『インド哲学10講』


「太初において、これは有のみであった。唯一の存在で第二のものは存在しなかった」「変容は、言葉による把捉であり、名づけである」(『チャーンドゥーギヤ・ウパニシャッド』)」に始まるインド哲学の存在論を系統立てて概説。「世界は一つのものから始まったのになぜ多様なのか」という問題について、増殖説、創作説、転変説、仮現説、多元説に分類して考察する。

インド哲学の概説書は多数あるが、いろいろな思想を辞書のように並べるものが多く、一本の芯を通したことで、六師外道、サーンキヤ学派の二元論、シャンカラの不二一元論といった難解な思想も非常にクリアになっている。特に筆者が専門としてきた文法学者バルトリハリ(5世紀)の言葉=宇宙原理説もオカルトなものではなく、言葉による世界の分節・構築であるということも理解できる。

あとがきで筆者は、倫理学・認識論・論理学については論じることができなかったと書いてあるが、存在論の思想史抜きにしては語れないものであり、存在論の応用問題であるといってもよいのではないだろうか。事実、世界を動かす原理としての業と神のせめぎあいは詳しく論じられており、それは倫理の問題に直結するし、シャンカラの思想の紹介では認識論に、神の存在論証では論理学に踏み込んでいる。

以前、インド哲学と西洋哲学の対論のシンポジウムがあり、そこで因果論の蓋然性について疑問が提起されたことがあった。そのときは最終的に聖典が根拠だから100%しかないというような答えだったと思うが、本書の最終章でニヤーヤ学派の見解として紹介されているように、業のはたらきと、神の助けの二本立てならば「この世の中で懸命に努力している人が、必ずしも懸命な努力の結果を受け取るわけではない」といった事態も説明ができる。机上の空論ではなく、生き方の問題にも関わってくるのだ。

『沙石集』の「神力も業力に勝たず」という言葉や、『正法眼蔵』の「仏性がないからこそ仏になる」という逆説的な説き方に触れられているところも、インドだけでなく日本にも通底する普遍的な問題であることが分かる。

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