必ずしも無関係ではなく、人が根拠を補完する場合が多々ある。ゆとり教育論者が自分の子どもを進学校に通わせていたら、建前の正論であることが分かる。
「性急な一般化」(少数の事例から全てに適用する)は、すでに一般化された見方に整合する場合が多く、実害を蒙っているのならばなおさら、誤りとはいえない。ゴキブリが一度でも入っていたら、その店には行かないのが普通である。また、人間は否定的なものよりも肯定的なものに心を奪われやすく、偏りが起こる。占いが当たると思うのは、当たらなかったことが認識に上りにくいためである。
論を進めるに当たり取り上げる事例豊富で、解説も機知に富んでいて読み物としても面白い。語学の達人が書いた語学学習法を皮肉たっぷりに取り上げるあとがきは笑えた。詭弁を知ることは、人間を知ることである。
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