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同時成道と修証一如

  • author: hourei
  • 2008/05/08 15:47

連休の法事三昧が明けて一息。数が多いとどうしてもルーティン化してしまって気が抜けるので注意したい。

このごろ法事の後の法話で、故人はすでに成仏していることを強調している。その根拠となっているのが「衆生受仏戒、即入諸仏位(衆生は戒律を受けた時点で、諸仏と同じ立場になる)」という文言。葬儀で戒名を受けたときに成仏しているというわけだ。

故人はすでに成仏しているから、法事はさらに成仏を祈るものではない。ましてや供養しないと化けて出るとか、タタリがあるなどという理由でするものでもない。「徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多に帰依する事勿れ、彼はその帰依に因りて衆苦を解脱すること無し(タタリなどを恐れて神や外道を信じてはならない)」なのである。そこで日常の反省と感謝、そして報恩の誓いを立てるために行うべきものだと説く。

ここで気になっているのが、「同時成道(成仏は個人単位ではなく全世界同時になされる)」と「修証一如(成仏は修行の末ではなく、修行の中にこそある)」という教えだ。

法事の文脈に当てはめると「同時成道」は故人の成仏と遺族の安心は同時にあるものであり、いつ故人が成仏したかは、遺族がいつ安心したかによると説明できる。遺族が故人を思い出して、笑顔を思い浮かべることができれば故人は成仏したということだと説明すると、納得してもらえることが多い。

一方「修証一如」のほうは、故人は戒名をもらって成仏したが、修行し続けなければならないということになる。だから故人が成仏したと安心して怠けることなく、精進し続けなければならない。

ここまでの説明ならばよいのだが、反対の見方をすると危険なことにもなる。「同時成道」ならば、逆に遺族が不幸せということは故人もあの世で苦しんでいるということなのか? 「修証一如」ならば、供養をやめたら故人は極楽から転落してしまうのか?

けれども、そんなことを言えばタタリの話と違わなくなってしまう。世の中にはそうやって不安を煽っておいて救いの手を差し伸べるマッチポンプの似非宗教もあるが、仏教はそうであってはなるまい。

確かに遺族が不幸せならば、故人も安心して成仏できないだろう。だがそれは、遺族の不幸せが故人のせいであるというのとはまったく違う。因果関係が逆だ。自分の人生をネガティブに捉え、責任転嫁していては苦しみは解決しない。

それにしても遺族は不幸せなのに故人は成仏している(他はこれ吾にあらず)とか、遺族は幸せなのに故人は成仏してない(菩薩となってこの世にとどまっている)というケースはないのだろうか。他者論が大きな問題になる大乗仏教の観点なども援用しつつ、こうした問題を哲学的に考察していきたい。

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