昨日の東大(2)

同窓会でまた東大。今回は先輩の護山真也信州大准教授の発表ということで行くことにしたのだった。院生時代、もっとも長時間一緒に読書会をした先輩だ。
その護山さんが博士論文で扱った主宰神論が発表テーマ。はじめは四聖諦などの知のみに限定されていた仏陀の全知者性は、やがて神格化されるに及び無制限の全知者性に拡大される。しかし仏教徒は同時に、バラモン教の主宰神(世界の創造主)とその全知者性を徹底的に批判する。どこが違うのか?という話。
発表原稿が長すぎて、これからというところで打ち切りになってしまったが、私もオーストリア留学を志していた頃はやりかけていたテーマでもあり、十分面白かった(主宰神の論証は、今は詭弁にしか思えないけれど)。
その後、末木文美士教授の発表だったがこれが何と退官にあたっての最終講義的なものだという。東大の定年は65歳になったが、末木先生は定年前にお辞めになって民博かどこかに行くらしい。定年で辞めるのではないから最終講義など仰々しいものはしないで、これをその代わりにするとは、いかにも形式にこだわらない末木先生らしい。晴れの卒業式にわざとキティちゃんのネクタイなんかしてきたこともあった。
話の中で、印度哲学研究室の中で日本仏教の研究者の肩身がいかに狭かったかを述べられた。日本仏教というと研究者がたくさんいそうだが、そのほとんどは歴史学か宗派関係で、思想史として体系的に追う研究者は非常に少ないという。現代思想でも活躍している末木先生だが、その跳ねっかえり精神の源が分かったような気がした。
そんな話を聞きながら、学生の頃に日本仏教でも中国仏教でもなく、インド哲学を選択した私の中の舶来信仰みたいなものに気がついて内心赤面した。末木先生の授業で別の授業のレポートの焼き直しを提出し、文末にその旨を正直に書いたら不可をもらったなんていうのもいい思い出だ。
終わってからは後輩がいかにこの世界の就職口がないか、したがって博論のモチベーションも上がらないかという話。それを分かって印度哲学を選び、大学院にまで進んだはずだが、研究が何の役に立つなんて考えてしまうとダメだ。
先生方にあいさつして、また博論を早くと言われつつ早めに退散。新幹線で山形へ。

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