お布施の金額提示

<はじめに> 以下に述べることは,近年檀家に対して葬儀のお布施の金額提示をすることにした私が,自分のしていることに対する疑問を整理し,何を自戒するべきか明らかにする道筋を記したものです.客観的な言葉で書いていますが,出てくる意見はほとんど自省から得られたものです.それをあえて公表するのは,現代仏教の存続に関わる一問題として,仏教に関心のある方々に読んでいただきたいと思ったからです.ご意見ご感想をお待ちしております.

<布施の金額設定> 近年,お葬式や法事で,施主が僧侶に「お布施はおいくらくらいがよろしいでしょうか?」と聞く場合が多くなっています.その質問を見越して僧侶の方から先に「○○円くらいでいかがでしょう」と提示したり,さらには「枕経○○円,通夜○○円,葬儀○○円・・・」というように明細書を発行したりすることもあるようです.この間を葬儀屋さんが仲介する場合もあります.こういった風潮をどう見るべきでしょうか? 

<経済性の優先> 僧侶に失礼にならない限りできるだけ安くという経済性がこういった金額設定の背景にあると考えられます.おそらく一番多いのはこのような考え方ではないでしょうか.
「日ごろ寺に対して何もしていないのに,こちらの気持ちを示すにはお金しかない.その額が不十分ではお坊さんに失礼だ」
「葬儀ではお布施以外にもお金がかかるし,家計的にも苦しくなるのでお布施を出しすぎたくない.ほどよい金額が提示された方が安心できる」
僧侶の側が金額を提示するのも施主がこのように考えていることを見取ってのことであろうと思います. さらに僧侶の側には何も言わないとお布施が激安になってしまうかもしれないという懸念もありえます.法具や衣,寺の維持など何かとお金がかかるわけですが,ひとつひとつの葬式・法事では原価というものがほとんどありません.「坊主まるもうけ」と揶揄されるのはこの点にあります.だから葬式・法事で大したことをしていないと思われればお布施が下がってしまう心配もあるわけです.

<信仰が大切> 以上のような考え方に対して,僧侶ならずともこのような反対意見があるだろうと思います.
「信仰の問題であるから,何でもお金に換算してしまうのはよくない.僧侶はサービス業ではないから,代価という考え方は成り立たない」
僧侶の仕事に値段はつけられない.寺院は商店ではないので経済性や利潤を求めてはいけない.基本的にお布施は「(経済的にではなく気持ちとして)出すことができるだけ」ということでいくべきである.施主にもそのことをよく理解してもらった上でお布施を出してもらうようにしていくことが大切,という考え方です.これは,仏教におけるお布施本来の意味にもかなっています.

<お布施の意味> 「与えること,他に与えること,ほどこし,喜捨,恵むこと,金や品物を与えることばかりでなく,親切な行いも布施である.信者が僧に財物を施すことを財施,僧が信者のために法を説くことを法施という.通俗的には,いつくしみ.(仏教語大辞典)」
さらに,お布施に関して次のような教えがあります.

<三輪清浄(さんりんしょうじょう)> 「原語トリ・マンダラ・パリシュッディ(tri-man.d.ara-paris’uddhi).他人に対する奉仕の心がまえ.物を与え,奉仕する主体(能施)と,奉仕を受ける客体(所施)と,奉仕の手段となる物(施物)と,この三者は空で清らかであらねばならない,滞りがあってはならない.もしも「おれがあの人にこのことをしてやったのだ」という思いがあるならば,それは清らかな慈悲心からでたものではないという.(同)」
現代人の心に深く染み付いている経済性という観念を捨てて,僧侶は無償でお経を読み,施主は無償で金品を喜捨する.お経を読んでお布施を請求したり,お布施をして立派な葬式を頼んだりしてはいけないということです.この考え方は仏教が成立し存続する上でとても大切なものなので,仏教の基本として広く知っておいて頂きたいと思います.

<お布施をする動機> それでは見返りを求めてはいけないとするとお布施をする動機は何かということになります.常識がある人ならば,無意味なものにお金を使って破産することはないでしょう.社会生活を営んでいくためには何にお金や労力を使い,何に使わないかを判断していかなければならないのです.
これについて仏教では,2つの答えが用意されています.ひとつは慈悲心,すなわち困っている人への同情と親切です.悲しみにくれる遺族の心がお経によって少しでも癒されるならば進んでお経を読み,貧しい(今はあまりそうでない場合も)僧侶の生活がかわいそうだと思えばお米なりお金なりを分けてあげるということです.もうひとつはいわゆる功徳というものです.「情けは人のためならず」というように,よい行いをすれば最終的に自分自身が救われる(めぐりめぐって自分が得をする,または宗教的には涅槃の境地に近づく・極楽浄土に行けるなど)ということです. (この功徳を求めるということが見返りを求めることになる可能性がありますが,ここでは立ち入りません.)

<現実の問題> このような仏教の合理的でありがたい教えを理想として,実践し広く伝えていくことが僧侶の役目になりますし,おそらく僧侶という僧侶はすべてこのことを理解しているはずです.それではなぜ,先に見たようなお布施の金額設定の問題が出てくるのでしょうか.そこには以下のような理由があるようです.

「檀信徒の余計な不安をとりのぞく」 現実的な問題はお布施をするかしないかということではなく,お布施をいくらにしたらよいかというところにあり,この問題は檀信徒の頭を悩ませるものです.特に葬儀などでは遺族は近親者の逝去による混乱があり,この問題を考える余裕すらない場合がほとんどです.そこでその問題から解放するという親切心から金額提示がなされることがあります.実際,額に関係なく「言ってもらった方がありがたい」という意見もあります. 確かにこのような考え方自体はお布施の意味から外れていませんが,そのような契約的な取り決めが続いていけば,以下に述べるような寺院の事情とあいまって,檀信徒と寺院の関係を信頼がなくお金だけのドライな関係にしてしまう恐れがあることは否めません.

「寺の維持と僧の生存のためにはある程度のお布施が必要」
寺院という大きな建物は年毎に老朽化し,雨漏りしたり戸のたてつけが悪くなったりしていきます.また僧侶もかすみを食べて生きているわけではありません.さらに明治時代以降に僧侶の妻帯が認められ世襲が進むと,後継者育成の養育費などの負担も生じてきました.そこで,僧侶を含めて寺院が成立するために必要な額を檀信徒で分担することになります.年間通じて必要な額が,お布施の総額を上回って赤字にならないようにお布施は設定されています. 明細書が発行されるのはこうやって設定された額を皆が納得できるかたちで提示するという意図があると考えられますが,それ以外の意味はありえません. 清貧が望ましいとはいえ,あまりに貧しくては現代において僧侶になる人がいなくなってしまいます.(僧侶はお金持ちだと思う人がいるかもしれませんが,それはごく一部であり,多くは平均をかなり下回る収入でやりくりしている場合がほとんどです.その結果,田舎の小さい寺院では深刻な後継者不足が起こっています.)僧侶とは本来全てを捨てて出家し,その日その日を乞食(こつじき)で暮らし,悟りを求めて何物にもとらわれず雲のように水のようにさまよう存在であった訳ですが,寺院の住職となればそうはいきません.寺院という建物,檀信徒ひいては地域社会に対する義務や責任が生じてきます.一方檀信徒はみんなで力を合わせて寺院と住職を支えていくことになります.もちろんこの考え方は寺檀制度という仕組みと檀信徒の信仰なしには成り立ちませんが,少なくとも近現代の仏教の性格では必然的な結果であるといえます.

「お布施の額は信仰の深さを表す」
「お布施は高いほうがありがたみが増す」というのは言語道断な考え方だと思いますが,経済性にとらわれた人々にお金では得ることのできないありがたい仏教の教えを伝え,寺院に意識を向けさせる方便ということで正当化されることがあります.しかしこれは二重の過ちを犯しています.それは施主をお金で仏法が買えるという逆の考え方にしばりつけてしまうということと,僧侶自身が拝金主義を促進してしまうということです. 「お布施は安いほうがありがたい」「タダならもっとありがたい」というのは,お寺の敷居を低くし,より多くの人に仏教に親しんでもらおうという意図があると考えられますが,一歩間違えると上と同じ過ちを犯すことになります.金額の安さにこだわれば結局「これだけ安くしてやってるんだから,それ相応の恩は感じてもらいたい(いざというときはたくさんお布施を出してほしい)」という見返りを求める心が出てくるからです. 信仰の深さはお布施の金額とは本質的に無関係です.お布施をたくさん出しているからといって信仰が深いということにはなりませんし,出さないからといって信仰がないことにもなりません.そして僧侶の役割はお布施の金額を上げさせるよう努力することではなくて,信仰を深めるようにすることにあることを常に銘記しなければなりません.

最近日本の仏教界では「戒名料」が誤解を招く表現だとして使わない方向で進められています.戒名は釈尊の弟子になったことを示す名前であるから,その意思がある者には無条件に授与するべきだということになっています.つまり無料ということで,これに対してお布施を出すか出さないかはまったく自由です.それに限らず,すべての葬式・法事においてもお布施を出すか出さないかは全くの自由だと言えます.しかし僧侶は僧侶である以上,お経を読むのは義務です.これが施主と僧侶の基本的な関係なのではないでしょうか.

<金額提示の是非> 以上からお布施の金額提示について導かれる結論は,まずお布施の仏教における基本的な意味を十分にわかってもらった上でお布施を出すようにしてもらうということが肝心で,現実的な事情があるにしても金額の多少にこだわって基本を見失わないようにするということになるかと思います.
このことが効果的になっているある方の実例を紹介します.
「お布施はおいくらくらいがよろしいでしょうか?」と聞かれた場合,反対に「おいくらくらいをお考えですか?」と聞くそうです.するとたいていは「和尚様に聞いてから皆で相談しようと考えております」という返事.「私の意見はないですから,皆で相談してください」というと,親族でいろいろ相談して,「これくらいでいかがでしょうか」と提示してくるので,「それで結構です」と答えます.なぜ提示しないのか聞かれると,「こちらから提示すれば,きっとみなさんは『あの坊さんに○○円取られた』とお思いになるでしょう」というそうです.この場合,親族はいったん困るわけですが,相談の中で僧侶の心中についていろいろ考察し,お布施は出せばいいというものではないことを学ぶことになります.これだけのやり取りをするには相当な精神力と金額にこだわらないことが要求されますが,見本にしたいものです.

<今後の動向> 30年後くらいの近い将来,仏教が葬式行事に関与する必要がなくなってくると,信仰回復のための努力を行って生き残る寺院と,それができずに檀信徒を失って潰れる寺院の二極分化が始まると私は考えています.そのとき,お布施の金額提示は信仰回復を阻害することはあっても益することはないと思います.現実的な事情があるにせよ,お布施の金額提示はこれまで長年かかって培ってきた檀信徒の信仰の上でかろうじて成り立っています.信仰回復のための努力にはさまざまな形がありえると思いますが,お金に拘泥して信仰が消費されてしまわないよう注意しながら,現実の荒波の中でも仏教の原点を忘れないようにしていきたいものです.
より実際的には,金額を提示してもしなくても,葬式や法事を仏法発現の場として惰性でなく誠心誠意務めること,ひいてはできる限り自分の人生を一挙一動誠心誠意生きることが不可欠だと私は考えます.いくら立派なことを話しても,それを実践しなければ,誰もついてこないものです.

<最後に> お布施の問題に関して,ある老僧の印象深い言葉を紹介します.
「お布施というのは人からお金をとることにちがいない.みんな人からお金をとって生きている.これは悪業である.私は,そのみんなからお布施をとっている.それはみんなの悪業も引き受けているのだ.だから,当然私は地獄に落ちる.そういうものだ」

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