お盆

  • author: hourei
  • 2008/08/16 08:01

ここ数年、お盆中の法事には『仏説盂蘭盆経』を読んでいたが、今年から『慈経』に替えた。

『仏説盂蘭盆経』は餓鬼界にいる母をお盆の法要で救い出す話である。「如是我聞」から始まるが、お釈迦様の時代の話ではなく、中国撰述の偽経であることが分かっている。このお経は、次の二点で性質が悪い。

・先祖が地獄界や餓鬼界にいることを語って不安を煽る点
・その不安をもとに飲食や金銭を供出させる点

つまり先祖の祟りといって壺や印鑑を買わせるのと構造が同じなのである。

これに対し、柳田國男はお盆がもともと民俗行事であったことを説き、お盆の飾りについて次のように述べている。

「餓鬼というような悪い名をもつ精霊はもちろん、南九州のフケジョロ又はトモドンというものなども、家のない飢えたる求食者であって、盆には家々の精霊様の供物を横から取って食べるといい、先祖を静かにもてなすためには、まず彼らにも何か食物を与えて、邪魔をせぬようにする必要があると考えているものがある。(『先祖の話』)」

お盆にはホオズキ、そうめん、掛けササギ、昆布、リンゴなどのお供え物を枝にかける習慣があるが、これはあの世から帰ってきても寄る家のない無縁仏を供養するためのものだというわけだ。枝にかけるのは、「盂蘭盆」の原語उल्लम्बन(ullambana=掛けること)に基づいたものとも考えられるが、「ご自由にお取りください」という態度を示して誰でも遠慮なくお供え物を取りやすくするものだろう。

でも、無縁仏を餓鬼扱いして先祖の邪魔をする者と考えるのは仏教的ではない。仏教の基本スタンスは「全てのものが幸福で平安であること」という慈悲心にある。相手が御先祖様であろうと、無縁仏であろうと、分け隔てなく冥福を祈る気持ち、それが大事だ。そこで『慈経』を読むのである。

これも民俗行事に対する仏教的な解釈にすぎないが、『仏説盂蘭盆経』的な解釈よりもずっと納得できるのではないだろうか。

祈り、働け

  • author: hourei
  • 2008/06/09 00:03

今日は8時から法事、位牌開眼、法事、墓地開眼、祈祷と5件。うどんを食べて午後は夕方まで境内清掃に汗を流す。夕食後は明日の会議の資料作り。やっと終了。

昨日の午後に講演会があって、終わってからの質問で坐禅の功徳の話になった。坐禅をすれば精神が修養されて慈悲深くなったり、よりよい人間なったりするのかという問題である。講師は道元の句を引いて、それを目的としていてはダメだが、ひたすら打ち込むうちに自然とそうなるだろうと仰った。

境内の作務も坐禅と変わらない。これは修行だなどと考えないで、ひたすら目の前の作業に打ち込む。まるでそれが本能であるかのように。ほかに目的を設定した途端、雑念が混じってしまう。「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」(瑩山)

といっても実際はお客様が来るからみっともないのは嫌だと思って掃除しているだけで、何のことはない、見栄にすぎないのだ。掃除をしているうちに汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟った釈尊の弟子、周利槃特を少しは見習いたいと思う。

昨日、首都高の小菅ジャンクションに「追い越したって行き先は別」という相田みつをみたいな垂れ幕が張ってあって感心した。南直哉氏は「真理はひとつ」ということの危険性と無意味を説いている(『語る禅僧』)。世界には多種多様な宗教・宗派があるが、登り道が別なだけであって頂上はひとつだという話はよく聞くが、そんなことはない。人もそれぞれ別の行き先に向かって歩いている。たまたま途中で一緒に歩いたりするが、いずれはまた別れていくだろう。

箒で落ち葉を掃きながら、僧侶としても学者としても親としても趣味人としても中途半端な自分にはっとしてそれを思い出した。追い越した、追い越されたというところにばかり気になって肝心のこと、自分がどこに向かっているのか忘れているのではないか。

……そんなことを考えながらの境内清掃。普段運動していない体は悲鳴を上げたけど、よい気分転換になった気がする。

不飲酒戒

  • author: hourei
  • 2008/06/05 14:18

僧侶を酒気帯び運転で逮捕

公務員だけでなく、民間でも飲酒運転はクビになりつつあるが、僧侶は法事で飲むのがひとつの仕事みたいになっているせいか(いい身分だ)処分はそれほど厳しくないような気がする。衣姿というだけで検問をスルーできた時代もとうに過ぎ去り、こうやってマスコミで取り上げられるようになると何か変わるかもしれない。

律蔵で飲酒は「波逸提(はいつだ)」に属し、長老のもとで懺悔すれば許されると規定されている。最も重い波羅夷(はらい、教団追放)からみると相当軽い。しかも現代においては「酒に溺れて生業を怠ることなかれ」と緩く解釈されている。飲酒運転は十分溺れていると思うが、飲酒自体も問われ続けるべきだろう。「この飲酒は利他行なのか?」と。

昨年は15回ほど飲酒をしてしまったが、今年は5月までで5回。内訳は寺の役員会で2回、法事で1回、友人と2回である。師匠のところで懺悔はしていないが、これからも節制していきたい。飲まなければ飲酒運転もしないですむし。

参考:仏教と飲酒の問題(浄土真宗やっとかめ通信)

NET縁

  • author: hourei
  • 2008/05/14 05:58

ネットで寺の後継者決まる 縁組み第1号は神戸の光顕寺

浄土真宗・西本願寺派が「NET縁」というのを開いていて、お寺に入りたい住職、住職を探しているお寺、寺院後継者の縁組を行っているという。進んでるなあ。

曹洞宗でも昔、本庁でお見合いパーティのようなものを行っていたというが今は聞かない。僧侶は未婚という建前がまだ根強いのかもしれない。でももはや禅師様だって既婚の時代、旧態依然としていてはいけないと思う。

浄土真宗は僧侶の数が多いと聞くが、曹洞宗は寺院数に比して少なく、深刻な後継者不足が始まっている。過疎化が進む田舎のお寺の場合、無住になったらもう半永久的に住職が来る見込みはない。檀家さんが私のようなお寺のバカ息子をちやほやするのもそのためだ。

寺院はこれから30〜50年で急減するというのが識者の見方だが、現場では葬式が増えているせいか危機感があまりない。ただし子どもに跡を継がせようと考えている人は確実に少なくなっている。跡を継いだとしても、兼業僧侶のほうがよいという考えも多い。

宗門の中では修行をもっと厳しくして少数でも強い意志をもつ人だけでやっていくべきだという意見と、もっと簡単に資格を取れるようにして後継者不足を解消すべきだという意見に分かれているが、どちらがよいというものでもない。その前にまず、情報の行き交いにくい中でマッチングをもっと積極的にしていくほうが先決である。

夫婦や家族で運営されているお寺って、お参りして気持ちいいものですよ。

同時成道と修証一如

  • author: hourei
  • 2008/05/08 15:47

連休の法事三昧が明けて一息。数が多いとどうしてもルーティン化してしまって気が抜けるので注意したい。

このごろ法事の後の法話で、故人はすでに成仏していることを強調している。その根拠となっているのが「衆生受仏戒、即入諸仏位(衆生は戒律を受けた時点で、諸仏と同じ立場になる)」という文言。葬儀で戒名を受けたときに成仏しているというわけだ。

故人はすでに成仏しているから、法事はさらに成仏を祈るものではない。ましてや供養しないと化けて出るとか、タタリがあるなどという理由でするものでもない。「徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多に帰依する事勿れ、彼はその帰依に因りて衆苦を解脱すること無し(タタリなどを恐れて神や外道を信じてはならない)」なのである。そこで日常の反省と感謝、そして報恩の誓いを立てるために行うべきものだと説く。

ここで気になっているのが、「同時成道(成仏は個人単位ではなく全世界同時になされる)」と「修証一如(成仏は修行の末ではなく、修行の中にこそある)」という教えだ。

法事の文脈に当てはめると「同時成道」は故人の成仏と遺族の安心は同時にあるものであり、いつ故人が成仏したかは、遺族がいつ安心したかによると説明できる。遺族が故人を思い出して、笑顔を思い浮かべることができれば故人は成仏したということだと説明すると、納得してもらえることが多い。

一方「修証一如」のほうは、故人は戒名をもらって成仏したが、修行し続けなければならないということになる。だから故人が成仏したと安心して怠けることなく、精進し続けなければならない。

ここまでの説明ならばよいのだが、反対の見方をすると危険なことにもなる。「同時成道」ならば、逆に遺族が不幸せということは故人もあの世で苦しんでいるということなのか? 「修証一如」ならば、供養をやめたら故人は極楽から転落してしまうのか?

けれども、そんなことを言えばタタリの話と違わなくなってしまう。世の中にはそうやって不安を煽っておいて救いの手を差し伸べるマッチポンプの似非宗教もあるが、仏教はそうであってはなるまい。

確かに遺族が不幸せならば、故人も安心して成仏できないだろう。だがそれは、遺族の不幸せが故人のせいであるというのとはまったく違う。因果関係が逆だ。自分の人生をネガティブに捉え、責任転嫁していては苦しみは解決しない。

それにしても遺族は不幸せなのに故人は成仏している(他はこれ吾にあらず)とか、遺族は幸せなのに故人は成仏してない(菩薩となってこの世にとどまっている)というケースはないのだろうか。他者論が大きな問題になる大乗仏教の観点なども援用しつつ、こうした問題を哲学的に考察していきたい。

不偸盗戒

  • author: hourei
  • 2008/03/18 13:09

「学道の人は先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う(道元)」と戒められる僧侶も、一市民でもある現代においては無所有というわけにはいかない。ただ、都会の大寺院を除きほとんどの場合は収入は普通に就職するよりずっと少ない。

それなのに年間の経費が最低これくらいというのがあるので、やりくりに頭を悩ませなければならない。経費分は非課税だが、その分寄付のお願いがやたらと来る。先日地震で崩れた能登のお寺の復興では、15億円の寄付を集めるという。

そんなわけで1つのお寺で住職と副住職(多くの場合息子)が2人でやっていくのはかなり厳しい。1人いないと困るが、2人いてもまた困るというわけだ。そこで副住職は住職が元気なうちは一般職に就職していることが多い。私にはその経験がないが、なかなか難しい立場だと思う。

ほんとうは若い僧侶が活躍でき、かつ経済的にも安定できる立場がお寺の中にあればいいのだが。昔ならば訳経所、養護施設、保育園などがあったが、すでにお寺はそういう機能を担う力がない。檀家さんの将来を危ぶむ前に、将来を担う若い僧侶の志がきちんと育まれていくのかを考える必要がありそうだ。

法要先で腕時計盗んだ副住職を逮捕

お寺の若奥さん

  • author: hourei
  • 2008/03/09 08:57

昨日は近隣のお寺さんの結婚披露宴に招かれてきた。6年前の自分の結婚式をあれこれ思い出して懐かしくなる。

私の結婚式では、パンフレットにダンマパダの以下の言葉を印刷した。「家庭を築く」ということに自分の中でいくばくかの違和感があったからである。空々しかったというべきか。

piyehi appiyehi kudacanan maa samaaganchi piyaanam adassanam appiyaanam dassanam ca dukkham. tasmaa piyam na kayiraatha, hi piyaapaayo paapako yesam piyaappiyam natthi tesam ganthaa na vijjanti.(210-211)
(愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。)

しかしその後、もうひとつのダンマパダの言葉を知った。出家して独り歩むのがいいことは揺るがないが、パートナーをもつこともときに悪いことではないという。そして実際に私がいま感じていることでもある。妻に感謝。

nipakam saddhim caram saadhuvihaarim dhiiram sahaayam sace labhetha, sabbaani parissayaani abhidhuyya tena attamano satiimaa careyya.(328)
(もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。)

さて昨日の披露宴だが、式師さんの「愛妻、良妻、"共"妻(最初「悪妻」といい間違えそうになったが、それもまたよしではないか)」という話、新婦の恩師である商学部教授が「失敗をたくさんすること、自分のことをよく説明すること」という話、新婦の手紙の中の「お寺の若奥さんになる」という話が心に残った。

結婚が極めてプライベートな話になっている現代において、僧侶と結婚するというのは特別なことなんだなと実感。就職や入信も伴ってしまうのである。遠くに住んで仕事をもっている私の妻の場合はちょっと違うが、私が住職である以上彼女もお寺とは全く関係ありませんというわけにはいかない。

そんなことを考えると何だか気が重くなってしまったが、前途多難なほうが取り組み甲斐もあるというものだろう。短い人生のわずかなひと時を一緒に歩んでいく若き二人に幸多かれと応援していきたい。

千の風になって

  • author: hourei
  • 2008/01/25 12:39

来週の講習会で発声練習にしようかと思い、『千の風になって』の梅花譜を作成した。オリジナルの西洋譜はヤマハの「ぷりんと楽譜」から購入。105円でネットからダウンロードして印刷できるというのは便利だ。

「千の風になって 仏教」で検索すると面白い意見がたくさん読める。この歌詞は仏教に反するか反しないかで両論あるようだが、「私」はお墓にいないが、お参りをするのは無駄ではないというところだろう。

真っ先に連想するのは良寛和尚辞世の句である。

かたみとて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢば

それとご詠歌にもなっている道元禅師の和歌。

峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と

自分を取り巻く身近な自然の中に亡き人を追慕するという感覚は、往く者と遺される者が共有できるものだろう。

それではお墓参りは無駄なのか。『千の風になって』ではただ「泣かないで下さい」と言っているだけで、お墓参りを否定するわけではない。お墓にだって千の風は吹いているし、光は降り注ぎ雪は降り、鳥は鳴き星はきらめいているのだ。そしてお墓で亡き人に包まれ安心すれば、泣く必要はない。

問題はお墓の前かどうかではなく、亡き人に真心で向き合えるかということだろう。ただし多くの人はどこでも簡単にそんな気持ちになることはできない。そこで亡き人への思いを強めるために、お墓という「装置」が必要になる。「お墓参りなんかしなくていい」と思っている人の、いったいどれくらいが亡き人に真摯に向かい合う機会を持てているのか。

生きている人の救済が声高に叫ばれている現代仏教で、死者との対話なしに生きる指針が作れるのかという反省がなされつつある。墓前であれ日常であれ、亡き人たちのことをゆっくり思う機会をもちたい。

梅花譜:千の風になって(PDF)

分かりやすい葬儀

  • author: hourei
  • 2008/01/24 12:22

お葬式続きで山形滞在日数が増える。今月はこれまでお寺で2件、伴僧が3件。往復の交通費と体力を節約するため昨日から長女を連れて山形へ。来週火曜日まで。

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葬儀は儀式であるとしても、参加者に分かりやすくなければならないと思う。

この頃葬儀で案内や解説をする機会が増えた。近隣では一番若い人がすることになっているらしい。開式の10分前くらいから、葬儀の流れと参列者にお願いすることを説明する。

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はじめに授戒という儀式が行われます。戒名をお授けするものです。戒名とは仏弟子になった証でありまして、授かるにはいくつか守っていただかなくてはならないことがあります。

まず懺悔と申しまして、これまでの行いを振り返り、悪いところがあれば反省いたします。

これによって身も心も清らかになったところで16の戒めを授かります。お釈迦様、その教え、教えを守る我々に全てをお任せするという誓い、悪をなさず、善行を積み、人々を助けるという誓い、人を殺さない、盗まない、嘘をつかないなどの誓い(酒を飲みすぎないと浮気しないはこの際言わないでおく)があります。これらを胸に刻んでいただいた上で、はじめて戒名を頂戴するわけです。

授戒が終わりますと読経に移ります。これは仏教にゆかりのある全ての仏様・菩薩様・神様――お釈迦様、お文殊様、お普賢様、お地蔵様、観音様、弥勒様、お不動様――これらの方々をこの会場にお招きしてお導きを願うものです。

読経が終わりますと告別の儀式です。弔辞弔電を賜り、お導師様から引導が渡されます。「引いて導く」という言葉が示すとおり、仏の教えに引き入れて仏の世界(あの世のよいところ)にお導きします。

そして皆様からお別れのご焼香を賜り、閉式となります。全体で1時間ほどの式になりますが、故人のご冥福を祈りながらご会葬をお願いいたします。

法要の間、皆様にお願いすることが3つございます。1つは合掌です。両手と5つの指をぴったり合わせ、指先を鼻の高さまで上げ、姿勢を正して合掌下さい。

次に読経です。途中でご案内しますのでお渡ししておりますお経本の○ページから『修証義』の第一章をお読み下さい。

そして最後にご焼香です。曹洞宗では本来2回が正式ですが、本日はたくさんの会葬者がいらっしゃいますので、1回のみにてお願いいたします。焼香が済みましたら一旦隣にずれて、次の方に香炉をお空け下さってからゆっくり合掌でお参り下さい。

以上、合掌・読経・焼香の3つでもって皆様に御会葬いただきます。どうぞよろしくお願いいたします。それではまもなくお時間です。最後までどうぞ心静かに、清らかにお過ごしくださいますようお願いいたします。
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故人のことやご遺族のこと、仏教の教義などは後からお導師様がお話しするので重複しないように実践的なことだけを話している。だが書き出してみると結構多いものだ。

自分が導師の場合はさらに亡くなった人がどうなるかということについての仏教の伝説や供養の意味などにも言及する。

「法要は意味が分からないのがありがたい」という意見もある。密教がその最たるものであろう。禅宗にも密教の影響はあり、陀羅尼を唱えたり印を結んだりしている。また、何の解説もなしに始まる葬儀には言葉では表せないような荘厳さを感じるのも事実だ。

でもお釈迦様の教えがどんなに深遠で凡夫には計り知れないものであっても、それを理解しようとする努力、人に伝えようとする努力を惜しんではなるまい。道元禅師は「教外別伝」を否定し、仏教が伝わるには教えを語りつくし、書き残す努力が必要であるという(『正法眼蔵』仏教の巻)。

また、戦後生まれの世代は納得しなければ参加できないという面もある。未来に照準を合わせるならば、分かりやすい法要というのは必須だと思う。

そのうちテーラワーダに伝わる『慈経』でも檀家さんと読んでみようかな。
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

宮崎禅師の遺偈

  • author: hourei
  • 2008/01/14 21:55

慕古真心 不離叢林
末後端的 坐断而今

これは5日に106歳で遷化された曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師の遺偈である。遺偈とは僧侶の遺言のことで、毎年元日に書き改めることになっている。実際作っている人はあまりいないようだが、禅師様のこの遺偈は実際今年の元日、遷化されるわずか4日前に書かれたものだという。

「古の真心を慕い、叢林を離れず。末後の端的、而今を坐断す」と読むのであろうか。釈尊・達磨大師・道元禅師の仏道に倣って一生を修行道場で過ごしてこられた宮崎禅師のご生涯が滲み出ている。永平寺では「先人たちが歩んできた禅の道を、この永平寺にて歩んできたが、今まさに、その道が途切れようとしている」と解説しているが、後半は道が途切れるということではなく、この世に留まる最後の一瞬まで坐禅し続けるということだろう。まさに禅僧の鑑だ。

翻るに新しいものに追われ、修行から程遠い生活をして、静かに忍び寄る自分の死を怖くて見つめられない自分がいる。禅師様のご生涯を真似ることなど到底できないが、最後の教えを大事に頂いて胸に刻み付けたいと思った。

年末の法事

  • author: hourei
  • 2007/12/23 21:44

住職からのクリスマスプレゼントは塔婆。毎年この時期は、法事をしていなかった檀家さんに塔婆を配って歩く。

年末まで法事をしていない檀家さんには、これまでいろいろな対処をしてきた。はじめは突然お邪魔して押しかけ法事。家の人の慌てぶりを見てこんな罰ゲームみたいなのはやめようと思った。それから合同法事に切り替えたが本堂が寒すぎてこれまた罰ゲームみたい。そこで今年は予め本堂で独りでお経を読んで、塔婆を配るという方法にしてみている。

法事は、お寺や親戚から言われてするものではないと思う。先立った家族に感謝を捧げ、自分の生活を反省してこれからの誓いを立てる。これが法事の意味である以上、忘れていたとか、年忌を数え間違えていたというのならともかく、自発的にしないと意味がない。

そういうわけで11月くらいで法事を締め切ってしまうお寺もあるが、私は今年もぎりぎりまで檀家さんからの連絡を待った。しかしあまり年の暮れも迫っては気の毒ということで、今日明日の連休で全部を終えたわけである。残りはわずか4、5件だけであり、1日2日で回れる範囲内である。

回る先では「申し訳ありませんが勝手にこちらで供養させて頂きました」と「お具合はいかがですか」の2つを述べるように心がけ、押し付けがましくなく、相手に罪悪感を抱かせたりしないように気をつける。それでお布施を頂けるかどうかは別の話である。法事は、お布施をもらえるからやっているのではなくて、あくまで住職の修行なのだ。

玄侑宗久氏は「墓参や法事をしない檀家にはどう対応する?」という質問に、いろいろいていいんじゃないかと答え、「こんにちは」「お元気ですか」「いや、べつに用事じゃないんですけど、近くまで来たもので」というようにちょっと檀家さんに出かけることを勧める(『お坊さんだって悩んでる』)が同感。金の切れ目が縁の切れ目では檀家さんも浮かばれまい。

幸いにして行く先々では笑顔で迎えていただいた(内心は焦っているのかもしれないが)。信頼は日々の積み重ねから。先日の東京ボーズコレクションのワークショップで、末木先生が「葬式のときの説教ほど聞きたくないものはない。無理してしゃべらなくてもいい」と厳しい意見を述べていらしたが、お葬式のときだけ顔を合わせてしたり顔で説法されたって、聞く耳なんてもたないのである。

願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

現代インドの仏教徒

  • author: hourei
  • 2007/12/18 02:00

地元のご寺院さんの集まりで講演を依頼され、つくばから日帰りで行ってきた。与えられたテーマは「現代インドの仏教徒」。前回「般若心経の読解」というテーマで講演したとき、その中で「インドのお寺で般若心経を読んできた」という話をしたら興味を持ってくださったようでリクエストを受ける。

まずインド仏教衰亡の内的要因と社会背景を話す。檀家さんとお話ししていると、お釈迦様がインド人だということは知っていても、今のインドが仏教国ではない(国勢調査で仏教徒は全人口のたった0.8%)ということまで知らない人が多い。

それからチベット仏教、ヴィパッサナー瞑想法、新仏教徒の3つについて概要を説明。ダライラマ14世、ゴエンカ、アンベードカル、佐々井秀嶺の4氏についても触れた。一番興味を持ってもらったのが仏教徒=被差別カーストという話。インドに厳然として残るカースト制度の身分差別と、仏教の平等思想の相克は釈尊以来2500年も続いている問題だ。

その平等思想を背景として、再びインドの仏教徒が増えつつあるという話は元気がなくなってきている日本仏教にとっても勇気付けられる。

それから一昨日の東京ボーズコレクションでの話(直葬=葬儀に僧侶が必要とされなくなっている)と重ね合わせ、インド仏教衰亡の状況が現代日本仏教の置かれた状況に類似しており、日本仏教も滅びる懸念が強いこと、もう一度仏教の平等思想に立ち返り、現代社会で活かしていくことで衰亡を免れるかもしれないことを説いた。自分でも意図していなかったが、話しながらこういう風にまとまったのはあとから振り返っても感心する。

それから2時間ほどの懇親会。先週の役員会で今年の飲み納めにしようと思っていたが、結局やむを得ず飲んだ。終わって21時の新幹線でつくばへ。25時到着。明日は大学の最終講義である。

東京ボーズコレクション

  • author: hourei
  • 2007/12/15 21:34

今日は築地本願寺で開かれた東京ボーズコレクションに行ってきた。

11時に着いたが、本堂から穏やかならぬラップが流れてきたので避難。まず虹の子供広場「ノッポさん&キミちゃんとあそぼう!」を見る。結構子どもが来ていた。手話付き「大きなノッポの古時計」を一緒に歌う。

出店でうどんを食べてから、12時30分からの東京ボーズコレクション法要『世界の平和を願う』へ。お坊さんたちが列を組んで登場し、中央のタラップを行って帰ってきてから法要を始めるという、まさにコレクション。天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済&曹洞宗、日蓮宗、日蓮宗尼僧の順番で各自10分ほどのパフォーマンスを行った。

天台宗はおだやかな声明、真言宗はリズミカルな声明、浄土宗はヨーデルのような技巧的な声明、浄土真宗は西洋音楽的な歌、臨済&曹洞宗は質実剛健な読経、日蓮宗は気合がこもった木剣、尼僧はさわやかな声明とバラエティに富んでいた。身内びいきかもしれないが、曹洞宗のお坊さんの低頭が一番低かったのが嬉しい(ほかの宗派は30度くらいでピタリと止める)。

それからみんなが出てきてパイプオルガンと太鼓が盛り上がる中で散華。各自がそれぞれの散華文(らしきもの)を唱えていて、低声も響く。クライマックスは華が舞い散りそれはそれは見事なものだった。

すっかり心奪われて見とれていたが、次のお坊さん学習塾「10年後のお寺をデザインしよう。」がもう始まっている時間。急いでかけつけると末木先生が時間を大幅にオーバーして講演しているところだった。相変わらずだなぁ。

次に小谷みどりさんが急速に変わっている現代の死のあり方をお話。病院死が増えたため遺族は生前に「予期悲嘆」を済ませており、葬儀は親睦がメインになっていること、葬儀は「直葬(儀式をせずに病院から直接に火葬納骨してしまうこと)」は都内で急速に増えている(2〜3割とも5割とも)、これからの檀信徒は「住職のファンクラブ」でしか成り立たないことなどを述べインパクトがあった。

おふたりとも共通していたのは、葬式仏教を儀式だけでなく、臨終から遺族が立ち直るまでの長い期間に推し進めるべきだというものだった。特に末木先生が「社会活動に力を入れすぎて身近なところがおそろかになっている」という指摘が心に残った。

休憩後は各宗派の青年会などで活躍する若手僧侶のパネルディスカッション。10年後お寺が生き残るには、目的意識のないイベントをただやるのではなく成仏とは何かとか内省していかなければならないという天台宗・本間師の考えには大いに共感。このあたりが出家者でなくなった日本僧侶の切り札になりそうだ。

質疑応答では教団は次世代に対してどんな支援をしているのかを聞いたが、それは末木先生も感じていたようで「教団の中間部あたりからの支援が必要」というコメントを述べられた。個人のスタンドプレイではどうしても限界がある。教団が若手の創造的な活動を支援することによって点が線になっていくと思う。ちょうどこの「東京ボーズコレクション」のように。伝統教団はとかく保守的なものだが、こうしたイベントを支援する真宗はエライ。

年配の僧侶から見ればきっと眉をしかめるようなイベントだったかもしれない。しかし見に来ている若い人たちが、葬式で後姿を見る以外に僧侶を見ることがあるだろうか。今回のイベントは、多くの人にとって僧侶という存在を再発見するよい機会になったと思う。ぜひ来年も。そしてできたら曹洞宗でも(無理だろうな……)。

コラボレーション法要「散華」
ゲリラデモ中の「仏像ガール」

戒名に使えない字

  • author: hourei
  • 2007/12/06 12:36

今日はこれから葬儀。

戒名は戒名字典というものがあって、これをもとにして考える。以前「字典をパラパラめくって適当なところで指を入れて決めるのに、戒名料何十万とかいうのは馬鹿げている」というような批判を読んだが、戒名は故人の性別・年齢・配偶者の有無・信仰の厚薄・お寺への貢献度・社会的活動や地位・趣味・性格などを考慮して総合的に付けているし、戒名料やそれに類するものは一切頂いていない。

戒名で使わないほうがいい字を三除の法、二箇の大事という。三除の法とは、1.奇怪な難字、2.無詮の空字(乃・也・於・但など)、3.不穏の異字(争・恥・敵・悩など)を指し、二箇の大事とは1.歴代天皇の尊号と年号・祖師の法名を使わない、2.麟・龍・駿・鹿・亀・鳳・鶴などを除き動物を表す文字(いくらペット好きでも犬・猫はNG)は使わないというものである。子どもの名づけにも応用できそう。

ほかにも他宗を象徴するような文字(誉・釈・日)や読みから悪い連想をするもの、典拠のない熟語、同音の連続(清真晋心信士など)、入声の連続(妙覚吉楽信女など)も避ける。

ここまでは戒名字典に書かれていることだが、さらに私が気をつけたほうがいいと思っているのは遺族の名前の文字だ。故人の俗名をうまく盛り込むのは遺族が故人を思い出すよすがにできるのでよいが、そこに本人以外の人が混じるのは考えものだ。

その家で代々同じ文字を使っている場合は別として、遺族が故人の戒名を見たら自分の名前が使われていたというのは、あまりいい気持ちではないのではないか。人によっては「お前も早く死ねということか」と思われかねない。

戒名は聖俗を分かつものである以上、俗名を入れるべきではないという人もいる。そこまで極端な考えはもっていないが、遺族の心情に配慮して戒名も考える必要があるということだと思う。ときどき知らない遺族の名前を使ってしまうことはあるけれども、少なくとも喪主の名前は使わないようにしている。

僧侶と性欲(3)

  • author: hourei
  • 2007/09/11 11:39

裸写真ネット掲載された元交際女性、住職らを賠償提訴

世間の善悪と、出世間の善悪は必ずしも一致するわけではない。戦争において、世間は敵を殺すことを善とみなすが仏教はそれが必要なことであれ悪と言い続けなければならない(大半の僧侶はそれができなくて、今反省を迫られているわけだが)。

しかしこの場合、出世間の立場でも悪でしかない。まず不倫が不邪淫戒(浮気しない)に、ついで脅したことは不自讃毀他戒(人を謗る)に抵触する。さらにこの期に及んで「コメントできない」などとコメントするのは正語とも言えまい。

不邪淫戒の破戒は波羅夷(教団追放)というのが伝統であるが(もともとはセックスしただけで追放だが、日本仏教の僧侶形態では配偶者とのセックスだけは咎められない)、天台宗はどう対応するものだろうか。

もっとも、戒律は人を裁くためのものではなくて自分自身を律するためのものである。悪道に落ちて長時の苦を受けないように、性欲をコントロールしたい。

天国〜?

  • author: hourei
  • 2007/08/24 21:44

3児事故死、冥福祈る地蔵開眼

『渕英徳住職は「永遠の命となった3人が天国にいます。お地蔵さんになった3人に早く飲酒運転がなくなるように見守ってほしい」と話していた』とあるが……

仏教で天国(天上界)は幸せなところではない。確かにしばらくの間はいいところだが、天人の五衰といって頭の花がしぼみ、服が汚れ、脇から汗が出、目が潤み、住まいに飽きるという兆候が出ると終わりのしるし。仲間たちから無視されるようになり、地獄以上の苦しみを味わわなければならないとされる。

そこで仏教はそのさらに上にある極楽(解脱)を成仏といって勧めるわけだ。

お葬式の弔辞で「天国で〜」というくだりはよく聞くが、そんなところに目くじらを立てても仕方ないと聞き流している。しかし住職が自ら語るとは一体……。しかもこの名前、どこかで聞いたことがあると思ったら曹洞宗の宗務総長では?

1.そんなことは分かりきっているけれど、遺族の安心のために敢えてなじみやすい「天国」を使った。これは方便である。

2.宗門の教えでは解脱は現世の修行の中にこそあるのだから、天国と極楽の別とか、どうだっていい。亡くなった人のことより、今の自分を一瞬一瞬大事に生きよ。

3.天国なんて一言も言ってないんだけど、記者さんが脳内変換して書いちゃった。

4.そういうことは勉強したことがないので分からない。ダメなんですか?

お亡くなりになった子どもさんたちのご冥福をお祈りするとともに、ぜひ生まれ変わって、全うできなかった命を生きてほしいと思う。天国でなど、無為な時間をすごさないで。

寺子屋体験(当日)

  • author: hourei
  • 2007/08/04 08:40

昨日は早朝から寺子屋体験が行われた。地元の小学生約50名が参加。去年の評判がよかったせいかぐんと増えた。

朝7時からまず坐禅。3年生以上は15分してもらったけれど、落ち着きがあってよい。もっとも坐禅しているほうは、驚策をもった坊主が背後をうろうろしているんだから落ち着くどころではなかったようだ。

般若心経を読んで朝のお勤めをしてからお粥。頂く前にみんなで読む『五観の偈』は分かりやすいバージョンを採用した。

一、おいしさを つくってくれて ありがとう
ニ、ふり返ろう 私のおこない その心
三、言わない やめよう 好き嫌い
四、身をつくり 心をつくる よき薬
五、いただきます 今を大事に 生きるため

僧堂と同じく朝はお粥と漬物だけである。そのため予め自宅でカレーを食べてきたなんていう子どももいた。周到!

それから住職のお話を30分。終業式で校長先生が「ひとにめいわくをかけない」というのを第一に掲げていたのを聞いて、めいわくとはどういうことかを話す。

仏教の十重禁戒を順番に説明して言ったのだが、不邪淫戒と不酤酒戒は子どもに不要だったかもしれない。「うわきをしない」と書いて浮気とは何かを説明しなければならなかった。もっとも後ろで聞いていた大人にはこの2つがすごく受けていたようだ。

まとめは「めいわくを絶対かけないというのは無理だから、せめて人の迷惑をがまんできるようになろう」ということで。めいわくをかけない以上の善があることも教えたかったが時間不足。

終わって境内から竹を切って、流しそうめん用のお椀作り。そしてボードゲーム。ほんと盛りだくさんのメニューである。

ボードゲームは今回15タイトルを用意。高学年にはダイヤモンド、ブロックス、ハイパーロボット、低学年にはキャッチミー、ジェンガ、かえるの飛び込み大会あたりが好評だった。というわけで今回もボードゲームはしっかり2時間。

お昼は節を取った長い竹で流しそうめん。段差といい、流れ具合といい、役員の大工さんが見事な腕前を見せてくれた。猛暑の中のそうめんはうまい。

お掃除をして解散。夕方からは反省会があり、久しぶりにジョッキを4杯も空けてしまった。朝、子どもたちに「さけをのみすぎない」と教えたばかりなのに。

今の時代、お寺だけで何かしようとしても檀家さん・非檀家さんの別があってやりにくいし、子ども会も少子化でダイナミックな活動がしにくくなっている。地元という枠組みでさまざまな団体と協同していく試みは、お寺の生き残り戦略にとって重要だ。またお寺の外に出ていろいろな人と話をし、考え方を知ることも楽しい。坐禅とボードゲームというツールを活用しつつ、これからもこのような試みを模索していきたい。

流しそうめん

生まれる仏教大学、なくなる仏教大学

  • author: hourei
  • 2007/07/31 20:01

ナーランダー大学を世界遺産へ

かと思えば、

「仏教」の看板はずす大学相次ぐ 志願者減受けて

と仏教大学の浮き沈みが激しい。世界的に仏教学を含むインド学は斜陽で、ベルリン大学、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学で講座が閉鎖されそうになっている。

私が留学していたプネー大学も予算がいつも削られそうになっていて教授が嘆いていた。

記事の中に「葬式のイメージもあって抵抗感を持つ人もいる」という分析があるが、今の大学は日本に限らず「就職に重点を置いた課程」になっている。イメージ云々よりニーズ。そんなご時勢に仏教(というか人文学一般だが)を学ぶ意義が見えづらいのだろう。

でも、ナーランダ僧院跡のそばに大学ができたとして、ちょっと勉強できそうにないなぁ、暑くて。三蔵法師はほんと偉い。

寺子屋体験(準備)

  • author: hourei
  • 2007/07/30 12:46

今週の金曜日(8/3)に、地域の子ども育成会で坐禅会が開かれる。昨年に引き続き2回目。

朝7時集合。坐禅、朝課、粥、講義と僧堂と同じ生活をして、その後ボードゲーム(やっぱり)。ということで育成会の役員さんたちと前もってルール勉強会を行った。

時間はどれくらいかかります?と訊かれて1時間半くらいと答えていたけれども、ついつい熱中してしまって終わったのは3時間後(笑)。

昨年はほとんど子どもゲームばかりだったが、小学生も中学年以上になると物足りない様子。そこで今回は『ブロックス』、『パウワウ』、『ダイヤモンド』、『ハイパーロボット』など対象年令が高いものを準備。

私よりも一回り年上の役員さんたちだったが、反応は上々。普段は全くゲームをしない人たちでもゲーム勘はあり、面白さも分かってもらえる。子どもたちよりも大人が熱中しそうな勢いだ。

終わってから、今回に限らず、子どもが集まるときに呼んでいただければゲームをもって参上しますとさりげなく宣伝もしておいた。

当日、ボードゲームの後は流しそうめんをして解散ということになっている。さて、今年は何人集まるか。

地獄

  • author: hourei
  • 2007/07/19 17:26

火曜日に期末試験が終わってから山形に向かい枕経。風邪が治らないので医者にかかったら体質改善のための「柴胡清肝湯」という漢方薬を処方してもらった。扁桃腺炎になりにくいようにするものだが、カンの強い子どもに飲ませる薬でもあるとか。

さて、山形でもお盆まで1ヶ月をきった。暑い中のお経読みは苦行そのもので、今から思いやられるほどだ。

お盆になると「地獄の釜の蓋が開く」という。もとは単にこの世とあの世に通路ができて、亡くなった人が帰ってくるという意味だが、逆に生きている人が死にやすい(亡者大募集中!)という意味もあるのだろうか。うちの祖母は、お盆に交通事故で死者が出たりすると「地獄の釜の蓋が開くっていうからなぁ」などとコメントする。

それにしてもあの世も極楽から帰ってくるのではなくて地獄から。『仏説盂蘭盆経』では、目連の母が餓鬼界にいるところから話が始まる。なぜ餓鬼界に落ちたのかと言うと、どうも自分の子どもを愛するあまり、他所の子どもに食べ物を分けてあげなかったのが理由らしい。

そんなんで何万劫と、飢えの苦しみを味わい続けなければならないの〜?

罪と罰のバランスが取れていないなぁと言えば地蔵和讃。親より先に死んだ子どもの罪をあげつらう。まず死ぬことで父母を悲しませたこと、赤ちゃんのとき母親のおっぱいが出ないからといって叩いたこと(「胸を叩くその音は奈落の底に鳴り響く」)、父親がだっこしようとしたときに、お母さんがいいと言って泣いたこと(「母を離れず泣く声は八万地獄に響くなり」)。

……どれも親としては子どもの罪とは思えないんですけど。こんなので餓鬼界や賽の河原にいくものかと。

しかし道元禅師はこう書いている。

悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。(『正法眼蔵』三時業)

こんなんで悪い報いはないだろうと思うこと自体が、悪い報いを受けるもとになるという。反省反省。でも地獄を盾に取って恫喝的な説教をするのは絶対してはいけない。死ねば皆が仏様、これぞ日本仏教の境涯なり。

法話に泣く

  • author: hourei
  • 2007/06/23 17:12

今日は朝から近くのお寺さんで新潟からいらした布教師の法話を聞く。般若心経を読み、坐禅をしてから90分の法話。

話題は仏壇のお参りの仕方、徳を積むこと、無常に生きる我々、感謝など。説教臭くなく、たとえ話や実例を交えての分かりやすい法話だった。話し方も「えー」や「あー」などがほとんど入らず、さすがプロ。

岩手であったというお話を聴く。

母子家庭の母親が、小学生の娘を残して交通事故で亡くなった。身寄りはほかになく、福祉施設もいっぱいだったため、母親のお葬式で導師をした住職さんがしばらく預かることに。いっこうに心を開かないその子、口を開けば「お母さんは今どこにいるの?」と訊くばかり。
そんなある日、法事で「亡くなった方は、仏壇の中で安らいでおりますよ」という法話をしたところ、その子が陰で聞いていたらしい。お菓子が皿ごとなくなっていたので、おばあさんがその子の部屋に見に行ってびっくり。すぐに呼ばれた住職さんも部屋に入ってびっくり。
部屋の奥にお皿のお菓子。その奥にはダンボール箱が縦に置いてあり、蓋を広げて仏壇のようになっていた。箱の中にはたどたどしい字で「おかあさん」と書かれた紙が貼ってあった……。

ちょっと前、朝日新聞に載っていた母を亡くした子どもを育てる父親の話でもそうだったが、こういう話はもうダメ。途中からうつむいて我慢していたが、とうとう涙が溢れ出してしまった。涙を流したのは何年ぶりだろう。

釈尊は「愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。」と仰った(『法句経』)。しかしたとえ煩悩だとは分かっていても、私は当分の間、愛情というものを捨て去ることはできなさそうだ。

終わってからは気を取り直して美味しい蕎麦とわらび汁を頂く。心身ともにリフレッシュする半日だった。

写真はパソコンを移動した小屋の2階からの眺め。風もよく通り、見晴らしがよくて気持ちいい。
外の眺め

般若心経の読解

  • author: hourei
  • 2007/06/08 20:34

昨日はつくばから長女を連れて山形へ。夕方からはご寺院さんの集まりで講演。「般若心経の読解」ということでお話をさせて頂いた。

最近は鉛筆で書くシリーズとかニンテンドーDSとかで般若心経がちょっとしたブームになっているようだ。たくさんの解説本が出版され、仏教の多くの宗派で日常的に読まれている般若心経。でもその意味はあまり考えられていないように感じる。

そもそも題名の「般若波羅蜜」も、最後の真言「ギャーテーギャーテー〜」も敢えて訳さず音写しただけだし、解説本には「意味など考えず読むのがよい」というのもある。頭を空っぽにして読めば、お経を体現したことになるんだとか。

でもそれが原作者のインド人の意図だったのか? また意味もないものをどうして三蔵法師が中国に持ち帰ったりするだろうか? お経である以上、そこには何らかのメッセージが込められているのであり、メッセージを読み取る努力を放棄するのは怠慢だろう。

トピックはおおむね以下の通り。
・お題が後に来るインドの書き方
・なぜ釈尊ではなく観自在菩薩が説くのか
・インドのお寺で般若心経を読んだ後、信者から「サードゥ、サードゥ」と言われた話
・なぜやたら舎利子を呼びかけるのか
・原文にない「度一切苦厄」を挿入し、原文にある「無明知、無明知尽」を削除した玄奘
・「不増不減」は「不減不増」がもとの語順
・「色即是空」はいいが「空即是色」は論理的におかしいのではないか(逆は真ならず)
・「真実不虚故」を「真実である。間違いがないから」と訳す理由(多くの解説書は「真実であり、間違いがない。ゆえに」と誤訳している)

一番の問題である空とは何か、般若波羅蜜とは何かは時間の都合で省略(実際、私の手に負えない)。

はじめにサンスクリット語の原典を音読。後日録音したので興味のある方はどうぞ。
サンスクリット原典 般若心経

時間も短いし楽勝かと思っていたが、聴衆はいつも私が指導いただいている先輩・大先輩の御住職さまたちでかなり緊張した。しかも終わってからの懇親会はいきなりカミ座に座らされ、皆がウーロン茶を注ぎにやっていらっしゃる。食事がほとんど喉を通らなかったのは言うまでもない。

幸いだったのは「楽しかった」という御講評を頂戴したこと。般若心経はここがおかしいとか、お釈迦様がこんな大事なときになんで瞑想しているのとか、ぶっちゃけすぎて法話としては失格だったのが新鮮だったのだろうか?

こんな不勉強の私に貴重な機会を与えてくださった諸先輩方に感謝。

この間、長女は母と寺族会に出席していた。幸いずっと本を読んだりお絵かきしたりして大人しかったので、皆にほめられたという。よかったよかった。

懇親会が終わって帰宅。長女とお風呂に入って疲れを癒し、山形にしては早い時間に就寝した。

唱衣念誦

  • author: hourei
  • 2007/05/29 22:38

米沢であった研修会から気力で帰ってきた翌日はお医者さんへ。喉の痛みと咳痰で風邪ということだった。病弱だなぁ。

今流行っているはしかだが、私が罹ったことがあるか定かでないのでついでに検査してもらったらと母。お医者さんに申し出ると、検査キットもワクチンも全国的に売り切れており、秋まで品薄が続くという。「はしかは、すれ違っただけでもうつります。人の集まる場所、大学とか、駅とか、新幹線なんかが危ないです」……って全部行ってるところばかり!

夜は寺院会。声が出ないので隅のほうでウーロン茶を飲んで大人しくしていた。

水曜の住職研修会で面白いトピックを見つけた。その名も「唱衣念誦(しょうえねんじゅ)」。古い清規(禅宗のマニュアル)に出てくるもので、葬儀の最後に位置する法要だ。剃髪、授戒、入棺、挙棺、引導、荼毘と来て最後に行うものは、遺品の競り。これで葬式代を出すのだという。念誦なので十仏名を唱えるはずだから、こんな感じか?

さあさ取り出したるは、正絹の衣だよー!(清浄法身毘盧遮那仏、カーン)
肌ざわり抜群、新品同様!(円満報身盧遮那仏、カーン)
さあ買った買った、1銭からだぁ!(千百億化身釈迦牟尼仏、カーン)
2銭いないか2銭、おっと5銭出たよー!(当来下生弥勒尊仏、カーン)
……なんてことをするんだろうか(想像)。

もちろん今はやってない。念誦でどんなことを唱えていたのか、ちょっと調べてみたい。

僧侶の酒とセックス

  • author: hourei
  • 2007/05/26 23:12

水曜日から山形に来ているがまた風邪を引いてしまってバテていた。今日くらいからやっと調子を取り戻す。

水曜日の夜は住職の研修会「回向文の歴史と解釈」。絶不調の中、気力で米沢まで車を運転して参加してきた。休憩中のたばこの煙にはウンザリしたが、そこまでして行く価値のある講義だったと思う。

授戒作法のメインである十重禁戒の時代的変遷が面白い。十重禁戒とは仏弟子になるにあたってやってはいけないことを10にまとめたもので、中国で成立したとされる。中国の清規(マニュアル本)では、以下のように記述されていた(出家の場合)。

(1)不殺生(殺さない)
(2)不偸盗(盗まない)
(3)不淫欲(セックスしない)
(4)不妄語(嘘をつかない)
(5)不飲酒(酒を飲まない)
(6)不説四衆過罪(人を責めない)
(7)不自讃毀他(自慢しない)
(8)不慳貪(ものを惜しまない)
(9)不瞋恚(怒らない)
(10)不謗三宝(仏様に不敬の念を起こさない)

これが日本に入り、道元の『正法眼蔵』では以下の3つが変わる。

(5)不飲酒→不酉古酒
(6)不説四衆過罪→不説在家出家菩薩罪過
(8)不慳貪→不慳法財

このうち(6)と(8)は同義語による言い換えだが、(5)が大きく違う。「酒を飲まない」から「買ってまで酒を飲まない」へ。つまり信者さんがご馳走してくれたお酒を頂いても戒律違反にならないのである。ゆる!

さらに現在、得度(僧侶になる儀式)や葬儀で唱えるものは道元のものから2つが変わっている。

(3)不淫欲→不貪淫
(6)不説在家出家菩薩罪過→不説過戒

(6)は単なる省略なので意味は同じ。問題は(3)である。「セックスしない」から「性欲におぼれない」へ。つまり、配偶者との間で子どもを作るためのセックスが戒律違反でなくなった。

道元の時代はもちろんお坊さんは結婚できないから、酒は飲めてもセックスはタブー。これが明治時代に入って「肉食妻帯蓄髪の勝手たるべきこと」の勅令が出されて以来、解禁されることになる。さらに現代では実子が後を継がなければそのまま空き寺になってしまうところが多いから、解禁というよりも奨励とさえ言えるだろう。

ほかにも不殺生は狩猟やと殺を生業にしている人に配慮して「命を大切にする」と解釈されるようにもなっている。「動植物はともかく人は自分も含めて絶対殺さない」と解釈すればいいんじゃ?

酒とセックスで解釈がぶれるのは、ほかの戒律が教団の維持に必要な道徳であるのに対し、この2つはインド独自の文脈を抱えているからであろう。酒はインドの全宗教でタブーだし(精神がねじまがるとか)、セックスをしないことは行者がタパスという力を蓄える前提条件である。

一方中国や日本の儒教文化圏では、酒はそれほどタブー視されていないし、子孫繁栄が最重要課題だったからセックスは必要であった。その圧力に負けて戒律は徐々に俗化していったのではないか。

十重禁戒の変遷を見るといろんな歴史が垣間見える。それは、他者救済を目指した大乗仏教によって推進された僧侶の俗化と、儒教などの土着文化が共同でもたらした歴史なのである。

ちなみにモーゼの十戒の中では、殺人、姦淫、盗み、偽証、財産をせびることの5つが禁止事項。こっちのほうがずっと守りやすいし解釈がブレにくいな。

結論:お坊さんは、法事で酒が出たら飲んでもかまいません。不倫はいけませんが、子だくさんな家庭を築くのはOKです。

ベロ屋/口坐禅

  • author: hourei
  • 2007/05/14 11:43

先日、先輩の和尚さんから面白いジョークを聞いた。

極楽にいるお釈迦様、竿にたくさんの舌を吊り下げて干しているという。この舌は何かといえば、亡くなったお坊さんたちのもの。生前、ありがた〜い話ばかりしていたので、舌は極楽に行くことができたが、それ以外の部分は……

こういう寒い話が好き。いったい出典はどこなんだろうか?

お坊さんの間でも、布教師を「ベロ屋」(舌で稼ぐ商売)と揶揄してみたり、立派な話をした後に「私なんて口坐禅(口だけで坐禅をしている)ですが」などと卑下したりするのを聞く。要するに雄言不実行ということだろう。

しかし、論理的には言っている内容と、それを言った人の行動は関係ない。タバコを吸っている人がタバコの害を説いたって全く構わないのである。それを「そう言うあんたがタバコを吸ってるじゃないか」と責めるのは、的外れな人格攻撃に過ぎない。反対したいなら、タバコに害がないことを主張するのが筋だ。

ただし、修辞学的には人格攻撃は十分ありえる。アリストテレスは『弁論術』でエートス(信頼に足る性格)、パトス(感情の喚起)、ロゴス(証明)という3つの説得手段を立てる。このうちエートスが傷つけられると、ほかの2つを満たしていても説得力を失うことは実際とても多い。

「先祖や親に感謝しましょう」と言いながら自分の親にはつらく当たったり、「お金に執着してはいけません」と言いつつお布施の額をがっちり言い渡したりするのでは、たとえ論理的には別問題だとしても、まともに聞いてくれる人もいるまい。

お葬式のときに亡くなった人に言い渡す十重禁戒(殺さない、盗まない、セックスしない、嘘をつかない、酒を飲まない、人を責めない、自慢しない、ものを惜しまない、怒らない、仏様に不敬の念を起こさない)。このうちいったいいくつ守れているんだろうかと、お葬式のたびに自分にも問いかけている。

住職の葬儀

  • author: hourei
  • 2007/05/10 23:24

今日は隣町のお寺で昨年お亡くなりになった住職の本葬に詠讃師として参列。

詠讃師は3名で、『無常御和讃』、『追弔御和讃』、『聖号』を奉詠。あとそれぞれ1曲ずつ独詠があった。私は1番バッターで『妙鐘』。この曲は感情が高ぶりやすいので、いかに感情を抑えつつ奥ゆかしくお唱えできるかが難しい。やはり今日も抑えられず。

住職の葬儀は準備に時間がかかるため、いったん密葬と火葬をしておいて数ヵ月後に本葬を営むことが多いが、今回はさらに年をまたいで9ヵ月後の本葬となったため、一周忌と併修するに至った。全部の法要が終わるまで3時間。一般会葬者はもちろん、いつも座りなれているご寺院様方も途中で足を崩さなければならないほどである。

とはいえ、葬儀の構成は一般の葬儀とあまり変わらない。そもそも一般の葬儀自体が亡僧の葬儀法のコピーなのである。授戒はないが、棺の釘打ち、棺の持ち上げ、葬列の行進、蜜湯のお供え、お茶のお供え、松明による点火と全て省略せずに行うので時間がかかるだけだ。

もっとも大きな違いは、引導の有無である。僧侶は生前に成仏しているとみなすので引導は渡さない。注意深く聞いていたら、松明の儀式で導師が引導の目印である一字関(「喝!」とか)を言っていなかった。

僧侶が亡くなることを「遷化(せんげ)」と言い、来世でも僧侶として生まれ変わり、衆生と苦しみ悲しみを分かち合いながら悟りの世界へ導くとされる。成仏した以上は生死の別を離れているから「死んだ」とは言わない。その命はもはや永遠なのである(というと、ミイラになってるのにまだ死んでないとか言ってた新興宗教を思い出すのだが)。

引導を渡して成仏させる必要がないのに、どうして葬儀を行うのかといえば、「遺された人たちがそうしないと気がすまないから」なのだと思う。遷化された住職への感謝を、最大限の礼節を尽くして表す。そして現世での別れを胸に刻んで、新しい人生を歩んでいく。今日は、3時間にわたる法要が終わると、達成感とともに次への気力が湧いてくるような気がした。

しかし私なんかも「遷化」できるのだろうか? 現世でろくに衆生を導かず、欲のままに精進もせず生きている私がもう成仏しているって……?

本日の遺偈
迂拙一期 八十二年
無得無失 大道現前

私も遷化された和尚様に少しでも近づけるよう精進したい。

法事Q&A

  • author: hourei
  • 2007/05/07 12:00

連休中の法事の後にお話ししたことなど。

法事の時期に関して

Q:法事は命日より前にするべきだと言いますが、できない事情があるときはどうしたらよいでしょうか?
A:命日に予め家族でお参りしておけば後になってもよいでしょう。命日は故人の仏としての誕生日で、法事はその誕生祝ですから、命日近くに行うのが理想ですが、供養する人あっての法事なので、気持ちよくお参りしていただくためにも季節のよい時期を選ぶのはよいことです。

Q:祝事より先に仏事を済ませるべきだと言いますが、急に結婚が決まったときなどはどうすればよいでしょうか?
A:慌てていい加減に済ませるよりも、結婚の後で、お嫁さんや新しい親族と共に供養して頂く方がずっとよいことです。これがうちの先祖ですよと、紹介してあげましょう。

Q:法事が毎年のように続くので、次の年の法事を1年繰り上げて行うことはできますか?
A:2年連続でたくさんのお客様を呼ぶのが難しい場合など、「予修供養」を行うことはできます。ただしその場合は、次の年に家族だけででも供養をして下さい。その先祖にとっては、あくまで当該の年が本当の法事の年です。

Q:悪いことが続いて先祖の祟りだと言われたので、法事の年でないのですが先祖供養をしてもよいでしょうか?
A:法事の年でなくても供養したいときになさって下さい。ただし先祖が祟るというのは、少なくとも仏教の考え方ではありません。お亡くなりになった先祖は全て成仏していると考えます。供養は常に感謝の気持ちをもって行うべきで、悪いことが続いたからといって先祖のせいにしてはいけません。どんなに苦しいときも悲しいときも、ひっそりと守っていてくださるのが御先祖様です。そのようなことを言ってくる人は相手にしないのがよいでしょう。

法事の場所に関して

Q:お寺で法要をするのと、自宅で法要をするのとではどちらが望ましいでしょうか?
A:自宅が遠隔地にある場合はお寺でもかまいませんが、特別の事情がない限り、できるだけ自宅で行うのが望ましいです。故人の思い出が残る自宅で、いつも手を合わせているご本尊様の前で行うことが意義深いでしょう。

法事のメンバーに関して

Q:家族だけで行いたいのですが、親戚や縁者も呼ばなければいけないでしょうか。
A:故人にゆかりのある方ならば、できるだけ多くの方に供養していただいたほうが功徳がありますが、どこまでお招きするかは普段のつきあいにもよるでしょう。家族水入らずで供養するのもひとつの考え方ですが、その場合でも、家族全員が揃ってできるようにして下さい。

その他

Q:法事のお布施はいくらぐらいお包みすればよいでしょう?
A:お布施は料金ではありませんから決まりはありませんし、お寺から申し上げることではありません。自分で納得できる額を決めるべきですが、心もとなければ親戚や近所の方などから聞いて参考になさるのもひとつの手です。なおお寺ではお布施の金額は一切公表しませんし、後から少ないとか多いとか申し上げることもありません。

Q:法事は何回忌まで行うのでしょうか?
A:修行し続けることが悟りだというのが曹洞宗の教えですから、供養する人がいる限り、何回忌まででも行います。例えば道元禅師は750回忌が先年行われました。ただし、33回忌を過ぎれば以降は50回忌、100回忌と間は広がっていきます。たまたま50年に1度、100年に1度そのご先祖様にめぐり合えたという喜びの気持ちで勤めるようにしましょう。

……こんな話をしながら、つくづく日本仏教は先祖教だと思う。御先祖様を敬い、その加護を願いつつ、家族の絆を深め合うという信仰は、「愛する人も憎む人々もいない人々には、わずらいの絆が存在しない(ダンマパダ)」と仰ったお釈迦様の出家主義と相容れないところがある。血は水よりも濃いってことか。

故人を送る

  • author: hourei
  • 2007/04/16 12:03

「思い残すことはない」という言葉がありますが、実際この世を去るにあたって全く思い残すことがないというのはほとんどないでしょう。仕事に、趣味に、家族に、社会に、自分がやり残したと思うことはきりがないものです。

故人を送り出すにあたって、僧侶が葬儀で行うことはそういう「思い残し」を消し去ることでもなく、また力でねじ伏せることでもありません。むしろその思いをそっくりそのままあの世にもっていって頂いて、その思いの力で成仏できるようにするのです。

遺族にも故人に対する思いはさまざまあるだろうと思います。それは感謝や敬意の念だけではなく、もしかしたら憎しみや恨みだってあるかもしれません。ですがこの思いをどうか、故人の冥福を祈る気持ちに変えて一心に祈って頂きたいと思います。

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これは昨日のお葬式での法話。

住職になって10年、これまで100人以上の方を送り出してきたが、最初の頃は気力をふりしぼって、力ずくであの世に追い出すような気持ちで葬儀に臨んでいたような気がする。

やがて御詠歌を習うようになり、追弔御和讃や無常御和讃を枕経や火葬でお唱えするようになると、遺族の感情に寄り添うという気持ちが生まれてきた。同情ではなくて、遺族の一人になったつもりで一緒に悲しむこと。

遺族の感情に寄り添うことは大乗仏教の流れにある日本の僧侶にとって非常に大切なことだと思うが、それだけでは単なる癒し系であって、宗教とはちょっと違う。昨年の研修会で葬儀の細かい作法をおさらいしてからは、故人をあの世に送り出すという意識を再び強く持つようになった。

しかしはじめたての頃のような力づくではなく、一挙手一投足に神経を集中するかたち。

葬儀前には「ただ我が身をも心もを、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、 仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、 こころをもつひやさずして生死をはなれ仏となる」という道元禅師の言葉をよく反芻している。

私には霊能力なんてこれっぽっちもないので、送り出した100人以上の仏弟子さんたちが今どうしているかは全く知る由がないが、方針がコロコロ変わって(やっていることは同じだが)どうなんだろうかと、ふと気になった。安心を得ていることを信じたい。

生きているという価値

  • author: hourei
  • 2007/03/29 00:24

今日の夜に予定されていた御詠歌の練習会は、参加者4人という寂しい状況だったが難曲の『歓喜』を心ゆくまで練習できて満足。

今年、師範養成所を卒業したばかりの新人さんが現れて嬉しかった。師範養成所とは、全国の若き僧侶が2年、計30日間にわたって研修する梅花流の虎の穴。私も数年前にお世話になった。寝食を共にしてひたすら御詠歌に取り組むうちに、強い絆が生まれる。

休憩中に聞いた話だが、今期の師範養成所は、期間中(研修中ではないが)に1人お亡くなりになったのだという。私と同じくらいの年令で急逝。

そこで研修中に仲間は遺影を飾り、毎朝供養のお経を皆であげて、食事も毎食お供えし、遺影の前に法具を開いて研修する。最後の祝賀会は遺影の前に酒を継ぎに行く人が絶えなかったそうだ。

実に切ない話であるが、ここまで宗教団体らしい行動は、集団になって感情が増幅したのかもしれない。でもこんな危なっかしいとさえ思えるぐらいの情の熱さが、僧侶として大事な資質なのだろうと思った。

振り返るに最近の私は、僧侶の世間への説明責任ということに意識が偏りすぎて、感情の共有とか吐露といったものに重きを置いてこなかった気がする。

涼しい顔をして他人事みたいに説法しても、ついてくる人は少ないのだ。法話ひとつとっても、絶えず自分の問題として問い続け、もっと皆と一緒に泣き笑いしなければと思った。反省。

それにしてもそんな年で世を去らなければならない人がいる一方で、同じくらいの年令の私がのほほんと御詠歌を続けられているのも何かの巡りあわせなのだろう。生きているという、ただそれだけで価値があることをもう一度かみしめなければなるまい。

名も知らぬその若き同志に合掌。

僧侶と性欲(2)

  • author: hourei
  • 2007/03/27 11:34

欲望に負けた!25歳修行僧が女子高生買春(スポーツ報知)
うぶな子が…」僧侶が15歳女子高生買春(日本テレビ)

出家者のセックスそのものを禁じた原始仏教とは異なり、世間の中にどんどん入りこんでいかなければいけない大乗仏教においては、まず世間法に順ずることが大事になる。一僧侶である前に、一市民であれというわけだ(小市民であってはいけないと思うが)。

一休さんも、遊郭に出入りしたり庵に女を囲ったりしていて、僧侶からはずいぶん冷たい目で見られていたというが、庶民には親しまれていたのだから人柄の魅力のほうが大事なんだろう。

今の僧侶は、お坊さん仲間から尊敬されているのに、世間からは冷たい目で見られている方が多いような気がする。

私の見聞する範囲でも、新宿で覚せい剤を買ったとか、下着泥棒をしたとか、少女にわいせつ行為をしたとか、そんな僧侶がいるそうだが犯罪行為は誰でもアウトだ。

一方で、研修中に毎晩風俗に通っていたとか、二号さんがいるとか、修行中に同性愛関係になったとかいうのは、倫理的には僧侶としてどうかと思うが、犯罪ではないので少なくとも表沙汰にはならない。

今回の事件は、未成年に買春という犯罪行為が問題になるのであって、欲望が抑えきれないのなら、夜にこっそり風俗店にでも行けばよかったのだろうと思う。煩悩はえてして、僧侶として目覚める大きなきっかけになるものだ(真言立川流ではないが)。

このお坊さんはまだこれから何十年も生きられるのだから、罪を償い、世間から慕われるような立派なお坊さんになってほしい。

ついでに。

寺の本堂倒壊、7人危機一髪で脱出

朝日新聞の一面に丸つぶれの本堂の写真が出ていたが、死者が1人も出なかったのはすごいことである。神仏の御加護か。
でも、それは結果論であって、お寺や神社は地震で倒壊しても決して死者が出ないということではない。この頃、本堂の耐震補強工事をしているお寺が多いが、うちもしたほうがよいのかなと思った。

お寺の詭弁

  • author: hourei
  • 2007/03/22 16:22

「お寺の常識、世間の非常識」ということは多々あるが、お寺はお寺の論理を説明するのに、詭弁を弄することがある。

「学校を出たばかりの若い者に百万、二百万の車を買ってやるクセに、末代まで残る戒名になんでゼニ金を惜しむんだ」(村井幸三『お坊さんが困る仏教の話』)

これと似たようなパターンで、「この世に生まれるときには何十万と出すんだから、この世を去るときにもせめてそれくらい出しなさい」というのも聞いたことがある。家族である以上、生きていても死んでいても平等に扱えという論法である。

これを修辞学では「類似からの議論」といい、すでにアリストテレスも触れているほど昔からある(『弁論術』第2巻23章)。前者はさらに、若者より年長者が丁重に扱われるべきであるという論拠(「なおさら」論)も加えて論法を強化している。

しかし、どこまでを類似と認めるかによって、この論法は説得力をもたなかったり、逆に反論の余地もある。

「車代(出産費用)とお布施はその目的も性質も全く違う。そういったものは関係ないので比較にならない。」
「もし同じにしろというなら、子どもや孫のことでお寺にお布施をしているわけではないのだから、亡くなった人のことでお布施をしなくてもよいことになってしまう。」

さてこの判定だが、宗教的な行為であるお布施が三輪清浄(お布施、お布施を出す人、受ける人に私利私欲があってはならないという教え)を謳う以上、一般的なお金の使い方とは一線を画すわけだから、安易に同列に並べるお寺のほうが負けだと思う。仏教でお布施は清らかなものだとされているのに、お寺のサービスを半ば強制的に買わせるのでは清らかになるはずがない(インド論証術でいう定説逸脱-apasiddhAntaという敗北の場合)。

実際はお寺のほうが立場が強いことがほとんどだろうから、まともに反論することはまずできないだろう。「もし出さなかったら、どうなっても知りませんよ……」などと明言しているわけではないが、これは「威力に訴える論証(appeal to force)」または「恐怖に訴える論証(appeal to fear)」という詭弁にあたる。お寺がこんなことを言えば二重に詭弁を犯していることになるのだ。

論理的に矛盾していても力で勝ってしまうお寺だが、檀信徒の信仰をなくすという点では負けているともいえる。さらに言えば、お寺がお布施の金額に口出しするのは、利益誘導と捉えられても仕方ない。

寺院を維持していくのにそれなりのお金が必要なのは間違いないが、その前に十分な信仰と信頼が大前提になっているということを肝に銘じて、日々の教化にいそしみたい。

僧侶と性欲

  • author: hourei
  • 2007/03/13 17:03

住職ざん殺で少年を逮捕、買春めぐるトラブルか
http://www.newsclip.be/news/2007301_009960.html

日本でもつい先日、除霊と称して少女に性的暴行を加えた北海道八雲町の住職が逮捕されたが、一部の心ない僧侶に仏教が貶められるのはつらい。

しかし同じ仏弟子として知らないふりもしているわけにもいかない。せめて他山の石に。あまり抑圧しすぎないことが大切なのかもしれない。いまどきの不邪淫戒は「異性に近づかない・セックスしない」という宗教的な誓願ではなく、「不倫しない」という倫理的なものにすり変わっている。

一昨日訪問した松戸のお寺さんのエッセイを思い出した。日本の僧侶が結婚していることに疑問を抱いたフランス人の青年に真摯に答えて、異性との接触が禁止されているのではなく、「むさぼること」が禁止されているのだと答える。 それをよく守った上で、尊敬と信頼のある伴侶と協力して、修行を完成させたいと。

なるほど、こうして考えれば、不邪淫戒もまた宗教的(しかも大乗仏教的な)な誓願に戻せるのかもしれないと思った。それにしても中道の難しさよ。

私? 日本にドイツの下ネタゲーム『おっぱい神経衰弱』と『ポルノスター・プロジェクト』を紹介したのは何を隠そう、私であります。中道には、当たらずとも遠からずといったところかな(ホントかよ!)。

任に当たって他に譲りがたし

  • author: hourei
  • 2007/02/16 20:45

長女を連れて10日ぶりにつくばに帰ってくると、訃報が入っていたので翌朝また山形へ。つくばの滞在時間はたったの8時間ほどだった。

睡眠不足もあって朝からだるい。大宮行きのバスも山形新幹線もずっと眠っていたが、お寺に着いて枕経が終わると体温が37度、通夜が終わると39度にまで上がっている。体中に寒気が走り、一瞬たりとも気を抜けないような状態。喘息もひどくなった。

早めに寝たのだが、朝起きると熱はまだ39度ある。しかしお葬式を延期してもらうわけにも行かないし、代役も立てられないので、ガクガク震えながら洗面所で剃髪。朝食を少しだけ食べて出棺のお経を読みに行く。一旦お寺に戻り、火葬場まで母に送ってもらった。お経を読むとき以外は、魂の抜け殻のような状態である。火葬場の寒さも身にしみる……

午後の葬儀まで時間があったので、火葬場からお医者さんに直行。衣を着たままの聴診器はたいへんだった。新幹線の中でインフルエンザに罹ったのではと検査もしたが、幸いにして陰性。もし陽性だったら、喪家に大量の罹患者を生み出していたことだろう。ゲホゲホ咳き込みながらお経を読んでいたからなぁ。

「安静にしていてください。」
「でも午後からお葬式なんです。代役を立てられなくて」
「お葬式? それじゃしょうがないなぁ(苦笑)」
「終わってから安静にします(笑)」

処方された風邪薬を飲んで、1時間ほど眠ってから午後の葬儀へ。症状はだいぶ緩和されていたものの、肉体的・精神的に全くの余裕のない葬儀だった。途中でぶっ倒れるんではないかと思ったが、何とか最後まで務めを果たし、フラフラになって帰りバタンキュー。予定ではこの日のうちにつくばに帰ることになっていたが、無理な話だった。

こんなとき思い出すのが亡くなった師匠(祖父)の最後のお葬式だ。あれは吹雪の12月だった。祖父のお葬式に付き添いで参加した私は、祖父が酸素ボンベでぜいぜい息を切らしながら、導師を務めていたのを見た。亡くなる3ヶ月ほど前のことだった。それを思い出すと、風邪くらいでへこたれてはいけないと励まされる。

翌日も翌々日も、熱は39度から下がらず薬を飲んでまる1日布団の上。結局三日三晩寝続けた。食欲はまだあるのが救い。治ったらつくばに帰るつもりだったが諦めざるを得なかった。長時間眠って意識が朦朧としていると、自分に妻子がいたことすらも夢の中の出来事に思えてくる。子どものアルバムを引っ張り出してきて確認するほど。

夜に妻が電話をかけてきて、みんな元気だというのでほっとしている。週明けに用事があるので、つくばに帰れるのはもう少し先になりそうだ。

寺院の合併

  • author: hourei
  • 2007/02/11 20:15

妻と長女は金曜夜に無事に到着し、昨日は米沢の上杉博物館で行われていたドールズハウス展と雪灯篭祭、外国語サークルに行ってきた。米沢の市街中心部の寂しさは長井以上かもしれない。バイパス通りは賑やかなのだが……。

そして今日は先週に引き続き大般若会。今年に入って5回目となり、だいぶ心配なくできるようになった。大きな声で「大!般若経巻第……降!伏一切大魔最勝成就……」と唱えていると気合が入ってよい。今年予定されているのはあと3回。

終わってからの食事で、どうすればもっと参拝客を増やせるかという話を振ってみる。私のお寺でもこの悩みは深刻だ。

原因については過疎化もあるが、人々の意識に寺院離れが進んでいるようだ。寺に足が向かないのは、葬儀と法事以外のこと、例えば生きる指針とか悩み事の相談などを期待していないのではないか。

「細木数子とか、江原啓之なんかもひとつの信仰ですからねぇ。そういうので事足りている人は、お寺に来にくいのではないでしょうか……」と言ったところで、「お寺に来ない人は、仏教を信仰していない」なんていう話になったらマズイと思ってやめた。それだと、江戸時代の踏み絵や寺請制度と変わらない話になってしまう。

そこから発展して寺院の合併の話。これから先、過疎化が進めば空き寺を守る檀家さんも次第に維持費を捻出できなくなり、お寺をお化け屋敷のようにしておくくらいなら、いっそのこと近隣の寺院と合併したほうがよいという話が現実味を帯びてくる。

総代などを代々務めてきた家では、先祖が代々守ってきたお寺をその代でなくしてしまっていいのかという葛藤があり、寺の役員が合併話を持ち出すことは滅多にない。

私がこういう話を聞いたのは2回目だが、どちらも住職がいないお寺の、若い役員から出た話だった。近くの寺院が掛け持ちで住職をして、手厚い檀務をしていたとしても、誰も住んでいないお寺を維持していくのはつらいだろう。維持するには先祖代々の誇りだけでなく、お金もしっかりかかる。

実際問題、お寺の合併は今後どんどん現実になっていくだろう。今のところ、合併すると各寺院が納める宗費が減るためか、宗門は合併に積極的でない。合併には宗教法人の解散はじめ複雑な手続きが立ちはだかり、ほとんど行われていないのが現状だ。

今日お話をした役員さんは、合併だけでなくお寺が葬祭業を運営するという大胆な意見だった。いわく葬儀社は儲け主義でいけない、お寺が葬祭業をすればもっと負担を少なくできるのではないかと。

寺院が葬祭を取り仕切れるようにならなければならないとは私も思っているが、相当な経営手腕がないと葬祭業に手は出せない。ところが、住職というものはあまり商売上手でないほうがよいもの。

曹洞宗では住職が経営に参加したソートービルや多々良学園が経営に失敗し問題になったが、当然の結末と思われる。住職の片手間に葬祭業を始めて、成功するほうが珍しいだろう。

将来、寺院のあり方や葬祭のあり方が変化していけば、もしかしたら寺院は生き残りをかけて葬祭業に打って出ることになろうのだろうか。30年後、50年後に向けて先手を打つべきか、それとも社会変化の後追いをしていくべきか、どちらがよいのか迷うところである。

受益者負担と公共負担

  • author: hourei
  • 2007/02/07 05:45

月曜、火曜は来客もなくのんびり過ごす。長男の風邪はくず湯をきっかけにどんどん回復している。

火曜日は、前から頼まれていた地区の墓地の名簿を作成。名簿はお寺ではなく地区で管理しているものだが、もう20〜30年も更新されておらず、当主の名前がだいぶ変わっているため調査に協力した。過去帳データベースを使えばちょちょいのちょい。

このたび、地区の墓地で管理組合を結成する動きになっている。これまで地区の墓地は、年5万円程度の地区の予算で管理されてきた。ところが、同じ地区内にある2つの寺院の境内にお墓を移転する人が増えるにつれ、区民全体のコンセンサスが取りづらくなり、当事者だけで組織を作る動きが出たのである。

組織を作るにはまず会員を特定させなければならない。新しい名簿は当主名の更新だけでなく、すでに寺院境内にお墓を移転した人、地区外に転出した人を調べて、地区の墓地に現在もお墓を持っている人を確定させるために必要なのだ。さらには、空いている墓所を新しい人に与えることで荒れた墓所をなくす狙いもある。

名簿ができて夕方に区長さん宅に届けると、副区長さんと地区長会長さんも集まっていた。こちらがふと思い立った日に、たまたま墓地管理の件で協議することになっていたとは、偶然にしては面白い。きっと地区のご先祖様方も後押ししているのだろうという話をした。組織案では、私には顧問の職が与えられていた(エラソー)。

今回の墓地管理組合の結成で議論になっているのは、やはり地区の関与だった。区民の全員が地区の墓地を利用している訳ではない以上、地区が全面的に出るのは難しい。かといって地区の墓地である以上、環境や景観を守るために地区と切り離すわけにもいかない。

要するに受益者負担と公共負担のバランス取りの問題なのだ。小泉内閣が小さい政府を掲げて以来、教育や福祉などさまざまな分野で問題になっていることである。

私は、住環境の整備という名分に加えて、地区の支援がなくなったら新規の人が減ったり、寺院境内への移転が加速したりするという理由で地区の支援は必要だと述べた。洞松寺の境内に移ってもらえば永代使用料が入るので嬉しいことは嬉しいが、その分地区の墓地が過疎化するのは困る(そもそも洞松寺の墓地はもうスペースがほとんどなく、これ以上申し込まれたら造成工事をしなければいけないのもたいへん)。

今度の地区の総会に向けてさらに協議を続けることになっているそうだが、どういう結論になるか興味深い。区民が納得のいく落下点を見つけてほしいものである。

その後、大般若の参拝客を増やす方法とか、寄付額を戒名の位階で変えるべきかとか、ざっくばらんに話し合って貴重な意見を頂くことができた。副区長さんと地区長会長さんはお寺の総代も務めている重要人物で話も弾む。

そんなこんなで3時間もみっちり喋って帰宅。長男を風呂に入れて寝たが、明日の朝まで作らなければいけない原稿があったので2時に起きて作り終えた。そんなことをしているうちに長男が起床。もう一眠りしようか。

学習会

  • author: hourei
  • 2007/02/05 22:10

曹洞宗の全寺院に配布される月刊誌『曹洞宗報』2月号に、興味深い記事があった。第一生命経済研究所と曹洞宗の関係者が「学習会」を開いたというのである。

事の発端は昨年夏の日経新聞記事「いまどきの逝き方」。小谷みどり・第一生命経済研究所主任研究員のコメントとして「通夜から始まり葬儀・告別式、火葬、納骨という一連の流れはもともと葬儀業者が考え出したもの。葬式に決まった型はない。」と掲載されたことによる。

これに曹洞宗の寺院住職が異議を唱え、宗務庁が調査の上、顧問弁護士を通じて新聞社や研究所に対し抗議したという。実際このコメントは小谷氏の発言を記者が取り違えたものらしかったが、「歴史的事実などについて正しい情報を共有する必要がある」ということから「学習会」が開かれることになった。

「学習会」の内容は今後の『曹洞宗報』で報告されるということだが、『行事規範』などで全国共通の葬儀法を作り上げ、「威儀即仏法、作法是宗旨」の教えによって葬儀の型を追究してきた曹洞宗の立場を説明するものと思われる。

気になったのが第一生命が曹洞宗僧侶の共済保険を長年担当してきた会社であるとわざわざ説明されていることだ。曹洞宗だけに該当する記事ではないのに抗議しているのは、「第一生命にとって曹洞宗はお得意様なのに裏切ったのはけしからん!」と読める。

事実と異なるならば、出入り業者であろうがなかろうが関係ないはずだが、出入り業者だと明記し、しかも顧問弁護士まで出てくるとは、制裁とまではいかなくともまるで圧力をかけているようでちょっと頂けない。提灯記事だったら事実と異なっていてもよいのか。

改めて小谷氏の著書『お葬式のお値段』を読み返してみたが、確かに「世にも不思議なお葬式」とか「ますます形骸化するお葬式」など葬儀についてネガティブな表現が見られる。

しかしこれは高騰する葬儀費用や義理の参列者の増加などに見られる(主に都市部の)現代人の意識を代弁したもので小谷氏の独断ではない。実際、こうしたネガティブな表現についてそう思うかそう思わないかをアンケートすれば、そう思うと答える人はかなりの数に上るだろう。

さらにその数は年毎に増えているというのが、私の実感だ。そしてその一因として、葬儀社任せで読経のBGM係になってしまった僧侶の怠慢があるのも否定できない。今回の「学習会」が第一生命や新聞社への批判だけでなく、そうした自己反省の場にもなることを望む。

それにしても今回の宗門の対応は大人気ない気がするのだが、どうだろうか? 新聞や細木数子なんかを信用して、住職の言うことに聞く耳を持たなくなった檀家さんが多いのは確かだが、エネルギーを費やす先がちょっとずれているように思うのだ。

(こんなことを表立って書くと、顧問弁護士を通じて厳重に注意されるかもしれない。ナムナム……)

葬儀を仕切るのは誰か

  • author: hourei
  • 2007/01/31 19:01

近くのご寺院で寺族(住職の家族)のお葬式に参列。寺族だといっても、次第は一般と大きく変わらない。枕飯と水をお供えして枕経、旅装束をさせて入棺、釘を打ち込んで出棺、線香を焚いて火葬、収骨して帰り安位。そして葬儀を行う。

今回気になって仕方なかったのは葬儀屋さんの司会進行である。以前にも(「葬儀屋さんの司会」)で台詞がマニュアル調でしかもクサすぎると思ったり、「経験不足だとどうしても不自然になりがち」と聞いたりしていたが、今回頭をもたげたのは「なぜそこまで仕切るのか?」という疑問。

「皆様、合掌をお願い致します」
「これより○○の儀に移ります。本来この式は……」
「それでは喪主様よりご焼香下さい」

一般家庭で、僧侶のいないところで司会進行するのであればこれでもよい。しかし今回は、経験豊富な老僧や布教師がずらりと並んでいるのだ。その皆が、言われたとおりに合掌したりしているはもったいなさすぎる。僧侶って、単なるお経読みのBGM係なの?

古来より冠婚葬祭では、主催者代表(喪主・祭主)と執行役の長(葬司、祭司)がいる。祭主は必要な物資を用意するところまではするが、後は祭司が中身を取り仕切る。僧侶が在家の葬儀に関わるとき、その立場は祭司でなければならないはずだ。

それが今日、あまりに葬儀屋さん任せになってしまっており、祭司の座を降りてしまった感がある。葬儀屋さんに代わって仕切れといわれても、仕切れるのはせいぜい葬式の当日だけで、それ以外の臨終作法となると覚束ない。その行き着く先は、僧侶不要論にほかならない。

というわけで今回の疑問はつきつめると「(葬儀屋さんが)なぜそこまで仕切るのか?」ではなく「(僧侶が葬儀屋さんに)なぜそこまで仕切らせるのか?」ということになる。

ここで「アーナンダよ。お前たちは、修行完成者(=釈尊)の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。」(『ブッダ最後の旅』)と説いた釈尊を引き合いに出して、僧侶の務めは祭司ではない、葬儀を通した自己の修業であり、衆生の教化である、というならば、BGM係にそんな大層なことができるのだろうか。そもそも、在家葬を基盤にして中世に全国に展開した寺院の跡を継ぐ者は今更そんなことを言えまい。

これからは、葬儀屋さんと良好な関係を築きながら、葬儀の次第を事細かに学んで、葬儀屋さんに代わって仕切れる僧侶になるべきだ