僧侶

『破天〜一億の魂を掴んだ男』
山際素男著/南風社
 インドといえば仏教の故郷であるが、12世紀ごろから衰退し、多くの人がヒンドゥー教やイスラム教に改宗してしまった。それが何世紀と続いてきたが、第二次大戦後状況が変わりつつある。新仏教(ネオ・ブッディズム)と呼ばれる復興運動が起こり、今では人口の1割、1億人が仏教徒と言われている(政府統計では1%とされるが、急増している様子)。
 日本で話をしていて気付いたのは、多くの人が、インドで仏教が衰退したことをまず知らないことだった。田舎ではインド=仏教国という印象が強い。また仏教が衰退したことを知っている人でも、戦後になって仏教徒が急増していることを知らない人が大部分だ(私もそうだった)。そして、新仏教について知っている人でも、この復興を担っているのが実は日本人の僧侶だということを知らない。インドはかくもつかみにくい国なのである。
 佐々井秀嶺師、68歳。岡山県新見市の出身で人生紆余曲折の末に出家し、真言宗の僧侶となった。僧侶となってからも紆余曲折あってインドに渡り、1988年にインド国籍を取得、プネーと同じマハーラシュトラ州のナグプールというところに住んでいる。この本は師の半生記を綴ったものだ。
 師の生き方は常に険しい道を選ぶというもので、僧侶としても、日本人としても他に類のない稀有な人物である。このような人物が現代に生きているということ自体、とても驚くべきことだ。
 はじめインドに来たのは仏跡巡礼のためだったという。ラージギル(王舎城)で日蓮宗系の日本山妙法寺の活動を手伝い、日本に帰るかというときに夢のお告げがあり、急遽帰国を取りやめてナグプールに向かう。ナグプールでインド仏教徒と出会い、やがてその真摯な姿によって次第に信頼を得、お寺を建設してもらうことにまでなった。そこを足がかりに各地で改宗式を行い、仏教徒を次々と増やしている。
 ブッダガヤにある大菩提寺(マハーボーディ寺院、釈尊が悟りを開いたところに建てられたもので、玄奘の『大唐西域記』にも出てくる由緒ある仏跡)の管理がヒンドゥー教徒に牛耳られているというのに異を唱え、「大菩提寺を仏教徒の手に!」とインド政府に直接訴える運動を展開している。ヒンドウー教徒に遠慮してなかなか動かない政府に対し、これまで何度も抗議してきた。その手段が、いつも断食なのである。政府が降参するまで、飲まず食わずで座り込む。終わってから病院に担ぎ込まれてカンフル剤を打たれるのは毎度のことだ。
 こんな苦行は、常に命がけだ。体もぼろぼろになる。それでも彼はやめない。命も惜しまぬその姿は多くのインド人に感銘を与え、仏教徒に改宗する者、抗議運動に加わる者も増えていった。デリーでデモを行うとなると、すぐに何万人も集まってくる。これには首相も無視するわけにはいかず、佐々井氏は何度も官邸に招かれ、歴代首相とサシで話をしてきた。相手が首相だろうと州知事だろうと、声を荒げて詰め寄る。インド社会で長い間差別されてきた低層カースト出身の仏教徒に自信を与え、インド社会全体にまで波及しつつある。
 圧巻は1998年にインドが核実験を行ったときのこと、デリーで特大のスピーカーを使ってデモを行い、「おー、大馬鹿者のバジパイ首相よ、出て来い!」と国会の前で怒号を挙げたことだろう。「私に腹が立ったら、この場で撃ち殺すがいい。何十万もの人間を一度に殺す気でいる汝に私一人を殺すことなどわけもないであろう。さあ、殺すがいい。私は仏陀と共に哂ってやろう。この大馬鹿者の恥知らずめがと」
 仏教徒、とりわけ日本人は争いを好まない。しかしこのインドの国では、争いなしに変わるものなど何一つないのだ。もちろん彼らの闘争は武器を一切もたない。それゆえに命がけになるし、勇気も試される。そして視点は常に苦しみの多い人生を生きている人たちに注がれている。彼らの救済こそが目的であり、生きがいであり、喜びなのだ。今の日本仏教界が、彼から見習うことは何と多いことだろう。「僧侶は職業ではない。生き方なのだ」というある老師の言葉が重くのしかかった。

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