布教

 地元で特派布教師の講演。特派布教師というのは、曹洞宗が仏教や宗派の教えを広めるために各地に派遣する、専門のトレーニングを積んだ僧侶のことである。布教というと他教や他宗から改宗させるというイメージがあるが、実際はもっと穏やかなものでお寺に檀家さんや信者さんといった元来からの仏教徒を集めて、その信仰をさらに深めてもらおうというものだ。
 毎年各地から布教師が派遣されてくるが、管長代理として任命されているという事情や、布教方針に従って法話を行なうという決まりから、きわめてフォーマルな話に終始する。特に曹洞宗で重点をおいているのが「人権」「平和」「環境」ということで、いくら実例を交えて話しても、聞く人に実感が湧きにくく退屈になりやすい。「それは私には関係のない話だ」「そんなわかりきったことをいまさら…」というような空気が聴衆から感じ取れる。
 そもそも、布教師の言葉が果たしてみんなの心に届いているかもわからない。「そりゃあんたはいいだろうよ、悟ったふうなことを言ってさ。」ある老師が「布教とは繰り返し安心(あんじん)を説くことだ」と言っていたが、窮地から這い出ようともがき苦しんでいる人に、安心なんて言ってよいのか。また生死に関心なく生きているような人に、安心といったところで無自覚な日常を続けるだけではないか。「人を見て法を説け」という言葉がある通り、対機説法というのは仏教にとって大事なことである。どんな人にも受け入れられる普遍の言葉はない。
 このように毎年、布教師の法話には疑問を感じていたのだが、今日、一対一で布教師と直接お話するチャンスがあった。地元の僧侶がいる中では気兼ねして聞けないことでもある。
 とはいえそんな疑問を直接ぶつけるために布教師の法話を批判するのもどうかと思い、「宗教と道徳の違いは何か」と切り出してみた。
 「見かけは同じになることもありますが、道徳は時代や社会によって変わるもの、宗教は不変のものです。」というお答え。「それならば道徳は社会の決まりごとで、宗教は人の内実から出てくるものですね」と返したところではっと気づいた。宗教を言葉で表現し、人に伝えることの難しさに。信仰告白は独り言にほかならない。それでは人に伝えたことにはならない。絶対的に人格の違うほかの人に、どうやってこの思いを伝えることができるかと言えば、可能性としては限りなく0に近い。
 しかし語り続けなければならないのだ。この「およそできそうにないことをしなければならない」という不自由さが、布教師の前に高くそびえている。その不自由さという壁を乗り越えて出てくる言葉は、結局のところ道徳に似たものかもしれない。あるいはほとんどの人に聞き入れてもらえないかもしれない。しかし、いつの日か、誰か1人の心に響いたとき、とてつもない力となる。これぞ布教というものだろう。
私は勘違いをしていたようだ。そして私自身も、あきらめることなく語り続けようと思った雨の七夕だった。

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