『人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答』

「宗教共同体が常に危険をはらむのは、たった一つの答えがあるという前提で集まっているからだと思います。答えを認めない、わからない人はダメ、というやり方でグループを閉鎖してしまいますから。ここに大きな危険がある。しかし、同じ問題を抱えている人間が集まろうよという話になれば、方法は何でもいいわけです。一生懸命自分のことをやっていれば、それが人につながっていく道があるんじゃないかと思っているんです。」(28ページ)
「ところが現在、寺院も社会の変化を否応なく経験するわけですから、再度体系を開いて社会とつき合わせないと、仏教に先はありません。だから私は、外に学びながら仏教の内部に引っ張り込み、また内部から出たものを外の人に見てもらうという作業を、やりたいと思っているんです。」(56ページ)
「多くの人が、自由というのはどうにでもできることだと錯覚しています。例えば、フリーター。あれはフリーでも何でもない。「ドリフター(漂流者)」ですよ。」(97ページ)
「パズルのように凸凹を短絡的に結び付けてはいけませんがね。というのは、存在における原初的な喪失というのは、代償物では埋まらないと思うからです。」(104ページ)
「ブッダの生き方や道元の生き方を見ていて思うのは、最後の土壇場になすべきことをなし終えたと思えるかどうかですな。ここで自己肯定ができるかできないか。腹の底から自分がなすべきだと信じたことをなし終えたんだと断言できるところまでいったら、この世における解脱だと思うんですよ。」(125ページ)
「私は昔から、理解するとかわかるというのは、わからないことを隠すことだと思っています。むしろ「わからない」というのが考える前提だと思う。」(138ページ)
「ブッダが因果を説くのは、「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」ということではなくて、人が努力し未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくために絶対必要な考え方だからというわけです。だから、因果を信じろと。」(142ページ)
心に響く南語録。
一方、対談している茂木氏は終始圧倒されているようだ。「クオリア」「偶有性」など茂木氏が唱えてきた概念について南氏が積極的に質問しているのに、茂木氏はそういう概念を説明する立場であるはずの脳科学者であることを放棄し、まともに答えていない。脳科学者という立場を離れ、一個の人間として何か言おうとしたようだが、「生きる実感」などというステレオタイプな言葉しか出てこなかった。それならば南氏と同じ土俵に下りずに、あくまで脳科学者として自身の意見を説明するほうがよかったのではないかと思う。

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