千の風になって

来週の講習会で発声練習にしようかと思い、『千の風になって』の梅花譜を作成した。オリジナルの西洋譜はヤマハの「ぷりんと楽譜」から購入。105円でネットからダウンロードして印刷できるというのは便利だ。
「千の風になって 仏教」で検索すると面白い意見がたくさん読める。この歌詞は仏教に反するか反しないかで両論あるようだが、「私」はお墓にいないが、お参りをするのは無駄ではないというところだろう。
真っ先に連想するのは良寛和尚辞世の句である。
かたみとて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢば
それとご詠歌にもなっている道元禅師の和歌。
峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と
自分を取り巻く身近な自然の中に亡き人を追慕するという感覚は、往く者と遺される者が共有できるものだろう。
それではお墓参りは無駄なのか。『千の風になって』ではただ「泣かないで下さい」と言っているだけで、お墓参りを否定するわけではない。お墓にだって千の風は吹いているし、光は降り注ぎ雪は降り、鳥は鳴き星はきらめいているのだ。そしてお墓で亡き人に包まれ安心すれば、泣く必要はない。
問題はお墓の前かどうかではなく、亡き人に真心で向き合えるかということだろう。ただし多くの人はどこでも簡単にそんな気持ちになることはできない。そこで亡き人への思いを強めるために、お墓という「装置」が必要になる。「お墓参りなんかしなくていい」と思っている人の、いったいどれくらいが亡き人に真摯に向かい合う機会を持てているのか。
生きている人の救済が声高に叫ばれている現代仏教で、死者との対話なしに生きる指針が作れるのかという反省がなされつつある。墓前であれ日常であれ、亡き人たちのことをゆっくり思う機会をもちたい。
梅花譜:千の風になって(PDF)

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