予期悲嘆と追弔御和讃
- author: hourei
- 2008/01/08 23:11
東京ボーズコレクションで聞いてきた話だが、現代の死生観に大きな影響を与えているものとして全死亡者における後期高齢者(75才以上)の割合と、病院で亡くなる人の割合の急増があるという。9割近くの人が長生きして最期は病院で息を引き取る。
そうなると家族の死とはいえどこか他人事のようになる。「予期悲嘆」といって、亡くなる前に死を予期して悲しんでいるために、葬儀ではあまり悲しめなくなるのだ。そのため亡くなった人は大往生だったと締めくくって、やけに陽気な親戚の懇親会になってしまうのである。
懇親会自体はそれでよい。いまどき、葬儀か法事でもなければ親戚が一堂に集まる機会も少ないだろう。しかし家族の死が他人事なのは問題だ。家族は人間関係の基本。親を敬い、長年の労苦に感謝して送り出さなくてはならない。
そこでどこか他人事のようになっている家族に、大切な家族を亡くしたことにもう一度思い至ってもらうのに効果を上げているのが追弔御和讃だ。
一、その名を呼べばこたえてし 笑顔の声はありありと
今なお耳にあるものを おもいは胸にせき上げて
とどむるすべをいかにせん 溢るるものは涙のみ
二、立ちては昇りのぼりては 哀しく薫ゆる香(こう)の香(か)に
かずかず浮かぶ思い出よ 供えし花はそのままに
霊位(みたま)の座をばつつむなり 清きが上に清かれと
三、一世の命いただきて 会うことかたき勝縁(えにし)をば
夢幻となどかいう うつつの形(かげ)は消ゆるとも
うつろうものか合わす掌に 契りて深き真心は
身近な人が亡くなったとき、この曲を聴いて涙しない人はいるまい。枕経で唱えるもよし、火葬場で唱えるもよし、いい曲である。御詠歌仲間には、この曲を唱えて遺族のすすり泣きが背後で聞こえてくると、心の中でガッツポーズをするという人もいる(それは冗談だろうが)。
あまりに悲しすぎるので、若い方が亡くなったときには唱えないほうがよいと先生に教わった。逆に言えば、大往生と言われている方の前でお唱えするのは相応しい。
すっかり年を取ってここ数年は介護のことしか思い浮かばない。でもこの曲を聴いて若かりしあの頃を思い出してみよう。嬉しかったこと、怒られたこと、悲しかったこと、楽しかったこと。全てがもう二度と返らない過去のことなのである。あんなにたくさんお世話になったのに、私たちは何のお返しができただろうか。今私たちにするべきことは……。
葬儀は故人にとっても遺族にとっても、この後明るく幸せに生きる道につながるひとつの転機である。それをただ儀礼的なものに終わらせず、意義を絶えず明らかにしていくのは僧侶の役割だと思う。
『追弔御和讃』(2007年録音、mp3ファイル)
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
御詠歌ポッドキャスト実験4『結婚讃歌』
- author: hourei
- 2007/11/01 22:15
妻子を捨てて修行に出た釈尊の姿が示すとおり、仏教は結婚や家族の絆を否定するところから始まっている。お葬式の授戒で一番最初に、
流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者 (苦しみでしかないこの世に輪廻している間は、家族や世間との絆を断ち切ることができない。 そこで家族や世間との縁を切って修行の世界に入ることこそが、本当の恩返しになるのである)
と唱えるのもその伝統を引き継いだものである。愛する者との絆は愛別離苦のもとになるし、愛しない人との絆は怨憎会苦のもとになる。
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人と会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人々もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。(ダンマパダ)
しかし日本仏教は、この伝統に逆らって僧侶の結婚を容認した。これによって日本のお坊さんは確かに俗っぽくなってしまったが、これは大乗仏教を推し進めた一種の宗教改革だったと、私は思う。
大乗仏教では、自己の完成よりも他者の救済に重きを置く。救済するには、同じ立場になって苦楽を分かち合わなくてはならない。釈尊も、妻子との別れを経験したからこそ愛の苦しみを説くことができたのであり、もし生涯独身だったならば、在家信者に対して語る言葉をもたなかったのではないか。
カトリックの神父に対し、プロテスタントの牧師は結婚して家庭の範を示すという。日本の僧侶もかくあれかし。範を示すというのは、決して高いところに立って威張ることではない。衆生にとけ込み、同じ目線でものを見、一緒にものを考えながら、悟りの道を模索していくのだ。
『結婚讃歌』
(一) かりそめならぬ天地の 正しき人の道なれば
尊さ胸に溢れつつ 今日を迎える喜びよ
(ニ) 仏のおしえ父母の めぐみに深くつつまれて
はぐくみ来にし玉の身を ささげまつらん真心に
(三) 二人のいのち結ばれて 一つに燃える幸福を
希望の明日にかざしつつ 強くやさしく生きてゆく
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
新亡精霊供養御和讃
- author: hourei
- 2007/06/10 09:12
金曜日は御詠歌の講習会。岩手からいらした特派師範の先生に、今年発表されたばかりの新曲をお習いする。このところ教えるほうばかりだったので、気を楽にして教わるありがたさを感じた。
新曲の『新亡精霊供養御和讃』は、曰くつきの曲である。昭和41年に山形県民会館で行われた全国大会で『盂蘭盆供養御和讃』という名前で発表された。『古城(♪松風さわぐ丘の上〜)』の作詞者(高橋掬太郎)、作曲者(細川潤一)、歌手(三橋美智也)トリオで作られ、レコードが吹き込まれた。
しかし当時の風潮か、僧侶でない人が作ったからか分からないけれども、その歌詞は後世に照らして問題があったのである。
一、生きのこの世は仮の宿 栄耀栄華の身なりとも
心に負える罪あれば 死して後に報いあり
ニ、遠き仏陀の世にすらも 目連尊者のおん母は
罪業ありて餓鬼道の 苦しみながく受け給う
三、斎を設けて亡き人の 冥途(よみじ)の厄難救わんと
精霊まつる盆供養 仏の教えありがたや
仏の教えありがたや
……気分が悪くなるような歌詞である。具体的にどこに問題があるのかというと、一番は来世に期待して現世を軽視する点が、日常の修行にこそ悟りがあるという宗門の教えと矛盾する。
二番と三番は、現在の苦しみは過去の報いであるという「悪しき業論」が問題。釈尊の説く自業自得は、現在の行いや努力が未来を決めるというところに重点がある。それを前世の報いなどというのは現在の努力を否定し、差別を肯定することにもなってしまう。昔のお坊さんは言っていたかもしれないが、「前世の報い」とか「先祖のたたり」なんていうのは、どっかの新興宗教を除いて禁句なのである。
このような理由で『盂蘭盆供養御和讃』はすでに15年前に奉詠禁止になったのであるが、ほかの曲にない独特のメロディーは伝説になっており、ぜひ復活させたいという声があった。
さらに供養の御詠歌、特に49日までにお唱えするものがほしいという要望があり(葬送は『追弔御和讃』、一周忌から十三回忌くらいまでは『追善供養御和讃』、それ以降は『報恩供養御和讃』がある)、このたび歌詞を新しくして生まれ変わったというわけである。
一、永遠(とわ)の身命(いのち)と願えども 無常の風にさそわれて
愛惜(おし)みて散れる花なれば 別離の涙頬つたう
ニ、揺れる灯明(みあかし)あの笑顔 あなたに逢えたよろこびと
深い絆に結ばれた 煌く慧命(いのち)忘れ得ん
三、香華供えて調(ただ)す身に 想いはおのずと深まりて
安寧(やすらぎ)念(ねご)う祈りこそ 蓮の開く縁なり
四、七七供養の毎日(ひおくり)に 戒名(みな)を称えて掌(て)を合わす
行持(つと)むる而今(いま)のまごころを 回らし手向けんみほとけに
回らし手向けんみほとけに
……当て字が多いのと、ちょっとお涙頂戴なのが玉に瑕だが、釈尊や道元禅師の教えが分かりやすく覚えやすく語られたよい歌詞だと思う。
全体を通して気づくのは、あくまでも遺族の視点で描かれていることだ。タイトルに「精霊」と掲げながら、亡くなった人はどこに行くか、いつどのようにして成仏するかについては全く触れられていない。
日本には『往生要集』のように死後の世界をありありと描く書物もあるが、曹洞宗は日常の修行を重んじるため、死後の描写をすることはほとんどない。道元禅師が49日の後に人間に生まれ変わるとか、釈尊のいる兜率天に往くとか簡単に述べている程度。
今回の歌詞解説にも「輪廻転生」「黄泉」「生天」「浄土」など古来からのさまざまな考え方を尊重しなければいけないとしつつ、「死後の世界はいずれも証明することができず、実際には解らないことといえましょう。」と記されている。
しかし供養をするということは、死後も何かが残るという信仰に支えられているのは間違いない。それは遺された人の思い出とか記憶に還元できるものではないだろう。『千の風になって』ではないけれども、亡くなった人はこの世界のどこか、あるいはあの世にいて、生きている人とつながっているのである。
科学的には名状できないものに対して、宗教が物語を与えることはグリーフケアにとって大事なことだと思うが、そこまで踏み込んでいないこの歌詞はドライというか、冷たいというか、そんな感じもする(これで棄恩入無為の教えから二番も否定したらさらに仏教的で、さらに供養から遠ざかっただろう)。せめて道元禅師の記述程度を反映させてもよかったのではないか。
そもそも仏教において「無記」とされてきた死者の供養。どういう意味があるのか、この機会に考えていきたい。
『新亡精霊供養御和讃』(2007年6月18日録音、mp3ファイル)
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
梅花流保存会
- author: hourei
- 2007/05/31 11:05
土日は法事とお寺の会議。月曜に工務店と契約してからはせっせと引越しの準備。その合間に筍を掘る。ゆうに100本くらいは掘ったと思う。
昨日と一昨日は御詠歌の役員会議があって、その後つくばにやっと帰ってきた。かれこれ1週間の不在で、子どもは元気だったが妻はちょっと痩せていた(ような気がする)。
御詠歌の役員会議では、新人にどうやって始めてもらうかがひとつの焦点になった。一昔前ならば寺族さんにとって御詠歌はほとんど必修課目。練習も厳しいものだったそうだが、今はほとんど趣味の世界。寺族さんがお寺に帰って教えるべき講員さんもどんどん少なくなっているのも、モチベーションを下げている。
仕事と関係のない趣味となると、新人を誘うのは容易なことではない。上手に宣伝し、気を遣いながら少しずつ興味をもってもらい、ほめたりおだてたりしながら何とか続けてもらう……並の気力では無理だ。
私の趣味のボードゲームで、近場でメンバーを集めきれず遠くから同好の士をお招きすることになるのもそのためだ。母もママさんスキーで同じような思いをしているという。無理に誘って嫌がられるよりも、遠くからでもやりたい人が集まってくるほうがずっとよい。
さらに若い寺族さんは、お寺を留守にして会社勤めしている方も多い。それに子育ても加わったらほとんど休みなし。平日は勤めて土日はお寺の手伝い、さらに子育て。寺族さんってほんと過酷なお仕事なんだなあ……これでは定期的な練習に顔を出す時間も気力もないのは致し方あるまい。
ひとまず若い寺族さんには練習日や時間のアンケートをとってみることなどが提案された。設立55周年を迎える梅花流も、そろそろ保存会みたいなものになってきた感じだ。御詠歌は楽しいけれど、自分の今やっていることがせいぜい何年かの延命に過ぎないとしたら少しさびしい。
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
御詠歌ポッドキャスト実験3『追善供養御詠歌(妙鐘)』
- author: hourei
- 2007/05/11 15:29
『追善供養御詠歌(妙鐘)』
うちならす鐘のひびきはそのままに
三世の仏のみ声なるらん
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
御詠歌ポッドキャスト実験2『まごころに生きる』
- author: hourei
- 2007/05/03 08:14
『まごころに生きる』
作詞作曲 南こうせつ
(一) そよ吹く風に小鳥啼き 川の流れもささやくよ
季節の花はうつりゆき 愛しい人は今いずこ
ほほえみひとつ涙ひとつ 出逢いも別れも抱きしめて
生きてる今を愛して行こう
(ニ) 広がる海ははてしなく 全ての命はぐくむよ
人の心もおおらかに 互いを敬い信じ合おう
ほほえみひとつ涙ひとつ 出逢いも別れも抱きしめて
生きてる今を愛して行こう
(三) 幼い頃にいだかれた 温もり今も忘れない
この世でうけた幸せを そっとあなたにささげましょう
ほほえみひとつ涙ひとつ 出逢いも別れも抱きしめて
生きてる今を愛して行こう
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
奉詠大会
- author: hourei
- 2007/04/12 20:08
宗務所主催の奉詠大会が高畠町の文化ホールで行われ、置賜で御詠歌をしている550名ほどの講員さんたちが日ごろの信仰を披露し合った。
私は例年通り大会役員として、前日から準備に入る。つくばからなので高畠駅で降りてタクシー。止まっているタクシーは1台なのに、もう1人タクシーに乗りたい人がいて、運転手さんに相談したら相乗りになった。もう1台配車すれば2倍儲かるだろうに、いいところだ高畠。
集合するとすぐステージ設営。緋毛氈を敷いてテープを張り、中央に本尊仏を設置してお供え物を並べる。20人ほどで一気にやるので、2時間ほどで終了。
その後は恒例の焼肉屋。20人ものお坊さんが一斉に焼肉を食べる姿は見ていてあまり気持ちのよいものではないが、だからといって寿司ならいいという話でもない。ありがたくご馳走になる。帰宅したら母にニンニク臭いと言われる。
そして今日が本番。配役は詠讃師ということで、たっぷり楽しんだ。開会式で三宝御和讃、紫雲、登壇奉詠で正法御和讃、歓喜、閉会式で紫雲替節、同行御和讃の6曲。オイシイ。
昨年からずっと一緒に練習してきた詠範さんたちの「まごころに生きる」二部合唱&手話つきバージョンも完璧に決まる。その後の師範の奉詠は何とか終わったが、寺族さんの集中力、団結力、練習量にはいずれも全く及ばない。
講員さんたちの中には、高齢のため背中がずいぶん曲がった方も足が不自由な方も鈴を一生懸命振ってお唱えしている姿に感動。私も何才になっても一生続けたいものである。
ただ所作が乱雑なのは頂けない。法具や経典の扱い方はこれからもっと時間をかけて教えていくべきだと思った。
御詠歌人口は圧倒的に女性が多く、今回の大会役員になった男性僧侶で御詠歌の心得がある人は半分もいない。楽しんだもの勝ちだとは思うけれど、御詠歌をしない方にお膳立てしてもらって申し訳ない気もした。
かつてはほぼ満員だったホールも、講員の高齢化・新講員の減少でだいぶまばら。今まで通りでなく何かしら考えなければいけない時期にさしかかっているのかもしれない。
帰路は、庫裏建築のため一時的に老人施設に入った祖母に会いに行ってから、夕方に銀行さんと金融相談。お寺の土地や建物は担保にできない(まぁそうだろうけど……)という理由で断られてしまった。果たして建つのか庫裏?!
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
後継者の減少
- author: hourei
- 2007/02/08 17:17
昨晩は置賜梅花流研究会の新年会で小野川温泉・河鹿荘(http://www.kajikaso.com/)へ一泊。
置賜梅花流研究会は山形県置賜地方の曹洞宗寺院で御詠歌をしている僧侶と寺族からなる集まりで、月に1回練習会を開いている。一昨年から若輩ながら私が講師に任命され、それ以来つながりを強めている。
昨年受検した2級師範に、先輩と私の2名が合格したため今回は新年会兼祝賀会となった。会費不要という手厚さにひたすら恐縮。
長男を母に任せて、午前中は米沢の外国語サークルに行った後、午後3時にはもう宿へ。当然一番乗りだった。前日は結局3時間ちょっとしか寝ていなかったので、早々とお風呂に入って宴会まで一眠り。
一方、ほかのご寺院さんは例によって枕経やお葬式が入り、宴会はやや遅れて始められた。私だけどうしてこんなにヒマなの?と不安になる。
宴会のはじめにお祝いに胡蝶蘭などという豪勢なお品を頂戴する。安部首相の就任祝で全国的に品薄になっていたとか。もっとも、豚に真珠という気がしないでもない。
普段から顔を合わせている方々ばかりなので話も弾んだ。話題は大学の授業とお葬式が重なったときの対処法、葬儀屋さんの司会料、江戸時代の寺族、子どものインフルエンザ、検定の様子など。
二次会は近くのスナックへ。嘉門達夫『替え歌メドレー』、東京プリン『合コン哀歌』『携帯哀歌』を歌う。コミックソングってあまり配信されていないのでネタ切れが心配だ。
この会で心配なのは、私よりも若い人がまだいないということだ。梅花流は創立50年を過ぎて講員の高齢化が進む一方、若い講員(といっても40〜50代だが)がなかなか集まらなくて問題となっている。
遠藤誠氏が『人海戦術の創価学会と同様、曹洞宗においても「人さえいっぱい集めればそれで仏法興隆になるのだ」という迷信がはびこってきた。』(『今のお寺に仏教はない』)というように、人集め自体を目標にするべきではないと思う。だが、インドで仏教が一度滅びてしまったように、講員の減少は折角のよい教えが消滅し次世代につながらない危機に結びつく。
志ある講員を絶やさないためには、指導者である僧侶や寺族が率先しなければいけないとされる。特に若い僧侶や寺族が、地域の同じくらいの世代に呼びかけることが必要であると。
というわけで若い(といっても30〜40代ぐらいだが)僧侶・寺族にもっと入ってもらいたいのだが、流行り廃りというものなのだろうか。主に団塊ジュニア世代が遊んできたボードゲームが、新しい切り口で20代が楽しみ始めたように、御詠歌にも新しい切り口が必要なのかもしれない。
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
2級師範検定
- author: hourei
- 2006/12/14 00:00
御詠歌の検定会が港区の本庁で行われ、2級師範を受検してきた。
2級師範というのは8つある御詠歌の級階で3番目に位置し、全国を教えて回る「特派」に選ばれる資格である。受検資格として1等教師以上の僧階、和尚以上の法階が必要。しかし近年は合格者が増えており、「特派」を任命される確率はだいぶ低い。
そんな状況もあり、若い人にはもっと研鑽を積んでもらおうということで受検資格の改正が行われようとしているらしい。具体的には令命二等以上の布教師資格が必要になり、3級師範補命から受検可能になるまでの期間が3年から5年に延びる。
ということで今回は改正前の駆け込み受検となり、24名の3級師範が受検した。
昨晩は久しぶりに頭を逆剃りして気合を入れる。今朝も6時半に出発して万全の体制で臨んだ。9時受付で10時から筆記試験開始。
筆記試験は『地蔵菩薩御詠歌』「たらちねのみ親のもとにいる子らは御名を唱うる声ばかりなり」の歌詞解説。現在宗門は、子どもを失った親、特に母親に罪悪感を抱かせる水子供養には否定的であり、この歌詞を賽の河原云々と解説すると多分不合格になる。「み親」=地蔵菩薩、「子ら」=衆生、「御名」=南無地蔵大菩薩と取るのが正解。
それから実技試験に入るが、受検番号が最後のほうだったので3時間もまんじりともしない時間を過ごした。とうとう自分の番が近づいて緊張してくる中、ふと思った。
若僧の自分がたいした努力もせず、実力もないのにこんなところにいる。それは何か大きなものが私を動かし導いているからではないか。御詠歌は私が唱えるのではなく、唱えさせられているのだ……。
自己責任を放棄するような考え方だが、宗教である以上そういうふうに感じることがある。
「ただわが身をも、心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに従いもてゆく時、力をも入れず、心をも費やさずして、生死を離れ、仏となる」(『正法眼蔵』生死の巻)
この感覚になってからは並み居る検定委員の偉い先生方の前でも不思議と上がらずお唱えできた。今回の課題曲は『梅花替節』、『慈念』、『開山忌』の3曲。ただ一番練習していなかった『開山忌』は付け焼刃らしく、最後の一節を歌詞間違い。
合否は今月中に判明するという(後日追記・合格しました)。
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
セミナーin西麻布
- author: hourei
- 2006/11/16 00:00
♪ふたりのにしあざーーーーーぶーー(とんねるず『雨の西麻布』)
先月に引き続き、某宗教団体による3日間のセミナー(御詠歌の講習会)。今回は、定員オーバーで宿泊できなかったのでゲーマーのお宅にでも転がり込もうかと思ったが、家事もあるので毎日つくばから日帰りした。
表参道徒歩20分というお寺で、家からの移動時間は往復5時間。朝5時に家を出て、夜8時に家に着くという生活。家に帰ると皿洗いや子どもの風呂入れをこなす。子どもの笑顔を見るとほっとするものだ。道中は本やゲームのルールブックなどをのんびり読んで過ごす。なかなか優雅。
宿泊ができれば、夜は飲み会、早朝から朝課(朝のお経読み)や坐禅があるのだが、それがないので物足りなさいっぱいだった。同じ講習会に参加した人ともほとんど交流できなかった。
参加者は僧侶が2割であとは寺族(お寺の奥さん)さんである。母親ぐらいのおばさまたちは若い僧侶をちやほやしがちなので、ちょっと油断すると天狗になってしまう。謙虚な姿勢を忘れがちで、何度か自己嫌悪に陥った。
人権学習ではステレオタイプや固定観念が引き起こす偏見や差別を学習。人間をカテゴリー化して一緒くたに扱うのではなく、その人その人を見て、「徳あるは褒むべし、徳なきは憐れむべし(修証義)」を実践していきたい。
講習の最後では、新曲「まごころに生きる」を二部合唱にしたり、輪唱したりしたが、最後に手話を交えて唱えたときは宗教団体らしさを感じた。こういう、心をひとつにしているような感覚はほかでは味わえないだろう。
来月は二級師範の検定があるので、無事合格できるようあと1ヶ月精進したい。
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)
セミナーin郡山
- author: hourei
- 2006/10/11 00:00
某宗教団体のセミナー、もとい御詠歌の研修で郡山のお寺に2泊3日。
つくばから電車とバスを乗り継いで行こうと思ったが甘かった。福島交通のホームページで調べたら、近くを通るバスは1日3本、始発は12:30という寂しさだった。最寄のバス停を問い合わせたら「でもお寺まで3キロありますよ。タクシーで行ったほうがいいです。」大丈夫か福島交通。
でも福島交通のおばさんが親切に教えてくれて、東北本線の日和田という駅が最寄だと分かる。郡山で乗り換えて1駅。駅前にタクシーがあったので乗ろうとしたら予約で、別の車を呼んでもらった。「最近この辺もタクシーに乗る人少なくて……」大丈夫か日和田タクシー。
お寺についてびっくり。噂には聞いていたが、バスも通らない田舎にいきなり御殿のような伽藍が広がる。ご住職さんは地元の名士で、自動車学校・仏具屋・不動産・賃貸マンションなど幅広く経営し、一財を築いたのだという。新築された本堂は、今日の講習会のために3日前にできたばかり。ついでに庫裏も建てたとか。
ご住職さんは経営手腕もさることながら、御詠歌も達人、曹洞宗でも中央の要職を務めておられる。尋常でない活躍に陰口を言う人もいるが、社会にがっちりコミットして世のため人のために尽くすというかたちの仏教があってもよいと思う。
今回は僧侶と寺族を対象にした指導者研修会。要求されるレベルも高い。ここ1年、指導をすることはあっても指導されることのなかったので、知らぬ間についたいろいろな癖を矯正してもらわなければならなかった。特に音程が微妙にずれる点。
御詠歌の講習会はこれまで数知れず参加してきたが、三食付で1日中、歌のことばかり考えて過ごすのは心地よいと感じるようになった。空っぽになった頭に、先生がちょっと涙話をするとすぐ涙が滲み出てきてしまう。涙話は洗脳、もとい教化の大事なポイントなのである。
ブラジル開拓に行った檀家さんが、幼い子どもがマラリアに罹って熱を出しているとき、真っ先に考えなければならなかったのが「この子をどこに埋めたらよいか」ということだったという話。今のようにまともな病院もなければ治療費もなかったのである。
同年の僧侶が癌で亡くなったとき、見舞いに行って涙をこらえている先生に、その師匠(お父さん)が明るく振舞って慰めてくれた話。にこやかな顔で「息子が余命数ヶ月だって聞いたときは、頭の中が真っ白になりました」「新しい本堂は、息子の晋山で使えればどんなによかったか」などと仰る。慰めに行くつもりが慰められたという。
御詠歌のお誓いでは「仲良い暮らしをいたします」と書いてあるのに夫婦喧嘩が絶えなかった先生。4才の娘が部屋にドラえもんの絵を貼って吹き出しに「お父さんお母さん仲良くしてね」と書いていたのを翌日見た話。
被爆二世で子どものころ血液交換をしたが、この頃肝炎になってしまった先生。「治療に専念するので私が教えるのは今日が最後です。」
子ども、逆縁、別れの3つがどうやら涙のツボのようだ。
終わる頃には自分に今欠けているもの、これからの指針や希望、そして何よりも心の平安を手に入れることができたような気がする。いい研修会だったなぁ。来月、東京でも行われるので参加する予定である。
ところで、お寺の前でタイマー式の鐘楼を初めて見た。ウィーーーーン……ゴーン!!
- ">梅花流
- | Comments (0)
- | Trackbacks (0)