バレーボール

今年になってから、地元のクラブに入ってバレーボールを楽しんでいる。

きっかけは3つ。ひとつは小学校のPTAソフトバレーボール。毎年、親と先生が学年対抗で戦うのだが、長女の学年は3年連続最下位。それを長男の学年が入った年に奪った。懇親が目的とはいえ、この結果は悔しく、どこかで練習しておきたいと思うようになった。

次は今年夏の富士登山。昨年の秋に高校の同級生と会って、なりゆきで富士登山することになったのだが、体力には全く自信がない。朝のテレビ体操だけでは不十分と感じ、運動をしなくてはと思うようになった。ところが私、運動が続いたためしがない。学生の頃はランニング、インド留学中はジム通いやヨガなどもしてみたが、独りできついのは続かなかった。そこで、みんなでできるスポーツなら続けられるのではないかと考えた。

そして3つ目は四十二の厄年。厄年というのは語呂合わせの迷信ではなく、実際古来より体調に変化をきたしやすい年齢なのだと思う(女は7の倍数、男は8の倍数ともいう。それによれば40)。住職をしているせいか、このぐらいの歳で心筋梗塞で亡くなったという話がよく耳に入るようになり、健康に留意しようと思うようになった。血液検査ではきまって良質コレステロールが低いといわれる。タバコはもとより吸わず、酒もめったに飲まない自分にできる健康法といえば、運動しかない。

バレーボールは高・大の体育でやっただけである。中学、高校と吹奏楽部で、大学はオーケストラ。高校の吹奏楽部では腹筋や腕立て伏せ、レクリエーションの野球などもやっていたが、遊び程度でしかない。しかし高校の体育では土沢先生という先生が丁寧かつ厳しく指導して下さり、クラスマッチのバレーボールを楽しめる程度にはなった。大学の体育実技でもずっとバレーボールを選択し、友人とともに気合を入れてやっていたのを思い出す。

地元は昔からバレーボールが盛んで、私が小学生の頃、母のPTA大会の練習についていったり、応援したりしたのを覚えている。親も先生も本気でバレーボールに打ち込む姿にあこがれたわけではないが、運動の選択肢として浮かんだのはその影響もあるだろう。長女が縄文太鼓の練習をしていたとき、同じ時間帯にたまたま、体育館でバレーボールの練習しているのを見て、楽しそうだな、自分もやってみようかなと思うようになった。

地元で長年バレーボールをしている知り合いに頼んで練習に参加させてもらったところ、人数が足りないからといきなり大会メンバーに。経験者がスパイクをばしばし打ってくるので逃げまくっていたが、地区大会で3位になり、市の大会にも出場した。その間にPTAのバレー大会では長女の学年も長男の学年も最下位脱出。さらにそれだけの練習では飽きたらず、秋から近くの地区の練習に加えてもらっている。そのおかげで、今年はだいたい月1ペースで続けられた。最初はひどかった筋肉痛もそれほどではなくなり、体調もすこぶるよく、風邪も引かなくなった。

バレーボールを通じて新しい出会いがたくさんあったのもたいへんよかった。アキレス腱に気をつけて、来年も続けていきたいと思っている。

4件のコメント

  1. 今日はご住職さん。
    渡辺ことひとのこと申します。
    これは逆じゃないかと思われるでしようが、わたしはこれで良いのです。
    紛らわしくてごめんなさい。
    本日コメントを書いたのは如何してもお話いたかったからです。
    今日本の仏教を見ますと、僧侶は何処にも見当たりません。
    ですから人々は仏教離れして行くと思います。
    大変申し訳ありませんが、わたしの意見をお話しさせて下さい。
    どうぞ、わたしの話を最後までお聞きくださいませ。
    悟りとはと聞かれたら、わたしが、わたしで在ることにくつろぐこと、とお答えいたします。
    くつろぎ(安楽)が、人の本性であり、探せばそれは緊張だから本性は逃げて行ってしまいます。
    探さねば決して見つかりませんが、探せば逃げて行きます。
    人の心の性質は嫌いなものから逃げ、好むものを追いかけます。
    無意識の内に行われている、この逃げ、追いかけるが無くならねば決して本来に帰ることはありません。
    我々は初めからそれだと言うのに心の性質がそれで無い者にしてしまう。
    これを何とかする方法が教と手法です。
    その方法が異なることで、複数の教えが神仏から現れ、また宗派と言う枝に分かれて行きます。
    今の世界は、日本だけで年間三万人以上の自殺者を生み出し、
    未遂も含めると三十万人その家族や友人を含めるともう計算できません。
    この様な人達を一人も残さず救い取るのが宗教では無いでしょうか。
    この世にはどの教えも信じることができず、本来とはかけ離れたエゴのままに生きることしか出来ない人達が沢山います。
    それはこの世の中があまりにも理不尽にこの方々には見えるからです。
    もし、各宗教が宗派が一つの教えの枝だと理解して聖職者である皆さんが力を合わせたら、今の世界は佛国土に地上の天国に
    速やかに変わるとわたしは信じます。
    確かに苦しみは心の問題ですが人は内面的にも外面的にも幸せであり、豊かであったほうが良い。
    強いもの勝ちの今の世界は野獣とそっくりです。
    この世に個人など存在せず、従って個人の責任も成果もありません。
    ですが今の世界は個人の成果と責任で野獣のように出来ています。
    この世に苦しむ人が一人でも居れば
    この世に犯罪を犯す者が一人でも居れば
    それは我々全ての人の責任です。
    我々は犯罪を犯したものを裁くのではなく、犯罪を犯すものなど一人も居ない世界を作らねばなりません。
    わたしは世界の全ての宗教者に問いたいのです。
    何故黙って見ているのですか?
    勝手なことばかり言ってごめんなさい。ですが見ていられないのです。
    このコメントにご意見をお願いいたします。
    良かったらわたしのブログにもお越しください。
    また来ます。世界が変わるまで。
    宮城県仙台市在住の渡辺ことひとのこでした。
    ブログ:http://o123hitonoko.blog113.fc2.com/

  2. あまり仏教の話をしないブログですが、ご覧頂きありがとうございます。お坊さんの活動は、マスコミに取り上げられることもなくてなかなか目に見えにくいと思いますが、地道な活動を続けている方がたくさんいらっしゃいます。お近くにもきっと、いい僧侶がいらっしゃると思いますので、探してみてください。ブログ拝見しました。

  3. お返事ありがとうございます。
    もう一つお伺いしたいです。
    僧侶は人々の善意のお布施で生きておられるわけですが
    人々の苦しみを無視して生きて何も感じませんでしようか?
    仏道とは大乗とは菩薩行とはあなた様にとって一体何ですか?
    ご無礼な問いで申し訳ありませんが、わたしはあそうですかと引き下がれないのです。

  4. ありがとうございます。激励のお言葉と受け止めさせて頂きます。
    ひとのこさんのお近くにはどうやら、苦しみに寄り添っていらっしゃると思えるお坊さんが見当たらないようですね。誠に残念に思います。仏道とは、大乗とは、菩薩行とは何か、私は日々考え、反省し、精進しております。答えはまだ出ていません。

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