学会

デリーで国際学会があることがわかり聴きに行く。テーマはバルトリハリという5世紀ごろの文法学者。「世界は全て言葉からできている」という深遠な言語哲学を残し、その意味がインド学・哲学・言語学のそれぞれから活発に研究されている人物だ。
この学会に行くきっかけは先月に遡る。プネーに住んでいる日本人の知り合い松尾さんから、「日本人がインド学関係の本をプネーに残していって、その引き取り手を探している」という連絡があった。面白そうなのでさっそく行ってみると、文法学の本ばかり。ほしいものはなかったが、そのままゴミになるのももったいないと思い、まずは家に持ち帰った。
しかしその本をどうしたらいいだろう? その本の持ち主である小林さんは広島大学の人だったので、連絡先を調べた。すると情報通である後輩の石田君から、小林さんが今度デリーで開かれるバルトリハリ学会で発表するという情報を得ることができた。さらに広島大学助手の本田さんを通して、小林さんとコンタクトを取ることに成功。本を持ち主のところに返す段取りを整えた。
ここで知ったバルトリハリ学会。考えてみればなかなか魅力的である。そこで今度は同じ大学で文法学を学んでいるルーマニア人のフロリーナに詳しいことを知らないか聞いてみた。詳細はフロリーナも知らなかったようだが、彼女も参加を検討し始め、いろいろ調べてきてくれた。その情報に沿って、私も参加を申し込む。これが学会の1週間前。ぎりぎりの申込にも関わらず、学会事務局は招待状とホテルの予約をしてくれた。
国際バルトリハリ学会・日本人研究者の発表こうして私は学会に参加することができたのである。またその間には主催者の一員となったジャー先生からの情報を聞いたり、ちょうど帰国する日程だったので飛行機を旅行会社のニシャドにアレンジしてもらったりもした。私が参加できたのは少なくとも松尾さん、石田君、広島大の本田さん、小林さん、フロリーナ、ジャー先生、旅行会社のニシャドのお陰である。
学会は3日間に渡って行われた。出席者は文法学の神様ジョージ・カルドナ博士(原實先生にどこか似ている)をはじめ、アクルジュカル、デシュパンデ、ブロンクホルスト、ギロンなど有名な学者が勢ぞろい。日本からは小林さんのほかに、広島大学の小川先生、創価大学の工藤さんが発表(写真:発表前にイタリアのトレーラ博士と打ち合わせする小川先生と工藤さん)。毎日朝10時から5時までみっちり、同じ部屋にこもって発表と議論が繰り返される。3日間はあっという間に過ぎ、バルトリハリについてはほとんど知らない私ですら、終わる頃にはバルトリハリ像をイメージすることができた。
面白かったのは、上記の有名な学者たちが揃って、バルトリハリを天啓聖典と関連付けようとしていたことだ。インドの文法学はヴェーダの補助学であるというのは確かだが、やがて文法学の内部で独自に体系が発展するうちに、ヴェーダとの関連は薄まっていく。その中に現れたバルトリハリについても、文法学の内部だけの議論が注目されがちだったものを、彼の著作に流れるヴェーダへの志向を読み取ろうと言うものである。
バルトリハリはさんざん議論を重ねておいて、「本当はこんな議論をする必要はないし、しても意味がないのだが」というようなことを述べる。さらには、文法学自体も結局はいらないものになってしまう。なぜなら、彼にとって真実はひとつであり、議論によってそれに何かが付け加えられたり、修正されたりすることはない。その真実こそヴェーダ、ひいてはウパニシャッドに説かれるブラフマンなのである。彼はヴェーダを残した聖仙たちの伝統(avacchinnaparamparA)に乗っかって、著作をしているという。
無駄と知りながら行われる議論や著作は、真実に至るはしごのようなものであり、登っている間は必要となる。こうした著作態度は、もしかするとインドの古典哲学全般に言えることかもしれない。真実は決まっていて、検討する必要は全くない。しかし世の中には間違った考えを持っている人がたくさんいる。議論や著作は、彼らを更正し、自分の弟子たちを導くためにある。それは真実の知恵に対してあくまで飾りとしての花輪を捧げるようなものにすぎない。
ここにインド思想史全体に流れる、大きな大きな討論の姿を私は見てしまう。予め線は何本か決まっていて、その線の上に次々と現れる論者が議論をしかけ、応酬する。その意味で彼らは哲学者ではなく、解説者にすぎない。新たな知の発見など、できるだけしたくない。太古の昔から決まっているヴェーダの真理こそ、誰にも否定できない真理だからだ。後発の仏教、ジャイナ教はこの線たちとの苦闘を強いられることになる。
そのことからもうひとつ、インド思想がいかにヴェーダに束縛されているかということも考えられるだろう。ヴェーダは神様たちの言葉であるという。インド哲学の本流はここにしかない。
発表を聞いているとインド(系)の学者はこのことをよく心得ているように思われた。ヴェーダに説かれる善―ダルマ、神、解脱―を探求するのが彼らの一大関心であり、全ての研究はその手段に過ぎない。一方、西洋(系)の学者は逆で、ヴェーダに説かれる善は思想の背景に過ぎず、個々の思想を文献学や比較哲学として解析することに重きをおく。日本人の学者もどちらかと言えば西洋系だろう。これは、もしかしたら外国人として当然の帰結なのかもしれない。
デリーということもあってインド人研究者が多数来ていたが、発表・質問を問わず著作の暗誦が次々と炸裂。中には質問の時間に手を上げて当てられると、ずらずらーっと暗誦しただけで席に着く人もいた。外国人にとっては「ただ覚えているだけで何の意見も述べていない」と思われるが、彼らにも、真実は決まっていて検討する必要が全くないという態度が綿々と息づいているようだ。
はたして我々日本人はどのような態度でインド思想に臨むことができるのだろうか。我々にはヴェーダもないし、ダルマや神や解脱というものも違う。しかししばしば西洋の研究に見られるように、自分に都合のよいところだけを適当につまみ食いするのも好ましくない。我々が持っている身体性やローカリティー―例えば仏教―とどのようにすれば有意義・総体的に関連付けられるのか。実は無茶苦茶に難しい問題ではないか?
この学会は、インド学の大手出版社モティラルが創立100周年記念としてスポンサーについた。会場費をはじめ、参加者の宿泊費・食費・交通費(インド国内分)まで負担する手厚さ。しかも2日目の夜には参加者全員をモティラルハウスに招待し、一族全員が食事のおもてなしをしてくれた。途轍もないお金がかかった訳だが、それを一出版社で賄ってしまうのはインドならではのことで、その財力に驚いた。確かにモティラルの本は高いけれど。

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