インド映画3

タイトル:Kal Ho Na Ho(明日はあるのか?)
カルホーナホーストーリー:
舞台はニューヨーク。父を自殺で亡くし、祖母・母・弟・妹と暮らすニーナ(写真右・コーイー・ミル・ガヤーにも出ていた最近売れっ子女優のズィンタ)は、ヒンドゥー教の祖母とキリスト教の母の間の確執にうんざりしながら退屈な日々を送っていた。そこに現れたアマル(写真左・ボリウッド人気ナンバー1俳優のカーン)は軽口のひょうきんな性格で、はじめは心を閉ざしていた彼女だったが、次第に微笑むことを覚えていく。
 彼女の幼なじみの友達ローヒット(写真中)はマンハッタンのいいところに住んでおり、大きな仕事をもっているが、プレイボーイ気取りの性格が災いして孤独な生活を送っていた。やがて3人には友情が芽生える。その中でアマルはこの2人をくっつけようとするが、ニーナはアマルを好きになってしまう。告白しにきた彼女に、アマルは自分に婚約者がいることを告げて追い返す。
 傷心の彼女にアマルはローヒットを近づけ、ついに婚約までこぎつけた。しかしその後で2人は、実はアマルが心臓の病に冒されており、余命いくばくもないことを知る。アマルはニーナを愛していたにもかかわらず、自分の命が長くないことを知って、婚約者がいるなどと嘘をついたり、2人をくっつけようとしたりしていたのだった。
 2人の結婚式が盛大に行われた後、アマルは皆に看取られながらこの世を去る。そしてローヒットとニーナは彼の分までも幸せになると誓うのであった。
感想:
 ラブストーリーは苦手な私だが、知り合いの日本人が泣けると勧めてくれたので見に行くことにする。歌と踊りは確かに入っているが、カメラワークや筋の展開が斬新で、飽きさせなかった。ニューヨークに住んでいる登場人物が皆ヒンディー語しか話さないとか、心臓を患っている主人公が思いっきり歌って踊りまくっているのはどうかと思ったけれども。
 なぜラブストーリーが苦手かというと、ちゃらちゃらした感じが人間の真実に迫っていないような気がして白々しいのと、恋愛沙汰は人間のわがままだと思われるからである。日本でも、ラブストーリーというと「けっ!」という顔で見ていた。この映画も、最後に主人公が死ぬのは確かに悲しいけれども、友情と恋愛というストーリー自体はあまり感興がわかない。
 恋愛は(一般に異性の)誰とでも起こりうるものだと私は思っている。しかし実際に起こるかどうかは、「縁」というものによる。そしてこの「縁」とは、あらかじめ仕組まれたものではなくて何らかのはずみで偶然にできあがったものにすぎない。原因の前に結果はない。運命的に設定されていることもないし、赤い糸などもない。
 この考え方は私の学んでいるニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派というインド哲学の一派のスタンスである。「壺の材料は壺になる前から壺になる運命だったか」という議論があった。これと同じように、「ある男性とある女性は恋愛する前から恋愛する運命だったか」という問題を導くことができる。これにYesと答えるのがサーンキヤ派など、Noと答えるのがヴァイシェーシカ派など。私はNoだ。我ながら冷めているなあ。
 しかし恋愛は「縁」さえ揃えば成り行きでずっとうまくいくものでもないだろう。そこには一種のゲームのようなさまざまな駆け引き、努力、意志があり、時には運も大事。与えられたものを最大限に生かして活路を開くことである。……こんなに恋愛を熱く語らなくてもいいのだが、30歳を過ぎてから。

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