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蛇のジャータカ

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お釈迦様が息子を亡くした信者の家に赴いて話したとされるジャータカ(前生譚)。

バーラーナシーにダンマパーラというバラモンがいた。常日頃から家族と死について瞑想し、申し送りして、いつ不慮の死を遂げても心配のないようにしていた。ある日、そのバラモンと息子が畑に出かけたとき、息子が毒蛇に噛まれて死んでしまう。バラモンは冷静に葬儀を進めた。死んだ息子は天界に生まれ変わったが、家族への憐れみでバラモンの姿になって家族に会いに行く。まずは自分の体を火葬していた父親と会う。立派な息子が亡くなったのにどうして嘆かないのか訊かれた父親はこう答えた。

「蛇が古びた皮を脱ぎ捨てていくように、亡き者は遺骸を捨てていく。焼かれても、遺体は痛みも親族の嘆きも知らない。だから私は嘆かない。彼は、どこであれ行くべきところに行ったのだ」

続いて母親に会う。手塩にかけて育てた息子が亡くなったのにどうして嘆かないのか訊かれた母親はこう答えた。

「息子は招いてもいないのにここに来て、許してもいないのに行ってしまいました。来たときのように、ただ、行ってしまいました。それを嘆いて、何の役に立ちましょうか。焼かれても、遺体は痛みも親族の嘆きも知らない。だから私は嘆かない。彼は、どこであれ行くべきところに行ったのです」

妹も泣いていなかった。

「泣いても、私自身がやせ細るだけです。そんな結果はいかがなものでしょうか。親族や友人知己が、私のことまで悲しみ悩んでしまいます。焼かれても、遺体は痛みも親族の嘆きも知らない。だから私は嘆かない。彼は、どこであれ行くべきところに行ったのです」

奥さんも泣いていなかった。

「『月が昇ってどんどん遠くに行ってしまう』と泣く子供のように、亡き者を嘆く者も同じことをしているのです。焼かれても、遺体は痛みも親族の嘆きも知らない。だから私は嘆かない。彼は、どこであれ行くべきところに行ったのです」

さらに侍女。侍女もまた、息子に大事にされていたのだが泣かない。

「割れた水瓶をもとどおりにくっつけることが二度とできないように、亡き者を嘆く者も、同じ結果しか得られません。焼かれても、遺体は痛みも親族の嘆きも知らない。だから私は嘆かない。彼は、どこであれ行くべきところに行ったのです」

バラモンの姿をした息子は、全員の答えを聞いて喜び、こう言った。

「あなたがたは、ここまでしっかり死について瞑想してきました。私はあなたがたに、もうこれからは耕さなくていいように、食べ物を差し上げましょう」

そして彼らの家を宝で満たし、布施を怠らないように、戒めを守り、定期的に反省会を行うように励まして、自分の正体を明かしてから天に帰った。家族もそれから善行に励み、死後、天界に赴いた。この息子が、お釈迦様の前世である。
(藤本晃『死者たちの物語』国書刊行会)

毎年地元の公民館で行われている写経教室では、写経の前にお経の話をしている。1年目は般若心経、2年目は法句経を取り上げたが、3年目は修証義にしてみた。正確にいえば修証義はお経=仏説ではないが、お釈迦様の教えの核心を捉えていると思う。

第1章第5章と読んで、今回は第4章。翻訳にあたっては、専門用語をできるだけ平易な言葉に改めた。解説書を何冊か参照したが、どれも専門用語を噛み砕いてくれず苦労した。専門用語は、はじめは特別な意味をもっていたのだろうが、やがてその原義が分からなくなり、ジャーゴンやマジックワードになってしまいがちだ。

平易に訳してみると、これが今の世の中でも価値を失っていないこと、そしていかに今の自分が至らないかが思い知らされる。人に言うばかりでなく、自分ももう一歩進めたい。


修証義 発願利生 (現代語訳)

菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。僧侶であろうとなかろうと、天人でも人間でも、苦しい境遇でも幸せな境遇でも、「お先にどうぞ」の心を起こしましょう。

外見が悪くても、この心さえ起こせばもうみんなの先生です。子供でも僧侶を教え導き、みんなの慈愛あふれる父親となります。性別は関係ありません。これが仏教の正しい法則なのです。

菩提心を起こしてから、地獄から天国までさまざまな生き物に生まれ変わっても、その生まれ変わりの縁がみな悟りのための修行となります。したがって、これまで無駄に過ごしてきたとしても、この生命が終わらないうちに急いで誓いをたてましょう。もう仏になるのに十分な力があるとしても、さらにその力をみんなの悟りのために向けるのです。無限に長い時間、みんなを救い続け、自分はいつまでも仏にならないという菩薩もいらっしゃいます。

さて、みんなを救うには四つの智慧があります。一つ目は与えること、二つ目は優しい言葉、三つ目は思いやり、四つ目は共に生きることです。これを菩薩は実践しているのです。

与えることとは、欲張らないことです。自分のものでなくても与えることはできます。多い少ないを問わず、その気持ちが大切なのです。したがってわずかな教えでも与えましょう。現世と来世で幸せのもとになります。わずかなものでも与えましょう。現世と来世で幸せのもとになります。教えもものとなるし、ものも教えとなるでしょう。どちらにせよ見返りを求めず、自分ができる限り与えるのです。舟や橋で川を渡してあげるのも与えることです。生計を立てるための仕事も、本来は与えることにちがいありません。

優しい言葉とは、相手を見てまず慈愛の心を起こし、その人のためになる言葉をかけることです。赤ちゃんに接するような気持ちで話しかければ優しい言葉になります。徳のある人はほめ、徳のない人はあわれんで言葉をかけましょう。敵でも降参させ、偉い人でも仲良くさせるには、優しい言葉が第一です。面と向かって優しい言葉を聞けば顔がほころび、心が豊かになります。人づてに優しい言葉を聞けば、決して忘れられません。優しい言葉には、天下を一変させるほどの力があることを学びましょう。

思いやりとは、分け隔てなく他の人のためになる手立てを考えることです。弱った亀や雀を助けた人は、見返りを求めず、ひたすら相手のためによかれと思って助けたのです。愚かな人は、他の人のためになることを優先すると、自分の分がなくなると思うものですが、そうではありません。思いやりとは、自分と相手両方のためになるのです。

共に生きることとは、自分にも他の人にも背かないことです。お釈迦様は人間の姿でこの世に現れました。周囲に自分を合わせることで、自分と周囲と同じくするという方法もあります。自分と他の人とは、永遠に関わっていくのです。海があらゆる水を拒まないのが共に生きることです。だから水が集まって海になるのです。

全ての菩提心の修行において、このような四つの智慧を落ち着いて思い巡らしましょう。軽く考えてはいけません。菩薩がほかのみんなを救い、引き受けることで私たちは救われるのですから、その計らいを礼拝し、敬いましょう。

修証義の新経本先代から使っていた経本がだいぶ古くなったので、この度経本を作り直した。法要などで使いやすいよう、テキストを打ち込んだファイルを近所の印刷所に持ち込み、以前の経本と同じサイズ・デザインで作ってもらった。

もくじ
・修証義 総序
・般若心経
・修証義 行持報恩
・慈経
・慈悲の瞑想
・般若心経(現代語訳)
・修証義 総序(現代語訳)
・修証義 行持報恩(現代語訳)
・追弔御和讃
・新亡精霊供養御和讃
・追善供養御和讃
・報恩供養御和讃

修証義はお葬式で一緒に読んでいただくもののみ抜粋。順序もお葬式で読む順に、般若心経を間に入れた。そしてこの頃法事でよく読んでいる慈経と慈悲の瞑想は、パーリ仏教から。さらに修証義と般若心経は、できるだけ短く分かりやすいことを心がけた拙訳を掲載。これも法事で一緒に読んで頂くつもりである。最後に、法事でよくお唱えする供養編の御和讃の歌詞を載せた。

一方、檀家さんと一緒に読むことのない観音経と舎利礼文、修証義の第2〜4章は割愛した。

修証義の総序だけを読むと、罪悪感を抱かせるだけなので続けて第二章を読むというご寺院さんもいらっしゃるが、その前に、一般の方は意味も分からず読んでいるみたいである。修証義は明治時代に編纂されたものだが、正法眼蔵の抜粋なので中身は鎌倉時代の言葉。それでも漢文をそのまま読むのと比べればだいぶ理解できるが、論理展開まではついていくのはたいへん。今回、現代語訳にして読んでみて、自分でもいろいろ腑に落ちるところが多かった。

お葬式用の経本入れに130冊セットし、法事用かばんにも25冊ほど入れてある。これで秋からの法事は進めやすくなりそうだ。多めに刷ったのでお正月には全檀家さんに配りたい。

洞松寺オリジナル経本はB6サイズ54ページ。ご希望の方には実費(1冊250円+送料)で頒布します。お申し込みはhourei@e.jan.ne.jpまで。

曹洞宗でよく読まれている修証義の第一章に続いて、第五章も現代語に訳してみた。第1章は悪因苦果への言及が多く、決して気持ちよく読めるものではないが、第5章は感謝がテーマなのですっきりする。インド人しか悟れないとか、雀や亀が恩返しするとか、現代的にはあまり受け入れられそうにない話もあるが、そのあたりは素朴に読んでおきたい。

第1章と同じく、法事などで読んでもらうことを前提として、逐語訳にしたり注釈を加えたりせず、思い切って意訳してできるだけ短くしている。それでも原文と比べて文字数が3割くらい増えた。

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修証義 行持報恩(現代語訳)

菩提心を起こすということは、多くは須弥山の南方に住む人にしかできないことです。私達も縁あって、この人間世界に生を受け、お釈迦様の教えに出えたこと、何と嬉しいことでしょうか。心静かに思いめぐらしましょう。正しい教えが世に広まっていない時は、正しい教えのために身も心も捧げようと思っても叶いません。正しい教えに出えた今の私達を喜ぶべきなのです。実に、お釈迦様が仰るように、最高の悟りを教えて下さる師匠と出逢うには、生まれにも、顔や容貌にも、欠点にも、行状にもとらわれず、真実の智慧を大事にして、毎日朝昼晩に仏様を礼拝し敬い、煩悩の心を起こさないようにしなければなりません。今、私達が仏教に出逢えたのは、お釈迦様とそのお弟子様たちが代々伝えてきた慈悲のおかげです。これがなかったら、どうして今日まで伝わることができたでしょうか。一句の言葉、一つの教えさえも、感謝しなければなりません。ましてや仏教の多くの教えに対するご恩に感謝しないことがありましょうか。雀や亀ですら助けられた恩を忘れず、助けてくれた人を守り続けました。動物ですら恩を忘れません。人間がどうして恩義を知らずにいられるでしょうか。その恩返しはほかでもなく、ただ毎日の生活しかありません。すなわち、一日一日の生命をおろそかにせず、自分だけのために使うまいと生きることです。時が経つのは矢よりも速く、人の生命は草の葉の露よりもはかないものです。どんな手段で、過ぎ去った一日を取り返すことができるでしょうか。むなしく長生きしたところで、後悔ばかりの日々と、悲しむべき肉体しかありません。しかしそんな煩悩に支配された百年の間に、一日でも誠実に生きれば、百年の生涯だけでなく、来世の百年も救われるのです。この一日の生命は、かけがえのない大切な生命です。誠実に生きる生命を、自分自身でも敬いましょう。私達の生活によって仏様の生命が顕れ、仏様の大いなる道が通じます。したがって私達の一日一日の生活は仏様の種であり、仏様の生活そのものです。仏様とはお釈迦様のことです。お釈迦様とは、私達の純粋な心です。過去現在未来の仏様は、みなお釈迦様となるのです。これが心こそ仏様ということです。誰の心が仏様なのか、よく考え生活していきましょう。こうして仏様のご恩に報いることができるのです。
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お寺の経本が古くなったのを機に、オリジナルの経本を作ることにした。お葬式で読んでもらう修証義第1章・同第5章・般若心経に、この頃法事で読んでいる慈経、そして慈悲の瞑想と御和讃供養編の歌詞、さらに修証義第1章・同第5章・般若心経の現代語訳を加えた。現在、ゲラ刷りが終わって校正中である。

十善業と十重禁戒

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曹洞宗のお葬式では、最初に戒名を授ける式で16条の戒律を示す。仏法僧への三帰戒、悪を作らず、善に励み、人を救い助けるという三聚浄戒、そして人としてやってはいけない十重禁戒である。

この十重禁戒は、最初の五戒までは覚えやすいが、残りの五戒はすぐに思い出せなかった。内容的に重なっていたり、お坊さんへの利益誘導とも取られかねない条文が入っているためである。

1.不殺生戒 殺してはならない
2.不偸盗戒 盗んではならない
3.不貪婬戒 浮気をしてはならない
4.不妄語戒 偽りの言葉を口にしてはならない
5.不酤酒戒 買ってまで酒を飲んではならない
6.不説過戒 他人の過ちをあげつらってはならない
7.不自讃毀他戒 自らをほめ、他をそしってはならない
8.不慳法財戒 他に施すことを惜しんではならない
9.不瞋恚戒 怒りに燃えて自分を失ってはならない
10.不謗三宝戒 仏法僧の三宝を謗り、不信の念を起こしてはならない

これを、十善業と並べてみると覚えやすいことがわかった。十善業は、身・口・意の順に並んでおり、身体に関わる戒律が1〜3、言葉に関わる戒律が4〜7、心に関わる戒律が8〜10となっている。そして8〜10は、貪瞋痴の三毒に対応している。

1.不殺生
2.不偸盗
3.不邪淫
4.不妄語
5.不綺語 おべっかを言ってはならない
6.不悪口 悪口を言ってはならない
7.不両舌 二枚舌を使ってはならない
8.不慳貪 欲張ってはならない
9.不瞋恚
10.不邪見 仏教を否定するものの見方をしてはならない

十重禁戒は不酤酒戒を加え、不綺語、不悪口、不両舌の3つをを不説過戒・不自讃毀他戒の2つにまとめたものと考えれば、合点がいく。不慳法財戒も、「もっとお布施下さい」という意味ではなくて、貪りをなくすことが主眼であり、不謗三宝戒は「お坊さんの悪口を言うな」ではなくて、仏教によって無知をなくすことが主眼である。お坊さんが仏教に外れていれば、それを批判するのは悪口でも謗三宝でもない。

さて、現代においてこの10の戒律の中で最も大切なものは不瞋恚であると、このごろよく思う。仕事でも、家庭でも、怒りで我を失ったがために信頼を失い、取り返しがつかなくなるケースをよく見るからである。特に、酒を飲んでそうなるのは本当にたちが悪い。

このごろ法事で『慈経』を読んでいるが、読んだ人が最も感銘を受けるのは次の部分である。「うちの父ちゃんに聞かせてあげたい」と。それだけ怒りというものに手を焼いている人が多いのだろう。

「どんな場合でも、人を欺いたり、軽んじたりしてはいけません。怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いに人の苦しみを望んではいけません。」

穏やかな人であり続けようと願うこと。これは、仏道の修行だけでなく、社会生活においても大切なことである。

棚幡

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今日は地元の老人会の講演があって、ネタの仕込みに七夕について調べてみた。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や棚幡と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。
(ウィキペディア「七夕」)

真偽はもう少し書物で調べてみるとして、もともとのお盆が7月15日なので、その8日前である七夕がお盆の行事の一部であるというのは納得できる。

笹に短冊をつけて願い事をするのは、いったい誰に願っているのだろうと思っていたが、先祖や餓鬼などの精霊ということになる。曹洞宗で、施食会(いわゆる御施餓鬼)で読む『甘露門』というお経に、「又願わくは汝等、昼夜恒常に我を擁護して我が所願を満ぜんことを」という一句がある。餓鬼たちは供養を受け成仏すると、供養してくれた人に恩返しをしてくれるのである。

長女が短冊に書いたのは「妹が食卓を荒らしませんように」、長男は「メガレンジャーになりたい」、次女は「いっぱいおはなしができますように(母代筆)」……いや精霊様、聞き届けてくださらなくてもいいです。

先日、法事をした檀家さんから聞いた話。

その法事に来ていた親戚が、霊が見えてしまうという人で、法事をしている最中、祭壇には家の先祖だけでなく、ほかの霊も来ていたという。震災の後だから、被災して亡くなった方が浮かばれないでいるのだろうかと思ってぞっとしたそうだ。

私はそれに対し、それは気持ち悪いことではなく、とてもよいことだと答えた。先祖供養をするにあたって、縁のない霊に救いの手を差し伸べることはたいへんな功徳になる。お経を読んだ後にも、この法要の功徳を「有縁無縁三界万霊」に回向している。その対象がきちんと供養を受けに来ていたということだから、所期の目的が達成されたと考えるべきであろう。先祖としても、自分の家の子孫がそういった立派な功徳を積んだことが喜びになるに違いない。

ついでに言えば、そのお家の法事ではいつも、床の間に祭壇を設え、6個の団子を六合に分けてお供えし供養した。天上界から地獄に至る六道のどこにいる者にも、お供えが届くようにという意味がある。近年はこの準備を省略して、仏壇で法事をすることも少なくないが、もし見知らぬ霊が本当にやってきたとすれば、この祭壇の効果もあるかもしれない。

仏教は自業自得が原則なので、功徳をやりとりするわけではない。回向は、心が共鳴することだと、藤本晃氏は述べる。「あの人がこういう善行為をした。すばらしい。しかも自分の善行為の功徳を、幸せを、わたしにも分けてくれようとしている。なんとありがたいことか」と気づくことによって、浮かばれない霊に救われていくのである(『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会)。

幸か不幸か霊が見えない私は、法事でもそういった対象を思い描いているわけではない。むしろ雑念を払って、読んでいるお経の内容に集中し、平常心を保つように心がけている。でも、そこに反応してくれている霊がいるとすればたいへんありがたいことだ。

震災の後、読経でも御詠歌でも、不幸にして命を失った方々のためにという気持ちをもつようになった。それくらいしかできることはないのは恥ずかしいが、救われる霊が一体でも増えることを願う。

願わくはこの功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

修証義の現代語訳

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曹洞宗では『修証義』というお経(仏説ではなく、道元の言葉なので正確には「論」というべきか)を読む。和文ではあるが、鎌倉時代の言葉を明治時代に編纂したもので、ただ読んだだけでは意味は分からない。でも般若心経や法華経、陀羅尼とは違って、呪文のよう唱えてもあまり意味がないと思い、現代語訳を試みた。

『修証義』は5章に分かれているが、第1章からいきなり、因果応報という難問を扱う。仏教者は昔から、現世で苦しんでいるのは過去の悪業が原因であるという「悪しき業論」の過ちを繰り返してきた。今回の震災で、石原都知事が天罰といったようなものである。因果応報や自業自得とは、決して他人の不幸につけこむものではなく、努力を続ければ必ず安楽の境地に至れるという修行の道筋を説き、未来に向かって主体的に生きることを勧める教えである。

現代語訳がないわけではないが、なかなか一般化しないのは、どうしてもこの悪しき業論に解釈されてしまう恐れが免れなくて、呪文のように読んだほうがましだという判断があるのかもしれない。しかし、せっかくの仏教の心に触れる機会を奪っているのは残念だと思い、試訳してみた。

因果応報はあくまで自身が、自身の幸せのために主体的に取り入れていくものとし、誰にでも当てはまるような法則という捉え方をしていない。唯識では、因果関係は仮説的なものに過ぎないという考え方があったように記憶しているので、あながち強引な解釈でもないと思う。

もう少し推敲したら、法事などで檀家さんに読んでもらおうかと考えているところだ。

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修証義 総序

 生きるとは何か、死ぬとは何かを明らかにすることが仏教徒の根本問題です。人生がそのまま仏の世界であれば苦しみはありません。人生と仏の世界が同じものと心得て、苦しい人生を嫌がることなく、素晴らしい仏の世界を追い求めることもないとき、悩みを離れることができます。生き死にこそ、仏教の一番大事な問題として考えなければなりません。

 人としてこの世に生まれることは得がたく、ましてや仏教にめぐりあうことも滅多にありません。我々は何かの奇跡で人として生まれてきたばかりでなく、滅多にめぐりあえない仏教にもめぐりあえました。かけがえのない今の人生こそ、最高の生涯にちがいありません。その人生を無駄にして、露のようにはかない命を、諸行無常の風の吹くに任せて終わらせてはいけません。

 死はいつやってくるのか、露の命はいつどこで消えるか分かりません。我が身は自分だけの物ではなく、人生は時の移ろいゆくまま、少しの間も引き止めておくことはできません。少年の日の若さにあふれた顔はどこに行ってしまったのでしょう。今さら探し求めようとしても跡形もありません。よくよく考えれば、過ぎ去ったことは二度とめぐりあえないことばかりです。ましてや死に直面すれば、権力者も、友人や後輩も、家族も、金銀財宝も助けにはならず、たった独りであの世に旅立たなければなりません。どこまでも自分についてまわるものといえば、善き行いと、悪しき行いだけです。

 今の世の中で因果応報を考えず、あの世を信じず、善悪の分別もないよこしまな考えの者とは、生き方を共にすべきではありません。因果応報は必ずあり、私情を挟む余地はありません。我々は悪い行いをして自ら苦しむよりも、善き行いをして幸せになる道を選びましょう。もし因果応報を信じなければ、お釈迦様が生まれ、仏教が日本まで伝わってきた意味もなくなってしまうのです。

 因果応報には三つあり、この世での行いの結果は、この世ですぐ受けることも、あの世で受けることも、さらにその次の世で受けることもあります。仏の生き方をしようと願うならば、この因果応報を自らに省みて実践するのでなければなりません。そうしなければよこしまな考え方に陥ってしまいます。そればかりでなく、安らぎを得られず悩み続けることにもなります。

 私たちの人生はやり直しがきかないのですから、よこしまな考えをもって悩み続けることほど虚しいことはありません。それに気づかずに、自分は悪いことをしていないと思い、苦しみもないだろうと思っても、悩みを離れることはできないのです。
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参考文献
桜井秀雄『修証義をよむ』(名著普及会)
水野弥穂子注『正法眼蔵』(岩波文庫)

地元の公民館の主催で、昨年に引き続き写経教室(全4回)が開かれ、講師として呼ばれた。大雪の中、毎回12〜13名の参加者があり、こうして仏教に興味を持って下さる方がいらっしゃることが嬉しい。

上田紀行氏が立命館大学で行ったアンケートによると、仏教に対していいイメージをもっている人は9割にのぼるのに、「日本仏教に対して」と聞くと65%、「日本のお寺さんに対して」は25%、「日本のお坊さん」に対しては1割になってしまったという。仏教の講座を開くなら、お寺よりも公民館のほうが人が集まりやすいということは言えそうだ。

昨年は般若心経の読解を試みたが、いくら平易な言葉にしても般若心経は難解だということを痛感した。そこで今年取り上げたのが初期経典の『ダンマパダ』。後世の創作が多い大乗仏典とは対照的に、お釈迦様の生の声とされる初期経典は非常に直截的で分かりやすい。

中村元先生の岩波文庫版をもとに、パーリ語の原典を見ながら自分にしっくりくる訳語を検討し直した。パーリ語自体はまともに勉強したことはないが、語彙も文法もサンスクリット語から推察できるものが多い。またもとの韻文の雰囲気が出るよう、できるだけ短くした。『ダンマパダ』は全部で26章あるが、毎回1章を取り上げ、冗長な部分は抜粋にしてある。

1回目は第1章「ひと組ずつ」。唯心論的世界観が述べられる。
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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその者につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその者につき従う。影がその体から離れないように。
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだく者には、怨みはついに止むことがない。
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだかない者には、ついに怨みが止む。
実にこの世においては、怨みをもって怨みが止むことは決してない。怨みをすててこそ止む。これが永遠の真理である。
「ここにいる我々は皆、死を免れない」と知らないから人々は争う。このことわりを知れば、争いはしずまる。
悪いことをなす者は、この世でも、来世でも悔いに悩む。「私は悪いことをした」と悔いに悩み、地獄におもむいて、さらに悩む。
善いことをなす者は、この世でも、来世でも歓喜する。「私は善いことをした」といって歓喜し、天の世界におもむいて、さらに喜ぶ。
たとえためになることを数多く語っていても、それを実行しない者は、牛飼いが他人の牛を数えているように、出家者ではない。
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、欲望と怒りと迷妄とを捨てて、正しい理解につとめ、感情的にならず、執著しない者は、出家者である。
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2回目は第8章「千という数にちなんで」。量より質を重んじる態度は、後代の道元にも引き継がれている。
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無益な言葉を千たび語るよりも、聞いて心の静まる言葉を一つ聞くほうがすぐれている。
無益な言葉の詩が千あっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
戦場で百万人に勝つよりも、たった一つの自己にうち克つ者こそ、本当の勝利者である。
自己にうち克つことは、ほかの人々に勝つことよりもすぐれている。常に行いを慎み、自己を整えて、自己にうち克った人を負かすことは、神にも、天人にも、悪魔にも、梵天にもできない。
百年の間、毎月千回ずつ祭祀を営んでも、自己を修養した人を一瞬でも敬うならば、百年の祭祀よりもすぐれている。
この世で功徳を求めて一年間神を祀り捧げ物をしても、行いの正しい人々を尊ぶ功徳の四分の一にも及ばない。
つねに自己を修養している人を敬えば、四つのものが増大する。すなわち寿命が延び、顔色がよくなり、健康になり、体力がつく。
素行が悪く、心乱れながら百年生きるよりも、善き行いに励み、思い静かに一日生きるほうがすぐれている。
愚かに迷い、心乱れながら百年生きるよりも、智慧をもって思い静かに一日生きるほうがすぐれている。
なまけて、無気力に百年生きるよりは、自己を向上する努力をふりしぼって一日生きるほうがすぐれている。
諸行は無常であると知らずに百年生きるよりも、諸行は無常であると知って一日生きることのほうがすぐれている。
不死の境地を知らずに百年生きるよりも、不死の境地を知って一日生きることのほうがすぐれている。
最上の真理を知らずに百年生きるよりも、最上の真理を知って一日生きることのほうがすぐれている。
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3回目は第12章「自己」。大乗仏教の原理と相容れないくらいの、徹底した自己責任が展開される。少林寺拳法で唱える「聖句」はここから取られている。
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自己が愛しいと思うならば、自己をよく守りなさい。賢い人は、人生のどの時期でも目覚めている。
まず自分を正しく整え、その次にほかの人に教えなさい。賢い人はそうするから非難されないのである。
ほかの人に教える通りに、自分でも行わなければならない。自己を整えた人しか、ほかの人を整えることはできない。自己は実に整えにくいものだから。
自己にとって自己こそが主である。どうしてほかの人が主となろうか。よく整えた自己によってこそ、得難い主を手に入れる。
自己が作り、自己から生まれ、自己から起こった悪が、愚かな人を打ち砕く。ダイヤモンドが宝石を打ち砕くように。
徳のない者は、敵が望むような不幸を自己に対して行う。蔓草が沙羅の木にまといつくように。
悪いことや、自己のためにならないことは為しやすい。ためになることや善いことは、極めて為しがたい。
愚かにも、悪い考えのために、徳の高い人や、聖者の教えを罵るならば、自身が破滅する。カッタカという草の実が熟すると自身が滅びてしまうように。
自ら悪をなせば、自ら汚れ、自ら悪をなさざれば、自らが清らかである。清きも清らかざるも、自己による。人は、ほかの人を清らかにすることはできない。
たとえほかの人にとってどんなに大事なことでも、そのために自分のつとめを捨て去ってはならない。自分の目的をよく考えて、自分のつとめに専念せよ。
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4回目は第15章「楽しみ」。ちょうど2月15日は涅槃の日で、平安を楽しみ生死を超えるという涅槃について理解を深めた。
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怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく楽しく生きよう。怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく暮らしていこう。
悩める人々のあいだにあって悩むことなく楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって悩みなく暮らそう。
貪っている人々のあいだにあって貪らず楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって貪らないで暮らそう。
一切のわずらいなく楽しく生きていこう。光り輝く神々のように、喜びを食物とする者となろう。
勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで生きる。勝敗を捨てた穏やかな人こそ、安らかに生きる。
愛欲ほどの火はほかにない。憎悪ほどの罪はほかにない。このかりそめの身ほどの苦しみはほかにない。心の平安ほどの楽しみはほかにない。
飢えは最大の病であり、我が身は最高の苦しみである。この真理をあるがままに知ったならば、涅槃という最上の楽しみがある。
健康は最高の利得であり、平安は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、涅槃は最上の楽しみである。
孤独の味、心のやすらぎの味を知ったならば、真理の味を味わいながら、恐れもなく、罪過もなくなる。
愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、仇敵と共に住むようにつねにつらい。心ある人と共に住むのは、親族と共に住むように楽しい。
したがって智慧ある賢者、よく学び、忍耐強く、戒めを守る、貴い聖者・善き人、英知ある人に親しみなさい。月が星の進む道に従うように。
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講義の後は写経。毎回漢訳の般若心経ばかりでは芸がないので、今回も写仏(仏像の絵を写す)と、新たに梵字の般若心経を選べるようにした。現代のインドで使われているデーヴァナーガリー文字よりも、弘法大師が伝えた悉曇文字のほうが重みがあっていい。写仏は、塗り絵などすれば文化祭に出せるのではないだろうか。

参加者の多くは昨年からのリピーターで、毎回楽しみにして通っているとのこと。本当にありがたいことである。公民館長によれば、また来年の冬に行われる予定だという。今度はどんな話にしようか、1年かけて考えておきたい。

寺の外に出て

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先週の土曜日、地元の老人会の芋煮会があり、その際に1時間ほどの講演をしてきた。3年連続の講演で、1年目は少子高齢化社会、2年目は葬儀の変容、そして今年はイオンショックとお布施の意義についてである。アクチュアルなテーマから入り、仏教の教義に至るという流れは話しやすい。

公民館で行われ、聴きに来てくださった方は40名。そのうち30名が檀家さんであった。ありがたいことであるが、お寺で法話をするとしたら、果たしてこんなに集まるだろうかと考えた。

お寺のあり方は宗派によって異なるものの、もともとは多くの人が出入りしてお参りをし、いろんな話をしていく開放空間だった。それが知らず知らずのうちに敷居が高くなり、閉鎖空間になっていく。住職や寺族も留守にすることが増え、日中にふらりと訪れてもカギがかかっていることも少なくない。

これに対し、お寺を開かれた場所にするという努力は必要だが、結局ただ待っているだけか、よくて単発的なイベントをするぐらいで終わってしまう。それならば、辻説法の心意気で、外に出ていくことが必要ではないか。

東京にある坊主バーの記事を読んだ。自ら酒を飲まなくても、酒を買って飲ませるわけなので戒律的にはNGなわけであるが、それも仏陀の教えに触れて悩みをなくしてもらう方便であろう。従業員である群馬のお寺さんは、お寺にいたのではなかなかできない、尊い利他行をなさっているのだと思う。

COBS ONLINE:現役の僧侶がいる「坊主バー」ってどんなところ?

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