もうひとつの戒名問題:誰が戒名をつけるか

1.戒名問題

一般的に戒名問題とは、寺院から故人に戒名をつけてもらう場合にその遺族が「戒名料」と称するお金を納めているという問題を指します。そのため本来仏弟子として新しい出発をするための名前であった戒名が、あの世への免罪符・通行手形のように誤解されることになってしまい、さらには家族を失った不幸に乗じてお金を得る行為ととられて僧侶不信のもとにもなっています。  この問題をとりまく状況としては以下のことがあります。

  • 葬式仏教」・・・日本仏教が長らく葬式・法事を通してのみ檀信徒と関わっており、日常的な教化をあまりしなかったこと。
  • 寺檀制度」・・・江戸時代以降、檀信徒がそれぞれの地域のお寺に配属され、戸籍も戒名も過去帳によって管理されてきたこと。
  • 僧侶の妻帯」・・・明治以降僧侶の妻帯が公に行われ、僧侶の世襲化が進むとともに妻子・家族を養う分のお金が必要になったこと。

これらの問題は一概に悪いものであるとは言えませんが、宗教としての仏教の形式化・宗教者としての僧侶の俗化を招いたことは否めません。そのため信仰心は薄れお寺と檀家の関係もあたかもお金とサービスの売買契約のようになってきている傾向があります。

このような戒名問題の解決方法として以下のようなことが提案されています。(わからない方のために言いますと、戒名には一般的に「信士・信女」「居士・大姉」「院」というような種類があります。しかしこれはお寺に対する貢献度によってつけられるものであり、世間的な格にすぎません。戒名をつけられるからには皆等しくお釈迦さまの弟子であり、そのまま成仏が早い遅いということにはなるようなことはありません)

  • 無条件・平等に「信士・信女」号の戒名を授け、「居士・大姉」号、院号の戒名については「追善」であることをはっきり表明して応分の布施を寺院に奉納する。その額は協議して決定し情報公開する。
  • 無条件・平等に「院号」の戒名を授ける。

そしていずれにしても寺院への信頼回復が不可欠とされています。解決方法1.は現実的ですが信頼回復がなければ名目を変えただけで結局は戒名料という認識になってしまうからです。

葬式仏教がどれほど仏教の本旨から外れていても、それだけの必然性があって発展してきたものであれば、将来的にも決して簡単にはなくならないであろう。それゆえ、それを避けることなく正面から取り上げ、反省し、よりよい形態を考えてゆくことが必要ではあるまいか。人間の生死の問題を戒名料いくらなどという金の問題に還元し、それに頬かむりをして高尚な理屈を弄ぶのが、日本の仏教のあるべき姿だとは、私には思われない。 (末木文美士『日本仏教史』新潮社)

2.もうひとつの戒名問題

以上の戒名問題は「戒名料問題」ともいうべきもので、お金がいるいらないという論争に終始しがちであることは誠に残念です。これを機にその背景にあるより本質的な諸問題の解決への糸口が模索されるべきだと思います。

さて、私が問題としたい戒名問題は、「戒名料は妥当か」ということではなく「戒名は誰が授けるか」という問題です。今、以下のような問題がわりと当たり前に起こっています。

[ケース1]都会で家族が亡くなり、葬儀屋さんの紹介したお坊さんに戒名をつけてもらいお葬式をしてもらった。ところが後で郷里の菩提寺に納骨してもらおうとしたところ、はじめ菩提寺は筋が通らないとして納骨を拒否した。結局戒名をつけなおすことで解決したが二重に葬式費用がかかってしまった。葬儀屋さんの紹介したお坊さんと菩提寺との宗派は同じだったのに、なぜ戒名をつけなおさなければならないかわからない。

[ケース2]都会で家族が亡くなり、葬儀屋さんの紹介したお坊さんにお葬式をしてもらった。ところが位牌を見たら生前の名前が書いてある。「菩提寺につけてもらってください」とのことだったが、新家であるため菩提寺はまだなかった。本家筋などでいろいろ探しているうちに、四十九日も過ぎてしまった。戒名なしではさぞ不安だったろうと思うと、戒名もつけないで仏式の葬式ができるものか疑問だ。

この問題について多くの僧侶はこのように答えると思います。

檀家は菩提寺に対して、その寺が属する宗派の教義と儀礼を信じて宗教儀礼を依頼・履行し、一方菩提寺の維持にかかる費用を負担し、寺門の興隆に努力するという役割をつとめます。これに対して菩提寺は檀家への宗教儀礼と教化を正しく責任をもって履行し、檀家とともに寺門興隆に努力していきます。そのため、戒名は菩提寺がつけて菩提寺の責任において葬式を行うべきであり、菩提寺の了承を得ないで他の寺院に儀礼を依頼するのは筋が通りません。[ケース1]では、戒名は最終的に菩提寺の過去帳に記入され菩提を弔ってもらうことになる以上、菩提寺以外でつけられた戒名は不適切であると考えられます。[ケース2]では、菩提寺が定まらない以上戒名がつけられないのは致し方のないことで、速やかに菩提寺を探して入檀するべきだったと思います。  もしも、菩提寺が遠隔地であるため来てもらえないとしても、必ず最初に菩提寺に相談して、戒名をつけてもらうなり菩提寺からしかるべき僧侶を紹介してもらうなりするべきです。

これを読んで「なるほど」と思いましたか?それとも納得できませんでしたか?この説明の大前提になっているのは寺檀制度です。寺檀制度があるからこそこの説明が妥当であるといえるのです。  確かに寺檀制度は長く日本仏教を支え育ててきました。たとえこれが江戸幕府がキリシタン弾圧の手段として制定したものであるとしても、そもそも日本人の中にこのような需要があったことは確かであり、その意味では評価されるでしょう。ちなみに1700年ころに徳川幕府が制定した『御条目宗門檀那請合之掟(ごじょうもくしゅうもんだんなうけあいのおきて)』に、以下のように記されています。

「頭檀那なり共、祖師忌・仏忌・盆・彼岸・先祖命日に絶えて参詣仕らざる者は判形をひき、宗旨役所へ断り、きっと吟味を遂ぐべき事」 (檀家でお寺の行事に全く参加しない者はマークするので役所に届けること) 「死後死体に剃刀を与へ、戒名を授け申すべき事、是は宗門寺の住持、死相を見届けて邪宗にて之なき段、慥(たしか)に受合の上にて引導す可き也。能々吟味を遂ぐべき事」 (檀家で死者が出れば菩提寺の住職がキリスト教などに入信しないよう注意しつつ戒名を授け葬式を行うこと)

3.寺檀制度をこえて

問題なのは現代において寺檀制度とそれを支える大家族制度・隣組制度などが特に都市部において崩壊してきていることです。日本において仏教徒は9000万人と言われていますがこれは檀家の構成員を全て仏教徒とした上での数で、信仰する宗教が仏教であると答える人は30%(一番多いのは「なし」で60%)にも満たない状況であり、多くの人々の意識が菩提寺に向いていないことは明らかです。核家族化が進み、ほとんどの家に仏壇がなく、郷里の本家との関係も希薄であり、普段お寺とは付き合いがなく家族が亡くなれば葬儀屋さん頼みという状況では到底寺檀制度など前提にできません。ましてや寺檀制度は日本仏教が帯びた時代的特徴にすぎないことを考えると、「本来ならば寺檀制度に従うべきである」ということ自体筋が通っていないと言えます。

地域・時代に適応することは仏教の大事な特性です。東南アジアには東南アジアの仏教があり、中国には中国の仏教があり、韓国には韓国の仏教があります。また近年ではその教えの柔軟さゆえに欧米で人気を集めていることはご存知の方も多いでしょう。ですから、十分な思慮をもって時代に対応し、因習にとらわれることなく仏教の現代的意味を絶えず問い直していくのが僧侶の大事な役目なのです。寺檀制度が機能しなくなればそれに変わる新しい仕組みが模索されなければなりません。

そこで寺檀制度を抜きにして考えていくと、仏教の葬式である以上、戒名(もちろん生前戒名ならばよりよい訳ですが)は葬式導師として直接対面している僧侶が授けるべきであり、その導師が菩提寺の住職なのはその後の法事が滞りなく行われやすくするという理由だけにとどめるべきではないかと思います。このように考えれば[ケース1]は(それでも宗派は同じであるべきかもしれませんが)戒名をつけなおす必要など全くなく、[ケース2]は葬式を主宰する僧侶が菩提寺に遠慮することなく戒名をつければいいのです。仏教という観点で大事なのは仏教を正しく保持する僧侶が戒名を授けることであって、どの僧侶が授けるかということではないはずです。サンガに属し和合する僧侶はひとつなのです。(少なくとも同じ宗派の)僧侶を差別することはやってはいけないことだと思います。

生みの親より育ての親とも言います。目の前にいる僧侶がたとえ葬儀屋さんに紹介された見ず知らずの方であっても、その出会いはひとつの深き仏縁でありましょう。その僧侶にとっても受戒を行うということは菩提寺であるか否かに関わらずそこにいる以上きわめて責任大なのであり、自らつけた戒名を手ずから授けるその場こそが仏法を発揚し教化する重要な場なのです。いずれは供養を引き受けることになる菩提寺の住職は葬式導師をしなくても、狭隘なナワバリ意識など持たずにその僧侶に同じ仲間として絶対の信頼を置かなければなりません。

この僧侶間の和合を本質とする連携こそが、寺檀制度をこえて現代に仏教を花開かせる原動力になるのではないかと思うのです。誤解のないように申し添えますと、私は旧来どおり菩提寺の住職が葬式導師をするべきではないと言っているのではなく、むしろ都会に住んでいて郷里が遠距離であってもできるだけ菩提寺の住職に相談して葬式を主宰してもらうように努力することが望ましいと思います。しかしもしそれが叶わない場合、あるいは菩提寺がなかったり日ごろの付き合いが希薄だったりする場合には必ずしも菩提寺を媒介する必要はないという主張をしたいのです。

しかし残念なことにこのような考えは一般的ではありません。またこのような考えの実現には現実問題としてさまざまな障害があるのも事実です。ひとつひとつ吟味を重ねながら、仏道を邁進していきたい所存です。

南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧

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