仏蹟(2)ボードガヤ

ボードガヤー

明けの星 仰ぐ心は 人の世の
光となりて 天地(あめつち)にみつ
ボードガヤ(ブッダガヤ)は釈尊が悟りを開いて仏陀になった土地で、仏教の四大聖地の最も重要な場所とされる。生誕の地ルンビニと涅槃の地クシーナガル、初転法綸の地サールナート、そのどこよりもたくさんの信者が参拝しており、活気があった。これもひとえに世界遺産にも登録されている大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)によるものだろう。アショーカ王が紀元前3世紀に建てたのが始まりで、その後シヴァ寺院になったり、しばらくは打ち捨てられたりしていたが、ビルマ人の僧侶が19世紀から修復運動を始めて今日に至る。寺院の裏手には菩提樹が葉を広げており、その根元に釈尊が座っていた場所とされる金剛座がある。ここには今もなお見えない力が漲っており、それが僧侶や信者を引きつけてやまないような気がした。
半年に及ぶ苦行と瞑想の末、苦しみに満ちたこの世から逃げ出すことを諦めたとき、自身の感覚が研ぎ澄まされてくる。呼吸、鳥の鳴き声、木の葉、そして太陽の光―釈尊は考えることをやめ、それらをあるがままに受け止めた。バラモン教が説くアートマンはなく、全てのものが無我であると悟ったとき全ての邪見は消え去った。そして大樹の下で黙想し、何日か後、深い黙想状態に入っていた夜が明けたとき、全てを悟って仏陀となった。西暦前528年、春の満月の日だったと言われる(日本では12月8日が成道の日とされている)。その大樹は仏陀にちなんで菩提樹と名づけられ、この地もブッダガヤと呼ばれるようになる。
この後仏陀はサールナートに赴いて最初の説法を行うことになるのだが、その前にここで49日を1週間ごとに場所を変えながら過ごしたと言われる。まず第1週は菩提樹の下、金剛座にて。
アニメーシャローチャナ・ストゥーパチャンクラマナ・チャイティヤ第2週は少し離れた場所で立ったまま、菩提樹を見つめ続けていたという。その場所には「アニメーシャローチャナ・ストゥーパ(瞬きをせずに見ていた塔)」があり、中には目をぎょろりとさせている仏陀の像が祀られている。
第3週は再び瞑想をしつつ、菩提樹のまわりを行ったり来たり歩いた。そこには蓮の花が咲いていたということで、現在は石で作られた蓮の花が18個並び、仏陀の足跡を表す。

アジャパ・ニグローダラトナグラハ・チャイティヤ第4週になると菩提樹のすぐそばでアビダンマ・ナヤと呼ばれる深い瞑想に入る。ラトナグラハ・チャイティヤという建物が目印。
第5週はアジャパ・ニグローダという別の木の下に場所を移して瞑想を続け、ここでガリガリに痩せていた仏陀にスジャータという村娘がキールという乳粥を捧げる。

ラージャヤータナ樹ムチャリンダ湖第6週は、やや離れたところにあるムチャリンダ湖。この湖の底に住むコブラの王様ムチャリンダが瞑想を妨げに来た魔羅と呼ばれる悪魔から仏陀を守った。
第7週にいた場所はラージャヤータナ樹が目印になっている。ここで人類を苦しみから救おうという誓いを立て、2人の商人タパッスとブリアリカから食べ物の布施を受けて、再び菩提樹に戻る。そして菩提樹に礼拝した後、この地を去ってサールナートに赴いたという。
さて私がコルカタ発の夜行列車でガヤー駅に着いたのは午前5時。駅前にある「ブッダホテル」にチェックインした後、オートリキシャーでボードガヤに向かった。約10キロの道のりは霧がまだかかっており、非常に寒かった。夜がだんだん明けてくる。これぞまさに仏陀が悟りの朝に見た太陽なのかと思うと感慨深い。
大菩提寺は入場料一切なしで自由に入ることができる。中は意外と狭く、そしてフローリングがしてあったり仏像がやけに金ピカだったりもするが、ほっとする温かさだ。朝早くから僧侶や信者が集まってお経やお拝を捧げていた。私もその中に混じってしばらく坐ってみる。何か大きいものに守られているような安心感があり、気持ちがとても落ち着いた。
境内はたくさんのストゥーパがあるがそれほど大きくはなく、ものの15分ほどで1周してしまう。朝ごはんを食べようと出ると、予想通り物売りが菩提樹の葉を売りに来た。ヴァラナシ以来、物売りには極度の警戒感をもっていた私はやや強い口調で断って、朝ごはんのドーサを頼んだ。しかしこの時点でまだ9時。はてこれから1日どうしたものかと考えていると、またさっきの物売りが朝ごはんが終わったかと言ってやってきた。土産はさておき、近くを案内するというのだ。お金は好きなだけでいいと言ったが、50ルピーとこちらで指定した。渋々了承するその男。
彼の名前はバッチュ・シン。後を付いていくと自転車を出してきた。この後ろに乗れという。でこぼこ道を自転車に揺られながらのんびり。市場を抜けて橋を越えると、そこにはのどかな村が広がっていた。通りすがりの人が珍しそうに私を見る。道はだんだん狭くなっていき、途中から自転車を置いてあぜ道を歩いていく。「ここはサイクルリキシャーでも来れない。自転車が一番さ」などと得意げなバッチュ。最初に連れてきてもらったのは仏陀に乳粥を捧げたスジャータを記念して作られたストゥーパだった。発掘された後があるが、古いレンガが残る小高い丘に過ぎない。
スジャータ寺院そこからまたしばらく歩くとスジャータ寺院。裏にはビルマ人が建てたもう1件のスジャータ寺院があり、さらに近くにはシヴァ寺院がある。ここではガリガリに痩せてあばら骨が浮き出ている仏像にスジャータが捧げものをしている像が祀られている。それほど古いものではないようだが、大菩提寺からずいぶん離れているにもかかわらず、こうして丁寧に祀られているのはありがたさを感じた。寒村に暮らしながらなけなしの一杯を勇気をもって差し出したスジャータの慈悲は、釈尊を通してはるか遠く我々のところまで届いている。
そして釈尊が成道後第6週を送ったとされるムチャリンダ湖へ。大菩提寺の境内にある湖はコピーだという。これがなかなか遠くて、2キロはあったのではないかと思われる。朝とは比べ物にならないほど暑くなってきたので、バッチュは途中自分の家に寄ってセーターを脱いできた。子どもたちが家から出てくる。4人の子どもがいるそうだが、バッチュの年令は私と同じだった。
それからフランス人が創設したという孤児院を案内される。ヴァラナシだったらもうこの時点で寄付を要求されるのを覚悟しなければならないだろうが、1時間見学して帰るまで、寄付の「き」の字も出てこない。バッチュはただ自分の村にある珍しいものを見せたくて連れて来たのだし、孤児院の先生方も子どもも珍しい外国人が来たということを喜んで迎えるのだった。私の心はここでほぐれた。
このところビハール州は天候不順続きで、農家には大きな打撃を与えている。その結果生活が困窮し、みなしごや捨て子が多く出た。そうした子どもたちがこの学校で生活しながら勉強している。フランス人の校長先生が里親制度のようにしてフランスから経済的支援をしてくれる人を探し、経済面をまかなっているという。英語と算数の授業を見せてもらったが、教育メソッドはユネスコのものを取り入れているとかで、充実した内容に見えた。特に授業中に私語を禁止せず、思ったことをどんどん言わせるやり方は子どもたちも楽しそう。始まってまだ3年というが、ここの卒業生がインド国内外で活躍する日が期待される。
再び大菩提寺に変える途中、バッチュは草むらにある石碑に祈りをささげた。彼の亡き父親のモニュメントだという。この辺りでは、お墓はないがこうした石碑がところどころにある。そしてそこはバッチュの家の田んぼだった。この田んぼでバッチュの先祖たちは、数え切れないほどの時間を仕事に費やしてきたのだろう。そしてバッチュも土産売りの合間をぬって、この田んぼを耕しているのだ。このとき、自転車をこぐ彼の背中がとても大きく見えた。
半日近くまわって50ルピーとはあまりに安すぎるが、それは約束。その代わりバッチュがもっていた土産を見せてもらい、仏足を拓本にした布や、菩提樹の木の皮に掘った仏像などを多めに購入した。バッチュはこれが嬉しかったのか、昼食を食べるところまでずっと一緒にいてくれ、手紙をくれと住所まで教えてくれた。もっとも、住所を書いたのは別の青年で、バッチュは字の読み書きができない。こういう人間に出会うことができたのは、幸せなことだった。
帰りはガヤーまでテンポ(オートリキシャーよりちょっと大きい乗り物)。行きは一人乗りだったので80ルピーかかったが、帰りは相乗りで10ルピー。ブッダホテルは駅前なのに1泊150ルピー。一見刑務所の独房のような感じだが、テレビまで付いていたる。お湯は頼んでもってきてもらうが、バケツ1杯のお湯を用意するのに30分かかる。ビハールは噂どおり停電の多い街だったが、その分どこのホテルにも大きい自家発電機が付いていてあまり困らない。方々の自家発電機から出る黒い煙が、街中を煙たくしているぐらいのものだ。
聖地を見たその日に不謹慎なことであるが、駅前のレストランでビールを飲んだ。料理を注文したらボーイが小声で「ビールありますよ」とささやいてきたのだ。頼んでみるとビール瓶には新聞紙が巻かれている。ヒンドゥー教もイスラム教もこの地は厳格で酒に対する目が厳しい。しかしだからと言って新聞紙を巻いたら余計目立ってしまう。周りの人たちもちらちら見ているような気がして、不謹慎感が5倍ぐらいに高まった。

2004年11月10日(水)—–

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