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Diary アーカイブ

1999年1月 1日

マイブームの変遷

私の生活に深く浸透したもの、コンプリート欲求を追及してしまったものを、記憶のため思いつくまま列挙しておきたい。


  1. ピンポンパン(保育園時代)[テレビ番組]

    幼児テレビ番組。あまり覚えていないが、最後に木の中からおもちゃをもらえるのがうらやましくてよく見ていたような記憶がある。一方で同じぐらいの時間帯にあった「ひらけポンキッキ」は見ていない。ムックが赤くて目も怖かったせいかもしれない。

     
  2. ブロック(保育園〜小学低学年時代)[玩具]

    何というか忘れたが、レゴブロックではないブロック。お城や車を作ったり、何だか訳のわからないものを作ったりして創作意欲旺盛だった。友達ともよく一緒に遊んだ覚えがある。今考えてみれば、当時からインドア派だった。

     
  3. プリン(小学校時代〜現在)[食べ物]

    小さい頃、母がせっかく作ったのに私が「プッチンプリン」の方がよいと言ってガッカリさせたという。プッチンプリンの味はさておき、底にあるバーを折ってプリンが皿の上に落ちるのが楽しかった。コンビニに行くと全種類チェックする癖がついている。

     理想のプリンとは、本体が上の方まで均質に軟らかくみずみずしいもの、味はバニラエッセンスのほどよい香りと卵の味がすること。カラメルは香ばしくてすこしだけとろみがあることとほんのりとした苦み。量は小さすぎず大きすぎず。

    一方ダメプリンは本体の上の方が乾燥などで固まってしまっているものは最悪。 カスタードやクリームなどとのブレンド自体はよいが、そっちの方が味が強くてはいけない。カラメルは色はあるけど味はなく、ゼラチンで固めたようなのはよくない。

     
  4. マシンロボ(小学低〜中学年時代)[玩具]

    乗り物をはじめとする機械がロボットに変形するというおもちゃ。600円くらいでシリーズになっていた。好きだったのは「ポルシェロボ」で、アイデア募集に応募してゴールデンポルシェロボをもらったのが嬉しかった。

     
  5. ロボダッチ(小学中から高学年時代)[玩具]

    小さいロボットの世界を広げるプラモデル。「大島」「小島」など、地形とロボットがセットになっていて、ガンダムのプラモデルよりも想像力をかきたてられた。箱庭指向か。

     
  6. キンケシ(小学中から高学年時代)[玩具]

    キン肉マン消しゴムのこと。ゆでたまごのマンガ『キン肉マン』のキャラクターのゴム製人形。100円のガチャガチャで3体。1000円のセットもあった。なぜか肌色がいちばんとされており、特に「キン肉マンB(ファイティングスタイル)」が貴重とされていた。机の上で落とされたら負けというおはじき遊びではサンシャインが強かったのを思い出す。見るからに強そうだった。。

     
  7. 九十九一(つくもはじめ)(小学高学年時代)[芸人]

    漫才ブームの火付け役となったお笑い勝ち抜き番組で登場したピン芸人。淡々とした話しぶりなのに、内容はぶっとんでいた。真似をしてテープに録音してみたりするほど。

     
  8. 週刊少年ジャンプ(小学高学年〜高校時代)[マンガ]

    「北斗の拳」「キン肉マン」「魁!男塾」「ドラゴンボール」の黄金時代あたりから、主に近所の床屋さんで毎月まとめて読んでいた。「ジャンプ放送局」「ついでにとんちんかん」「燃える!お兄さん」などが好きで、単行本を揃えた。高校ぐらいになってやっと、敵を求めて無限に世界が広がっていく虚しさと、ギャグセンスのジェネレーションギャップに気付いて撤退。

     
  9. ビックリマンチョコ(小学中学年〜中学時代)[お菓子]

    ウエハースチョコのおまけのシール。はじめは世界の景勝地にイラストを入れたシリーズだったが、まじゃりんこシリーズ、天使・お守り・悪魔シリーズになってからはまる。ホログラムのシール「天空ゼウス」が貴重。

     
  10. マルキンチョコ(小学高学年〜中学時代)[お菓子]

    50円玉の形をしたチョコのおまけで漢字を図案化してシールにしたもの。デザインもさることながら、番号がついているため全部集めたくなってしまう。当たりか補助券3枚で1000円もらえるという特典がついていて、かなり回収した気がする。

     
  11. 少林寺(小学中学年〜中学時代)[習い事]

    映画『少林寺』を見て主役のリー・リン・チェイ(ジェット・リー)にあこがれ、少林寺拳法を5年くらい習った。他の武術と違い、ダンマパダを唱えたり、昇級試験で仏教の教えについて筆記も課される。今考えてみれば、これが仏教を勉強するという最初の経験だった。今でも余裕があればまたやりたいと思う。

     
  12. ドラクエ(小学高学年〜大学時代)[玩具]

    爆発的にヒットしたファミコンゲーム『ドラゴンクエスト』。自分の名前を付けた主人公が成長していく楽しみは中毒性があった。ファイナルファンタジーは1でやめてしまったが、ドラクエは6まで続け、プレステになる7で諦めた。

     
  13. トロンボーン(小学高学年〜大学時代)[習い事]

    小学6年のときに鼓笛隊で始め、中学・高校と吹奏楽少年だった。大学ではオーケストラに入部、毎日数時間練習していた。今の楽器はコルトワ。上野の東京文化会館で行われた大学最後の演奏会は、大学院入試の当日だった。今は練習する時間がほとんど取れないでいたらすっかりダメになってしまったが、時間ができたらまたゆっくり練習したいと思っている。

      
  14. トイレ(中学時代〜現在)[生活]

    少年期にありがちな恐いもの見たさ、中学生くらいの時期にありがちな清潔にしたい欲求、人がやらないことをやる喜びなどがあいまって、トイレ掃除をやるようになり、その延長でトイレや排泄について本を読んだりするようになった。フロイトの言う肛門期から卒業できていない証拠かもしれない。

     
  15. 妖怪人間ベム(中学〜大学時代)[テレビ番組]

    早く人間になりたい心やさしい妖怪人間ベム・ベラ・ベロのアニメ。再放送で見たが、ヒューマンとホラーを兼ね備えた独特の雰囲気が好きで、ビデオを借りて全部見た。オープニング「それは、いつ生まれたのか誰も知らない」がお気に入り。

     
  16. 必殺仕事人(中学時代〜現在)[テレビ番組]

    お金をもらって恨みを晴らすべく暗殺する時代劇。因果な商売の暗さを背負って生きている仕事人たちの葛藤は他の勧善懲悪的な時代劇に見られない。中村主水(もんど)も好きだったが、一番は三味線屋の勇次(中条きよし)。いつもウェイトトレーニングを欠かさない政(村上弘明)などの脇役も名優ぞろい。サントラをそろえ、ビデオを借りまくった。『主水死す』で一区切り。

     
  17. 1/35ミリタリーシリーズ(高校時代)[玩具]

    田宮模型のミニチュアプラモデル。ナチスのことをあまり知らなかった私は、純粋にフォルムの面から「キングタイガー」などのドイツ戦車やドイツ兵が大好きだった。それに比べると日本やアメリカの戦車は丸みを帯びていてかっこ悪い。

     
  18. ドビュッシー(高校〜大学時代)[作曲家]

    印象派と呼ばれるフランス不世出の天才作曲家。高校の時にかなりはまった。『海』と『夜想曲』の幽玄な雰囲気が好きで、さまざまなオーケストラで聴き比べたりもした。カラヤンの『海』にはくしゃみ(らしきもの)が入っている。大学に入ってからはだんだん小編成を好むようになり、結局『ベルガマスク組曲』『弦楽四重奏曲』などに落ち着く。

     
  19. 週刊スピリッツ(高校〜大学時代)[マンガ]

    伝染るんです。に惹かれて少年ジャンプから進級。お金がないので主にコンビニで立ち読みだったが、吉田戦車、中川いさみ、中崎タツヤの三本柱に圧倒されていました。東京大学物語がエロ宗教漫画に走ってきたあたりからあまり読まなくなりましたが。

     
  20. 吉田戦車(大学時代)[マンガ家]

    マンガ界に新しい旋風を巻き込んだ4コママンガ『伝染るんです』をはじめ、全てのキャラクターが常識を完全に外れた論理で動き出し、その外れ方にめまいすら覚えつつ楽しむと共に、外れる前のひながたである常識を深く考えさせられもする作品が目白押し。

     
  21. 中川いさみ(大学時代)[マンガ家]

    4(6)コママンガ「大人袋」をはじめ、常識とされているものが、その実あいまいで虚構も多い点に注目。そこから独特のエスプリで笑いを引き出している。

     
  22. 伊丹映画(大学時代)[映画]

    絶妙のキャスティングとストーリーのドロドロしたところが好きで、シリーズは欠かさず見ていた。『たんぽぽ』でリストの交響詩『レ・プレリュード』でラーメンが出てくるところが一番好き。監督が自殺したときはかなりショックを受けた。

     
  23. スネークマンショー(大学時代)[ラジオ番組]

    高校時代の友達のすすめで聞き始めたラジオ番組。小林克也と伊武雅人がつくりだす狂気に近い独特の世界に大喜び。しかしその頃にはもう番組は終了していたらしく、収録したCDでのみ知ることができた。

      
  24. 嘉門達夫(大学時代)[芸人]

    大学の友達が好きで、その影響を受けて聞き始める。「NIPPONのサザエさん」が最高傑作。コンサートに行ったりするほどの熱中ぶりだったが、「傑作集」とか行って前のネタをやったことから急速に冷めた。しかし、カラオケでは場が盛り上がるのでよく歌う。

     
  25. プーランク(高校〜大学時代)[作曲家]

    オーケストラに入団すると、クラシックを「どのパートがおいしい(=目立つ出番がたくさんある)」といった聴き方しかできなくなり、その結果交響曲と管弦楽曲はほとんど聴かなくなる。そこで急激にはまっていったのがパリのモーツァルトと言われるプーランク。フルートソナタから聴き始め、ピアノ曲へ。フルートソナタを聴きにパユやロジェのリサイタルに行ったりした。

     
  26. ウルトラセブン(大学〜大学院時代)[テレビ番組]

    実際にテレビで放映されたいたのは『ザ・ウルトラマン(なぜかアニメ)』で、再放送で『レオ』を見る程度だったが、大学の後輩に薦められてビデオで見たことから始まり、その深いテーマと哲学に心を動かされた。大学の卒業式の当日、モロボシダンが出ているというので『ゼアス』の映画を見る。

     
  27. ボードゲーム(大学〜現在時代)[玩具]

    もともとは大学時代に夜ヒマだったので始めたものが、いろいろ買い集めていくうちに九段にあるゲームショップ・メビウスに出会い、それ以来ほとんどハズレのないドイツ製のゲームにのめりこむ。特にシュテファン・ドーラというデザイナーの作品は独特の雰囲気を醸し出していて、絶版ものも含めてほぼコンプリート。ルールやレビューを読んだりするためにドイツ語もかなり上達した。

     
  28. 小林製薬(大学〜大学院時代)[生活]

    アイデア・ネーミング・清潔感どれをとってもステキな製品を次から次へと生み出しつづける大阪の会社。あるときドラッグストアを歩いていて面白い名前の製品はかなりの確率で小林製薬だったことに気づいたのが始まり。本社と工場の見学も果たした(外から)。

     
  29. ホームページ(大学院〜現在時代)[ネット]

    大学でアカウントをもらって、後輩に作り方を教えてもらってから発信することの魅力にひきつけられる。何でもかんでもネタにしてきたが、今は日記とボードゲーム関連が主体で、1日中更新や閲覧をしていても飽きない。

     
  30. ブリーフ&トランクス(大学院時代)[芸人]

    ラジオでたまたま聴いた「青のり」で注目。視点の細かい歌詞と軽快で絶妙なハーモニーが抜群の2人組。アルバムを全曲揃えてみた。「さなだ虫」「遠足」「石焼イモ」がお気に入り。カラオケでも歌う。

     
  31. 週刊モーニング(大学院時代)[マンガ]

    スピリッツを卒業したので、手ごろな雑誌を探していたところ、須賀原洋行の作品に偶然出会い、それがもとでモーニングに傾倒。基本的には立ち読みだが、帰省のときなどいい時間つぶしになるので買ってしまうこともあった。

     
  32. 養命酒(大学院時代)[薬]

    もともとは「必殺人」で中村主水を演じていた藤田まことが宣伝していたので気になる。その宣伝の中で「冷え性に」という文句があって、夏になると冷房病に悩まされていた寒がりやの私は、「おやじくさい」という壁を乗り越えて試す決心をしたのだった。これがなかなか美味しくて、月に2〜3回体調のおかしいときに飲む。

     
  33. 御詠歌(大学院時代〜現在)[歌]

    曹洞宗梅花流詠讃歌。知らない人には「仏教の賛美歌のようなもの」と説明している。住職になった直後に近くのご寺院さんから声をかけられ、何となく師範養成所に入ったのが始まりで、お経とは違う歌の楽しさや法要における劇的な効果を覚えてしまう。機嫌が悪いときに出てくる鼻歌の7割は御詠歌。

     
  34. 増田こうすけ(大学院時代)[マンガ家]

    きっかけは朝日新聞の書評だっただろうか、しばらくギャグマンガからご無沙汰していた私は、新しいタイプの笑いを発見することになった。妻も好き。

     
  35. シャー・ルク・カーン(インド留学中)[映画]

    キング・オブ・ボリウッドと呼ばれるインド映画界随一の俳優。お笑い上がりで一見それほどかっこよくはないのだが、映画を見れば見るほどかっこよく見えてくるのが不思議だ。出演した映画はできる限りチェック。インドに留学して一番はまったものかもしれない。

1999年1月20日

三鷹寮の思い出'92

三鷹寮入口1992年上京して2年間住んでいたのがこの三鷹寮だ。


三鷹寮は一応、京王井の頭線三鷹台駅が最寄。電車に乗ってしまえば大学まで25分だから近い。とはいえ自転車で15分かかる上に勾配が大きい。雨の日はバスに乗って吉祥寺に出た。自転車を盗まれたり移動されたりして、しかも夜遅くに帰ってきたりすると、40分も歩かなければならない。当然のことながら、学生がタクシーなど乗れるはずもない。


北寮三鷹寮は南寮と北寮に分かれていた。1部屋は3?6人で構成されており、サークルの名前がついていた。私が入った部屋は「スポ研」。1部屋といっても談話室、寝室、学習室の3つがセットになっていて、生活時間帯がまるで違っていても困らない。誰かが寝る頃に、誰かが起きる。


前には寮生用のテニスコート。ときどき女学生が来て遊んでいるのを私はうらやましそうに眺めていた。


森昔は馬場だったという敷地はものすごく広く、外でトランペットの練習をしている人がいるほど。建物の周りは森になっていて、誰も足を踏み入れることはなかった。ちょっと歩き回っったことがあったが、あまりの茂みで退散した。


どこからでも入ってこれるはずなのに、犬を散歩させている人を除くと外部の人にはまず会わない。森はおいしい空気の源であるとともに、外界からの遮断として機能していたのである。


浴室テニスコートの裏にある浴場。渡り廊下があるので雨の日でもあまり濡れなかったが、冬は寒い。冬場は2日に1回で、よく近くの銭湯にいった。銭湯は早い時間に閉店するが、寮の風呂は午前になっても入れた。


風呂掃除は当番制だが、ボイラーは寮委員会の仕事。ボイラーを止められてしまうとお湯が出なくなるが、寮委員会はたいてい遅くまで起きて酒盛りをしているのでその心配はなかった。


浴場遅くまで入れるということになると、ついウダウダしてしまう。同じ部屋や近くの部屋の仲間と連れ立って入りに行く。当時は疲れを知らない年だったが、おしゃべりしながら風呂につかるのはリラックスできる至福の時間だ。


夜の11時ごろがピークだっただろうか。お湯は継ぎ足しできたので温かさを保つことができたが、時間が経つにつれて湯舟にはいろいろなものが浮いてきて、うっかり口に入ろうものならたいへん。


ホール夏の風呂上りは、隣りのホールで延々とビリヤードや卓球をしてから帰る。とにかく広い上に、だだっ広い建物がいくつもあり、夜の3時や4時まで遊んでいても何も言われない。金管楽器の練習でさえもすることもできた。


発情期のネコの声を赤ん坊の幽霊だと思って、すごく怖くなったのを思い出す。それぐらい建物は古びており、がらんとしていた。


食堂寮の食事は朝はサンドイッチと牛乳、夜は黒板に発表されたメニューをおばちゃんが作る。1カ月分の寮食費を払って、あとは自分の都合で2、3日前までに止食の手続き(黒板の前の帳簿に×をつける)ができた。止食分は翌月に還元される仕組み。こうした手続きも寮委員会の仕事だ。


1カ月1万円台で安かったが、いつも夜の6時くらいにはできていたので時間がたつと全てが冷めてしまい味噌汁は煮詰まりカレーはルーに逆戻り。


食堂「十時軍制度」は、朝も夜も十時を過ぎて残っていた寮食は誰でも食べていいという決まりである。9時50分くらいになると何人か集まってきてハイエナのように待っている。そして10時になると始まるじゃんけん。「ジャンケンポン!」かなり気合が入っていた。


普通に予約している人は十時軍に食べられないよう走ってやってくる。じゃんけんが終わった頃に着いてよくトラブルになっていた。


ラウンジ各階にあるラウンジは、洗濯、物干し、電話置き場、冷蔵庫置き場、ゴミ置き場になっており、人の休む場所はない。掃除しようとしてもすぐに諦めざるを得ないような何十年分の汚れの蓄積で、通路だけ確保しておくのがやっと。スペース無駄遣いもいいところである。


電話番は当番制。事務室に待機していて、電話がかかってくると全館放送で案内。「○○さん、○○さん、1番に電話です。」これを聞いて各階にある電話から、案内された番号を押して話す。女性からかかってきた場合は「お電話です」、親(らしき年配の人)からかかってきた場合は「おお電話です」という決まりになっていた。「お電話」だったりすると、後からねほりはほり聞かれる。


電話をかける場合は、外にある電話ボックスから。電話ボックスで長電話している人がいたら、寮の外までいかなければならない。まだ携帯なんてなかった時代の話だ。


バイク置き場昔はさぞたくさんの寮生が住んで、さまざまな寮内行事があったのだろう。ホールが2つもあった。1つはビリヤード兼卓球場になっていたが、もう1つはバイク置き場に。昔は何に使っていたのか分からない。廃墟寸前である。


寮祭は年に1回あったが、日本酒をジョッキで一気飲みさせられるらしいというのを聞いて、私は小平の友達のところに避難していた。


トレーニング室ホールだけでなく、建物の中にも謎の部屋があった。ここはトレーニングルーム兼自転車修理場といったところ。昔は何に使われていたのだろうか。


ゴミはカゴに入れておいて、決められた日に出す。建物周りはおじちゃんが掃除していたが、部屋の中を掃除することはまずなかった。はじめのうちは気持ち悪いが、やがてゴキブリがブーンと飛ぶと、「あ、ゴキちゃんだ」とか言えるようになってくる。


洗面所トイレだけはおじちゃんが定期的に掃除していたので概して汚くはない。しかし、使用中止の貼り紙がずっと貼ってあったり、扉がなかったり、ナイスな落書があったりとその強烈さは印象的だった。


「昨日、このトイレで用をたしていたところ、体内から巨大な物体が出てきた。イモムシ状の茶色い物体で体長20cm、直径4cmほどもあった。気持ち悪いので流してしまったがいったいあれは何だったのだろう?」(北寮3F)


春三鷹寮の広大な敷地にはたくさんの木があふれ、とくに銀杏の木は四季の移り変わりを色濃く映し出していた。木漏れ日が気持ちいい夏、そして黄金色に染まる秋、日差しが横向く冬。


1993年、広大な空き地に国際留学生会館が建ち始め、寮生の引越しが終わると旧寮は全て取り壊された。もうひとつの駒場寮では、取り壊しにずっと反対運動が起こっていたが、三鷹寮では特にそのような運動は起こっていない。


三鷹寮・秋自称「平成のムッソリーニ」とか、司法試験X浪でちょっとおかしくなっている人とか、いることはいたが政治活動の拠点になっているわけでもなく、寮委員会も酒癖は悪かったが中立だった。


新寮はやや家賃が上がったが、完全個室で各部屋に電話も引かれている。シャワーだけになったり、電熱器しかなかったりと不便になることはあったが、概して生活の質は向上したと言えるだろう。


三鷹寮・冬しかし今になって振り返ると、友達と夜な夜な麻雀をしたり酒を飲んで語ったり、一緒に風呂掃除をしたり電話番をしたり、マンガ雑誌の回し読みをしたり、その結果午前中の授業はほぼ出られず、勉強はきまってテストの1週間前になってしまったが、そういう生活も、悪くはなかったような気がする。無駄だらけのスペースも、今そんな場所が果たしてあるだろうか。


三鷹寮よ永遠なれ。

1999年6月12日

私の嫌煙話

窓からさし込む麗かな日差し,風もさわやかな日曜の午後.今日は喫茶店に来ている.

暖かい紅茶を飲みながらひとときの幸せに浸る.心のはたらきを全部やめて目に入るままに見,耳に入るままに聞く.

まさに至福とはこのことである.
 そこにふと,嘔吐をもよおすような気分が走る.さっと我に返ってみると近くの席でおばちゃんがタバコを吸い始めたのだった.

小さな喫茶店だから分煙はされていない.おばちゃんを見た.ここまでなるには相当の年月を要したであろう二重あご!
 今度は隣に来た母娘.灰皿を持ってきたことで私の警戒と嫌悪が煽られた.2人は果たして脳細胞が相当数破壊されたような会話を始めた.2人がそろってタバコに火をつけたとき,私はそそくさと店を逃げ出した.その時ふと,私は彼女たちに前世ででも悪いことをしたのだろうかと思った.
 歩道を歩いていると息苦しくなる,前方でタバコを吸いながら歩いているおじさん,おにいさん.電車を待っていると吐き気がしてくる,駅のホームの喫煙所から遠く離れたベンチに座ってタバコをふかしているじいちゃん,
 タバコが嫌いだ.タバコを吸う人の悪いところばかりが目に入ってしまう.殺意すら抱くこともある.
タバコを吸う以上,煙が出る.その煙は無差別に周囲の人々を席巻していく.今や分煙は世界の常識だ.吸っていいところ悪いところ,吸うべきではないところ.吸っていいのは,そこで煙を被る全ての人の許可・認容が必要だ.無理な話だろうが,タバコを吸う人はこの煙が撒き散らないようにしてほしい.
 きれいな空気を吸う権利は,基本的人権である.
 さらに言うと,私の祖父はタバコを長く吸っており肺癌で亡くなった.それは吸う人の勝手だろうが,家族のためにも命は大事にしてほしい.

1999年9月19日

『現代たばこ戦争』

伊佐山芳郎著,岩波新書.この本はタバコを吸う吸わないに関わらずオススメである.
 欧米に比べ,日本はJTと大蔵省ががっちり手を組んでタバコを販売している.近年では未成年と女性にターゲットを移して販売量を増加させることに成功しているが,喫煙者はもちろんのこと,受動喫煙をさせられる周囲の人間の健康を害する問題が大きくなってきている.今や喫煙が健康に及ぼす影響は疫学的に証明されているが,日本ではJTと大蔵省の工作で十分にその危険性が認識されていない.今後は法的にはたらきかけていかなければならないだろう,という話.
印象に残ったのは以下の点.
●アメリカのたばこ会社の幹部がタバコについて「あんなものは吸わない」と言い,そのわけを

We just sell it. We reserve it to young,
poor, black, and stupid people.(我々はただ売るだけだ.若者や貧しい人,ブラック,そして馬鹿な奴に買わせるのだ)と答えた話.たばこ会社はタバコの危険性を十分に認識していながら販売したとして,近年裁判で24兆円という多額の賠償金を支払うことになっている.
●「タバコはハタチになってから」という広告は,背伸びしたい,大人になりたいという青少年の心理を巧みに便乗するタバコの宣伝であること.若年層を喫煙者にすれば一生のお得意様になる.これと同時にイメージ先行型のタバコCMを作成し,あこがれを鼓舞する.
●「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸い過ぎに注意しましょう」というフレーズは,ある程度までなら大丈夫という観念を抱かせ,しかもパッケージの側面に書かれているため注意を引かない.欧米では法によって表面に「喫煙はがん・心臓病・致命的病気を引き起こす」などの具体的なフレーズが書かれている.
●近年日本でもJTや大蔵省を相手取ってタバコ訴訟を起こすようになったが,まだ日本では自業自得という考えが多く,これからである.JTと大蔵省に踊らされてタバコを吸い始めニコチン中毒にさせられたという点で,また自分は吸っていないのに周囲の人間の喫煙で健康を害されたという点で自業自得ではない.
 最近,若い女の人で煙草を吸っているのが目立つ.広告もいかにも女の人向けだというのがわかるものがある.母親が喫煙者の場合,胎児が突然死したり奇形が生まれたりする確率が高くなるという話を聞くと,喫煙者の女性を母親として生まれてこなければならない子供がとてもかわいそうだし,自分自身の体を壊してしまう彼女たち自身もかわいそうでならない.
 筆者は弁護士という立場から今後の日本のタバコ行政を改めようと活動している.がんばってほしいものである.

1999年11月 1日

「日記が危ない」

友人Aが結婚したという話を別の友人Bから聞いた。この友人Bはさらに別の友人Cが開いているホームページ上の日記で友人Aの結婚を知ったと言う。
めでたいことだからよいけれども、これが悪い噂だったら、友人Cの日記によって少なくとも友人Bと私の2人が知らなくてもよい情報を得たことになる。
日記というのは、事実を書くことになっているし、実際ふつうは事実として読まれる。
したがって日記の登場人物の情報が公開されることにより、思いもよらない問題が発生することがある。
固有名は確かに親しい人にしかわからない。しかしアリバイ、身分、行状など、親しい人の中でこそ知られたくないこともあるはずだ。知られてよいか悪いかということは、結局その人にしかわからない。
もちろんいちいち「このことを書いていいですか」と聞くことは馬鹿らしい。たいていは「自分が相手の立場だったらこのことを書かれてどうか?」ということを考えているはず。
それでもついつい必要以上のことを言ってその人を傷つけることもありうる。また、知られたくないということを知らないで公開することもあるだろう。
つまり、日記の公開には不特定多数の人が読むという大きな前提があるという注意の喚起。ただの日記であれば、自分のPCから出す必要はない。

1999年11月29日

ぷらいばしー

下で書いたことを押し進めると、ほんと、ホームページなんて自分の思っていることしか書けなくなってしまうことに気がついた。
電話帳に掲載を拒否する人が増えている。掲載するとわかるが、「お墓買いませんか」「近くに新しくマンションができます」「○○に清き一票を!」などといった電話がたくさんかかってくるのだ。平日の昼間の電話はたいていこれである。
NTTで番号非通知やナンバーディスプレイを始めたのはつい最近のことだ。携帯でははじめから番号を通知するかどうかの選択がある。商用・勧誘の電話に加えストーカーが一般に知られるようになったという背景がある。
インターネット上でも、本名やメールアドレスはもちろん、ドメイン名まで公開を望まなくなってきている。名簿流出は大きな事件として取り上げられ、漏洩した人は大悪人として報じられる。
個人情報とされる範囲は名前・住所・電話番号などその個人を特定できるものから始まって、職業・性別・出身・病歴などが差別の原因になるとして付け加わり、さらには服装・性格・趣味・ある日の行動など漠然として些細な事柄にまで膨れ上がっている。このままいけば、他人について言及することさえできない社会が到来する気がする。
それだけ他人を敵とし、他人アレルギーをもつ人が増えているのだろう。今、現代人が一番怖いものはカルト教祖でもテロリストでもなく、見知らぬ他人ではないか。
その一方で、自らを閉じ込めたオリの中で現代人は、有史以来一度も経験したことのない孤独に苦しんでいる。いまや、家族すら他人になろうとしている。自分以外はみな他人。他人という敵の四面楚歌でたまるストレス。それがたまりたまって突然爆発する。自殺、犯罪。
プライバシーをもっともっと大事にしながら、人間はどうなっていくのだろうか。

1999年11月30日

覚えましょう

広島大のページで見つけてきました。マハーヴァーキヤ(大文章)とあります。覚えましょう。
ガヴァヤの森に日は沈み、
アシュヴァに我は跨りて、
サティアン エーヴァ ジャーヤタ イティ
リンガ・ヨーニ・サンバンダー
※ガヴァヤ・・・牛に似ているという水牛
※アシュヴァ・・・馬
※サティアン エヴァ ジャーヤタ イティ・・・真理だけが生まれると。
※リンガ・ヨーニ・サンバンダー・・・諸々の○○と××の結合
作者情報やコピーライトがあったら、メール下さい。

1999年12月10日

コラム−自画像−

無欲ということはどういうことであろうか?無欲でありかつ精進することの難しさを今,思い知っている.
ひたすら義務をこなすだけで,世間体なんかが気にかかって,自分がどんどん空洞化していく.そんな自分がものすごく恐い.近いうち死ぬか廃人になってしまうようで.
生命力の炎が小さいのである.きっと,病気になったら真っ先に御陀仏だ.
死にたくはない,ような気がする.でも生きる理由がほしい.
残念ながら宗教は何も答えてくれない.宗教には道心という強靭な精神が要求されるのだ.
私は平坦な日常生活に耐えることができない.頭のスイッチを切って日常に埋没できる強靭な精神の持ち主人こそ,私は尊敬する.
それは結婚をして子供をもうけて,善良な市民として生活するということは幸せだと思うしそうしたい.でも,それだけでは足りない.何が足りないのだろう?
だからこそ哲学が必要なのだ.つまり新しい価値を探したいのだ.スポーツをしたり,映画を見たりするのとあまり変わりないのかもしれない.結局は趣味であり,気晴らしであり,誰のためにやっているのでもない.
私の目が全知者の目であったら,私の心が全知者の心であったら,私の体が全知者の体であったら・・そんな無謀な試みを無謀と知りながら続けているのである.古の賢者たちが記した本を手がかりにして.
いっそ,今すぐ地球が終わってもかまわない.「終わりなんだな」と思うだけだ.地球が終わっても,決して消えることのない価値を私は求めている.あるがままにあるだけのもの.

2000年1月26日

お確かめください。

ヨーカドーにて。
「1219円でございまーす」
「1220円」
「1円のお返しでございまーす。お確かめください」
一体、何を確かめるというのだろう・・・思わず1円玉をしげしげと眺めてしまった。以上

2000年3月 1日

ちょっとした心配

全く余計なことだが、ちょっと心配していることがある。
駅伝やマラソンをしているとき、白バイががっちり警護し、そばを「審判車(何を審判するのか?)」が走り、その後ろを中継車が走る。
まるで大名行列だ。
あれだけのバイクや車がエンジンをふかして走っているんだから、その排気ガスは相当なものになるだろう。プリウスだってガスは出しているのだ。
それを選手が吸う、吸う、深呼吸で吸いまくる。排気ガスを吸うと気持ちいいという人がいるらしいが、体には絶対よくない。
いつの日か、選手が肺がんや環境ホルモンによる生殖障害で連盟を訴えるかもしれない。あれだけ吸っていれば、きっと健康障害を起こすし、その因果関係も明らかになるだろう。
そうならないためにも、白バイではなく交番チャリで警護し、審判は廃止、中継は最小限にというのが望ましい。

2000年3月30日

ごみの分別

最近、足立区から配られたごみの分別の仕方を読んで、今まで間違った分別を行っていたことがわかった。
ひとつは、ビニールは燃えないごみだということ。以前には確か「燃えないけれど燃やすごみ」ということで燃えるごみに分類されていたと思うが、高い焼却能力を誇る都内の施設でも燃やせなくなってきたらしい。
もうひとつは、牛乳パックはスーパーに出すということ。牛乳パックを洗ってはさみで展開し、新聞などと一緒に出していたが、それでも不十分のようだ。しかし目下集めているスーパーが見当たらないのが悩みである(後日見つかりました)。
それに関して、新聞とチラシは一緒にしていいが、雑誌とは別にするということ。私は雑誌などめったに買わないので、新聞と混ぜていたがそれではよくないのである。
以上、今までよりもより細かい分別が要求されるようになっている。こうして分別してみると、ビニール、プラスチックが多いことに気がつく。燃えるごみの2倍くらい出る.これが燃やされないまま地中に埋められるのかと思うと、少しいたたまれない気持ちになった。
ふと、このような細かい決まりを世の中のどれだけが遵守しているのか気になった。
今気になっているのは、シュレッダーで裁断した紙はリサイクルに出せるのかということである。どうも地域によって違うらしい。

2000年7月 7日

山形ネタ

昨日ラジオで天童の方が,
「白い紅花を咲かせた」
と喜んで話していた.「紅花かい?!」とツッコミを入れてしまった.
(ベニバナは固有名なのでこの場合実は矛盾はない.(例「全然卓越していない卓也君」)実物を見てみたいものである)

2000年7月11日

犯罪者差別

17歳の犯罪が取り沙汰されてずいぶん経つが,朝日新聞で同年代による投書が掲載されていた.
その中で戦慄を覚えたのが,
「厳罰を与えるべきだ.更正させる必要なんてない.税金の無駄だ」
という意見.世の中ここまで来たものかと思うことしきりであった.
ここには,犯罪者に対する明らかな差別がある.この差別は正当なものなのだろうか?
確かに被害者の関係者の心情から見れば犯罪者が普通の人間と変わりない生活を送ることができるのは許せないだろう.犯罪を重ねて新たな被害者を生み出す恐れもある.
更正させる必要がなく税金が無駄だと言うなら,死刑しかない.
しかしここには問題がある.まず,人間は悪いことをした人・していない人という厳格な区分があるように映ることである.これは正しくない.悪いことをしていない人などこの世にはいないはずである.単に法に触れておらず,自覚もないから悪いことをしたことのない人に区分されるように見えるだけだ.自分の行いを反省しないで他人の過ちを責めるのはどうしたものだろう.
次に,普通の人以外は差別されてもよいという考え方を助長する恐れがある.以前にこれと同じ非人道的な表現を障害者差別で見たことがある.
「遺伝子検査で障害があるとわかっているのに産んだ子供を社会が面倒を見る必要はない.税金の無駄だ」
また同じことが公共広告機構の「ジコ虫」にも表れている.モラルのないことは確かに問題だが,そのことで人間であることを否定してしまっていいのだろうか.本当に虫扱いしてよいのならば,即刻殺してもよいことになる.
「人間の姿をした虫が・・・」
「個性の重視」という教育や,責任なき個人主義の取りこみの結果,日本はこれからもどんどん差別する社会になっていくのだろうか.正義をふりかざすこの投書を読んで,その思いを強めたのであった.

2000年7月13日

浦島太郎

今日、上京してきた。研究室に行くと授業は先週で終わっていたという。むなしさが漂う。
先週水曜から金曜に葬式のために?@帰省。台風をやりすごして土曜に?A上京したが月曜にまた葬式が出て、?B帰省。今日?C上京。
授業は先週の水曜から今日まで全欠。せっかく上京してきたが、明日には土日の法事のためにまた?D帰省。日曜には?E上京する予定だが、来週水曜に?F帰省する。2〜3日おきに往復している始末である。その間に夏休みになってしまった。
上京してくると時間が確実に過ぎていることを否応なく認識させられる。自分の勉強ができないこともつらいが、いつの間にか「懐かしい人」になってしまっていることがこたえる。
「世間の縛着は衆苦に没す」

2000年7月23日

お酒

4日続けて飲んだ。自己新記録。
毎日適量飲むのがよろしいらしいが、体がうけつけない。飲むと眠りが浅くなったり喉が乾いたりするため、避けられない場合にしか飲まないようにしている。
単に体質の問題だが、ときどき卑怯にも「戒律で」などということがある。仏教には「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」という戒めがあり、実際東南アジアのお坊さんが飲んだりしたらあっという間に破門である。古代インドはなおさらのことであったようだ。
日本ではこの戒律が「飲みすぎない」と解釈されている。元来異性との接触を禁止した「不邪淫戒」が「不倫しない」と解釈されているのと同様、骨抜きである。
一方で、菩薩行の一環として世間と同じ視点にたつべく、世間一般の人々と同じように(これを「同事」という)酒を飲むのも大事であるという考えがある。お高くとまっていては相手にされない。
そんなことを考えながら飲む酒はあまり美味しくない。飲酒が破戒ならば罪悪感、同事ならばウソも方便という感覚、いずれにしても酒を楽しむことに結びつかない。いや、単に体質の問題なのだろうか。

2000年7月28日

子供の名前

そろそろ私の年代も既婚者が増え,子供が生まれてくるようになった.私も以前は子供の子供らしさが嫌だったのに,このごろは無性にかわいいと思うようになり,自身のライフステージの変化(学生から家住者へ)が来ているのだろうかと思う.
さて,このごろの親は子供の名前をつけるのに四苦八苦しているという話を聞くが,その結果最近の子供の名前はひどいのが多い.
奇をてらった特別な読み,強い思い入れが入った難字,ちょっとひねりをきかせた普通名前に使わない字.子供がかわいそうだと思わないのだろうか.
初対面の人に呼ばれるとき,テストで名前を書くとき,電話口で名前の漢字を説明するとき,携帯にその人の名前を入力するとき,などなど.いつも苦労しなければならずその子供の人生は真っ暗だ.「どうしてこんな名前をつけたんだ?!」と親を恨むときがきっとくるだろう.
名前はありきたりな方がいいと思う.覚えてもらいやすいし,どんなにありきたりでも同姓同名などという事態はまず起こらないからだ.名前はその子供の定義ではなく,他人と区別するための恣意的な固有名である.
将来,新聞で凶悪犯罪者が凝りに凝った名前だったりする日が来るだろう.そのとき,何人かの人が思うかもしれない.「ああ,こんな名前じゃなければもっとましな人生だったろうに・・・」

2000年7月31日

お祭り

今日は文殊堂のお祭り.35度の灼熱の中,下着・半天・下衣・大衣・袈裟の5枚重ねで,ろうそくの前でお焼香をしながら,太鼓を叩いて祈祷するともうすっかりトランス状態.心頭滅却すればの境地である.
文殊菩薩は獅子の上に座った像だが,これを獅子舞いに結びつけた先人のアイデアは見事だと思う.ご祈祷のあと,獅子舞いが始まり,地区内を3時間以上かけて練り歩く.35度の中いちばん大変なのはお獅子様の中に入っている人たちだろう.本当にトランス状態になれるかもしれない.
お獅子様は警護の導きにしたがって口を開き,勢いをつけて閉じる.子供たちが恐がるこの威勢のいい音は,悪霊退散によく効くような気がする.空気を清浄にするのは強い音波を特徴とするこのような音だと信じられてきたのだろう.感覚的にそれがよくわかった.
ハレとケという言葉で表されるように,老若男女(特に若者)が非日常的に暴れることで,日頃の鬱憤を晴らし,再び秩序ある平和な日常を送る契機とするのだ.力強く太鼓を叩く若者.
だからこそ,子供と若者がいないとこういったお祭りは成り立たなくなってしまう.少子化や過疎化の未来が少々心配になった.

2000年8月 1日

東大のトイレ

結構、ある一部の人々には有名らしい「東大のトイレ」。学内者じゃなければやらないし、学内者はふつうやらないので、珍しいサイトになっている。
はったりでつけたテーマ「トイレと学問」も受けているのかもしれない。
http://www.excite.co.jp/lifestyle/toilets
・・・学内のトイレを逐次紹介するとともに、トイレと学問が相互に影響し合うことを考察していく。トイレの写真と、清潔さ・広さ・混雑度・総合評価を★印で記載。見た目や使用した感想も。
http://www.t.u-tokyo.ac.jp/~watanabe/information/links.html
・・・"学内のトイレを逐次紹介するとともに、トイレと学問が相互に影響し合うことを考察していく"とおっしゃるインド哲学専攻院生の方のページです。工学部を含むキャンパスの西の方は未開拓のようです。
ちなみに、工学部も理学部も新しい建物を中心にリサーチ済み。しかし、どこも中途半端な狭さで絵にならないのだ。駒場キャンパスの方がずっと面白いトイレがあるが、わざわざ行くのもなんだか・・・
「トイレ盗撮」で検索してくる輩がいる。確かに人がいないのを見計らって盗み撮ってくるのだけど。

2000年8月 4日

サマーコンサート

東大オーケストラサマーコンサート長井公演。
前回から6年。人口3万の小さな街に東大オケは再びやってきた。
市制40周年にのった前回と異なり、今回は独力。チケット販売や広告取りは有志の手によって行われた。私はOBとしてお手伝いをしたが、その他の方々が私以上に一生懸命に尽力して下さり演奏会は成功裏に終わった。めでたし。
それにしても自腹を切って強行日程で演奏旅行をしている東大オケの団員は異様である。毎日のように食事は弁当、早朝から夜遅くまではたらき、観光などをしているひまはない。その姿はもはや音楽にとりつかれた宗教団体といっても過言ではない。敬意というよりも、サーカスの動物に対するような哀れみを禁じえない私であった。
そういう気持ちもあったからかもしれない。新世界のアタッカから必死のボーイングを見て少し目が潤んでしまった。
アンコールのヴィー・シェ―ンで出てきた外務とアナウンサー(共に山形出身)の緊張しきった顔つきを見るやいなや激しい懐古に襲われ、自分がまるで老人にでもなったような錯覚を起こした。「ああ、あの頃は・・・」などと。
今回は長井が最終地だったので恒例の打ち上げが演奏会終了後行われた。相変らず厳しい先生方の講評。特に「君たちは音楽をしていない。ただ楽譜を再生しているだけなんだよ」というのは、冷たい演奏といわれてきた東大オケのいちばん痛いところである。
しかしその後コンマスがさりげなく「僕らは僕らなりに楽しんでやっている」というような反論をした。これには溜飲が下がる思いをした。楽しくないなら辞めているはずなのに、これだけの「音が苦」を続けているのは、やはり楽しいからなのだ。しかしそれを生き生きとした表情に出すような下品な真似はしないだけなのだ。表情が硬いからと言って楽しんでいないわけではない。抑えきれない感情をコントロールしようとしている彼らの気持ちがよくわかった。
東大オケは良くも悪くも、何者にも依存しないで孤高を守ろうとする自律的集団である。彼らは心から「お陰様で・・・」などと言っていない。常に自分たちの力で自分たちの道を切り開いていく。周囲の手助けは後から付いてくるだけのことである。それでいいのだ。

2000年8月17日

変なもの収集癖

机の引出しを徹底的に整理した。そこはひとつのタイムカプセルであった。
高校時代に書いた座右の銘らしきものは自己紹介の「好きな言葉」に記録。
引出しから出てきた変なものベスト3
第3位 先生用巨大三角定規
  もしかすると小学校が新校舎になったときに要らなくなったものかもしれないが、泥棒だったのではないだろうか?
第2位 農水路水門用ハンドル
  これは完全にやばい。相当な重さのある金属のハンドル。といってもどこに返しにいったらいいかわからない。
第1位 米坂線のひじ掛け
  ボックス席の通路側にあるもの。外れていたのを持ってきたらしい。いったい何のためだったんだろう?
どれも相当の大きさがあるものばかり。もの珍しさにひかれて持ってきたのだろうが、全く使い道がない。しかし無用の用を感じていた自分の子供時代がとても懐かしくなった。

2000年8月20日

結婚披露宴

久留米にて研究室の先輩の結婚披露宴。
そういう世代に入りつつあるということだろう、一昨年くらいから披露宴にお呼ばれすることが多くなった。
披露宴に出席するのは新郎新婦の結婚を公的に承認し、祝福するためであることは確かだ。しかし、祝宴という華やかさの中に私はなぜか、悲壮感を感じる。
親元からの独立による社会的責任や家事負担の増大。
結婚相手による経済的・時間的・精神的な制限。
親族の倍化によるしがらみ。
こういったものをまだ若い2人がまともに受けるのかなと思うと、なんとも可愛そうになってくるのである。特に新郎に対して思うことが多い。そうなると披露宴はまるで戦地に趣く若人のための激励会のようだ。
新郎新婦は、愛というかたちのないものだけでこういった困難に立ち向かう。武運を祈るばかりである。
・・・ってなことかんがえてちゃ、いつまでたっても結婚できねえな。

2000年8月23日

日常生活のPC化

先延ばしにしてきた論文を作成。6時間パソコンに向かい、2時間食事・睡眠で休憩を4セット繰り返す。高橋名人に怒られそうである。
長時間パソコンに向かっていると頭の中がPC化してくる。これには困った。
まず、「やり直し」をついしたくなってしまう。部屋の配置を考えなく変えて重いものを動かした後、ふと「ああ、Ctrl+Zができたらなあ・・・」などと思ったりする。しかし人生はやり直しがきかない。もっと慎重に!
次に、「検索」をかけたくなってしまう。子供のときからそうだが、私はものをなくすのが得意で、1日に何度も失くなったものを探している。出てこないことも多く、大きなストレスになる。最近探しているとき、「ああ、この机を対象に検索ができたらなあ・・・」などと思ってしまった。まったくのナンセンス。
「ええと、Ctrl+Z、Ctrl+Z、・・・無理か」
「検索は、検索は、と・・・あ、できない」
この症状が進むと、笑い話ですまなくなりそうでコワイ。

2000年8月29日

信心

祖父の3回忌。家族4人(祖母、母、叔母、私)で準備するにはあまりに荷が重かった。完璧などないのは分かっているが、手落ちがある程度以上になると落ち込んでくる。
ただ、終ってみるとこれだけの作業量を4人でやったのが奇跡に近いように感じられた。
これだけの準備をしていると、「こんなに忙しいのは自分だけじゃないのか?」というエゴがもたげてくる。そんな時、毎晩12時過ぎにならないと帰れないような仕事をしている友人たちを思い出し、慰められた。
仏教における幸福になるための十訓
1.よくばらない
2.悪いことをしない
3.規則正しく正直に
4.尊敬できる人をもつ
5.他の人の幸せを願う
6.惜しまないで与える
7.喜び悲しみを共有する
8.仏教を学ぶ
9.仏教を広める
10.真実を見極める努力

2000年8月31日

逆境

笑顔が優しく,柔和で誰からも愛されていた方が亡くなった.まだ若かったがとても幸せそうな死に顔だった.その方は若いときから病気がちであったが,逆にその病気がその方の思いやりあふれる性格の糧になったとも言える.健康な人はしばしば健康のありがたみを忘れ,自分一人で生きているような傲慢に陥りやすい.
しかしこのように逆境を乗り越えられるのは稀なことかもしれない.自分が置かれた逆境に強い不満を持ち,まるで自分だけが不幸であるかのようにして,自分の未来をコンプレックスの渦に巻き込んでしまう人もいるだろう.自尊心が高くて,臆病で,無思慮で,人の痛みをわかることができない.
逆境に立たされたとき,挫折を味わったとき,私はそれを自らの糧にしていくことができるだろうか.自分の弱さがとてももどかしく感じられた.ご冥福を心から祈る.
涙落青山紅滴々
打胸幾度哭蒼天

2000年9月 2日

学会

日本印度学仏教学会学術大会第1日目。
学会に先立って毎年恒例の飲み会が昨日あった。そこで初めて聞いた言葉「テロられる」。
これは、(大学の先輩などで)味方だと思っていた人が発表終了後、内容を覆すような反論をして収集がつかなくなることらしい。
私の発表は明日。テロられないといいな。

2000年9月 3日

学会2

日本印度学仏教学会学術大会2日目。
発表はテロられることもなく、無事終了。たくさんの先生方とお話ができたのがうれしい。インド哲学というマイナーな分野でも、国という規模では結構いるものだとわかった。
発表には大きく分けると2種類の傾向があるように思われた。データ重視型と、思考重視型。
前者は「この文献にはこう書いてあり、あの文献にはこう書いてある」というもので、難解な文献をわかりやすく解きほぐすのは意味があるだろうが、ややもすると単なる紹介に終ってしまう。「で?」というツッコミもよく見られる。
後者は「私はこのように感じる」というもので、古代文献に現代的な意味を与えるのは新鮮だが、説得力がないマイ哲学になる恐れもある。ツッコミは「そうかなー?」。
この間をつなぐものが、「解釈」。データに裏付けられた、論理的な思考。これこそが斯界を発展させる原動力になるに違いない。
今回の私の発表は前者の傾向が強い。しかし参照文献の量が少ない。データも、思考も、まだまだだ。

2000年9月 7日

学会3

学会誌の原稿を作る。
発表原稿はA4で8枚。指定された学会誌の原稿はA5で3枚!元原稿をA5の書式にしただけで11枚!!というわけで約4分の1のリダクションをしなければならなくなった。
・サンスクリット原文を削除
・序論も削っていきなり本論に
・余談みたいな注をとる
・繰り返しになっている表現をとる
・余計な改行をとる
・段落が変わる前に余白が多い時は前の文章を短くして無駄な行をつくらない
・漢字に出来るものは漢字にする
・デーヴァダッタ(人名)はDevadattaにする(笑)
例示も削りたい欲求にかられたが、例示までとってしまってはまったく意味不明なので何とか残す努力をした。
始めてから約6時間。原稿はリダクションというよりも、圧縮された。lzhやzipファイルって、中身はこんな感じかなと思うくらい、混み込みの原稿だ。読んでみると、略号やらインド人の名前やらで意味不明。もっとも、元原稿もそうだったから仕方がない。
元原稿はもったいないので、html形式で保存してWeb公開することにした。

2000年9月11日

舌炎治療記

8月末から苦しんでいた舌炎が10日ほどかけてやっと治った。
疲れやストレスなどがたまるとよく口内炎や舌炎がおこる。先月末の法事のあたり、疲れていた上に親戚が持ち寄ったお菓子をバクバク食べたのが悪かったらしい。
はじめは舌がピリピリするくらいが、舌の先端に1mm大の炎症ができる。おとなしくしているとよかったのだが、更に学会で飲み会があったり、調子に乗ってしゃべっているうちに「た行」「な行」がダメージを与えた。
これまで口内炎は「合成副腎皮質ホルモン剤 ケナログ」で治してきた。妊婦には使用しないで下さいという謎の説明がついたものである。
しかしこの度は舌。ケナログを塗ってもあっという間に薬剤が落ちてしまう。
まず「うがい薬 ハチアズレ」。これは祖母が入れ歯でできた炎症を鎮めるためにもらった薬。紫色で塩味。患部に甚く沁みる。
次に「プロポリス」。研究室で効くらしいと聞いてきたものである。蜂の巣の抽出成分で、なぜか葉緑素の塊らしい。患部に当てるため、錠剤ではなく液体を買ってきた。結構高価であったが、とにかくマズイ!些か健康になったかもしれないが、舌炎は治らなかった。
結局これが効いたと思えたのは、「大正口内軟膏」である。毒々しい真っ赤な軟膏。ケナログなどと成分が全く違い、また舌炎にも対応して薬剤が患部に接着するようになっている。夜のうちに塗っても朝にまだ持続しているというスグレモノだ。それでも喋ると薬剤は落ちる。できるだけ喋らないようにしながら、夜に集中的に治療した。
薬剤を塗り始めて3日。いったんひどくなりかけた舌炎は次第に収まり、ついに完治した。またそのうち出るかもしれないので、今度も「大正口内軟膏」で治そう。(薬剤メモ)

2000年9月18日

携帯電話

電車の中の携帯電話について。
少し前と比べても、車内は静かになった。話がメールに替わったためだ。今携帯をいじっている人は、友達の番号の登録などをしているのではなく、メールの読み書きやホームページを見ているのである。
問題なのは、車内放送。
「車内での携帯電話のご使用は、他のお客様のご迷惑となりますのでご遠慮下さい」
この場合「使用」とはどういう意味であろうか?
周知のように、携帯電話の電磁波はある距離以上近いとペースメーカーに悪影響を与え、命にかかわることもある。メールやホームページの閲覧でもやはり影響を与えるはず。
しかしこれに対する批判というものを私は聞いたことがない。話はうるさいから迷惑だが、メールなどは容認されているという印象を受ける。
だとすれば車内放送も、「車内での携帯電話のお話は、うるさくて他のお客様のご迷惑となりますのでご遠慮下さい」としか言っていないということになる。
結局、ごく少数の、ペースメーカーを付けている方々への迷惑ではないのだ。ペースメーカーを付けている人は、もはや混んだ電車に乗ることはできない。耐電磁波のペースメーカーの開発を待つか、車で行くほかない。
少数者に厳しい社会の、当然の結末にしては少し悲しい。

2000年9月23日

嗜癖-Addiction-

先日,アディクションの傾向があると言われたので,躍起になって調べた.(岩崎正人『嗜癖の時代―現代人を蝕む心の病い』1994集英社)
嗜癖(Addiction)は,以下のプロセスで進行する.
1.嗜癖行動は,もともと日常生活の中で個体のメリットに添う習慣の形で始まる.
2.次の行動の自動化が進む
3.その結果,個体の真の(長期的な)利益とは一致しない悪い習慣が出てくることがあり,極端な場合には習慣を維持すること自体が行動の目的になる場合もある.
はじめはちょっとした楽しみや喜びを得る行動だったのが,楽しみや喜びがなくとも無意識に行われるようになり,ついには苦しみや病気になってまでもとまらなくなってしまう.
例としては仕事依存症,アルコール依存症,摂食障害(過食症,拒食症),薬物依存,ギャンブル依存,性倒錯などが挙げられている.
インドの快楽の分類で「繰り返しによる快(aabhyaasikii-sukha)」というものがあるが,長い繰り返しの後には無感覚や苦が待っていること(繰り返しによる苦)もあるようだ.
付録の仕事依存症チェックをやってみると,私は重度の依存症だった.そういえばこのところ心にゆとりがないような気がする.(CGIによるチェックはこちら
だいたいこんなことを調べたり,CGIを作ったりしているあたり,何らかの依存症といえる.
手遅れになる前に・・・

2000年9月25日

妥当

マラソン金メダルに対し、巨人優勝の記事サイズは極小。
巨人が優勝するのは全くニュース性がない。
「強すぎますな。今の規則がある限り、巨人の黄金時代は続くでしょう。素直におめでとうと言う気にはなれない。権力とお金の力で勝ち取った優勝という思いがあるからかな。」(野村監督)
まったく同感。でも、サッカーがあれだけ人気を得てきた昨今、野球離れが進めばこんな他人事のようには言っていられなくなるのではないだろうか。

2000年9月26日

知られざる規則

http://www.ecc.u-tokyo.ac.jp/guide/guideline.html
を最近発見した。大学サーバ上での利用の手引きである。ここに、情報発信者の責任を明確にするため、無名・匿名・偽名で発信するものは適切ではないと記されている。
全く知らなかった・・・ちなみにこのサイトでは発信者の名前はひらがなまたはローマナイズした形で明記しています。
ホームページはたいてい、偽名(ハンドルネーム)で発信されていることが多い。大きな理由は個人情報の開示によるトラブルの回避であろう。
大学の証明書発行機は、何と学生証番号と生年月日(暗証番号のデフォルト)さえ打ち込みさえすれば発券されるようになっている。ECCのホームページは学生証番号がアカウントになっているため、生年月日などを出していたら一発でアウトという怖さがある。
これは極端な例だが、スパムメールからネットストーカーまで何が起こるか分からないところに怖さがある。つまり、こちらが知らないのに知られているという有名人状態にたやすくなってしまうのである。
しかし一方で、匿名・無名・偽名であることを利用した悪質な発信も見られる。人間は仮面をかぶれば狂暴化するものなのだろうか。普段は大人しい善良な社会人がネット上では他人の迷惑も省みない言いたい放題、やりたい放題の輩に豹変してしまう。
実名で発信する責任と危険性。匿名・無名・偽名で発信する自由と無責任。どちらという結論は出ないが、少なくとも他人に発信するだけの最低限のモラルは必要かなと思う。(青っちょろい結論ですみません・・・)

2000年10月 2日

10月になり

10月になった。あと3ヶ月で今年は終わり。
今年になってから約9ヶ月、私は何をしていたというのだろう?この調子ではあと3ヶ月もあっという間だ。そして来年になり、再来年になり・・・
光陰は矢よりも速やかなり

2000年10月18日

山形な話

山形にいないとわからない話だが、YBC(山形放送)ラジオはおもしろい。
個人的に注目(傾聴)しているのは、道路交通情報センターのヤノさんと、タカハシアキコアナウンサーである。ミスターローカル氏などバリバリの山形弁を話す人も面白いが、この2人は標準語なのに訛っているという点で注目される。
YBCのホームページ(http://www.ybc.co.jp)でアナウンサーを見ると18人中山形出身者は4人。タカハシアキコさんが見当たらないが、もう一人佐藤智恵子アナ(酒田出身)もときどき訛るので面白い。YBCを代表する横尾友栄アナは東根出身だがまったく訛らない。
標準語なのに訛るとはどういうことかというと、まず発音である。ヤノさんの場合「雨降り」は「アミフリ」になっている。とても楽しい。もうひとつは語中のアクセントである。タカハシ・佐藤アナはときどきおもしろいところにアクセントが来るのでこれもまた傾聴してしまう。
アナウンサーとしてはそういうのはあまりよくないのだろうが、山形らしいのも心が和んでいいものだ。

2000年10月27日

突然政治の話

中川長官更迭。「迭」っていう字は更迭以外に見たことない。テツって読み方覚えても勿体ないくらいだ。
新聞などでは評論家が問題を矮小化してはならない、これは森政権の問題だなどと言っているが、それでもまだ矮小である。どう考えたって森政権だけの問題ではないだろう。森氏を出したのは与党・自民党ではないか。
同党の加藤派や若手議員が森氏を批判しているが、批判するだけでは何にもならない。自分は森さんとは違うんですよと宣伝しているだけにしか聞こえない。新党結成するなり、政権奪取を公言するなりしなければ行動したとは言えないところまで来ている。
この先森政権が倒れて、また自民党から新政権が誕生したとする。それで内閣支持率が上がるならば、それは猿芝居というものだろう。結局同じ党内戦略で交代劇を演じているにすぎない。
非拘束名簿方式が与党の思惑から外れて、無党派・超党派の台頭に結びつくならば、この国も少しは変わるだろうか。自民党から有名人が立ったとして、有名というだけですんなり投票してしまうほど国民はおろかではない。

2000年11月 2日

地元での演奏会

コチアンカルテットチェコ共和国の弦楽四重奏団「コチアン・カルテット」の演奏会を地元で開くことになり,主催者兼司会として仕事をした.もともとは吹奏楽団の活動費を捻出するための方策だったが,世の中はそんなに甘くなく,会計の話ではおそらく赤字になったようだということである.それでも私自身の満足度,お客さんの喜んだ顔からすれば全く後悔のない演奏会となった.
赤湯駅で奏者の方々をお迎え.同行のピアニスト白澤さんはシュトットガルトで勉強していたことがあり,奏者とドイツ語で話していた.話していると4人は仲間内ではチェコ語を話しているが,対外的には英語で用を足し,そのうち2人はドイツ語も堪能だった.つまり2人にはドイツ語で話し,残りの2人には英語で話すことになった.さらに白澤さんは日本語,地元のスタッフは山形弁で話すので,英・独・日・山のテトラリンガル(四重言語)になる.今までに経験したことのない状況に,頭が容量オーバー気味.「Er
has ...」など言葉も互いに交じり合う.何を言っているのか自分でもわからなくなり最も得意とするはずの山形弁にまで障害が出てくる始末.
奏者の具合が悪くなり急に病院を探したり,イスが低くて急遽ピアノ用イスをあちこちから調達したり,カーテンコールがまだあるのに司会アナウンスを入れたり,もう1曲アンコールがあったのに演奏会を終了してしまったりするなどハプニングはたくさんあったものの,完成度の高い演奏のおかげで演奏会は大成功に終わった.プログラムはドヴォルジャークの「糸杉」という歌曲アレンジもの,モーツァルトのピアノ四重奏曲,メインが「アメリカ」だった.ドヴォルジャークは「これがお国芸だ!」と言わんばかりの演奏.テンポのゆらし方が自由自在でロマンティックに歌い上げる.ソロがメロディーを引っ張ってもアインザッツが乱れない.特に「アメリカ」の3楽章のチェロの情緒たっぷりのソロは感激ものだった.モーツァルトもその調子で遊び心のある好演.ピアノがえらく情熱的だったのが印象に残った.こういう情緒のある演奏はクラシックに縁遠い山形人にも十分迫るものがあったようで,大拍手となった.
演奏会終了後のレセプションも楽しいものとなった.「やっぱり演奏会の後はビールだよね」「こういう小さい町は好きだなあ」などとご機嫌の奏者の方々とおしゃべりをして過ごす.「日本の仏教徒は肉も食べるし酒も飲みます」という話をしたら,「仏教は哲学だと思う.だからモラルとは切り離していいはずだ」などと言われた.また盛んにプラハを宣伝しており,プラハでの連絡先まで教えてもらった.「いつ頃来られる?」なんて気の早い質問もあったが,いつかは行ってみたいものである.その他サイン入りプラハ写真集を頂いたりして,2時間という短い時間だったが刺激的な発想に触発される有意義なひとときだった.
こういう貴重な経験はたとえ大金を出したとしてもなかなかできない.ひとつのコンサートは2時間ぐらいのものだが,その陰には奏者の手配から始まり,交渉やらプログラム作成やら,その他こまやかな気配りがたくさんあってやっと成功といえるものに結実する.演奏会の準備に携わったスタッフに心から感謝したい.

2000年11月 4日

女装

友人の結婚式の出し物として、友人と3人で女装してパラパラを踊りました。馬鹿と笑われてもしかたなく、こんなところに書いておくと恥ずかしいのですが、気合のはいった内容だったので書きとめておきます。
金髪のカツラ、ガン黒のドーラン、白のアイシャドウ、白い口紅、付けまつげ、ラメのタンクトップドレス、黒いミニスカ、黒ソックス、黒サンダル。これで材料費11,000円也。
買出し、準備、練習に要した時間は計13時間。これはもはや結婚する友人のためではなく、我々自分自身の満足のためであった。
パラパラのCDとビデオを借りてきて研究。振付けは専門家にしていただいた。何度も何度も繰り返し練習。メロディーは歌えるくらいになった。腰使いが難しい。
当日は本番までパラパラのことで頭がいっぱいで、本番後はすぐお開きとなった。まさに、踊るためだけに結婚式に来たといった感じである。下品さはかけらもなく、その完成度に多くの方から賛辞を頂いた。
女装をすると、なぜか言葉遣いも女性になる。また普段気にしない容姿なんかが気になってくる。誰が一番きれいかなんて、考え始める。スカートをはいてすうすうする裸に近いような身体感覚。これらはとても新鮮な経験だった。癖にならないようにしたいものである。
実は、このメンバーは、前回(私は不参加)の結婚式ではバニーガールの格好で醜悪なラインダンスをやっている。そのときと比べ、かける労力が確実にエスカレートしている。次はどうなることだろうと思うと、恐ろしい。

2000年11月 5日

電車の色について

都内を走っている12本の地下鉄のうち、いちばんイヤなのは日比谷線である。
まず、灰色という色がよろしくない。火葬の後の灰を思い出してしまう。
そして事実、サリンをまかれたり、脱線したりとよくないことが立て続けに起こっている。
霞ヶ関駅の壁をよく見ていると、人の顔が浮かんでいるように見える。実に不吉な地下鉄だ。(ユーザーの方、すみません)
2番目は、有楽町線のドドメ色。もう色がないのはわかるが、営団ももう少し色を検討すべきではなかっただろうか。
中央線で自殺者が相次いでいるが、その一因に電車の紅色があると思う。
山手線の緑、京浜東北線の水色、埼京線のエメラルドグリーンなどと比べて、生暖かく楽しそうな色だ。
思い詰めたとき、あれを見たら「死んだら楽になれる」と思うのも無理はない。極楽直行便。日比谷線と比べこちらはおめでたすぎる。
武蔵野線も同じような色だが、路線の大部分が高架になっており、幸いにして飛び込めない。
JRも、安全祈願祭などをする前に、この色を検討すべきではないだろうか。

2000年11月13日

Schauspieler(俳優)

住職になって2年が過ぎた。緊張だらけの最初のころに比べ、法事も葬式も落ち着いて執り行うことができるようになってきたと思う。間違えても動揺せずに次の手を打つことができる。
自己完成の修行をしている僧侶にとって、葬式や法事は利他行、つまり他人を満足させる仕事、言ってみればサービスだ。初期仏教では出家者が在家のことに関わらなかったという。日本でも僧侶以外の葬式に僧侶が行くようになったのはそれほど昔ではない。はじめは僧侶の葬儀法を一般の在家者に適用していいのか議論があったほどだ。葬式仏教といって葬式と法事がメインになったのは江戸時代になってからのことである。
そういうわけで、僧侶がもっとも施主を満足させる効果的な方法を模索するのは当然の帰結と言える。今の時代、「わけが分からないからありがたい」というような人は滅多におらず、きちんと理性で納得できなければ受け入れないのが普通だ。となると従来の葬式・法事のやり方もわかりやすいものに改めるという必要が生じてくる。
最近詠讃歌という強力なツールを入手した。それも含め原義を損なわないよう注意しながらいろいろ工夫してみている。それは言ってみれば「演出」である。
この「演出」の副作用が最近出てきた。葬式や法事は人がたくさん集まってくるから一生懸命になる。それはいいことだがその分、人が見ていないところでだらけてしまう。起床が遅い、朝のお勤めがテキトーなどなど、息抜きにしてもひどすぎる実態だ。そのことをふと反省するたび、「ああ、何やってんだ?!」と自分自身に苛立ってくる。
「君子は人が見ているかどうかで行動が変わらない」と論語にあるのを思い出す。当たり前のようにして自分を律していけるようになりたい。

2000年11月20日

ゲームの話

先月、ドイツであるゲームの本が出版された。日本でも少しは知られているドイツゲームの傑作「カタンの開拓者たち」の新しいシナリオとヴァリアントを掲載した「カタンブック」。
アマゾンコムなどを使えば日本から直接手に入れられたのだろうが、ドイツに住む叔母の夫(ドイツ人)に頼んで買ってもらった。
日本のゲーム屋さんでこれに翻訳をつけて売り出そうとしているところはまずないだろうと思う。本を1冊翻訳するのはゲームについている小冊子のルールを翻訳するのとはわけが違う。
そこで、自力で翻訳を開始した。ルール自体はそれほど単語の種類が多くないので楽だが、その前についているメルヘンチックなストーリーの翻訳が骨が折れる。
カタンの掲示板で翻訳仲間を募った。参加者が少なくてもぜひ完成させたい。
今回の翻訳のルールとして以下のように提案している。
・ですます体
・訳語は既存の日本語版に従う
・わかりやすくするための意訳・括弧注歓迎

2000年11月24日

遅ればせながら、内閣不信任案否決

今回の騒動、加藤紘一氏が山形出身ということでひいき目で見ていたが、まことに残念だった。「無理が通れば道理ひっこむ」ということなのだろうか、新聞が永田町を面白おかしくストーリー仕立てで報じているが、実際起こっていることは政治家にしか、いや政治家にすらわからないように感じられる。
内閣不信任案否決は午前3時46分だったという。そして朝8時すぎにはもう記者会見などしていた。どう見ても2,3時間しか寝ていない。政治家って人間なんだろうかと思わせる。途中で倒れれば「それだけの器じゃなかった」と言われるだけ。国を動かすということがいかに大変か。
街頭インタビューで居酒屋帰りの上機嫌が、「ほんっと、加藤さんには失望したね」なんて言っているのは全くお話にならない。政治に関心を持ち、投票行動を通じて参加していくことだけでなく、機会があれば積極的に政治について真面目にいろいろな立場の人と話を重ねることも大切だろう。
ところで、野中氏の名前が広務だというのを実は知らなかった。国会中継の名札を見て、「へぇー、内閣には広務っていう役職もあるんだなあ」と思ったのは私である。偉そうなことを言う資格は全然ないですな。

2000年11月30日

喫煙者差別

 筒井康隆の「最後の喫煙者」という短編小説を読んだ.愛煙家である小説家が禁煙を進める世論の高まりと共に迫害されていくというお話.名刺に「わたしはタバコの煙を好みません」と印刷している女性編集者,「犬と喫煙者立入るべからず」という公園の看板,ぼろぼろなのに二割増の新幹線の喫煙車,そして事態は喫煙者の惨殺・日本たばこ会社の焼き打ちへと発展していく.
人類の叡智は常に,その愚行が極端に走ることを食いとめるという説があるが,おれはこの説に反対である.極端というのがどれほどのレベルをさしているのか知らないが,過去,人類の歴史をふり返れば愚行が私刑とか集団殺人とかいう極端の一種に走った例は数限りなく存在する.喫煙者差別もついには魔女狩りのレベルにまで達したが,差別する方はこれを愚行だと思っていないのだから始末が悪い.宗教とか正義とか善とかいう大義名分がある時ほど人間の残虐行為がエスカレートする時はないのだ.
 このファンタジーはもしかしたら現実のものとなるかもしれない.大多数が嫌煙者になれば,喫煙は悪習であるという風潮が高まり,やがてそれが喫煙者は悪人であるという偏見を生んで粛清が始まりかねない.
 すでにその種は現在においてもある.吸殻のポイ捨てを見て,煙草を吸わない人は「喫煙者はマナーが悪い」と思う.それを数回見れば「喫煙者は誰でもマナーが悪い」と思うだろう.同様に路上で煙を撒き散らしている人を見て「喫煙者は他人の迷惑を顧みない」と思い,数回繰り返されれば「全ての喫煙者は他人の迷惑を顧みない」と決めつける.そこまでいけば「喫煙者は誰でも悪人である」と思うのはあと一歩である.もちろん中には携帯灰皿を持ち歩いて吸殻を捨てない人や,他人に煙が降りかかるおそれのある場所では吸わないことにしている人もいる.帰宅して自分の部屋でしか吸わないという人もいる.しかしそういった「喫煙者は誰でも〜」という偏見に対する反例は見過ごされがちであり,ましてや嫌煙者が感情的になればなおさらである.
 人類の悪しき遺産である男女差別,職業差別,人種差別,障害者差別なども同じ論理でエスカレートしてきた経緯がある.ひとつふたつの小さな違いが過度に一般化され,偏見を生み,過剰な反応につながっていく.このことは今や差別する側に立つ嫌煙者が「愚行」に走ることがないよう大いに反省しなければならない.そのために以下のようなことを自分に言い聞かせる材料として用意してみた.
●喫煙と人格は一切関係がない.非喫煙者にも悪人はいるし,喫煙者にも善人はいる.(この場合の悪とは殺人をはじめ犯罪行為を意図している)<喫煙と人格の切り離し>
●同じく喫煙と能力には一切関係がない.喫煙をするかしないかによって能力が優れたり劣ったりすることはない.<喫煙と能力の切り離し>
●喫煙は自由に選ぶことのできる嗜好である.嗜好としての喫煙は他人がとやかく言うことではない.(ただし健康を心配するという親切についてはこの限りではない.また,煙草という毒物の販売は社会問題として問題視されなければならない)<自由の尊重>
●嫌煙者は自分自身が煙を吸い込むことを避けるという場合のみ,喫煙者に対して嫌煙を主張することができる.(喫煙者が吸う場所・時間一般に干渉しない.嫌煙者に迷惑をかけなければいつどこで吸おうが自由である)<過干渉の忌避>
●迷惑な煙もある場合には我慢するという寛容が必要である.誰でも他人に迷惑をかけないで生きていくことはできない.<限定的な許容の必要性>
●喫煙をするか否かという点でのみ異なる喫煙者と嫌煙者は,お互いに住みよい環境をつくるべく尊重し合いながら協力していかなければならない.<相互理解と協力>
 ただし煙草は気軽に手にとることができるにもかかわらず,自分及び周囲の人間の健康を害する毒物であり,しかも常習性があるという異常な事実,さらにその事実があまり認識されていないという異常な事態がこの問題を複雑にする.大蔵省とJTの責任が追及されるべきなのは言うまでもないが,社会問題として,さらには喫煙者・嫌煙者ひとりひとりの問題として意識していかなければなるまい.

2000年12月 6日

他人の中の自分、自分の中の他人

1920年創立の東大オケが80周年を迎え、3日に記念演奏会と記念祝賀会が開かれた。気がつくと実行委員長をしていた私は、大した仕事もせずにあいさつ担当で適当な話をした。
謝辞などは後日出版される記念誌にイヤというほど書き上げているので、これを読んでいる関係者はそちらを参照されたい。今回の記念誌では以前に書いたものも含め7本くらい書いている。
知己というべき懐かしい面々が集まった。みんなが学生時代に戻っていた。老いも若きも「ただひとつ(※東大の応援歌)」だった。私も例外でなく、さまざまな懐かしさに襲われつづけていた。まるで失っていた自分を取り戻したかのような感覚。
旧友と話すたび、旧友の中に住んでいる自分に出会う。その自分は今の自分と相当違った顔をしている。若くて、青くて、馬鹿な自分。逆に自分の中にも旧友は住んでいたようである。お互いに自分自身と話しているだけなのかもしれなかった。これが全ての懐かしさの源泉だろう。
祝賀会に集まった300人の人達のうち、東大オーケストラが100周年を迎える20年後まで生きているのは何人くらいだろうか。しかしこの世を去ることになっても寂しいことはないと思えた。この世に残る人の心の中に自分は行き続けていけるのだ。その自分は他人の思い出ではない。生きている自分自身にほかならない。
そんなことを考え、涙が出るほど楽しい気分になった。

2000年12月11日

先日キリスト教式の結婚式に参列した。聖書では、愛(もちろん神の博愛を指すのだが)が人間生活の基礎として大事にされる。ウェディングドレスがいいというだけでなく、キリスト教が結婚式にふさわしい宗教だということを思い知った。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。また、ねたまない。愛は自慢せず、高慢にならない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、人の過ちを思わない。不義を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」「愛は決して絶えない。信仰、希望、愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの書簡)
一方、仏教はというとこんな厭世的なことを言っている。キリスト教で説かれる博愛と違って、これは愛欲を意図したものではあるが、そうだとしてももしこれを結婚式で読んだら大ヒンシュクだろう。
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うもの苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか。(ダンマパダ)
にも関らず世の中には結構、仏式の結婚式が存在する。それはなぜかというと、仏教の教義からではなくて「山寺の和尚さん」というようにコミュニティーの指導的立場を果たしてきた僧侶の立場と人格が相応しかったからだろう。
仏教においてキリスト教の博愛に対応するものは恐らく慈悲である。こういった崇高な愛のかたちに、愛欲に縛られがちな人間はどこまで近づくことができるのだろうか?
どこかで聞いたフレーズを思い出しながら、哀れな私。
「愛は与えることである」
「愛、使い古された言葉だけれど今はこれしか浮かばない」
「愛という字は真心で恋と言う字は下心」


2000/12/11(月)

2000年12月18日

大阪旅行記あるいは休暇の過ごし方

先週関西に2泊で行ってきた。そもそもの目的は御詠歌の研修会だったが、そのためだけに旅費を費やすのがためらわれたので、大阪のゲーム屋さん「シュピーレブルク」でのショッピング、小林製薬研究所の見学ツアー、京都に住む後輩ネオせん茶氏(仮名)との再会、よしもと観劇とメニューを無理やり増やした。
大阪の雰囲気はいい。温暖な気候、庶民的な街並み、おいしい料理、関西弁の響き、飾らない応対がなぜか落ち着く。
ゲームはHABA社というドイツのゲームメーカーがお目当てだった。この会社は子供用ゲームの傑作を量産しているのだが、それらの多くは大人でも本気で遊べるものである。ルールの妙とコンポーネントの美しさで、単純であるにもかかわらず燃える。店長の説明も上手で、全部買いたくなってしまうほどだった。
小林製薬研究所の見学(※外からのみ)は後で小林製薬のページに掲載するつもりだが、茨木駅バス20分という遠いところまで行った甲斐があったと思えるほど、とにかく感動した。
ネオせん茶氏は相変わらず元気すぎるほど元気だったが、この日のために相当体力をためておいたように思われた。久しぶりの「3度進行」芸やよく見ているという2chの掲示板を見せてもらった。たくさんのエネルギーが消尽されている模様だった。
よしもとは前回新喜劇を見たので今回はbaseよしもとで若手のライブを見た。客はほとんど女子高生だったため、笑いのつぼがずれまくっていたが、出演者の世代が近いためかたいへん面白かった。いちばんうけたのはやはりトリのビリジアン。会館に入っている本屋さんの上方芸能や特撮関係の品揃えもすばらしかった。
と、酒もギャンブルも得意でない私でも堪能できるいい休暇だった。案内役兼お供のやまにし氏には感謝する次第である。

2000年12月23日

東大生のこだわり

大学生協では,食堂や購買部に寄せられた意見とその返事をまとめた一言カード集を発行している.たいていはクレームだが,なかには冗談としか思えないものもある.「禁無断転載」とあるが,あまりに面白いので少しだけ紹介.
まず食堂に寄せられた意見から.
「前から気になっていたのですが,豚汁の中にはいつもお肉が入っていません.顕微鏡で見たら,成分が入っているのでしょうか?もっと豚肉を増やすか,いっそのこと別の名前にしてしまえばどうでしょう.」
「前にもそうだったが,豚汁に2mm角程の肉しか入ってなかった.確認して入れてほしい.」
餓死するほど空腹なのか,それとも遊び半分なのか本気度はわからないが,豚汁にこれだけこだわれるということは素晴らしい.データに基づいたクレームで,まるで自分の空腹まで理論化できているかのようだ.そしてその返事も至極丁寧で楽しい.
「肉は豚小間を使用しているのですが,どうしても煮込んでいるうちに形も身崩れしてしまい原形はなくなり,エキスとなっているのが実情です.」
このやりとりを漫才といわずして何であろう.
論文調の意見も説得力がある.論文を書きすぎているうちにこういう書き方しかできなくなっているとしたら滑稽だけれど.
「揚げ物を含まないセットメニューがほとんどないのは困ります.学術的にはどの程度裏づけがあるのか知りませんが,マフェトン理論という持久的トレーニング理論にある食事法では揚げ物の脂肪は有害で真っ先に避けるべきとされています.参考文献:『マフェトン理論で強くなる』ランナーズ社」
一方購買部では多様な嗜好を垣間見る.
「チートスを売って下さい.」
「がりがりクンもっと入れろ.」
「がりがりクンヨーグルト味を入れろ.」
「ウルトラマンのフィギア」
「ドクターペッパー大好きで1日に2本は買っています.是非,500ml缶も導入して下さい.」
このひとつひとつに生協の方が返事し,時には実際に動いてくれている.生協とはそういうものだといえばそれまでだが,これだけのサービス力には頭が上がらない.

2001年1月 4日

お正月

♪もぉーいーくつ寝ーるーとー」というほどお正月が待ち遠しいのはなぜかわからないほど、お正月は普通だった。
大晦日は小沢征爾のバッハで辛うじて救われたが、お正月からはただルーティンを消化するというだけで、頭は全くはたらいていなかった。そうなって来ると「あけましておめでとうございます」と言うのさえ白々しい。
こんなにネガティブなのは、ひとつには21世紀という言葉への無感動があるように思う。西暦でなければ何の特別なこともない。政変が起こって日本が全く別の国になると言うならともかく、20世紀と21世紀を別の時代であるかのように考えられるか甚だ疑問である。
それから年末年始の行事の多さにうんざりしていること、元旦から大雪で除雪作業に追われていることなどが追い撃ちをかけている。子どもの頃楽しみだったのはお年玉のおかげだろうか?
そんな訳で憂さ晴らしに元旦の夜に幼なじみと飲み会、2日の夜に高校の同級生・後輩とゲーム大会を行った。これはどちらともヒットで、笑ったり叫んだり楽しいひとときを過ごした。懐かしい顔ぶれと会うのは、自分の忘れていた部分を再発見することである。
これで「お正月らしくなった」と思ったとき、ふと「お正月は楽しくなければならない」という観念に追われていたことに気づいた。お正月は楽しいはずだが、実際は楽しくない。その期待と現実の溝が大きかっただけのことである。やはり普段から見ればお正月はそれなりに盛り上っているのかもしれなかった。

2001年1月 9日

大雪警報

雪下ろしお正月から近年まれに見る大雪が降り、除雪作業の毎日が続いた。何でも夏にカメムシが大量発生すると大雪になるらしい。カマキリの卵が高いところに作られると大雪になるという話もある。今年のカマキリの卵の位置の高低は諸説あったが、確かにカメムシは大量発生してあの強烈なニオイに何度も悩まされたことを思い出す。
つばさは開業以来の終日さらに半日運休。奥羽山脈を越える米沢−福島間で雪の重みで倒木が相次いだらしい。その他県内でたくさんの列車が運休し、道路も通行止めが相次ぐ。かくも簡単に陸の孤島になるのであった。
1日の大半は除雪作業で過ぎて行く。朝起きると家の前は車が入ってこられないほどになっている。ロータリー式の除雪機に給油し、ロータリー部分に雪がつかないように潤滑油をさし、轟音を鳴らしながら小屋を出発する。山門から境内を一通り除雪すると約90分。ときどき雪がつまるので作業を中止して雪を取り除く。軒下などは山になっているが、そこは機械が入らないので人力(スコップ+スノーダンプ)で黙々とやる。
公道ではブルトーザー式の除雪車が除雪作業をしていて、せっかく除雪した参道入り口に雪の塊を置いて行くので、定期的にそこまで見に行って、山になっていればやはり人力で払わなければならない。
さらに天気がいい時には屋根に積もった雪を下ろす。屋根に雪が積もってくると家が歪んで戸が開きにくくなり、最悪の場合は家が潰れるのだ。屋根の上はもちろん人力。これだけの雪はどれくらいで片付けられるだろうかと考えていると気が遠くなるので何も考えず、疲れて動けなくなるまで続ける。動けなくなったら休む。休んだら再開。そして気がついたときには終わっているという寸法だ。
一面の白い世界で作業していると頭の中まで真っ白になり、体が自動操縦になっているかのようだ。口もぽかんと開いていたりする。
この地では何百年も昔から、こうして春になれば消える雪と格闘するとき、頭のスイッチを切ってきたのだろうか。すべてのルーティンはスキーマ(無意識でもできる行動の枠組)が形成されると楽しいとかつまらないという話ではなくなってくる。たまにはそういう世界に身を浸してみるのもいいが、全てがそうなってしまったら恐い。

2001年1月10日

アクセス10,000突破記念

新カウンタで1年と10日、アクセスが10,000を突破した(旧カウンタは9,000台でリセットしたので、トータルでは20,000くらいか)。1日平均30弱である。内容の乏しさからすればそこそこある方ではないだろうか。リピーターの皆様には感謝申し上げます(特にtepcoとdtiとu-tokyo)。
アクセス統計を見ると、小林製薬がダントツ、次にオケOB会、ゲーム、セブン、トイレと続く。関心を持ちそうな母集団が大きいことと、類似したサイトの中でどれだけオリジナリティがあるか、そして更新頻度の多さが左右している。
掲示板もいろいろな方が書き込んでくれて楽しい。実際の生活での知り合いよりもネット上での知り合いが多いことは喜ぶべきことだろうか?
このページを通して自分の趣味が広がることがなによりの喜びである。もっとも、このページ自体が趣味になりかけているのだが。
今後ともよろしくお願いします。

2001年2月 2日

最終講義の季節

学科の先生が今年度で定年を迎えられ、その最終講義が先日あった。東大が65歳までの定年延長を決めた今、適用される前に60で辞める心境は如何かわからなかったが、先生はいつも通り終始にこやかであった。
最終講義なので、ある程度専門を離れた自由な感慨を述べることが許されるし、みんなもそう期待している。この講義のためだけに長い研究人生を送ってくるのも悪くないかもしれない。
テーマは「三界唯心」。「この世界は全て自分の心の中に描かれた心象風景である」というお経のフレーズを背景に、「ものは考えよう」の如き思想が生まれていく。インドから日本に至る「三界唯心」の解釈の流れから、最後は身体、生命、社会に関わる問題点の指摘に及んだ。
これら問題点の解決法を考えるとき、つくづく仏教は実践の教えだということを思う。机上の空論を避け、常に何を行っているかが重視され、「雄言不実行」は嫌われるのだ。
しかしそうであるならば「仏教学者」に未来はあるのだろうか?
仏教は真実は実践の中にあると説く(savyaapaaravaadin)。はたして「知ること」(または「知らせること」)は実践にあたるだろうか?慈悲心のうすい私には、容易にわかりそうにない。

2001年2月19日

モリオロシ

内閣支持率9パーセント。最近の論調は政策云々批判ではなく「首相の資質」の名の元にひたすら個人をいためつけるといういじめに近いものがある。森さんの肩をもつわけではないが、批判の口調が強烈過ぎて辟易する。
社会的な弱者については決して否定的なことを言ってはいけないが、従来「先生」と呼ばれてきた職業の人には何を言っても許される世の中だ。政治家、教師、医者、警察官、僧侶・・・受難である。
批判する側は、好きなだけ理想を押しつけてそれとの乖離を指摘すればいいのだから簡単だ。しかし、そこに「善の切り売り」や「出る杭は打ってやる」といったという偏狭な考えがないだろうか。
自分のことを棚に挙げて人の非ばかり責め立てていては社会が息苦しくなっていく。首相をいじめて満足しているだけで政治がよくなるはずがない。森さんを支える森派、総主流となってしまった自民党、駆け引きに走る連立与党、対案を明確にできない野党にまで目を向けることである。政治家は政治のプロなのだから、何よりも政策の面で批判しなければならない。地域振興券は正解だったのか?
同じ人間であることを思うと、少なくとも人格の面であの人を批判できない。(こういうことも善の切り売りだろうか?)

2001年3月 8日

ちゃぱつ

最近歩いていて思うことは,髪を染めていない女性の少ないこと.
10人中9人は茶髪とまで行かなくとも何らかの色がついている.
ここで大和撫子の何とかが台無しだとか,西欧文化の外見的な真似事だということを言いたいのではない.各人さまざまな理由から(「何となく」も含めて)そうしているのであって,ひと括りにして批判したところでどうしようもない.
ただ,客観的に見てこの割合の高さはあることを思いつかせる.それは,
「この色って,保護色?」
群れをなして生き延びる動物は,みんなたいてい同じ色をしている.突然変異などで違う色をしていると,天敵に狙われることになる.天敵から狙われないためには,保護色を種全体でまとうことが重要である.
人間に天敵はいないと言えるだろうか?人間は同じ種の中で分化が進み,人間に対して人間が天敵になることもあり得る.突然ナイフを持って刺してきたり,ストーカーをされたり,詐欺や新興宗教の勧誘をされたり・・・そうなってくると,人ごみに紛れてその中で目立たない工夫が必要になってくる.その結果が,この髪の色なのではないだろうか.
今,手を加えていない黒髪の女性が危ない.早急に髪を染めて集団に埋没することをお勧めする.

2001年3月18日

講演会

「ここ数年間少年犯罪が増え、しかもその低年齢化がすすんでいることについて、なぜそのようなことが起こっているのか、大人はこの問題をどの様にとらえて行動していけばよいか」というテーマで講演。JAおいたま女性部(旧農協婦人部)総会にて1時間。後輩のお父さんからの依頼。
世代的には青少年に近いので、「こうするべきだ」ではなく「こうしてもらいたい」という観点で話した。甘やかされながら育てられて急に厳しい社会を目の当たりにするよりも、小さい頃から厳しさを少しずつ体験していった方がよいということで、結論は家族主義への回帰だったが、正解かどうか。
個人主義の流れの中で、対話のない空疎な人間関係に耐えきれなくなる。しかし家族の中ならばパーソナルゾーンを乗り越えて干渉することがある程度許容される。その信頼関係をどう築くか。そこに親の厳しい一面が求められる。慈父かつ厳父、慈母かつ厳母。その難しさは古今東西繰り返し説かれてきたことであり、現代においても強調されて行かなければならないだろう。

2001年3月25日

ばんどdeオペラ

長井市民文化会館で吹奏楽とソプラノ・バリトンソロと合唱の演奏会。「フィガロの結婚」「こうもり」「蝶々夫人」「アイーダ」などの抜粋。楽器をさらうひまのない私はちゃっかりセカンドテノールでアイーダを歌った。最近ご詠歌三昧なので、自動的にコブシが回ってしまって困った。
県の企画・予算であったため、指揮者がなぜか山下一史氏だったり、アイーダトランペットが6本あったりして、お客様も大満足。入りも年度末の割にはえらくよかった(少し平均年齢が高いような気がしたが)。はじめ吹奏楽団に演奏を依頼されたときには無理だと思っていたが、長井高校の吹奏楽部の力と、市内音楽団体の人脈で何とかなった。
県の進め方は唐突であることが多いが、今回はそれがかえって幸いしたと言えそうだ。音楽団体間の垣根を越えて協力できたことは、大きな収穫である。田舎はとかく狭く閉鎖的になりがちだが、今後もこうしたインターサークルの活動が定期的にできれば楽しいだろうと思う。
プログラム
「フィガロの結婚」序曲
「フィガロの結婚」より「恋とはどんなものかしら」
「フィガロの結婚」より「もう飛ぶまいぞこの蝶々」
「こうもり」より「アデーレのワルツ」
「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
「ジャンニ・スキッキ」より「私のお父様」
「椿姫」より「プロバンスの海と陸」
「蝶々夫人」より「ある晴れた日に」
「こうもり」序曲
「カルメン」より「闘牛士の歌」
「魔笛」より「パパパ・・・ゲーナ・パパゲーノ」
「アイーダ」より「大行進曲」
「サウンドオブミュージック」メドレー
アンコール「ラデツキー行進曲」
指揮:山下一史、ソプラノ:足立さつき、バリトン:久保和範
合唱:市内各合唱団、吹奏楽:長井高校吹奏楽部、置賜地区内音楽団体
司会:石尾和子

2001年3月27日

本歌取り?

私の敬愛するネオせん茶氏(仮名)が久しぶりに待望のホームページを公開し始めた.ここのサイトのページとそっくりな作りだが,内容は期待通り.
http://www.sol.dti.ne.jp/~masemba/absorb.htm
氏のホームページはこれまで「ピンク色の安田講堂」「のび犬文字焼き」などの傑作で一部のファンに知られている.今後の発展を期待したい.

2001年3月29日

大江戸線

昨年に全線開通した大江戸線だが、原案で「環状線」となっていたのを石原知事が訂正させたことからもわかる通り、環状に近くて環状でないことが大いに混乱させている。
先日は新宿から本郷三丁目に行こうとしてしばらく乗っていると、「大門〜大門〜」・・・ここで反対方向に乗っていることに気づいた。結局40分くらいもかかってしまう。
路線図を見ると都庁前が「環状」の起点になっている。しかし逆方向に走る電車が都庁前行きだったため混乱したのだった。
そこで今日は新宿から注意深く観察してきちんと光が丘行きに乗って「戻った」。都庁前までは徒歩でも行けるくらい近く、電車も1駅。到着すると反対側のホームに階段を昇って移動し、ちょうど来ていた電車に飛び乗った。
しばらく乗っていると、「代々木〜代々木〜」あれ?・・・何とまた逆方向に乗っていたのだった。路線図をよく見ると本郷三丁目方面に行く電車は新宿ではなく、東新宿を通っていくようになっていた。
結局国立競技場から都庁前まで引き返し、今度は正しい電車に乗ることができた。もしかしたらそのまま逆方向に乗っていってしまった方が早かったかもしれない。
山手線も昔は混乱したのだろうか。飯田橋方面とか、大門方面とか言われても、どっち向きなのかわからない。初めて乗る人には難易度がとても高いと思う。
駅に貼られた「首都移転NO!」といって親指を下に突き立てている石原知事のポスター。この文句が「鬼畜米英」でもおかしくないような雰囲気でこわい。

2001年4月 4日

字が大きくなった朝日

4月から、朝日新聞の字が大きくなった。いずれ慣れるだろうけれども小学校の高学年から低学年に下ろされたような気分。年配の方には「これくらいでもやはり眼鏡は必要」という方もいたが、読みやすさの点で幾分かはいいのだろう。
天声人語は、字数が少なくなったことにより論の運び方が見えにくくなったように思う。事実の列挙と結論の間に展開を記述することができなくなり、結果として結論の説得力が弱くなった。書く方も苦労している様子だが、これでは入試問題に使われにくくなったりするのではないだろうか。
長所もある。今までさほど興味をもたない問題についても、字がすぐに目に入ってくるためついつい読むようになった。おかげでこれまでよりも広い話題について知見を広めることができそうだ。しかし広く、浅くということになるかもしれない。
今日の新聞は最近話題の自由主義史観による教科書問題。これについて朝日の論調は批判的であることが明確であり、間接的な賛成を伺わせる読売とは対照的である。字が大きくなったお蔭かさまざまな論者の意見や社説を短時間で読むことができた。

2001年4月13日

隣保総会

たまたま実家に帰っているときに,隣保の総会に出席した.最年少で,しかもひとつ上は50近くという世代の隔たりはあったが,みんな顔見知りで気楽だった.
会議の後,飲み会.会議では発言することなどないので山形弁の使いまわしを注意深く聞いていた.やはり擬態語は面白い.
飲み会は,思いのほか盛り上がる.飲むと普段言えないことが出るものだが,みんな考えが深いことに驚いた.最初は公民館委員をどうやって決めるかという話から始まっていたのに,最後は自民総裁選では誰になるかという話になっていた.田舎でも,日常に馴れきってしまうことを嫌い,世の中を分析しつつひたすら打破しようと努力していることがわかった.世の中にまっすぐ向き合うことを教えられる.
今田舎は若者不足が深刻である.20代で実家から通える仕事を見つけられる果報者は皆無に等しい.何十年後に,この飲み会はどうなっているのだろうか,あるいは自分はどうしているのだろうかと少し心もとなかった.

2001年5月24日

バスのあいさつ

心が非常に和むもののひとつにバスの運転手さんのあいさつがある。
すれ違うほんの少しの瞬間ににさりげなくさっと手をあげる。相手も手をあげている。ずっと以前からどのバス会社でも見られる光景だ。電車などではすれ違う時間が短いからか、手をあげることはないようだし、タクシーもさまざまな会社がいろいろなところをたくさん走っているからかあいさつすることはまずない。今ではマイカー社会で路線・本数も少なくなり、厳しい経営を余儀なくされているバス会社だけの伝統なのだ。
運転手さんはたいてい無表情であるし、手のあげ方もぞんざいであることが多いので、いつの間にか染み付いて離れない慣習程度のことだろうと、ついこの間まで私はそう思っていた。ところがあるきっかけでこれを考え改めることになった。
高速バスに乗っていたときのことだ。バスは首都高のうねうねしたラビリンスをこともなげに快速で進んでいく。首都高を出てからは片道3車線の真中を走っていることが多かった。
すばらしい運転技術だと思ってみていると、運転手さんはなんと首都高でも対抗車線を走っているバスに手をあげているではないか!バスは曲がりくねった道から突然現れる。現れた瞬間に手をあげなければもうすれ違い終わっているという状況。しかも同じ会社の路線バス以外には手をあげない。瞬時の判断と反射神経のよさに驚嘆した。
さらに3車線になって対抗車線が遠くなってからも遠くを走っている同じ会社のバスに手をあげることを怠らなかった。色が似ていても観光バスだったりすれば手をあげていない。視力のよさも必要であった。
自分だったら、相手を探すのに必死になったら運転がおろそかになり、事故を起こしかねないだろうなと思ったそのとき、バス運転手さんのあいさつの意味をちょっとわかったような気がした。
「俺は、相手にあいさつできるくらい完璧な運転技術と余裕があるんだ!」ということを誇示したいのではないか。相手が後から手をあげれば「ふっ俺のほうが早かったぜ」とうれしいのではないか。
高速であいさつをする難易度は、技術を誇示していると思わせるに十分な高さであった。職人芸である。

2001年6月 5日

JRにも女性専用車両

 7月2日からJR埼京線に女性専用車両が試験的に導入されるという.全部ではなく午後11時から終電までの一番車内が荒れがちな下り電車11本.
 京王電鉄が先行して行った結果,アンケートで女性の8割,男性も6割が賛成したという.男性が賛成した理由は「痴漢に間違われなくなる」など.
 本当にそうなるだろうか.10両編成のうち女性専用車両は最後尾の1両であり,これ以外は全て男性専用車両なのではない.これに乗らない女性は他の車両に乗ることになる.他の車両に乗った女性は少し気味悪く思うかもしれない.「ああ,私は女性専用車両に乗っていない.やっぱり周りは男性が多い.女性専用車両じゃないから痴漢していいなんてことはないはずだけど,何となく嫌な空気を感じるわ…」男性の中にだって「あ,こいつ女性専用車両があるのにここに乗っている.触られてもいいつもりなんだろうか」と考える不埒な輩がいないとも限らない.そんな状況でどうして痴漢に間違われなくなることがあろうか.
 女性専用車両の出現によって,他の車両のモラルハザードが深刻化し,女性専用車両がノアの箱舟になるという可能性も否定できない.
 痴漢を物理的に根絶するには,男性専用車両5両,女性専用車両5両というような徹底した対策が必要である.そうなれば電車はもはや銭湯である.ホームに上がると男性は「男」と書いてあるほうへ,女性は「女」と書いてある方へ移動する.家族で乗ってもお父さんは「男」へ,お母さんは子供と「女」へ.公共の場で男女の区分が徹底されるならば,日本は神なきイスラム国家になってしまう.あるいは男を触る痴漢もいるそうなので、根絶はできないかもしれない。
 これが現実的であるとは思われない.「お互いに労りあう心がけが大切」などと小学校の学級会のようなことを言っても始まらないだろう.対策は2つ,まずJRが本数を増やすこと.これはもう無理かもしれないし,我々にはどうしようもない.そうだとしたら2つ目の対策は乗らないこと,すなわち混む電車に乗らないような生活に変えることである.痴漢に間違われないようにあれこれ気をつけていても事故は必ずある.痴漢に間違われて冤罪を晴らすために一生を棒に振るよりは,早く田舎にUターンでもして通勤に苦労しない快適な生活を送った方が確実に幸せだ.
 もはや「通勤地獄」以上になっているこの事態からの脱出,これを機に本気で考えてみてはどうだろう.

2001年6月 9日

日記らしい日記

 6時起床。今日は小国町で御詠歌の講習会があり、そのアシスタント(※講師は北海道からいらっしゃった先生)としていかなければならない。昨日は夜に新幹線で帰宅してから浄髪(カミソリで頭を剃る)したり、たまっていた書類を整理しているうちに1時も過ぎたので眠いはずだったが、このところあっさりと早起きできる。
 行き先は小国町でも山の奥まった所なので2時間という見立てだったが、道が空いていたので1時間で着いてしまう。8時前の会場はまだ人もまばらで手持ち無沙汰になった。あたりを散歩したりして時間をつぶす。
 講習会は9時から3時まで。開講式の手配・連絡など気を使うこまごまとした内容だったが、会場となったお寺の住職の寛容さ(?)に助けられ、また受講者50名のあたたかい協力で終始和やかであり。休憩時間にお寺の本棚で金倉円照の印度哲学史(古いので希少本)を発見し、しばし読みふけったりする余裕もあった。お昼はイワナの刺身、ワラビの一本漬が美味しかった。午後は講員さんと一緒に講習を受ける。『迎え火』の横アタリは「炎のゆらめき」なんだそうだ。『高嶺』の新曲想「おわします想いで」シールが配布される。とてもためになった(御詠歌用語ばかりですみません)。
 講習が終わると先生を宿へとお送りする。道中は1時間くらいあり、御詠歌の話から宗門の未来といったところまで発展した。しかし先生曰く「基本に忠実に。基本ができた上で自分のスタイルを作らないと我流になる。」ご詠歌に限らず銘記したいことだ。
 宿から帰宅したのは5時。近くのお寺さんがいらっしゃっていた。「講師になったらどうか」などと本気とも冗談ともとれないことをおっしゃって、お帰りになる。講師は、なれるかどうか別としてもたいへんな仕事である。
 やっと朝から来ていた衣を脱いで作務衣に着替え少しお茶を飲んで休憩していると、電話があり今日の講習会の書類を隣町まで届けることになる。急いで夕食を済ませて出発。
 書類を届けた後、7時から吹奏楽団の練習。明日は依頼演奏が入っているのだ。月に1度吹けるかどうかわからない状態ではもうぼろぼろだが、合奏は楽しい。終わった後の雑談も楽しい。団員に年明けに3人目のお子さんが産まれる予定だという話で、「市からお祝い金は出るんでしょうか」というところをつい「お見舞い金」と言ってしまう。式と言えば葬式、お包みといえばご香典を連想してしまうのは、頭の中に白黒幕が張られているせいであろうか。
 雑談などを終えて帰ると11時。掛川の和尚さんから新茶が届いていたので礼状をしたためる。風呂に入って今日の長い一日はおしまい。この日記を書いて寝よう。

2001年6月14日

犯罪者

「いつも自分が被害者という意識をもっていた」
「身勝手なわりには仲間とのつながりを失いたくもなかった」
先日大阪の児童殺傷事件で逮捕された容疑者のこれまでが新聞に掲載されていた。例によって子供時代からの知人が登場しコメントをしている。
コメントには「そういうことをするような人だとは思わなかった」というものと、「そういうことをしそうな人だった」の2種類があるが、今回は後者。コメントを総合して上のような2つの結論になっている。
しかし、この2つが全く該当しないという人がどれだけいることだろう?少なくとも私はドキリとするくらいこの2つが当てはまる。この性格だからこそ事件を起こしたのであり、この性格の人間はこれから一般社会から隔離しなければならないと結論されるならば、私も収容所に入らなければなるまい。いや、収容所に入らない人間の数を数えた方が早いかもしれない。そうなったら、健全な人間たちの住む区域の方が収容所と呼ばれることになるだろう。
事件が起こる度に犯人をステレオタイプで切り取り、健全な社会を装ってある種の人間を差別する。こういう論調には閉口してしまう。
犯人が悪いのはその生い立ちでも、育ってきた環境でもない。ある瞬間に犯した犯罪行為そのものである。それまでの人生との因果関係を、誰が特定できようか。
司法方としては仕方ないとしても、自分自身を顧みることなく、正義を振りかざす危険を感じた。

2001年7月12日

Morning Concert

芸大に在学中のオケの先輩伴野さんが出演するというので、奏楽堂に聴きに行く。
芸大の学生が2人ずつ、協奏曲を演奏するという11回のシリーズの8回目。ヴィオラは伴野さんだけである。今回の指揮者は小林研一郎氏。
曲目はシュニトケの協奏曲。シュニトケというとオーケストラアンサンブル金沢がシチェドリンとカップリングで出した「合奏協奏曲」くらいしか知らなかったが、あちこちに気の利いた仕掛けが施されており、とても面白かった。特にハープシコードとの掛け合いは耳にも新鮮である。
(シュニトケのページ→http://www.age.ne.jp/x/ramos/schnittke/index.htm、オーケストラアンサンブル金沢のHP→http://www.oek.or.jp/index.htm
この曲に流れるテーマは「死」。演奏中には以前流行った「臨死体験」をしているような気分に襲われたが、演奏が終わって伴野さん自身の解説を読むと「荒れ狂う人生」「死の入口での、人生の悲しい概観」と書かれている。まるで冥界の番人ハーデスのような顔つきをした伴野さんの内面を垣間見る気がした(読んでたらごめんなさい!)。
会場にはOGの木村さんが小児科の患者さんを連れてきていた。音楽の効用のは意外に大きいらしい。小学生のときに肺炎で入院して、夜の不安をラジオで打ち消していた古い記憶がよみがえった。ちなみにもう1人はラフマニノフのピアノ協奏曲だった。
演奏者は演奏マシーンであってはなるまい。「ミスなく、ソツなく、面白くなく」という無味乾燥の奏者ばかりにならないためにも、紆余曲折を経た伴野さんの存在は非常に重要だし、応援していきたいと思う。

2001年7月13日

講演会

駒沢大学の池田魯参先生の講演会.タイトルは「只管打坐」である.
まずこの言葉の意味合いからお話は始まった.
1.「まあ坐れ」中国語では気軽な感じもあるという.「とりあえずビール」のようなものだろうか.
2.「ひたすらに打ち坐る」死んでもかまわず坐るという心意気.覚悟と気合が入っている.「坐禅マニア」と言えるだろう.
3.「ただ坐る」俗世とのつながりを断って坐禅を日常のものとする.修行であると同時に悟りの姿であるという.
坐禅によって人はよりその人らしくなるのであり,決して釈尊になるのではない.坐禅をしたからといって得意になってはいけないという戒めである.沢木興道師は「坐禅をしたって,何にもならないよ」とのたまっていたという.得意になった瞬間,坐禅の功徳は消滅する.「不染汚(ふぜんな)の修証」というものである.
そしてこのような坐禅と仏道修行をめぐる中国禅僧の楽しい話が展開された.随所にすらすら〜と出てくる禅僧の台詞はさすが禅学の大家である.彼らはみな破天荒である.言葉を誠実に使っているのか,適当に弄んでいるのか全くわからない.だいたい,仏の教えを正しく押さえた上で弟子に伝えているのかも疑問だった.仏教にはこれが正統であると呼べるものなどないと言ってしまえばそれまでなのだろうか.釈尊に倣った修行をして,その結果ある程度深い宗教体験し,それをインパクトのある言葉で表現したら,歴史に残る名僧のできあがりである.
そもそも,どんなに気をつけても間違いや過ちを犯す人間たちによって伝えられてきたものに,如実・完全無欠という意味での「正しさ」を期待すること自体無理である.「正しさ」とはそれぞれの時代の生きる人々にどれだけよい影響を及ぼしたかという程度の問題に過ぎない.
だから神が必要になるのに,どうして仏教は神を否定して安定していられるのだろう.池田先生は終始笑顔であったが,聞いている私の頭はずっと迷いだらけであった.

2001年7月15日

こんな日記ですが,メインはゲーム。

知り合いのYさん宅へゲームをしに,笠間に出向く.
家から出発して1時間30分くらいで到着.水戸線の連絡が悪かったのでわざわざ友部に迎えに来ていただいた.
山形と変わらない田園風景.Yさんのお宅は山を背にした田園の中にあった.昭和初期の建築だということで,石門から和洋あわせた平屋から,妙に心の落ち着く佇まいである.
入り口には「さくら」ちゃんという犬が待ち構えていて,しきりにじゃれてくる.家の中に入るとYさんのご子息「光」君(約9ヶ月)が畳の上でうつ伏せに眠っていた.ついさっき寝たばかりだという.
あいさつも適当に,早速1ゲーム.ゲームが始まると大人の喚声で光君が起きてしまった.しかし機嫌はそんなに悪くない.ベビーサークルに手をかけてゲームをしている我々をじっと見ている.とても可愛い.その光景がなんとものどかで,心が和む.
光君はたどたどしい足取りと微妙な動きで遊んでいたが,次第にゲームに興じる大人たちのところに行きたくなり,声を上げてきた.お父さんにだっこしてもらうともうご機嫌で,今度はお父さんの腕の中で盤面の行方をじっと見ている.
1ゲームが終わり,昼食の準備をしてもらっている間,その可愛さにいてもたってもいられなくなって光君と遊ぶ.人見知りはせず,指をつかんできて自分の口に入れ,生えたばかりの歯で噛んできた.笑顔も素敵.ときどき「アワァ」「ウー」などと言ってくるのもたまらない.
昼食を食べてから午後もずっとゲーム.光君はその間ベビーサークルで遊んだり,お父さんにだっこしてもらってゲームを観戦したり,お母さんにご飯を食べさせてもらったり,汗だくになってシャワーに入れてもらったりしていたが,終始上機嫌であった.目が合うと「ウャー!」と叫んで喜ぶ.このインタラクティブさが心地よい.
夕方になるとさくらちゃんがほえるので散歩に出発.田園を背景にして犬と赤ちゃんがいる構図は,映画のワンシーンのようである.緑が目にしみる.さくらちゃんも光君も,とっても嬉しそう.
散歩から帰ってからもゲームは続けられた.次第に暗くなりゆくYさんの家の中は,忘れていた何かを思い出させるようだった.
夜深くなると夕食を食べて駅までお見送り.光君は涼しい車内ですぴすぴ寝ている.まる1日かけた小旅行は,心身ともに癒される本当に幸せなものとなった.

2001年7月22日

まじ!

今回の参議院選挙で,驚くべきはがきが来た.
見かけは普通の候補者だったが,よく見ると「○○寺住職」とある.白髪混じりの髪型からも,びしっと決めたスーツ姿からも,そしていかにもな笑顔からも,その人が住職だとはわからなかった.
そして「宗門のみなさまご支援ありがとうございます」というようなことが書いてある.誰が支援したんだ?と思ってよく見ると,宗務総長(宗教法人としての顔)の名前が.
突然吐き気のようなものに襲われ,シュレッダーにぶちこんだ.ちなみにこの方→http://www.muratanaoji.com/
しかし,もう1通.今度は県内の候補者であったが,推薦状のコピーが添えられている.仰々しい推薦状にもやはり,宗務総長の名前だ.「貴台を参議院議員候補者に推薦します」と立派な楷書で書いている.これもシュレッダー行き.ちなみにこの方→http://www6.ocn.ne.jp/~kanzi.k/
前者は自由党候補,後者は民主党候補である.今度の選挙に曹洞宗として何をしたいのかもわからなかったし,もしかしたらどうでもいいのかもしれない.宗教団体が政治に関与することはよく聞くが,自分が属するところであると,拒絶反応が出る.何とかできないものだろうか.

2001年8月29日

突発講演会

昨日先輩からメールがあって、インド人の先生が大学に来るので都合がよければ来るように言われる。たまたま(?)何もなかったので行ってみた。
チャクラボルティという先生で、私はクリシュナ=だと思って論文を探し出し、予習して行ったが、姓が同じで別人だった。ハワイ大学で教鞭を取る快活な若い先生だ。
幕張の国際美学会でインドの美的経験ラサ理論を発表しに来ていたが、桂先生がお友達で少しだけ抜け出してくることになったらしい。学芸大の稲見さんのところへ行くという話はボツになり、結局東大にいらっしゃった。
演習室に集まったのはインド哲学の院生6人。夏休み中、前日の連絡でこれだけ集まるのもすごい。
約1時間半ほどの話であったが、ハワイにいらっしゃるせいかインド英語もわかりやすく、楽しいひとときを送ることができた。
インド哲学は議論を中心とした探求(aanviiksikii)であり、見解(darsana)では狭い。竜樹は「自分の見解は何もない。何もないから過失がない」と説いたが彼は探求者であった。
そして探求を支えるものは文法学である。行為を中心に6要素(格)が分けられる理論は、全ての哲学的問題を包摂している。カルトリ(主格)は主体性、カルマン(対格)は客体性、カラナ(具格)は認識(手段)論、サンプラダーナ(為格)は人間の目的、アパーダーナ(奪格)は因果論、アディカラナ(於格)は内属という問題を内包している。
一切知者論に関しては、ニヤーヤ、ヴェーダーンタ、ヨーガ、仏教、ジャイナ、タントリズムが一切知者を認めているが、資格と内容において違いがあり、特に仏教説は有意なものだけ知っていればよいという一切知者で、特異な点がある。
終了後、文法学派内でカーラカから哲学的な問題を広げていくことが実際にあったかどうか尋ねてみた。答えはあっさりNO。しかし文献学よりも自分自身の啓蒙のために哲学はあるものだと教えられた。
インド人の論文って、どうしてこうMy哲学になっちゃうんだろうと思っていたが、それもそのはずだった。論文を読むのと比べて、実際に話を聞くと古代の哲学が実に生き生きとしていることに驚く。この新鮮さは、きっと論文では伝わらなくて、対面でこそわかることなのだろう。「議論を中心にした探求」ということが体現されている。
ハワイ大学ではあまりインド哲学を学ぶ学生がいないそうで「学生募集中」。ハワイ大学留学・・・周囲には遊びに行ってるとしか思われないが、魅力的な選択だ。
最後に印象に残ったことばを2つ。
paadam upaadhyaayaat paadam sabrahmacaarii, paadam adhyayanaat paadam
kaalakramena.
(勉強は先生から、友人から、教えることから、時間の経過からわかる:オリジナルのバース(聞き取れずあやふやなところあり))
aham Naiyaayiko 'smi, idam mama matam, tasmaat idam Naiyaayikamatam.
(私はニヤーヤ学派の者である。これは私の考えである。それゆえこれはニヤーヤ学派の考えである)

2001年9月29日

覚醒剤

以前「自己虫」について書いた公共広告機構の件だが、このところ気になっていることがある。
「覚醒剤は、あなたの人生を粉々にします」というフレーズ。
これって、覚醒剤経験者には「粉々」という言葉が魅力的に聞こえているのではないだろうか?
やったことのない私でさえ、あの片栗粉みたいな粉の山を思い出す。
この広告に隠されたメッセージは、「覚醒剤、もう一度やってみませんか。あのよさを思い出してください」なのではないだろうか?
本気で覚醒剤を撲滅したいならば、縁語で気取っていないで、「めちゃくちゃ」などにするべきだと思う。

2001年10月11日

ハプニング

 山形県高畠町で曹洞宗山形県第二宗務所による「高祖道元禅師750回大遠忌予修法要(来年に迎える道元の750回忌の前年法要)」が行われ,管内寺院は全員集合ということで,新幹線に乗る.つくばからだと,朝8時の新幹線に乗るためには6時前に出発しなければならない.5時起きで高速バスに乗り込み,バスの中で熟睡しながら東京駅.
 大雨のせいで山形新幹線が昨日の夕方から運休になっていることは知っていた.しかし天気予報図では回復傾向にあったので,朝から動き出しているだろうという予想のもと,出発した.
 東京駅で駅員に問い合わせると,
「1本目は運休しましたが,2本目からは動いています.低気圧は北上していますから,大丈夫でしょう」
 ということで,切符を購入して新幹線ホームへ.確かに山形新幹線「山形行き」は来た.
 退屈しのぎに雑誌を読みながら,いつしか寝入っていた.気がつくと福島.
「本日の山形新幹線は板谷・峠間で雨量計が規定に達したため,只今運転を見合わせております.なお,この新幹線は仙台行きに変更になります.山形方面にお越しの方は仙台から仙山線をご利用ください」
 仙台から仙山線,奥羽本線で高畠にいくならば最低でも2時間はかかる.これではもう11時のリハーサルには間に合わない.すぐに会場に電話し,欠席の旨を伝えた.あちらも忙しそうで,欠席はあっさりと承認される.
 さて欠席を決めたら今度は上京である.ホームにいた駅員さんに全額払い戻しができるか聞いたら,
「でぎっと思います(※出来ると思います)」
 訛っていた.何となくほのぼのした気分になり,精算所で「事故」のハンコを切符に押してもらい,次のMAXやまびこ号で上京し,東京に戻ったのは12時だった.全額払い戻しをしてもらい,バスで帰宅.バス代はもちろん帰ってこない.
 お金も時間もロスしたわけだが,なぜかこれが久しぶりにあてのない小旅行をしたようで,気分はそれほど悪くなかった.学割1枚を失ったのが悔しかったけれども.

2001年10月12日

ハプニング その2

 前日のハプニングで早めに帰宅でき,風邪の療養ができたため,2限10時20分に向けてさわやかな気分で出発したはずだった.
 8時30分前に家を出て荒川沖駅には9時前に着く.ところが今度は人身事故だ.
「先ほど8時30分頃,柏駅にて起きました人身事故の影響で,只今常磐線は全線運転を見合わせております.お急ぎのところ誠に申し訳ございません.なお復旧は9時30分頃の見込みです」
 荒川沖駅からでは,常磐線に乗る以外に上京する方法がない.授業に遅れるのは必至となったが,予習でもしながら待つことにした.ホームには貨物列車が手持ち無沙汰なふうに停まっている.
 ところが9時30分になっても貨物列車は動き出さない.
「柏駅では,只今レスキュー隊が到着しましたが,救出に手間取っているようです.もうしばらくお待ちください」
 “救出”とか言われるとまだ生きているのかなと思ったりもする.予習は2限の分を終えて4限の分に移ろうとしていた.そうこうしているうちに10時も過ぎた.研究室に電話し,午前中の授業にはもう出られないだろうという旨を告げた.昨日の状況と似ている.
「柏駅では,只今レスキュー隊による救出活動が行われておりますが,頭部が車両の床下部分にはさまっており,救出作業が難航しております.電車の部品を外してから,頭部を外す作業を行っております」
 ホームに集まった人々がざわつく.“頭部を外す?”普通そういう使い方はしないでしょう.そんなに詳しく伝えてもらわなくてもいいんじゃないの?何だか気持ち悪くなってきた・・・周囲を見渡したがこの放送で卒倒した人はいないようだった.
 11時.もう完全に諦めて帰宅した.2時間以上重いかばんを持って予習していたのでもう疲れた.午後からの授業に行く気も失う.
 夕刊を見ると女子中学生が飛び込んだらしい.即死と報道されている.“頭部”は,車両から外される前に体から外れていたのだろうか.

2002年1月20日

演奏会

室内楽アルテ&長井ウィンドオーケストラのニューイヤーコンサート。午後2時より置賜生涯学習プラザにて。
 今回の演奏会はやる気の有無以前に、実現可能性に大きな疑問符が付いていた。
 室内楽アルテとは、長井周辺の出身者で、音楽大学に在籍または卒業した若い音楽家の集まりである。活動9年目になるが、実質3〜4名しかおらず、演奏会の度に人脈をフル活用して演奏者を集めているという実態である。
 長井ウィンドオーケストラはこれに対して一般愛好者による吹奏楽団体である。活動7年目だが、こちらも団員は実質5〜6名と低迷しており、これまた演奏会の度にエキストラをかき集めて何とか形にしている。
 つまり、せいぜい10人足らずである。この現実に加え、室内楽アルテの代表はイギリス留学中、そして長井ウィンドオーケストラの代表(私)は東京にいるとくる。地元で率先してリーダーシップを取ることができないもどかしさ。
 ところで長井ウィンドオーケストラには立派な後援会組織がある。会員数は100名に迫り、会長はじめ顧問には長井西置賜の各界の重鎮が居並ぶ。このような弱小団体を応援してくれるのは、それだけ地元を活性化して若い人材の流出を防ぐという期待が強いからだというが、応援する側とされる側のバランスはどう見ても不釣り合いである。
 このような状態なので、演奏会はすっかり後援会が何から何までお膳立てするという形で準備が進んだ。こちらとしては恐縮この上ない。プログラムの原稿を上げるのと、精一杯の演奏をするくらいしかできない。応援しただけのメリットを感じてもらえるのか全く自信がなかった。その中で、私は誰のための演奏なのか考えこんでしまった。ここまで来ると、自分たちの楽しみのためだけであるとは言い難い。かといってプロでもないのだから、お客様のためだけでもない。
 エキストラも入れて合奏は20名ほど。半分以上が山形大学の音楽文化コースの学生(師事するプロ奏者をもつ学生)なので、出来はよくて当たり前であろう。当日は250名ほどのお客様が聴きにいらっしゃって、まずまずの盛会。私は指揮者兼司会者という無茶苦茶な組み合わせの役割(演奏が終わったら袖に引っ込んでマイクを取って解説し、マイクを置いてまたステージに戻るというのを繰り返す)だったが、内容はともかくとして、曹洞宗の法要に比べたら複雑なことはなかった。
 演奏会が終わって、打ち上げがあり、2次会になるまで、心のもやもやは晴れなかった。今回の演奏会に、どれだけの意義があったのだろうかという疑問である。たくさんの人に手間と時間とお金をかけさせた意味は。
 2次会で、まずあるお客様の話していたことを聞いた。

「今の長井で、若い人の顔を揃って見られること自体、貴重なことだ」
 そして次に後援会の方のお話。

「若い人が集まって楽しいと思える場所を地元で提供できなければ、未来はない」
 また事務局の方のお話。

「こんな世の中で、こういう若い人々が何かやってくれそうだと期待している」
 最後に団員の話。

「これからまた続けていきたい」
 悲愴感も漂う中、私は今回の演奏会の意義を感じとったような気がした。たとえ中心が細くなろうとも、求心力が続く限りこの「運動」は意味をもって存続するのだろう。私はその中で何をしていくべきなのか、また何をしたいのか、じっくり考えなければと思った。

2002年1月27日

OBとして

東京大学音楽部管弦楽団第87回定期演奏会

1月27日(日)午後2時〜

サントリーホール

指揮:早川正昭

 同郷の後輩Y君が最後の演奏会になるということで,久しぶりに聴きに行った.Y君は10(イチゼロ.平成10年入団)で年は6つも下である.しかし同郷の関係で一昨年の演奏旅行で長井に来たときや,その後に免許合宿で長井に来たときなどにこの楽年から何人か顔見知りとなった.決して東大オケの現在のレベルをチェックする目的ではなく,顔のわかる後輩が出ている最後の機会になるだろうという気持ちで今回は聴きに行くことにした.1年生のときから知っている彼ら10の,4年間の絶え間ない積み重ねを演奏中に垣間見ることができ,嬉しい気持ちになった.
 会場は8割くらいの入りだったろうか.ステージの上の席にも入っていたのだから上々である(謎の外国人がここで目立ちまくっていたが).チケットは当日券売り場に並んでいたら親御さん風の方から余ったのを安価で譲っていただいた.1階の左隅のほうの席である.
 プログラムはフンパーティンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」序曲(通称“ヘングレ”).一般に知名度は低いが東大オケではなぜか前からメジャーな曲のひとつである.中がフォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」(通称“ペレメリ”).弦を主体にした穏やかな曲である.3曲目の「シシリエンヌ」が有名.休憩をはさんでバルトークの「管弦楽のための協奏曲」(通称“オケコン”).これも東大オケではメイン曲によくあがる.
 思えば9年前,私が1年生のときも同じくサントリーホールでこの曲をメインにしていた.そのときは中がヒンデミットの「画家マチス」,前がベートーヴェンの「コリオラン」序曲という不可思議なプログラムだったが,金管楽器ではバルトーク派とヒンデミット派とがぎくしゃくして(一部主力が中プロにつぎ込まれ,人材がメインに集中していなかった),1年生ながら嫌な雰囲気を感じ取ったものである.とはいえ当時は受付係のみだったので当事者ではない.そんな懐かしい思い出に,9年という歳月の流れを感じた.
 それはさておき今回の演奏は,メイン曲と前中に差が感じられたものの,総じて完成度の高い演奏だった.この完成度の差は曲自体の難易度の差もあるので仕方がないだろう.特に(9年前と違って)10の主要メンバーが集結したメインは絶品だった.おそらく9年前よりも完成度は高かったかもしれない.メインで謎の外国人(何者?)がステージの上の席で手すりから身を乗り出して危なげなのが気になったが,Y君のグリッサンドも見事に決まり,フィナーレの金管テュッティなどは圧巻だった.バルトークのこの曲は民俗音楽をモチーフにしていても,作りは幾何学的である.早川先生のタクトのもと,それぞれの掛け合いの構造を見事に浮き彫りにできたと思う.もちろんそれを可能ならしめたのは,10をはじめとする団員全員の数年間の積み重ねと,この半年間に渡る集中した練習であったことは想像に難くない(余談であるがプログラムの解説文8ページ右37行目「想像しがたい」は「想像を絶する」という意味なのではないかと思う.ついでに余談であるがいつの間にかトレーナー紹介文がなくなったのには大英断だと思った).ブラヴォー!!である.
 さて,今回のプログラムは冒頭に昨年亡くなった現役団員への追悼として,バッハの「G線上のアリア」が演奏された.これも思えば数年前,亡くなった現役団員の追悼演奏があったが,どちらも聴いていて非常にせつない気持ちになった.もし同じ楽年で誰かが亡くなっていたら,私はどうしただろうか.あるいは私が現役で亡くなっていたら,他の同期はどうしただろうか.オケの同期には今でも気のおけない仲間がたくさんいる.そういう気持ちを彼らは味わっているのだと想像すると,いたたまれない.
 だがこのいたたまれなさが裏目に出た.この演奏会は最初の1曲だけでなく休憩までの前半が追悼演奏に思えてならなかった.従って定期演奏会として聴くことができたのはバルトークの賞味38分である.いや,バルトークさえも暗い気分で聴いていたかもしれなかった.そうなればこの演奏会は追悼演奏会そのものである.帰り道は,そのことを考えて再び暗澹たる気分に落ち込んだ.
 喩えるならば,お葬式の弔辞を聞いた直後,お祭りに連れまわされるようなものだ.亡くなった団員のことは残念に思うが,演奏会は基本的に楽しもうとしてきたのだから,暗い気分にさせられたのは予想外である.下がったテンションはなかなか回復しない.
 他の人がどう感じたかはわからないが,聴衆の立場で言わせてもらえばプログラムと別に,公共性の低い(内輪の)人物の死を目の当たりにさせるような追悼演奏を聴くのは耐えがたい.切り替えられる人はいいだろうが,私のように考え込んでしまう人間にとっては残酷である.追悼が「亡くなった団員がそこに座っていたであろうステージで演奏をする」という意味ならば,パンフレットにひっそりとその旨を記して3曲のプログラムで実現すればいいだろうし,また「拍手なしにひっそりと演奏をしたい」ならばしめやかに二食ホールで練習の前に演奏をするべきであろう.あるいは実現可能性は別にして追悼演奏会を定期演奏会とは別に開くという選択もあったかもしれない.結果として楽しい演奏会を期待してきた聴衆の「優しさ」に甘えて,悲しい追悼を強いることになりはしなかったか.
 演奏前に「なお,拍手はご遠慮ください」というある意味非常に不躾なアナウンスがあった.この意味がわからずに拍手していた謎の外国人がいたことを記しておく.他の日本人は,おそらく奇跡的に拍手をしなかった.
 もちろん主催者は東大オケであり,常に聴衆のコンセンサスをとりつけながら演奏しなければいけない訳ではないだろうが,実際に感じたことを正直に書いてみた.読み返してみるとずいぶん薄情な意見にも思える.もしこれを読んだ団員がいたら,是非を少しだけ考えてみてもらいたい.また団員・一般問わず,これを書いた私が間違っていると思ったら,メールください.

2002年2月21日

予算会

予餞会予算会というのは研究室の卒業生・修了生の送別会のことで予餞会ともいう(予算会というのは単なる会場の間違い)。
公務員倫理法というものができて、考査期間中に教官と学生の飲食はしないという決まりで、去年は中止、今年は発表日開催となった。落ちた人などがいる中での開催は厳しいものがあるが、やらないというのもケジメがつかないということらしい。
2時間にわたって、先生や卒業生・修了生が話をし続けるという「結婚式の披露宴のような(某先生)」会だが、研究室を去る人たち・これから進学する人たちにとって先生の話の中には心に染みるものもあるのだろう。当事者でないといまひとつピンとこない。何となく、自分も勉強しなくてはという気に駆られたくらいだった。
「世界に通用する学者になってほしいが、世界に通用しないもの(=ローカリティー)も大事にしてほしい」というのは土田先生の言である。そういえば、「千と千尋の神隠し」も「世界に通用しないもの」が評価されたんだろうなと思った。
前の日も飲み会だったので、一次会で退席した。

2002年10月10日

ノーベル物理学賞

カミオカンデ?さぞ金がかかったんだろうなあ…それに引き換え我々は1冊何ルピーという本を買うのも自腹。まあ、そんなに金があっても使い道はないかも。
というような通り一遍の感想しか抱いていなかったが、学食に行ってビックリ。
「組合員証はお持ちですか」

「はい?」
組合員証を差し出すと、レジのお姉さんがみかんを2個くれた。意味がわからないまま壁を見ると、
「ノーベル物理学賞受賞記念、みかん先着500名様」
これがニュートリノとみかんの間に、ある秘密の関係が生まれた瞬間だった。
田中先生、ごちそうさま(←そっちじゃないよ)。

2003年1月 1日

インド哲学

『インド哲学七つの難問』 宮元啓一著 講談社メチエ 2002年11月
このところ途中で挫折するか,つまみ食いで終わる本が多い中で久しぶりに一気に読み終えた.もちろんニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派という専門的な内容に踏み込んだ箇所では,前提となる知識なしに読み進めるのはたいへんかもしれない.
昨年末に京都で開かれたインド思想史学会でも誰かが言及していたが,宮元先生がまえがきで「インド哲学」の主流である地域研究や文献学を飛行機の滑走路作りに,そこから飛行機を飛ばすことを哲学に譬えたところはとても印象的だった.インドの本はテキストの問題(誤植や改変)が多く,したがってその校訂作業が研究の大部分を占める.書いてある内容よりも先に,書いてある文字を疑ってかからなければならない.同じ用例を他から隈なく探し,もともとどう書かれていたかを推定する.根気の要る作業だ.
インド哲学研究を志した人のほとんどは,飛行機で自在に空を駆けることを夢見ていたはずである.ところが,そのほとんどの人は,その夢を忘れ,滑走路作りで一生を終えることに人生の意義を見出してしまう.
もちろん宮元先生は,滑走路作りが不要だと言っているのではない.事実,先生の仕事は『勝宗十句義論』という,漢訳しか残っていないテキストを,時代が近い現存のテキストとの比較からサンスクリット語に復元するという,緻密な校訂から始まっている.要は文献学と哲学を両立させることなのである.中途半端な文献学で中途半端な哲学をしている私には非常に耳が痛い.
さてこの本に現われる7つの難問として設定された問題は,「音声は恒久的なものか無常なものか」「神や一切知者は存在するか否か」といったインド独特の問題ではなく,西洋哲学にも通じる言語哲学,存在論,自我論,真知論,因果論である.こういった切り口でインド哲学を解説する本は未曾有であり,刺激的だった.
我々の読書会などで「この人の言ってることって,どう考えたっておかしいよね」という話になることはある.しかしそれが論文に反映されることはまずない.どこがおかしいのかを論証するのは案外難しいし,若い学者が「おかしい」と公言すると何かと厄介だからである.そうした我々の生の意見が的確な言葉で表現されていて,溜飲が下がる思いがする.ところどころにさりげなく書かれている,仏教徒として仏教の無矛盾性を信じて疑わない仏教学者批判も痛烈.「無我はありえない」というくだりなど,仏教徒全般にもう一度考え直したいことでもある。
ところどころ急激に専門的になるところがあるが,そこを適度に読み飛ばせれば,哲学一般に興味をもっている人も十分に楽しめる内容ではないだろうか.

2003年1月19日

一人多役=多役一人?

イッセー尾形のひとり芝居を見に行く。「意地悪ばあさん」の巡査役で出演していたころからだいぶ経つはずなのに、見たところまだまだ若い。それでも中年男性の役ははまりにはまっていたけれど。
人間をミクロな視点でとらえるのが大好きだ。歌手のブリーフ&トランクス(「青のり」)、嘉門達夫(「小市民」)、漫才のテツ&トモ(「何でだろう?」)、そして芝居のイッセー尾形。「あるある」という既視感が笑いにつながり、それが微妙であればあるほどおかしい。
2時間ちょっとの舞台で7つの人格が演じられた。ひとつ終わるごとに服装を替え、まるで別人に。口調も仕草も、がらりと変わってしまうだけで見ものである。
それぞれ出てくる人物は有名人でもなんでもなく、身近にいそうな人ばかり。自分はどのタイプに近いかなどと考えてしまいそうなほど身近だ。しかも大事件が起こるというわけでもなく、ごく普通の日常生活を切り取ってきたような場面。
それでもそれぞれの人にはちょっとしたこだわりやプライドがあって、それすらもなかなか叶えられない中で一生懸命になっている。それは自分に通じることでもあり、芝居が終わって照明が落ちると目頭が熱くなるような思いに駆られた。
「何でこんなつまらないことにこだわっているんだろう?」

「いやいや、つまらないことではないはずだ」

「いずれにせよ、オレはこういう生き方しかできないんだ」…
そのうちに、まるでキャラクターの異なる7人の人間が皆同じように見えてきた。ひとり芝居なのだから当然といえばそれまでだが、それで、この世に生きる人間が皆あるところまでは共通なのではないかと思わせた。
ひとりでたくさんの役ができるならば、たくさんの人が同じ人間であってもいいだろう。
だが「みんな同じ人間」とはわかっていても、「人間としてどのように同じなのか」はあまり考えたことがない。人間とは頭があって、心臓があって…などといった外見的な共通性は言えるが、内面的な共通性となるととたんに難しくなるものだ。しかしそれを分かっていないと人同士の意思疎通はできないかもしれない。この点は考察に値する問題である。

2003年1月30日

学問と信仰

恩師の上村勝彦先生(現東大教授)が突如としてお亡くなりになった。58歳。
かつて印度哲学の学者は長生きだと言われてきた。同窓会では長寿祝の年齢を上げないと祝いきれないくらいだったが、その下の世代で急に亡くなられる方がこのところ多いような気がする。中観思想の江島恵教先生、初期仏教の阿部慈園先生。そこに高齢の先生方も亡くなるから、ここ数年葬式ラッシュになっている。
上村先生には、大学1年生からサンスクリット語の手ほどきをしていただいた。授業が終わると毎回のように、近くの居酒屋でおごってもらった。「近頃の大学生は何を読んでいるんですか?」…上村先生は説教を垂れるタイプではなく、むしろ学生から話をいろいろ聞きたがる。こちらも若いから得意になってつい余計なことを喋っていた。「そうなんですか」と笑顔で聞いてくださる先生が、インド学の大家であるとわかるのはもう少し後の話である。
大学院の授業では、「大学者ほど間違いも多いものだが、それによって研究が無価値になることはない」というのと「日本人はヨーロッパのインド学に目が行きがちだが、もっとインドを見ないといけない」というのが先生の持論だった。海外の翻訳の間違いを見つけたり、インドの留学話をしたりするたびに結論はこれになる。かといって力を入れて強調する素振りもない。実にそっけなく言うだけだが、それがかえって心に残るものだった。
先生は岩波文庫「バガヴァッド・ギーター」「カウティリヤ実利論」や、近年は「マハーバーラタ」全訳というとてつもない量の翻訳に携わっていた。葬儀の中の弔辞で「専門を深く極めるのも大事だが、翻訳を出版して世の中に広めることも学者の任務」ということを先生が仰っていたそうだ。確かに日本で出版されているインド文学や哲学の翻訳は数えるほどしかない。「狭く深く」だけをよしとせず、世間にも目を配る余裕はなかなか持ちにくいものだ。
最後に奥様が先生が最後に観音様をすがり、安らかな死に顔であったことを述べた。学者一辺倒のイメージが強かった先生だが、授業や居酒屋では見られなかった僧侶としての一面を、しかも内面にしまいこまれた信仰として知った。学者と僧侶は、実は別異ではない。しかし安易に結びつけなかった先生の生き方は、心から尊敬する。
ご冥福をお祈りするとともに、後を行くものとして先生の遺志を継いでいけるよう精進したい。

2003年3月 3日

死ぬ瞬間

E・キューブラー・ロス著・鈴木晶訳/読売新聞社
 数多くの末期患者とのインタビューをもとに、精神科医が人が死をどのように受け入れていくかを記した本。医療関係者必読とされている本だが、現代版『死者の書』とも言える中身に宗教的な側面から読むこともできる。普段死についてあまり考えないだけに、この本が訴えかけてくるものはものすごい。タイトルだけで参ってしまってしばらく手に取らないでいたが、『中陰の花』を読んだ勢いで読み始めた。
 ここで提起された死の五段階説はこの本によって有名になった。致命的な病気であることを告知された患者が辿っていく道筋である。たとえ告知されなくても、患者は自分の身体から発する信号で否応なく死期を悟る。これに付き添う医師・看護士・家族が死にゆく者の各段階に応じてどのように接したらよいかというのがこの本の主題だ。


  1. 否認と孤立―何かの間違いだと思い込む
  2. 怒り―どうして自分が?と憤る
  3. 取引―善行をするからと延命を祈る
  4. 抑鬱―もうおしまいだという喪失感
  5. 受容―最期を静観して待つ

 大事なことは、いつも気をかけて患者が話したいときにいつでも話を聞くことだという。反対に悲しみや怒りの感情を抑えさせたり、虚しい励ましをしてプレッシャーを与えたりしてはならない。これは末期患者に限らず健康な人も、子供から大人まで、一般的に通用することだろう。ただ話を聞いてくれる人を求めている人はこの現代、想像以上に多い。
 それにしても個々のインタビューは胸を打つものばかりだった。幼い子供が気がかりでとても死ぬなんて考えられない母親、17才で不治の病を患い、両親と共に自分の納得できる道を探す女の子、ますます元気な妻をよそに衰えていく自分に孤独を感じる夫など、どうしても自分のことのように身につまされてしまう。
 自分がある日ガンだと分かったら、あるいは家族が不治の病だと分かったらどうするだろうか。縁起でもないとタブー視せずに、時折考えてみることも大事かもしれない。それは決してネガティブなことではない。周囲の人たちと一緒に今をよりよく生きていくための点検でもあるのだから。
 死は生に属する、生誕がそうであるように。歩行とは、足を上げることであると同時に、足を下げることでもある。タゴール

2003年8月 3日

一回性

 東京芸術大学の学生オーケストラが故郷・長井にやってきた。
 国立としては唯一の芸術大学である東京芸術大学(以下芸大)には、全国から芸術家のエリートである学生が集う。一学年が3000人もいる東大とは訳が違い、徹底した少人数教育。世界的に有名な卒業生は枚挙に暇がない。
 その芸大生からなる学生オーケストラは、従来大学の中でのみ演奏活動を行ってきた。ソロ演奏重視と学生は勉強に専念すべしという風潮があったらしい。
 それが21世紀になって、桐朋など私立音大のオケ活動に触発されたり、国立大学の独立行政法人化に伴って大学をPRする必要が出たりしたことから、方針が転換されつつある。大分で行われている別府アルゲリッチ音楽祭に引き続き、長井での演奏が史上2回目の地方公演となる。
 そんな訳で大学側も非常に気合が入っていた。オーケストラは公演日の2日前から長井に入り、3日間念入りにリハーサル。教授・講師陣はもとより音楽学部長まで入った。指揮は芸大教授でもある小林研一郎氏。
 なぜ人口3万人ばかりの長井に?というと、梅津さんという方の存在が大きい。長女と次男が音大卒で、県内外に音楽家との付き合いが深く、頻繁に交流している。昨年都響の金管五重奏が来たり、弦楽四重奏が来たりしたのも、梅津さんを窓口にしてのことである。ひとくちに付き合いといっても、ただ演奏会のマネージメントをするだけでなく、市内の観光名所を案内したり、美味しいものをご馳走したりと、至れり尽せりの心のこもった歓待で、いらっしゃった方はとても喜んでいく。この積み重ねがあの芸大を動かしたのである。
 もっとも、梅津さん自身のポケットマネーでひとつのコンサートが賄えるはずもない。市内にはお医者さんや事業家をはじめ、音楽文化に理解のある人がたくさんいて、大きな演奏会を支えてくれる。今回の演奏会は総予算600万円。当初は梅津さんも私も芸大からオファーがあったときにこの予算を見て、今の長井にそんな体力はないだろうから不可能だと考えていた。そこに長井市長をはじめとする多くの協力者が現れ、寄附を集め、チケットを売り、演奏会を実現してしまった。
 長井市が主催に入ったのは寄附金を非課税扱いにするためだった。財政難の市としてはお金は出せず、ホールの提供や市職員による手伝いを行った。近隣の白鷹町、飯豊町、小国町も協力。市民が積極的に動いて行政がバックアップをするという、ひとつの型が出来上がった。中途半端に行政が入ることを歓迎しない声もあったが、最終的な責任の所在がはっきりすることで安心感が違う。
 普段は長井にいない私なのでプログラム・パンフの作成をしたくらいで、あとは教授や学生のおもてなしという名目で一緒に美味しいものをたくさん頂いた。お寺の話や独立行政法人化の話で大いに盛り上がる。
 コンサート当日は予想を遥かに越える1000人の来場。ベルリオーズのローマの謝肉祭、二十歳に満たない学生のソロによるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、そしてドヴォルジャークの交響曲第8番。演奏は3日間のリハーサルの成果があってすばらしい完成度だった。特に8番の2楽章の弦テュッティは、背筋がぞくぞくしまくった。正確なアインザッツと爆発的な音量が両立する稀有な演奏である。
 ここまで完成度を高め、気迫あふれる演奏になったのは小林氏の一流の腕によるところが大きいだろうが、教授陣によると演奏に臨む新鮮な気持ちが大事だという。プロのオーケストラは演奏に慣れっこになってしまって、手を抜いても大丈夫なポイントなど「生活の知恵」を身に付けてしまっている。それがよく言えばエレガントな、悪く言えば覇気のない演奏につながる。芸大生は才能はあるが経験はまだ浅い。子供の頃からすらすらーっと演奏できたかもしれないが、ひとつひとつの音が持っている「意味」をかみしめるのはまさに今とこれからである。その意味を見つける喜びが、演奏をダイナミックでドラマチックなものにする。こんなすごい瞬間に立ち会うことができて、聴衆は大感激だ。
 省みるに自分の仕事や趣味、ひいては家族にも同じことがいえるだろう。長いこと同じことを繰り返しているうちに忘れ去られていく大切なもの。「1回きり」というときに否応なく顕現するもの。思えば人生1度きり、今日のこの日も1度きりだ。一回性のもつエネルギーをもっと生活の中で活用していきたいものである。

2003年11月 1日

日本語熱








私が通っているセンターのそばにある屋外学食.

ここでいつもサンスクリット会話を習っている.
三角カンティーン

 プネーは今日本語ブームの様相を帯びている.大学では1000人を超える学生が日本語を受講し,大学外にも大小さまざまな日本語学校が賑わっている.今住んでいるところの近くにもJapaniccaという学校があった.


 なぜこんなに流行っているかといえば,それは間違いなくお金になるからだ.インドにどんどん進出してくる日本企業,月給1〜2万円が平均というところで賃金水準はとても高い.先のJapaniccaという学校の宣伝にも[Congratulates
our students Sidharth & Kaushik for getting selected by Hitachi Co.
Tokya, Japan]という売り文句が書いてあった.日本語スピーチコンテストもある.インドの各地区大会から,勝ち抜きで全国大会まである.ここプネーは西地区の大会会場になっているらしい.


 私が学ぶサンスクリット学科でも,日本語を勉強している学生が3人いる.私がサンスクリット会話を習っているのヴィナヤクは,その一人だ.11月には試験があるというので,殊の外一生懸命勉強している.テーマにそった日本語スピーチを日本人の前でするという.ヴィナヤクのテーマは「なぜ日本語を学んでいるか」,その女友達のサンバダが選んだテーマは「私の夢」.練習のために何度か聞いた.


 ヴィナヤクによると昔,「Love in Tokyo」というヒンディー映画があったらしい(見てみたい!).その主題歌の「サヨナラ,サヨナラ…」が頭に残っていたという.そしてサンスクリット語を学ぶうちに,サンスクリットの文化が仏教として日本に影響を与えたことを知り,日本語に親近感を持つようになった.そこに友達が「日本語は難しいよ」と言うのでチャレンジ魂に火がついたという.将来は日本人にサンスクリット語を教えたい,できれば日本に行きたいというが,それで食べていけるかどうか.


 サンパダの夢は「みんなを幸せにすること」.なんて純真なんだろうか.私は「いい夢だけれど抽象的で具体性がない」などとコメントして,後から反省した.


 私の夢は何なんだろう,そしてなぜサンスクリット語を学んでいるのだろう? ヴィナヤクがサンスクリット語でそれを書く宿題を私に課したので今考えているところである.

2003年11月 3日

講演会

大学内の郵便局 いつもは西門から入るが,北門から入ってみる.後で地図で見たが完全に遠回り.20分くらいかかった.でも大学内にある郵便局が思いのほか近い.日本宛に葉書を出した.


 日本はもう民営化する前から非常に愛想がいいが,こちらの郵便局は事務的.切手の窓口に人がいないとき,隣の窓口で暇そうにしている職員に言うと,「切手はとなり.」と言って取り合ってもらえない.しかも切手の窓口の職員が来ないこと来ないこと.タイミングが悪いと30分くらい待たされる.窓口の前に切手を買う人の群れができあがるが,みんな我先にと割り込むのでカオスだ.日本へは葉書が1通8ルピー(20円).でも8ルピー切手はなく,4ルピー切手を2枚買う.今日はその4ルピー切手もなく,2ルピー切手を大量に購入することになった.知らないおじさんの怖い顔が印刷されている.


 今日はライプツィヒ大学のラルス・ゲーラー博士による講演会.テーマはプールヴァ・ミーマーンサー(ミーマーンサー学派)というヴェーダを合理的に解釈して正しい祭式の方法を求めた学派.ドイツ人というだけでなぜか楽しみにしていたが,講演会に来てみるとこの1,2週間図書館でよく目にする西欧風の人がゲーラー博士だった.こんなことならもっと早く話しかけておくんだった….

 内容はというと,解釈学といわれるミーマーンサー学派がいかに哲学的かという話.文法学派の影響を受けつつ,祭式の記述からメタ・ルール,メタ・ルールから意味論的分析へと昇華されていく.元はといえば「どのようにして祭式を行うか」という点について各地方でいろいろな見解があり,それを一本化するためにヴェーダを根拠に説得力のある解釈を示したわけだが,ここに哲学的な発展を見てとることができるという.


 1時間という時間では立ち入った話までは行かなかった.その後ディスカッションとなり,ジャー先生が「もともとミーマーンサー学派は文章の意味を探求する教え(ヴァーキヤアルタシャーストラ)だから,その展開は至極当然である」とまとめてしまった.後代に認識手段の議論が深まるのもあくまでその流れであるという.これにはゲーラー博士も反論したいようだったが,ここまでテーマが大きいと何ともいえない.というわけでおひらきになった.


 確かに初期のミーマーンサー学派は,解釈学に専門化していたと思う.しかし後代に認識手段の議論などを取り込んだのは,解釈学からの必然性があったからなのだろうか.学派が独立してやっていくために当時備えるべきトピックを揃え,それについて独自の見解を打ち出す必要があったからではないかと,私は思う.クマーリラの時代には,明らかに解釈学からかけ離れたトピックがある.ミーマーンサー学派の「色気」というか,「食っていくため」というか…


 終わって立ち話をしていると,保健センターでヨーガを教えているという先生に会った.サンスクリット語で話しかけてきたのでこちらもサンスクリット語で返す.3ヶ月間,朝8時からか,夕方6時から行われる.実習だけなら300ルピー、講義と試験も入れたヨーガ講師資格コースなら3000ルピー.坐禅とヨーガは親近性があり,一度見学してみようと思う.


 帰ろうと思ったら前輪の空気が抜けていた.振動でねじがゆるんだようだ.いつものバイク屋まで自転車を引き,帰りが30分余計にかかった.

2003年11月 8日

ヨーガ








メインビルディング.ガネーシュ・キンドと呼ばれる大学のキャンパスはかつてイギリス政府の避暑地であり,この建物が公館だった.インド独立によって返還され,大学となったがこの建物は残されて今は博物館のようになっている.
大学のメインビルディング

 結局ヨーガを始めることになった。ヨーガというと,大学生のときに「ヨーガ研究会」というサークルがあって,「ヨーガをすれば睡眠時間が4時間ですみます!」という売り文句で勧誘していたのを思い出す.後で聞いた話ではこのサークル,オウム真理教が絡んでいたらしい.そのイメージがあってか,ヨーガというと変なポーズをしながら瞑想をして,ときどき宙に浮く練習をするというようなかなり怪しげな感じがつきまとっていた.しかし先生がきさくだったので,話の種になるだろうと思って1度見学してみることに.


 1時間,ヨーガのクラスでやっていることは私が考えるところのストレッチ体操と筋トレだった.はじめ仰向けになって深呼吸.それから手足を左右にひねって伸ばしたり,足を伸ばしたまま上げて腹筋のトレーニング.それからうつ伏せになって体を反り返らせたり,ブリッジをしたりと,体を伸ばす体操と筋肉を鍛える体操がほどよく混ざっている.実に気持ちよさそうだ.途中,『ゲームセンターあらし』(昔はやったマンガ)の「水魚のポーズ(うつ伏せから足を手でつかんで反り返る,本当は弓のポーズというらしい)」と『少林サッカー』(少し前話題になった香港映画)に出てきた合掌のポーズ(片足で立って合掌する)ところは,確かに変なポーズではあったが.


 問題は時間で,朝の8時からと夕方の6時から.朝はお掃除のおばさんが8時にならないと来ないので難しく,夕方は日が暮れるとライトのない自転車で帰るのは危ない.しかし次週からは5時からのクラスもあるというし,迷っていると先生が「1日でも多く行うことが健康にいいんだ」と勧めてきたので参加を決意.昨年の今頃,やたら風邪を引いて大変だったのを思い出すと,健康にいいというのはとても魅力的だ.授業料は3ヶ月間で300ルピー(750円).毎日参加したほうがよいのはもちろんだが,行っていることは毎日同じなので参加できない日があっても構わない.


 最初の週は,お掃除のおばさんに頼んで7時に来てもらうことにした.朝7時40分頃家を出て,まだ肌寒い中を自転車で行くのも気持ちよい.それでも大学に着くころには息も上がり,汗もかく.先生が颯爽とバイクで現れ,学生や近所のおじさんが集まってくると,ヨーガの開始.雰囲気としてはラジオ体操が始まるといったところだ.


 一番最初には正座をして目を閉じ,深呼吸をしてリラックスする.すると先生が「オーム,サハナーウ、バワトゥ…」とヨーガの偈文を唱えるので,その後について一緒に唱える.その頃には自転車の汗も引き,上がっていた心拍数も落ち着いてくる.自分の体の硬さを痛感しながら,1時間はあっという間に過ぎた.普段伸ばしていないところをビリビリ伸ばすのはきつかったが,終わってみると体が軽くなったよう.2日目,3日目と続けるにつれて,調子もよくなった感じがする.


 インド3000年の叡智と言うべきか.自転車とヨーガで運動不足はだいぶ解消される見込み.教室のじゅうたんがとても汚いのと,時々蚊に襲われるという欠点はあるが,当分は続けるつもりだ.


ドゥルゲーシュ,敗れる

 日本の大学で同じ学科のK君が奥さんとプネーに到着.


 もともと私のプネー行きは,彼なしになかった.オーストリア留学の計画がなかなか思うようにいかず,インド留学に路線変更をしたとき,ちょうど彼がインド留学を計画中で,これ幸いと相乗りさせてもらったのである.入学願書,ビザ,予防接種,持ち物に至るまで,怠け者の私は彼からことごとく教えてもらい,留学を決めてから半年足らずで実現できた.


 その彼がなぜ私より遅れて到着したかというと,インド政府がのろかったからである.インドに行くためには,たとえ観光旅行であっても,パスポートに加えてインド大使館が発行する入国許可証(ビザ)が必要.そのビザには観光ビザなど何種類かあり,それぞれ手続きが異なる.私は単身で渡る上に研究費は曹洞宗だったので制約がなく,短期間で発行される学生ビザ(Student
Visa)を申請していたが,彼の場合,奥さんが同行する上に研究費が国から出ているので研究ビザ(Reseach
Visa)という正式な手続きを踏まなければならなかった.


 この研究ビザというのが曲者で,申請に大量の書類が必要な上に,発行まで最低3ヶ月,6ヶ月以上もかかることになっている.申請書がインドに送られ,大学を経由してまた日本に戻ってくるという.その途中で書類の不備があればやり直し.そんな気の遠くなるような手続きをしていれば,予定も全く立てられない.K君の場合は,あまりの遅さに教授と大使館にかけあい,結局発行されたのが学生ビザだったという虚しさ.しかし研究ビザを待っていたら年明けだったかもしれないことを考えると,正解だったかもしれない.この研究ビザに泣いた研究者は,枚挙に暇がない.


キャロムが上手いドゥルゲーシュ、ビジネスの電話をしながら そのような訳でやっと着くことができたK君と奥さんはまず大学近くのホテル・ピチョーラというところに泊まって家探しを始めた.家探しといえばこの人,ドゥルゲーシュの登場である.K君が来る前から連絡を取り,よいフラットがあるという情報を得た.私も住んでいるアウンドという街は大学から近い上に空気があまり汚れておらず,お店も揃っている.ここをテリトリーにしているドゥルゲーシュなら,私の場合と同じようにすぐにいい物件を見つけてきてくれるだろうと思われた.ドゥルゲーシュは大張り切り.いつにも増してテンションが高くなっていた.


 しかし,ことはうまく運ばない.今回は街の中心部にいい物件が見つからなかったのだ.3日間,合計10件以上見て回ったがどれもこれも街外ればかり.街外れは買い物などの移動が大変なだけでなく,スラム街を通っていかなければならず,女性にはきつい.いいところが見つかってもすでに成約済みだったり,まだ人が住んでいたり,オーナーが売るつもりだったりと,なかなかうまくいかない.ドゥルゲーシュは「ここは中心から決して遠くない!」「今住んでいる奴らはすぐ追い出すから,そこに入ればいい!」とかかなり苦しいことを言っていて持ち駒の少なさが見て取れた.かさんでいく宿代に次第に憔悴していくK夫妻と,紹介するもの紹介するもの断られて不機嫌になるドゥルゲーシュ.


 このままでは拉致があきそうにないと思い,日本人会の連絡網を活用させてもらう.ここで小島さんが会社で契約している不動産屋を紹介して下さった.K君が電話をすると場所や予算などの条件を聞かれ,早速翌日に下見.そこからは今までは何だったんだというくらいあっという間に話が進み,K夫妻はプネー到着4日目にしてとてもよいフラットを見つけることができた.K君の話では下見は全て車で回ってもらい(ドゥルゲーシュは徒歩か自腹リキシャー),決まったフラットは家具つきで,しかもクッションなどを交換してもらえるという.ホテルから荷物を運んでくれたり,支払いは銀行員が同席してドルで払えたりと,至れり尽くせり.


 慌てたのはドゥルゲーシュ.K君が別の人の紹介で決めたと知ると,烈火の如く怒ったという.K君としては,3日間もいろいろな物件を見せてもらって土地勘や相場などを勉強できたし,お礼に結構な額の謝礼を渡すつもりだったが,ドゥルゲーシュが怒っていて受け取るまでも大変だったそうだ.彼はまだ21歳.良くも悪くも若い.


 その後しばらくして私のところに電話があった.前もって一部始終を聞いていたので,ドゥルゲーシュが私に愚痴を言うようならば,顧客を満足させられなかったドゥゲーシュの非を説くつもりだったが,予想に反してドゥルゲーシュは落ち込んでいた.力ない声で,「彼らが別の人からフラットを決めた…」と繰り返すだけ.しかもちょっと泣いているようだ.「落ち込まないで,次があるさ,ポジティブにいこうよ」と慰めてこういう時にいい子ぶる私はずる賢いと思う.


 今回の宿探しの間にドゥルゲーシュから聞いた話では,彼の父親は警察官で,10才年下の母親がドゥルゲーシュを産んだのは彼女が15才のとき.21才のドゥルゲーシュのお母さんは今36才なのだ.父親は州内の遠いところに勤務しており,絶大な権力とお金を持っている彼に対してドゥルゲーシュは反抗期を迎えている.その反抗心が大学の勉強とビジネスに彼を駆り立てているようだった.不動産業をしながら大学で経営学を学び,MBA(経営学修士)を取るのが目標.いい加減なインド人が多い中,彼の真面目さはひときわ光っている.経験がまだまだ浅いのは仕方ないことだが,経験を積むことで彼の理想を失わないでほしいと思った.私も,彼を見ていると元気が出る.がんばれ,ドゥルゲーシュ!


2003年11月11日

だるい日








大学構内。大きな木が鬱蒼と生い茂っている。
大学の中の森

 インドの生活は,体調にしても仕事にしても「調子がいいな」と思うときにはもう下り坂で,「調子が悪いな」と思うときには上り坂という,起伏が大きいような気がする.


 教授との講読は,先週から週に2回に増えて,予習や復習でかなり充実してきたように思われた.ところが今日は何を間違えたか12時の約束を2時と勘違いして大ポカ.先生をしばらく待っていて,手帳を見てから気が付いた.せっかく先週から着々と用意してきたものを自分で無駄にすることに.しばらく図書館で呆然としていた.

 それから修士課程にいるカシミール出身のムリナールという学生が,ディワーリーで帰省した折に写本情報を調べてきてくれたが,これもダメ.彼はパンディットの家に生まれ,父親と本を出したりしているらしい.今は外務省の退避勧告もあってなかなか近寄りがたいカシミールだが,ここは古来文化が花開き,多くの哲学者が活躍していた.そのうち私が専門とするニヤーヤ学派の学者,ジャヤンタ・バッタとバーサルヴァジュニャは,10世紀頃の人と言われている.この2人の著作『ニヤーヤ・マンジャリー』と『ニヤーヤ・ブーシャナ』という本について,写本(※手書きの古い本.オリジナルに近い)があるか調べてもらっていたのである.シュリナガルとジャンムーの両方の大学の図書館でカタログから探したけれども,結局1冊もなかったという報告.カシミール出身の人間の著作がないことについて現地のパンディットは,「ジャヤンタは牢獄に入れられていたくらいだから何らかの理由で燃やされたのかもしれない」と言っていたそうだ.ガッカリ.


 そんな中,午後から特別講義.「古代インドの現代物理学に対する貢献」という謎のテーマで,ベナレス大学の物理学科の教授が10日間講義をしている.昨日が初日で「ヴァイシェーシカと物理学」,今日は長さや時間の単位の話だったが,出る気乗りがしていなかったところに小島さんが上司と大学を見に現れたので,付いていってチャイを飲んでいた.留学生センターのおじさんが「マイコに会ったか?マイコはもう日本に帰るぞ」と勧めるので「マイコって誰よ?」と思いつつせっかく小島さんたちもいることだし会いに行こうと思ったが,住んでいるのはどうやら女子寮ではなくて留学生寮の模様.結局会うことはできなかった.


 小島さんたちが帰った後,教授に謝りに行くと,「私もとても忙しかったから,講読はできなかったと思う」と仰っていた.実際とても忙しいのはわかっているので,何だか複雑な気分.そこにK君が現れる.彼の話では昨日お金を下ろしたときにキャッシュカードを取り忘れてしまい,今日は紛失手続きに追われていたという.この話は聞くだけで私までガッカリ.しかし,彼はシャイラジャー・バパットというヴェーダーンタを専門としている教授と会うことができ,教授は大歓迎.早速週2回読む約束をしていた.いいなあ.


 思うに,留学先の大学を選ぶとき,受け入れる教授はその学科のボスであることが多いはずだ.しかし,ボスは学科の運営にかなりの時間を割かれている.そこでいちばん望ましいのはナンバー2ぐらいの,実力も時間もある先生のところについて勉強することだろう.しかし,ナンバー2の先生はそもそもあまり名前が知られていない上に連絡も取りにくい.その先生が直に受け入れることも難しいだろう.つまり学科の中がどうなっているかは,行ってみないとわからないのである.そこで自分の専門と重なる先生が見つかるのは,本当に幸運だと言わざるを得ない.


 受け入れたのがジャー先生(※今勉強しているところのボス)である点では同じでも,ジャー先生自身の専門を当てにしてきた私と,一か八かジャー先生以外の人に賭けてきた(?)K君の違いがあきらかになったかたちになった.とはいえうらやましがっていても仕方がないので,私はできることを精一杯やるのみだ.


 明日のヨーガのクラスは,教室でクリケットのテレビ放映を見る集まりがあるために,休み.なんじゃそりゃ?


2003年11月15日

ヨーガ(2)

心理学教室 ヨーガのクラスは,毎日同じことをするのかと思っていたが日によってメニューが変わる.あやしいものも少々.


 「シャワ・アーサナ(死体のポーズ)」は大の字に寝転がって目を閉じ,リラックスする.先生が「かーんぜんににリラーックスしてー(coompleetelyyy
relaaaax)」と眠くなるような号令をかける.両足の小指から親指,両手の小指から親指へと意識をひとつひとつ集中しては変えていき,最後に,体のどこにも意識がいかないようにする.つまり死体になるということ.


 「スーリヤ・ナマスカール(太陽にあいさつ)」は「オーム,スーリヤーヤ,ナマハ」と合掌で唱えてから体を起こしたり倒したりして,その度に天を仰ぐ.一連の動作が終わると,「オーム,バースカラーヤ,ナマハ」と太陽を別名で呼びながら同じことの繰り返し.太陽にはそのほかにもラヴィ,サハスラカラなどの別名があり,5,6回繰り返しただろうか.寝たり起きたりなので,結構つらい.


 かなり苦しいポーズをとっているときに先生が「このポーズは特に腰の悪い人に効果的です」などといった解説を入れてくれる.「いや,腰の悪い人はこんなポーズはできません」と心の中でつっこむ.


 さて,夕方のヨーガのクラスには韓国人3人とインド人1人が参加しており,私を入れて5人でやっている.韓国人はインドにヨーガと英語を習いにきたという.一人は日本に1ヶ月住んでいたことがあり,「高田馬場の国際パチンコで遊んでいました」なんていう話も.英語は「difficult」を「ティピカルト」と読む韓国英語だ(コーヒーは「コピ」,コピーは「カピ」).


 インド人はヨーゲーシュという教育心理学の学生.ヨーガ+イーシュ(ヨーガ・マスター)という名前はまさにヨーガにもってこい.マハーラシュトラ州の北はずれジャルゴーンの出身で,大学の近くに同郷の人と5人で住んでいる.その彼は,週に一回昼食をぬく軽い断食をしている.彼のお母さんは週に2回,ガンジーは毎日のように行っていたという.「ヨーガと断食が神様に会える方法なんだ」という彼の目は,とても輝いていた.


 そのヨーゲーシュが教育心理学の調査をするというので協力することになる.「すなお」「けんか好き」「貪欲」「気まぐれ」「頑固」「わがまま」などの設問について,自分はどれぐらい当てはまるか,他の人は自分をどれぐらいであると見ているか,そして自分の理想はどれぐらいかというものを答える.英語で書いてあり,わからない単語は説明してもらえる.ところがヨーゲーシュは,分かる単語にも説明をしてくれる上に,「これは反社会的な性質だよ.君には当てはまらない.僕が保証する」などと付け加えて先生に「誘導はしないように」と注意されていた.


 「時間を守る」というのは,日本とインドのお国柄の違いがはっきりする.日本で私はわりと時間にルーズな方だと思うが,インドに来ると超几帳面な人間になってしまう.小島さんの話では,ビジネスにおいても同じらしい.時間を決めてアポイントをとっても現れず,忘れた頃にひょっこりやってくるなんていうことがよくあるという.確かに交通渋滞が頻繁に起こるため約束を守りにくいのは分かるが,それならそうと早めに移動を開始するとか,遅れるという連絡を取るとかという発想をしないのが,インド流だ.日本にいる私のお師匠さんは,1分遅れる場合でも携帯から連絡することにしているというのを思い出した.


 調査協力のあと,ヨーゲーシュにジャヤカル・ライブラリーという大学図書館に連れて行ってもらう.学習室は夜中遅くまで開いているらしく,あまり明るくない蛍光灯の下で学生が熱心に勉強していた.しかも中央には創立者か何かの大きい額縁が掲げられてあり,その下でたくさんの学生が熱心に勉強する姿は北朝鮮を連想させるものがある.ここの図書館は利用証が有料.本はたくさんあったが専門書となるといつも勉強している図書室にはかなわない.一度だけ見学させてもらうことにして,後しばらくは行くことがないだろう.


 そのようなわけで,ヨーガクラスを通して少しずつ学内に知り合いが増えてきた.道端で声をかけられることもある.孤独になりがちな留学生としては,なかなかいい環境なのではないだろうか(写真は心理学科,教育心理学科は別だが,7年間学科が閉鎖されていて今年から再開したので看板などはまだない).


2003年11月16日

ヒツジ

やぎ 昨日の夜ぐらいから家の裏でやたらメエメエいうと思ったら,ヒツジの大群が家の裏にたくさん駐留していた.どこからやってきたのだろう.


 旅行中,テレビでよく見たヒンディー語のコマーシャル.大学のキャンパスで男の子がスター気取りで闊歩しているそばで,女の子が陰口を言う.「スター気取りもいいけれど,においがきつくてヤギみたい!」そのとたん,靴のひもを結んでいた男の子は本当にヤギになってしまい,メェ〜と鳴く.におい止め制汗剤の宣伝だが,ヤギのにおいがどんなのものか,日本人だったらあまりわからないだろう.


 午後から道端でこの一行に出くわした.確かに,くさい.けれどもどこか懐かしいにおい.子供の頃には山形の実家の近くでも多くの家が牛や豚を飼っていた.その小屋で友達と遊んだ記憶がよみがえる.


 昨日はK夫妻のお招きで新居に遊びに行った.スィンドゥ・コロニーという高級住宅街にあり,4階建ての3階と4階と屋上が彼らの住居だ.建物の構造がアバンギャルドな上に,家主が家具をいろいろオーダーメイドしたらしく,やたら現代的な作りになっている.家の作りに細部に至るまで感心.奥さんの作ったカレーは野菜たっぷりでどことなく日本の懐かしい味がした.ビールを飲んでおしゃべりに興じたり,「6ニムト!※」というゲームを遊んだりしているうちに12時.住宅街は難民除けのためか全て柵で囲われており,入り口は東西南北に数箇所しかない.そのうち夜は何箇所か閉鎖するようで,一時は出られないかと心配された.高級住宅街ゆえに,セキュリティーも高く,また繁華街からも少し遠いのがよしあし.K君はスクーターを買おうか検討している.


 今朝はいつものお掃除のおばちゃんの代わりに,その娘が2人でやってきて掃除をしてくれた.小学校高学年くらいのお姉ちゃんが掃除をしているそばで,低学年くらいの妹はキャロムを遊んでいる.帰るとき2人にアメをあげた.それにしても学校にも行かず働いている子供が多いこと.レストランでも食べ終わった食器は子供が下げている.時々腑に落ちない.


 小島さんから頂いたチラシで来月の帰国の飛行機を予約する.JALの「里帰りプラン」というもので,プネーから国内線でデリーへ,デリーから成田まで直行,希望すれば成田から大阪・名古屋まで国内線も料金に含まれる.3ヶ月以内の往復で35,485ルピー(年末年始38,710ルピー).反対に日本出発の往復「呼び寄せプラン」はこの2倍以上するので,格安航空券の方がいいかもしれない.3ヶ月ぶりとなる日本,なかなか楽しみである.


※6ニムト(ゼクス・ニムト 6nimmt!)…牛のマークをできるだけ取らないようにするドイツのカードゲーム.2〜10人まで遊ぶことができ,ルールが簡単でとても盛り上がる.1994年のドイツ年間ゲーム大賞ノミネート,ドイツゲーム賞金賞受賞.日本でも根強い人気.1000円ぐらい.ちなみにインドで牛は聖獣とされており,インド人と遊ぶときには逆に牛のマークをできるだけ集めるゲームにしなければならないかもしれない.

2003年11月18日

書店めぐり

 K夫妻とともに書店をめぐる.10時に出発して帰宅したのは20時半.たっぷり満喫した.書店情報を教えてくれたプネー大学のI氏には深く感謝をしたい.


クロスワードクロスワード

[JMロード,マハーラージ・チョークから200メートル]

プネーでたぶん一番大きい書店.映画館やデパートにも支店を持っている.輸入書籍,CD,DVD,ステーショナリー,玩具など.品揃え豊富で,英語の本が大部分を占めており,外国人も多く立ち寄っている.「誰が私のチーズを盗んだ(だっけ?)」とか「話が聞けない男,地図が読めない女」とか日本でもおなじみの本がたくさんある.インド旅行の写真満載ガイドブックが豊富なので,旅行の前後にチェックすると面白いかもしれない.今の時期は売れない本をディスカウントしており,写真いっぱいの図鑑などが安く売られている.前に来たときはマラーティー・英語&英語・マラーティー辞典があったのだが,今回は見つけられなかった.指輪物語ペーパーバックス版560ルピーを買おうかどうか迷ったが,これから回るところもたくさんあるのでパス.


インターナショナル・ブック・サービスインターナショナル・ブック・サービス

[サンバージー・マハーラージ・チョークそば]

英語の本や辞書などの品揃えはクロスワードにかなわないが,その分安くて面白い本が置いてある.またサンスクリットの本がある程度まとまって売られている.日曜休日,平日も午後1時から4時半まで昼休みであるため,狙っていかなければならない.

今日の収穫―



  • バルトリハリ:ニーティ・ヴァイラーギヤシャタカ(M.R.カーレー,モティラル,1971-1998(リプリント),75ルピー)
  • ジャイナ哲学概論(M.H.メータ,バーラティーヤ・ヴィディヤー,1998.160ルピー)
  • ダンディン(J.トゥリパティ,サーヒティヤ・アカデミー,1996,15ルピー)
  • 無常性―恒常性に対する仏教徒の批判の分析と存在論・人類学に関する対案(M.R.チンチョール,シュリー・サトグル,1995,350ルピー)

「仏教におけるダリット」という本があったが890ルピーという値段で断念.


モティラルモティラル・バナルスィダス

[ティラク・ロードを進み左折,バージラオ・ロード,アトレ病院そば]

インド学・仏教学研究者にはおなじみの出版社.インド各地に8支店を展開する.インド文学,インド哲学,仏教学など全般に良著を発行している.その多くは日本でも購入できるが,マイナーなものは日本に輸入されていないので品揃えをみて驚いた.どれも高いことは高いが,定価の一割引.それにおまけに1冊サービス.

今日の収穫―



  • 刹那滅についての仏教哲学(S.ムケルジー,1975-1997(リプリント),360ルピー)
  • ゴータマ:ニヤーヤ・スートラ(N.L.シンハ&S.C.ヴィディヤーブーシャナ,1930-1990(リプリント),203ルピー)
  • サーンキヤ・ダルシャナ(J.パーンデーヤ,1981,108ルピー)
  • サンヴァーダ―2つの哲学的伝統の対話(D.クリシュナほか,1991,180ルピー)
  • 対象性に関するガダーダラの理論1(S.バッターチャーリヤ,1990,81ルピー)
  • インド哲学のエッセンス(M.ヒリヤンナ,1995-2000(リプリント),100ルピーだったがサービス)


サンスクリット・サーヒティヤサンスクリット・サーヒティヤ・ラトナーカラ

[バジラオ・ロードを北上,ラクシュミー・ロードを越えて次の十字路を右折,100メートル左手]

 そろそろ荷物も重くなり,リキシャーで移動せざるを得なくなる.おまけにお昼もだいぶ過ぎていたのでレストランを探すがなかなか見つからない.やっとのことで昼食をとり,今日最後のお目当ての本屋へ.

 ここはプネーで一番サンスクリットの本を売っているという本屋.サンスクリットの本しか売っていない.「シャクンタラー入荷!」「チャラカ・サンヒター入荷!」とか入り口に看板を出している.

サンスクリット・サーヒティヤ内部 入ってみてその狭さにびっくり.床は人が一人寝れるぐらいしかなく(本当に店長が昼寝していた),三方を本棚に囲まれている.本棚には本が横に積み重ねられており,しかも奥にもある.はしごで登っていくロフトにも本が積み重ねられていた.

 本当は店員に本の名前を言って出してもらうのだが,何があるのやら知りたかったので中に入れてもらう.アーユルヴェーダ関係の本が多い中,哲学も少々発見された.その多くはヒンディー語訳付きの本で,あまり食指ははたらかない.手当たり次第に本の名前を言ったが,K君が言ったヴェーダーンタ関係の本は結構出てきたが,私の言ったニヤーヤ関係はナヴィヤもあまりない.

サンスクリット・サーヒティヤ倉庫 すると店長が倉庫に連れて行ってくれた.店から歩いて5分.ここも本がうずたかく積み上げられている.しかもぜんぶ包まれているので見づらい.店長があれはどうかこれはどうかと,いくつかの本を出してくれたが,ここでの購入はなし.K君は何冊か買っていた.

 ちょっと気になったのは,六派哲学のスートラだけムーラと英訳を全部載せた本.サーンキヤ・スートラもヨーガ・スートラもミーマーンサー・スートラも全部全部入って750ルピー.結構厚い本だった.

 「また来い」と店長.確かにこれは,前々から連絡をして探しておいてもらう必要がありそうだ.


 4件の本屋めぐりは,喉も渇いたし目も疲れた.帰りにショッパーズ・ストップというプネーで一番大きいデパートに行く.ムンバイ・プネー・ロードにあり,1階はお約束どおり匂いプンプンの化粧品店がずらりと並び,2階はサリーやパンジャービー,3階はカジュアルウェア,4階は寝具・本屋・喫茶店とデパートの基本を全て揃えている.つい先日小島さんに教えてもらったところだ.3階の喫茶店で飲み物を飲んでから,買い物をした.リーバイスのジーンズ1299ルピー,リバーシブルのジャケット(帰国用)1495ルピー,パンジャービー上下1495ルピー.ほかの店で買えばもっともっと安いのはわかっているが,どれもとても気に入ったものがあったので散財.ここにもクロスワードがあり,K君の奥さんがお料理の本を購入.私はヨーガの本でも買おうと思ったが,いつもやっているヨーガとはかけ離れたあり得ないポーズがたくさん載っているのにびっくりしてやめた.


 さらに帰りはバネールロードからアウンドにちょっと入ったシュクリヤーという高級レストランで夕食.ビールを飲んで,お腹いっぱい食べて1人200ルピーちょっと.1日で5000ルピー以上使うのは,この先しばらくないだろう.帰ってきてみると電話代の請求書.9月10月の2ヶ月で2,386ルピー.そのほとんどはネット接続で,50〜60時間ぐらいつないでいるからなあ.

2003年11月21日

個人的には

ここ1年くらいよく見聞する中に,鼻につく言葉がある.
 それは「個人的には」という言葉.もともとは組織(会社・学校・団体など)の人間が,組織を代表して述べる立場でもありながら,それと区別して見解を述べるときに使われるはずである.「今から述べる意見は,私の所属する組織の意見ではなく,したがってこの発言の責任を組織は負いません.あくまでも私個人の責任において発言されるものです.」ということは,しばしば組織と異なる見解だということが含意されるだろう.
 例えば私の属する曹洞宗は,都内に大きなホテルを所有しており,これまでかなりの赤字を出してきた.しかし曹洞宗としては大切な財産として今後も活用していきたいという.そんなときに要職についている偉いお坊さんが「個人的には,このようなホテルの必要性を感じない」と発言するような場合だ.
 さてそこで気になるのが次のような発言.「個人的には好みです」.彼の背後に,それを好みでないと考えている何らかの組織があるのだろうか? 「もしこれを好みだというならば,あなた個人の責任においてのみ発言せよ」というような組織が.
 用例を探っていくと,どうやら「個人的には」というのは「他の人はともかく,少なくとも私は」という意味らしい.それならばただ「私は」と書くだけでもよいはずだが,日本語で「私」というのを使うことに抵抗がある人が多いのかもしれない.他の言語と違い(韓国語にもそれらしきものはある),「私」という言葉にはすでにジェンダーなどいろいろな属性が混入している.
 小学校のときから作文で男子は「僕」,女子は「私」を使うことになっている.でも男性の場合「僕」は年を取ると使いづらいし,「私」はオカマくさい(と思う人もいる).「オレ」「ワシ」はくだけ過ぎだし,「自分」は田舎者っぽいし,「わたくし」はかしこまり過ぎている(漢字が「私」と同じだし).まさか「拙者」「某(ソレガシ)」もないだろう.自分にしっくりくる一人称を見つけるのは案外難しいのだ(ついでに言えば,二人称「あなた」「君」「お前」も難しい).実際にはTPOで使い分けていることが多いのではないだろうか.大学生にもなって自分のことを下の名前(しかもちゃん付けだったり)で呼ぶ人がいるのには辟易するが.
 そこで「個人的には」.フォーマルな感じをかもし出しつつ,一人称を表示する.納得できないことはないんだけれども,それでも「あなたは一体どんな組織に入っているのか?」とつっこみたくなる今日この頃である.
 最近知った言葉「愚禿(ぐとく,頭を丸めているばか者)」.僧侶が自分のことを卑下して言うらしい.親鸞上人が使っていたという.私のお寺にも18世紀,「愚紋白癡(ぐもんはくち)」という名前の住職がいた.どうしてそんな名前になったのだろう?-----
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2003年11月22日

科学信仰








大学の正門近くにあるシバージー像.マラータ王国の王様でイギリスの侵略に最後まで抵抗した英雄としてあちこちに像がある.
シバージー像

 今学んでいるセンターには教授と講師のほか,何人かの研究者がいる.博士論文執筆中という人,博士号とりたてという人.経済的・(インドの)年齢的に厳しいせいか,修士を取ってからすぐに博士課程に入る人はあまりおらず,従ってここにいる研究者の年齢はばらばら.


 そのひとり,オリッサ出身の若手研究者N.ジェーナー氏の研究発表があった.タイトルは「アタルヴァ・ヴェーダの薬学」.今まで彼とは話したことがなく,偉い先生の講演のときはスライド&OHP係をしているのでてっきり事務の人かと思っていたが,ヴェーダを専門にしており,アタルヴァ・ヴェーダの本も出版しているれっきとした研究者だ.


 四大ヴェーダのひとつに数えられるアタルヴァ・ヴェーダは黒魔術の書という評価が一般的だが,比較的新しい(といってもお釈迦様以前の話だが)こともあり,呪術的な部分のほかに実用的な部分もある.実用的な部分には医学的な知見も盛り込まれており,さまざまな病気に対応した薬が説かれている.もっとも,その薬の使い方は呪文を唱えながら服用するなど,呪術的な要素から完全に逃れてはいない.そもそも病気は悪魔が悪さをしたものと考えられており,呪文も治療の大事な一環であった.しかし,そこで使われている薬は現代までアーユル・ヴェーダなどに受け継がれており,その効果もあながちいい加減なものではない.謎の用語を解明することによって,従来研究されてこなかったアタルヴァ・ヴェーダの薬学を明らかにしようとするものである.


 発表の大部分は,アタルヴァ・ヴェーダの記述から病名とそれに効く薬を説明していくというもので,病名の語彙がない私としては,付いていけなかった.インド渡航前にしてきた予防接種のA型肝炎,狂犬病,破傷風だって,英語で言われてもわからない.


 終わってから教授のコメント.ジャー先生はアーユルヴェーダや現代薬学・生理学との関連から,古代の知恵を現代に蘇らせるようにしていくべきだという,ずいぶん難しいことを言っていた.情報提供だけではなく,現代への貢献につなげなければならないと.


 ここにきて私が学んでいるインド哲学・サンスクリット学は,少なくともインドにおいては実学(現代に役に立つ学問.虚学の反対)であるという信念がとても強いことに気が付いた.サンスクリットは,文系だけの学問ではなくて理系の学問すなわち科学なのである.先々週から行われている「古代インドの現代物理学に対する貢献」という集中講義も,ヴァイシェーシカを形而上学としてではなく,科学として捉えるところから始められている.「ニュートンが引力を発見するずっとずっと前から,インド人は引力という概念を持っていた」「現代物理学がようやく到達した結論(何だったか忘れたけど)に,1000年以上も前のインド人が気付いていたということは驚くべきことだ」などとインド人の物理学者は口々に言う.


 こんな発想をするのはヒッピーか,ちょっと頭がどうかしている人だろうに思われ,自分自身は抵抗感を感じる.この抵抗感がきっと,科学といえば近代西洋から生まれたものしか信じない科学信仰からくるものなのだろう.しかし科学はある時期に生まれたのではい.インドやアラビアから蓄積されてきたものがだんだん発展し,現代につながっているだけの話だ.問題はその流れを我々がどう捉えるかということ.一口に科学といっても,日本人のイメージと,インド人のイメージはまるで異なる.「科学史」は現代哲学の大きなトピックであるのも頷ける.


 日本は高校で文系と理系に分けられるのがよくないのかもしれない.世の中の学問は文系・理系に二分されるはずもない.優秀な科学者を育てるために,数学と物理学のできない人間を早い段階でふるい落とすエリート教育だとしたら,私は10年以上も前に落ちこぼれていたんだなあ….分からないことがあると「オレ,文系だから」というのが決め台詞だったY君の話を思い出す.決して今学んでいることに不満を持っているわけではないのだけれど.

2003年11月26日

日本語環境

勉強部屋 日本はだいぶ寒いそうだがこちらは日中は30度ちょっと,夜も20度前後という暖かさだ.肌寒いこともあるが蚊はいまだにいる.油断して蚊取りリキッドをつけないでおくと襲われる.それでも刺された後の腫れが小さいのは蚊の力が弱まっているせいだろう.


 インド人は体が夏仕様になっているので,これぐらいの気温でももう着込みまくる.フリース,セーター,ジャンパーなど,こちらが汗をかくくらい,見ているだけで暑い.女性はサリーやパンジャービーの上にジャンパーやカーディガンを羽織ると,かなり不思議な感じだ.


 そんな過ごしやすい季節にまる2日間パソコンに向かいっきり(26日は祝日).論文をひとつ仕上げたところである.9月にインドに来て最初に取り組んだのが『曹洞宗葬儀法要法話事例別体系II』(四季社)というのお坊さんマニュアルで,それが終わって今度は『曹洞宗研究員紀要』(曹洞宗宗務庁)の論文.曹洞宗付いている.駒澤大学にも道元禅師にも縁遠かったはずの私がいつの間に?


 とはいえ,法話の方はお釈迦様や道元禅師の引用もそこそこに,自分の言葉で好き放題に書いたし,紀要に至ってはインド仏教最大の論敵についてまとめたという,道心があまり感じられない態度だ.けしからん!


 なぜこんな若僧のところに法話の原稿依頼が来るかというと,お寺のホームページを立ち上げて,そこで勝手なことを書いていたかららしい.はじめに『曹洞宗祈祷法話体系』の依頼がきた.この本は,法式(法要の次第)に厳格であった曹洞宗が,ついにミーマーンサー(祭事学)に乗り出したかという,(良かれ悪しかれ)画期的な本だと思う.私は「文殊祈祷」「跡祈念」「どんど焼き」の3本を担当.本当は梅花流詠讃歌のことを書きたかったのだが,梅花は今のところ祈祷とはみなされていない.真言宗から伝わった密教的な法具を使って音楽を奏でるということ自体,微妙適悦(みみょうちゃくえつ)の功徳があると思うのだが,どうか.


 その「跡祈念(お葬式の後,遺族の健康を祈祷する法要)」つながりで,次の原稿依頼がやってきた.近親者を亡くした家族に,枕経(亡くなった直後,枕元で読むお経),初七日,四十九日,百ヶ日,一周忌…と連続して法話を説いていく「連続法話」という企画で,インドに来たての寂しい時期にそんな話を書くのはつらかった.書き終えたときにはとてもせいせいしたものだ.


 それから勉強も軌道に乗り始め,毎日のように図書館で調べたりした成果を,このたびの論文に盛り込んだ.インド仏教は12世紀頃からインドで衰退していき,代わってイスラム教とヒンドゥー教の時代になる.そのかわり目に出た11世紀のウダヤナという人は仏教をこてんぱんに批判した人物だ.バラモンと仏教徒が,神が存在するか否かというテーマで討論を行い,両者譲らなかったため,彼は両者を丘に連れて行って突き落とした.バラモンは「神は存在する!」と叫びながら,仏教徒は「神は存在しない!」と叫びながら落下したところ,バラモンは無傷であったが仏教徒は死亡した.これによって彼は神の存在を証明したのである!なんていう伝説も残っている.ひでー.


 そんな彼が残した討論に関する書物.この伝説にもあるように,インドでは討論が重視されてきた.王様の庇護を巡る命をかけた公開討論会だけでなく,弟子と師匠,敵対する者同士,友達…対話を重ねるごとに新しい知見が生まれると信じられた.現代のインド人がおしゃべり好きなのも理由がないわけではない.とはいえまだ着手したばかりの題材で,論文そのものは概説的な記述にとどまる.これからが勝負だ.


 日がな一日パソコンで日本語を打っていると,自分が本当にインドにいるのかわからなくなってくる.食事で外に出たとき,道を歩いている人たちの日焼けした顔とヒゲを見て現実に戻るような感じだ.それぐらい没頭しているということなのだろう.日本では,もうできないことなのかもしれない.

2003年11月28日

ヨーゲーシュ

 ヨーガのクラスが終わると,ヨーゲーシュと帰るのが日課になりつつある.ヨーゲーシュは図書館に行って勉強を続け,私は帰宅する.


 彼の平日は,8時から11時30分まで授業,昼食をとってあとはずっと図書館におり,夕方のヨーガに出席する.そしてまた図書館へ.専門は教育心理学だが,修士を取ったら教育哲学で博士をとりたいという.読書は好きだが実験ぎらい.


 そんな彼は気分転換を求めており,週に一度くらいは一緒にチャイを飲んでおしゃべりする.こちらとしても,インドのいろいろな話を聞けるのが興味深く,楽しみにしている.


 インド人にしては珍しくネガティブで,先日「人生の究極の意味とは何か?」なんてことをふってきたので「人の役に立つこと」と答えたら,「それは建前だよ,人生は苦しみさ」と深刻な顔で言ってきた.日本だったら,「彼女にふられたのか?」なんて茶化すところだが,真顔だし,こちらも真面目に答えることにする.「でも,その人生は神様が与えたものだろう?」


 私自身,全知全能なる神を信じているわけではない.こういうことを言うのは,彼が敬虔な家に育ったことを知った上での方便的な表現にすぎない.だが,彼には満足のいく答えだったようだ.


 それからこの頃よくこぼすのは,インドの環境汚染.「空気も,食べ物も,水も,ここは全部汚染されている…今飲んでいるこのチャイもだよ」とまたネガティブな発言.そこから癌患者が多いという話になったが,それ以上にインドが直面している大問題はエイズ.100万人以上の罹患者がいるという.数年前,海外からの流入を阻止しようと政府は留学生にエイズ検査を義務付けたが,今はやっていない.海外からの流入云々よりも,国内でもう止められないくらい大流行しているからだ.プネーも含めてインドの大都市では売買春が絶えないが,売春婦の8割がたはエイズに感染しているという.そのほか血液感染や母子感染,一般に貧しい人ほど罹りやすい構造になっている.何と不幸なことか.


 今日はスラム街に住む人々の話.ヨーゲーシュが育ったところにスラム街があり,友達がいたらしい.多くは建設土木作業に従事しており,日給70ルピー(175円),月給2000ルピー(5,000円)ぐらい.1日中体を酷使して,夜に飲むドブロクワインが何よりの楽しみ.しかしヨーゲーシュの口ぶりでは,彼らの夜の眠りはとても安らかで,多くは自分の生活に満足しているという.


 そのあと日本の平均月収はいくらか聞かれて,50,000ルピー(12万5千円)くらいかなと答えたら口をあんぐりしていた.だが入るものも大きければ,出るものも大きいのが日本だ.インドに来た留学生である私は,専らお金を使う方に傾きがちなのに対して,日本に来た留学生が働いて少しでもお金を貯めたくなるのは当然といえよう.でもこんなに物価の差があるのはどうしてなのかまでは,いろいろ考えたがよく分からない.経済学でも勉強しないと.


 さらに「日本にいる奥さんとコミュニケーションが少ないから,いろいろ問題は起きないか.自分が思っているようにあちらも思っているとは限らないから」などと心配してくれる.心配の仕方がまたネガティブだが,そんな彼の前でやたらポジティブに振舞う私は,何なんだろう.日本では妻からよくネガティブだと言われたが,相手に合わせてキャラクターを変えるのが私なりのバランスの取り方なのかもしれない.


 こんな話ばかりだが,不思議と和やかなムードである.ヨーガのクラスは,3日に1日くらいの割合で何かのお祭でつぶれるのが口惜しい.ヨーゲーシュは「1日でも休むと,調子が悪い」と私以上に不満げ.インドはお祭大国なのであった.

2003年12月 3日

ヴィナヤク

ヴィナヤク&サイラージ インドに来てから一番きちんと習っていると思うのは,サンスクリット会話だ.先生は修士課程のヴィナヤク.多いときは週に4,5日習っていた.彼は日本語を習っており,日本語の練習も兼ねている.さらにインドの見慣れない慣習も説明してくれるので,とても貴重な存在になっている.


 その彼が,試験期間が終わっても連絡してこないのでこちらから電話してみると,何やら足を悪くしているらしい.原因はよくわからないが,長距離の自転車通学が悪い影響を与えたようだ.まともに歩けず,じっとしていても痛くて,医者に通いつつほとんど家にいるという.落ち込んでいるようだったのでお見舞いに行ってみた.


 彼の家は大学から中心街を抜けて9キロ南にある.道端の狭小住宅に,おばあさん,両親,彼に加えて,2ヶ月前から里帰り出産でお姉さんと新生児の甥が来ており,6人で住んでいる.キッチンを入れて3部屋,必要最小限のスペースだ.


 彼は思ったよりも元気そうだった.しかし家からほとんど出られなくて退屈なのと,時々足が痛むのとで,日本語能力試験が近づいているにもかかわらず勉強する気は湧かないという.その上,家の前はリキシャーや車がクラクションをブーブー鳴らしながら走っているし,家の中では赤ちゃんの世話に家族全員おおわらわ.確かに,勉強できなさそう.


 訪問した私はまず,赤ちゃんに目が行った.生後2ヶ月で名前をサイラージという.サイババの「サイ」と王様という意味の「ラージ」から取った.「ラージ」はラージャシュリーというお母さん(ヴィナヤクのお姉さん)の名前の一部でもある.無表情な顔で手足をばたばたして,ときどき思い出したように泣く.とてもかわいい.


 インドの赤ちゃんは2歳ぐらいまで目の周りを黒くしている.魔除けかと思って聞いてみると,アンジャンというアーユルヴェーダの黒い薬を毎日眼の周りに塗布しているのだという.これは目が良くなる効果があるとか.そのせいでかわいさがやや減退しているような気もしたが,しばらく見ているうちに慣れた.


 しばらくおやつを頂きながら歓談していたが,今日は赤ちゃんの健康祈願に30キロ離れたお寺にお参りに行くというところだというので,家族総出で出発.お姉さんの旦那は旅行会社に勤めているがサイドビジネスでリキシャーの運転もしており,彼のリキシャーにおばあさん,お母さん,お姉さん,赤ちゃんと乗っていった.日本でいうところのお宮参りのような感じだ.


 留守番になったヴィナヤクは私にお姉さんの結婚式の写真を見せてくれた.インドはお祭大国で,結婚式の派手さは名古屋の比ではない.中流家庭と思われるヴィナヤクの家でも,結婚式は1,000人の客を招待して,朝から晩までまる一日,結婚式をやったという.以前ホームステイした家でも今度お兄さんが結婚するが,結納だけで300人が招待され,結婚式はやはり1,000人集まるという.


 さらに,結納金はインドの場合,嫁の家が出すしきたり(ダウリーという)があり,一世一代の出費になる.さぞ大変だったことだろう.写真には親戚や親戚の友人や友人の親戚など,数え切れない人たちが写っていた.彼らもお祝いを持ってくるが,それ以上の記念品を用意しなければならない.それでも規模を小さくしようとは決して考えないのがここインドだ.


 お姉さんは24歳,旦那さんは27歳.去年結婚したが,適齢期からするとどちらも3年くらい遅いという.女性は20歳,男性は23歳ぐらいが適当とされる.それぐらいの年齢になると親戚があちこち伝手を頼って,縁談をもってくる.ヴィナヤクのお姉さんの場合は,叔父さんの知人の友達が甥を紹介してきたという.そしてまず家族で偵察がてら彼の家を訪問し,よさそうだと思ったので彼が今度はヴィナヤクの家を訪問した.これが彼らの初対面である.こういう出会いによる結婚をアレンジ結婚という.


 ヴィナヤクもあと2,3年すれば親戚が縁談を持ってくるだろうという.嫌でも拒否はできないのだ.しかし彼は,奥さんをほしがっているような気配だった.彼も今年23歳,まだ大学に在籍しているから猶予があるが,世間的には適齢期なのである.


 翌日,翌々日も赤ちゃんを見たくて訪問.おかげでサンスクリット会話を再開できた.大学では例によってジャー先生が大忙しで講読の時間が取れない.おまけにヨーガのクラスもすぐ何かのお祭だとかで休みがち.私が現在インドにいる必然性の5割ぐらいは,まさにヴィナヤクに依存している.

2003年12月 5日

書店めぐり(2)

 プネー市内でサンスクリットの本を売っている本屋めぐりの2回目。


インドブックセンター Bharatiya Pustaka Kendra

[ゴーカレロード、サハラホテルから徒歩5分]

 このすごい名前とは裏腹に、ごく普通のアパートの一室で営まれている書店。店主のサプレ氏は昼間インド銀行に勤め、片手間にこの商売をやっている。だから訪問には予約が必要(020-5655278,smsapre@vsnl.com)。片手間で親の代からこの仕事をしており、インド中から希少本を見つけ出す人脈と、希少だからといって高くふっかけたりしない誠実な対応で、大学の教授たちや図書館とも取引がある。

 連絡をして道を聞き、行ってみて驚いた。本はサプレ氏の寝室に並んでいたのである。基本的に注文を受けて探すというスタイルなので在庫はあまりないものの、すでに絶版になった本が山積みになっているのを見た。教授たちが利用しているだけあって、在庫も学術性の高いものが多いような気がする。ただ、古い本は土ぼこりをかぶっていてあっという間に手が真っ黒になるのは勘弁。

 買い物が終わって奥さんがチャイを出してくれた。文字通りのアットホームさだ。サプレ氏は、休みというと各地に行って絶版本を探してくるという。欧米の図書館が高く買うのをいいことに、値を吊り上げる本屋がいることを「あれは犯罪行為だ」と言って嘆いていた。そして、近年コンピュータ製版で誤植だらけの本を出している出版業界にも、辟易している様子だった。

 いくつか絶版の本を頼んでみた。ジャー先生曰く、彼のお父さんは絶版本を探し出す名人だったというが、時代が移って出版状況も変わり、探し出すのは前と比べて難しくなったと言う。



  • インド哲学入門(S.C.チャテルジー&D.M.ダッタ、カルカッタ大学、1984年、75ルピー)
  • 推理の正当性―新正理学派のアプローチ(R.ゴーシュ、バーラティーヤ・ヴィディヤー出版、1990年、150ルピー)
  • バーマナ『詩文修辞学』―様式論と方法論からの研究(W.K.レーレ、マンサンマン、1999年、150ルピー)
  • 正理学派における神学の発展(J.ヴァッタンキー、インターカルチュアル出版、1993年、135ルピー)
  • サンスクリット・リーダー1〜3巻(R.S.ヴァディアル&サンズ、1997〜2001、46ルピー)
  • ダルマキールティの推理論―再評価と再構築―(R.プラサード、オクスフォード大学出版、2002年、565ルピー)
  • 対立主張(ガンゲーシャ、中央サンスクリット大学、1985年、28ルピー)
  • 擬似論証因の一般解説(ガンゲーシャ、、中央サンスクリット大学、1985年、15ルピー)
  • 別基体の十四定義(ガンゲーシャ、中央サンスクリット大学、1985年、23ルピー)
  • 定説の定義(ガンゲーシャ、中央サンスクリット大学、1985年、19ルピー)
  • 六大哲学集(ハリバドラ、アジアティック・ソサエティ、1986年、80ルピー)

アーナンダアーシュラマアーナンダ・アーシュラマ Ananda Ashrama

[ラクシュミーロードとバジラオロードの交差点から北上1分、N.M.V.高校左]

 サンスクリット・サーヒティヤ・ラトナーカラからも近いところにあるアーシュラムの図書館。

 人々が共同で生活する場である「アーシュラム」だが、ヴェーダやウパニシャッドを中心に良書を出版してきた。そのリプリント版の購入と、写本のコピーができる。これまで143タイトルが出版されているがそのうち現在購入できるリプリントは半数ぐらい。購入できなくても、1ページ3ルピー(アーシュラムだけに寄付として)でコピーしてもらえる。写本は10000タイトルが保管されており、これも1ページ3ルピーでコピーしてもらえる。商業としてやっていないせいか、本も安めでありがたい。



  • 全哲学集成(マーダヴァ、1921年初版、90ルピー)
  • 聖ガウタマ著『正理経』(ガウタマ、1907年初版、150ルピー)

2003年12月 6日

コンサート

 K夫妻とM.G.(マハートマ・ガンジー)ロード近辺を探検。シバージー・マーケットでは、皮を剥いだ牛の頭が積んであるのを見てしまった。黒い目が残っており、舌がだらりとはみ出している。そこに群がるカラスたち。鼻で息ができないような匂いが立ち込める。ベジタリアンになってしまいそうだ。


 K氏が街で見つけたポスターから、急遽コンサートに行くことになる。主演はザキール・フセインというタブラ(太鼓)奏者。入場料はS席700ルピー、A席500ルピー、B席300ルピーという高さだったが、客がたくさんつめかけていたので、有名な奏者なのだろう。会場は土曜宮殿(シャニワール・ワダ)という18世紀の史跡。宮殿は焼失し、現在残っている城壁の前に屋外ステージが設けられていた。我々はB席でステージから離れた芝生に腰を下ろす。


 開演は夜7時30分。どうせ遅れるだろうと話していたが、始まったのは8時すぎだった。奏者2人がステージのひな壇に登る前、靴を脱いだ。そして挨拶をするとおもむろに楽器の準備を始める。チューニングというよりも、ひもを締めたり、弓に何か塗ったりしているようだ。こちらは段々いらいらしてきたがインド人の客は、いよいよかという調子で席に着いた。用意が終わるとそのまま何の合図もなく演奏開始。音出しをしているのか演奏しているのかはじめはわからなかった。


 胡弓のような弦楽器とタブラの二重奏。だがリズムが合っているように聴こえない。2人が思い思いに演奏しているという感じだ。一般に弦楽器が旋律で打楽器がリズムだと思っていたが、しばらく聴いているうち、このコンサートはそれが逆で、タブラが主役で弦楽器が伴奏だということがわかってきた。マイク音量もタブラの方が大きく、激しく叩いているときなどは弦楽器の音はほとんど聴こえなくなる。


 そして時々奏者はタブラの手を休めてマイクで話す。「ビデオ撮影しているので、フラッシュはたかないで下さい」「今度は、交通渋滞を表現してみます。これがリキシャー、これが通行人、これがバイク…」などなど。話している間も伴奏はそのまま演奏し続け、いっこうに曲が終わらない。結局、そんな調子でまるまる1時間演奏。終わったときの拍手は、他のインド人客とは異なり「やっと終わったー」という喜びになっていた。


 それでも、タブラの超絶技巧が何であるのかは理解することができた。超高速で早打ちしながら、打つ場所を変えて音程を作るのが見せ場。客は曲の途中でそういう場面があると大拍手を送る。我々も一緒に拍手した。「よく手が疲れないよね」などと言いつつ。


 1時間後に曲がやっと終わって休憩。「後半はスペシャルゲストが入るのでお楽しみに」などと思わせぶりだ。この時間、外はとても冷え込んできた。K君がラム酒を調達してきてちょっと温まったが、休憩が終わったのは30分後。後半のスペシャルゲストはドラマーで、胡弓のおじさんがなぜか歌いながらフェードアウトしていくと、打楽器二重奏が始まった。「帰ろうか。」3人が席を立ったのはその10分後である。


 寒さには殊の外弱いはずのインド人を尻目に会場を出た我々を待ち受けていたのは、門にしがみつくようにして聴いていた人たち。「もう見ないんならチケットくれ!」と殺到してきた。会場の前で乗ったリキシャーの運転手までも「まだ終わっていないのに…」とぶつぶつ。それほどまでに、この太鼓の音楽はインド人の心に響くものかと驚いた。

2003年12月10日

インド映画3

タイトル:Kal Ho Na Ho(明日はあるのか?)


カルホーナホーストーリー:

舞台はニューヨーク。父を自殺で亡くし、祖母・母・弟・妹と暮らすニーナ(写真右・コーイー・ミル・ガヤーにも出ていた最近売れっ子女優のズィンタ)は、ヒンドゥー教の祖母とキリスト教の母の間の確執にうんざりしながら退屈な日々を送っていた。そこに現れたアマル(写真左・ボリウッド人気ナンバー1俳優のカーン)は軽口のひょうきんな性格で、はじめは心を閉ざしていた彼女だったが、次第に微笑むことを覚えていく。

 彼女の幼なじみの友達ローヒット(写真中)はマンハッタンのいいところに住んでおり、大きな仕事をもっているが、プレイボーイ気取りの性格が災いして孤独な生活を送っていた。やがて3人には友情が芽生える。その中でアマルはこの2人をくっつけようとするが、ニーナはアマルを好きになってしまう。告白しにきた彼女に、アマルは自分に婚約者がいることを告げて追い返す。

 傷心の彼女にアマルはローヒットを近づけ、ついに婚約までこぎつけた。しかしその後で2人は、実はアマルが心臓の病に冒されており、余命いくばくもないことを知る。アマルはニーナを愛していたにもかかわらず、自分の命が長くないことを知って、婚約者がいるなどと嘘をついたり、2人をくっつけようとしたりしていたのだった。

 2人の結婚式が盛大に行われた後、アマルは皆に看取られながらこの世を去る。そしてローヒットとニーナは彼の分までも幸せになると誓うのであった。


感想:

 ラブストーリーは苦手な私だが、知り合いの日本人が泣けると勧めてくれたので見に行くことにする。歌と踊りは確かに入っているが、カメラワークや筋の展開が斬新で、飽きさせなかった。ニューヨークに住んでいる登場人物が皆ヒンディー語しか話さないとか、心臓を患っている主人公が思いっきり歌って踊りまくっているのはどうかと思ったけれども。

 なぜラブストーリーが苦手かというと、ちゃらちゃらした感じが人間の真実に迫っていないような気がして白々しいのと、恋愛沙汰は人間のわがままだと思われるからである。日本でも、ラブストーリーというと「けっ!」という顔で見ていた。この映画も、最後に主人公が死ぬのは確かに悲しいけれども、友情と恋愛というストーリー自体はあまり感興がわかない。

 恋愛は(一般に異性の)誰とでも起こりうるものだと私は思っている。しかし実際に起こるかどうかは、「縁」というものによる。そしてこの「縁」とは、あらかじめ仕組まれたものではなくて何らかのはずみで偶然にできあがったものにすぎない。原因の前に結果はない。運命的に設定されていることもないし、赤い糸などもない。

 この考え方は私の学んでいるニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派というインド哲学の一派のスタンスである。「壺の材料は壺になる前から壺になる運命だったか」という議論があった。これと同じように、「ある男性とある女性は恋愛する前から恋愛する運命だったか」という問題を導くことができる。これにYesと答えるのがサーンキヤ派など、Noと答えるのがヴァイシェーシカ派など。私はNoだ。我ながら冷めているなあ。

 しかし恋愛は「縁」さえ揃えば成り行きでずっとうまくいくものでもないだろう。そこには一種のゲームのようなさまざまな駆け引き、努力、意志があり、時には運も大事。与えられたものを最大限に生かして活路を開くことである。……こんなに恋愛を熱く語らなくてもいいのだが、30歳を過ぎてから。

公式ページ

2003年12月12日

学会

デリーで国際学会があることがわかり聴きに行く。テーマはバルトリハリという5世紀ごろの文法学者。「世界は全て言葉からできている」という深遠な言語哲学を残し、その意味がインド学・哲学・言語学のそれぞれから活発に研究されている人物だ。


この学会に行くきっかけは先月に遡る。プネーに住んでいる日本人の知り合い松尾さんから、「日本人がインド学関係の本をプネーに残していって、その引き取り手を探している」という連絡があった。面白そうなのでさっそく行ってみると、文法学の本ばかり。ほしいものはなかったが、そのままゴミになるのももったいないと思い、まずは家に持ち帰った。


しかしその本をどうしたらいいだろう? その本の持ち主である小林さんは広島大学の人だったので、連絡先を調べた。すると情報通である後輩の石田君から、小林さんが今度デリーで開かれるバルトリハリ学会で発表するという情報を得ることができた。さらに広島大学助手の本田さんを通して、小林さんとコンタクトを取ることに成功。本を持ち主のところに返す段取りを整えた。


ここで知ったバルトリハリ学会。考えてみればなかなか魅力的である。そこで今度は同じ大学で文法学を学んでいるルーマニア人のフロリーナに詳しいことを知らないか聞いてみた。詳細はフロリーナも知らなかったようだが、彼女も参加を検討し始め、いろいろ調べてきてくれた。その情報に沿って、私も参加を申し込む。これが学会の1週間前。ぎりぎりの申込にも関わらず、学会事務局は招待状とホテルの予約をしてくれた。


国際バルトリハリ学会・日本人研究者の発表こうして私は学会に参加することができたのである。またその間には主催者の一員となったジャー先生からの情報を聞いたり、ちょうど帰国する日程だったので飛行機を旅行会社のニシャドにアレンジしてもらったりもした。私が参加できたのは少なくとも松尾さん、石田君、広島大の本田さん、小林さん、フロリーナ、ジャー先生、旅行会社のニシャドのお陰である。


学会は3日間に渡って行われた。出席者は文法学の神様ジョージ・カルドナ博士(原實先生にどこか似ている)をはじめ、アクルジュカル、デシュパンデ、ブロンクホルスト、ギロンなど有名な学者が勢ぞろい。日本からは小林さんのほかに、広島大学の小川先生、創価大学の工藤さんが発表(写真:発表前にイタリアのトレーラ博士と打ち合わせする小川先生と工藤さん)。毎日朝10時から5時までみっちり、同じ部屋にこもって発表と議論が繰り返される。3日間はあっという間に過ぎ、バルトリハリについてはほとんど知らない私ですら、終わる頃にはバルトリハリ像をイメージすることができた。


面白かったのは、上記の有名な学者たちが揃って、バルトリハリを天啓聖典と関連付けようとしていたことだ。インドの文法学はヴェーダの補助学であるというのは確かだが、やがて文法学の内部で独自に体系が発展するうちに、ヴェーダとの関連は薄まっていく。その中に現れたバルトリハリについても、文法学の内部だけの議論が注目されがちだったものを、彼の著作に流れるヴェーダへの志向を読み取ろうと言うものである。


バルトリハリはさんざん議論を重ねておいて、「本当はこんな議論をする必要はないし、しても意味がないのだが」というようなことを述べる。さらには、文法学自体も結局はいらないものになってしまう。なぜなら、彼にとって真実はひとつであり、議論によってそれに何かが付け加えられたり、修正されたりすることはない。その真実こそヴェーダ、ひいてはウパニシャッドに説かれるブラフマンなのである。彼はヴェーダを残した聖仙たちの伝統(avacchinnaparamparA)に乗っかって、著作をしているという。


無駄と知りながら行われる議論や著作は、真実に至るはしごのようなものであり、登っている間は必要となる。こうした著作態度は、もしかするとインドの古典哲学全般に言えることかもしれない。真実は決まっていて、検討する必要は全くない。しかし世の中には間違った考えを持っている人がたくさんいる。議論や著作は、彼らを更正し、自分の弟子たちを導くためにある。それは真実の知恵に対してあくまで飾りとしての花輪を捧げるようなものにすぎない。


ここにインド思想史全体に流れる、大きな大きな討論の姿を私は見てしまう。予め線は何本か決まっていて、その線の上に次々と現れる論者が議論をしかけ、応酬する。その意味で彼らは哲学者ではなく、解説者にすぎない。新たな知の発見など、できるだけしたくない。太古の昔から決まっているヴェーダの真理こそ、誰にも否定できない真理だからだ。後発の仏教、ジャイナ教はこの線たちとの苦闘を強いられることになる。


そのことからもうひとつ、インド思想がいかにヴェーダに束縛されているかということも考えられるだろう。ヴェーダは神様たちの言葉であるという。インド哲学の本流はここにしかない。


発表を聞いているとインド(系)の学者はこのことをよく心得ているように思われた。ヴェーダに説かれる善―ダルマ、神、解脱―を探求するのが彼らの一大関心であり、全ての研究はその手段に過ぎない。一方、西洋(系)の学者は逆で、ヴェーダに説かれる善は思想の背景に過ぎず、個々の思想を文献学や比較哲学として解析することに重きをおく。日本人の学者もどちらかと言えば西洋系だろう。これは、もしかしたら外国人として当然の帰結なのかもしれない。


デリーということもあってインド人研究者が多数来ていたが、発表・質問を問わず著作の暗誦が次々と炸裂。中には質問の時間に手を上げて当てられると、ずらずらーっと暗誦しただけで席に着く人もいた。外国人にとっては「ただ覚えているだけで何の意見も述べていない」と思われるが、彼らにも、真実は決まっていて検討する必要が全くないという態度が綿々と息づいているようだ。


はたして我々日本人はどのような態度でインド思想に臨むことができるのだろうか。我々にはヴェーダもないし、ダルマや神や解脱というものも違う。しかししばしば西洋の研究に見られるように、自分に都合のよいところだけを適当につまみ食いするのも好ましくない。我々が持っている身体性やローカリティー―例えば仏教―とどのようにすれば有意義・総体的に関連付けられるのか。実は無茶苦茶に難しい問題ではないか?


この学会は、インド学の大手出版社モティラルが創立100周年記念としてスポンサーについた。会場費をはじめ、参加者の宿泊費・食費・交通費(インド国内分)まで負担する手厚さ。しかも2日目の夜には参加者全員をモティラルハウスに招待し、一族全員が食事のおもてなしをしてくれた。途轍もないお金がかかった訳だが、それを一出版社で賄ってしまうのはインドならではのことで、その財力に驚いた。確かにモティラルの本は高いけれど。

2003年12月15日

タージマハル

学会でデリーに寄り、帰国の飛行機まで1日空いたのでアグラに行ってタージマハルを見学する。


もともとは広島大学の小川先生が学生を連れて行く予定だったが、ご用事で行けなくなってしまった。そこでもともとアグラに行きたがっていた私に席が回ってきたというわけである。小川先生のご好意で貸切タクシー代は出して頂いたため、入場料だけですむという破格の旅行となった。感謝。


一緒に行ったのは以前プネーで勉強されていた創価大学の工藤さん、広島大学から今アーメダバードに来ている小林さん(※学会で発表した小林さんとは別人)。みんなインド暮らしの経験があるため、インド一のぼったくり都市で知られるアグラでも、何とか太刀打ちできるのではないかと思われた。


アグラまでは200キロ、道路はいいけれども車で4時間かかる。道中はインド暮らしの話に花が咲いた。楽すぎるきらいもあるが、快適な旅であっという間に着いた。


まずアクバル帝のお墓に到着。そこで謎のガイドが車に乗り込んでくる。「みなさンこんにちは!」にこやかな顔で親しげに話しかけてくる。訳が分からないのでドライバーに聞いてみると、「彼は会社で雇われているから、ガイド料はいらない。でも最後にチップをあげると喜ぶだろう」という。


このガイドがとなりで片言の日本語で話しかけてくるものだから、その相手をするのに気を取られてとても見た気がしない。そもそもせっかくの異国情緒が台無しである。アクバル帝のお墓を出ると、私はドライバーとガイドにガイドは要らないことを告げた。


ガイドは旅行会社から頼まれているからガイドをするのが彼の義務であること、気に入らなかったらチップは要らないことを主張したが、こちらはガイドが要らないこと、そして決定権はこちらにあることの2つで押し切った。タージマハルに着いたところでガイドはしぶしぶ退散。要らないものははっきり要らないというのがインドでは特に大事なことだ。


タージマハルタージマハルは昔の王様シャー・ジャハン帝が亡き王妃のために建てた巨大なお墓である。総大理石で出来ており、白い大理石が黒ずんでしまわないように500メートル圏内は車が入れない。公園の入り口で車から降りて、歩いていくことになる。ここが絶好のぼったくりポイントなのだ。


サイクルリキシャー、お菓子売り、土産物売り、飲み物売り、ガイド、物乞い…次から次へと近づいてくる。中には日本語を心得ている者もおり、日本人観光客がカモにされていることが窺い知れた。しかし我々はというと、すっかり慣れたもので徹底的に無視。足を止めないことがポイント。あまり嫌な思いをすることもなく、入り口まで到着できた。


入場料は例によって外国人料金でなんと750ルピー。世界遺産に登録されていることで維持の義務が生じているのだろうと工藤さん。しかしインド人・外国人を問わず、また平日にもかかわらず大勢の人出だった。インド人も、見るからにお金持ちという人と、見るからにおのぼりさんという風貌の人が多い。


誰でも写真では見たことがあるであろうあの白い建物は、入り口を入ってもすぐには見えない。白い建物の周りに大庭園があり、そこは全て城壁で囲まれているからである。城壁の外側にはもう一重の城壁があり、そこに入り口がある。厳重なセキュリティーチェック。ここからはタバコ、ライター、ナイフ、そして携帯電話も持ち込むことができない。


天気は快晴。絶好の日より。門を入ると青い空の下に真っ白で巨大な建物。その白さと大きさに心を動かされる。ゆっくりと歩いて近づいていくと、建物はさらに大きさを増し、もう信じられないくらいの大きさだ。まるで夢のよう。


白い建物は、外から見るだけでなく中に入ることもできる。靴を脱いで預け、ぞろぞろと歩いていく列に混じって大理石の階段を登っていく。上の階はまた広い大理石の広場になっており、さらにドームの中に入っていく。外の日差しから隔てられてひんやりした室内には王妃の棺らしきものが鎮座していた。


室内に漂う沈黙。王妃を失ったシャー・ジャハン帝の悲しみはいかばかりのものだったであろうか、この壮大な建物ははたして慰めになったのだろうかと、胸が熱くなった。命の重さは、この建物をいくつ建てたとしても代えられまい。


大気汚染測定大理石の建物の両脇には全く対称に同じ建物があり、左側はモスクでお祈りが行われていた。右側では大気汚染測定が行われており、電光掲示板で基準値を上回る数値が示されていた。車の往来から500メートル離したところで、この煙もうもうのインドでは完全に免れることができない。


建物の日陰になっているところで、大理石の上に座ってみんなのんびりしている。裏手はヤムナー川が流れており、その景色もすばらしい。歩いているだけで2時間があっという間に過ぎた。


車に戻ると、あのガイドがまた車に乗っている。何か嫌な予感をしながら、休憩した後に連れていかれたところはお土産屋さんだった。ここでまたひと悶着。

「ここはコースになっているから降りてもらわないと困る」

「何も買うつもりはない」

「土産物屋に寄ったというスタンプを土産物屋からもらわないと帰れない」

「じゃあ我々は車の中にいるからスタンプだけもらって来なさい」

「お願いだ、見るだけでいいから。そうでないとスタンプをもらえない」

「じゃあ今、旅行会社に電話して我々から言ってやるから、携帯を貸しなさい」

ここで工藤さんの「さっさと行けよ、コラ!」が炸裂。その迫力だけは通じたようで、結局スタンプももらわずに出発となった。


おそらく旅行会社のコースになどなっていまい。ドライバーとガイドの小遣い稼ぎだろう。土産物屋のショーウィンドウにはじゅうたんなんかが見えた。客を連れて行って高いものを買ってもらえば、いくらかのマージンがもらえるに違いない。こういう抜け目のなさは観光地に生きる人たちの定めなのだ。しかし気の毒だからといって、わざとカモになる訳にはいかない。


おそらく土産物屋で最後の攻勢を仕掛けようとしていたガイドはいよいよ退散。アグラ城(これまた広い)に寄って遠目にタージマハルを眺めた後、デリーに帰還となった。あれほどもめたドライバーは始めぶつぶつ言っていたが、わりとすぐに立ち直る。こういう根に持たない(悪く言えば学習能力がないということにもなるが)性格も、観光地に生きる人たちにとって大切なのかもしれない。


往復に8時間、現地での見学に4時間。日帰りの旅は無事に終わった。タクシーでなく電車やバスで行ったら現地のリキシャーとの交渉などもっと苦労が多かっただろう。そういう意味では、見学に集中できる贅沢な旅行だったと言えるかもしれない。小川先生に感謝。

2004年1月 9日

大般若会(だいはんにゃえ)

 『般若心経』という仏教で一番メジャーなお経があるが、これは『大般若経』全600巻を要約したものである。唐の三蔵法師玄奘が漢訳したもので、そこには世の中のあらゆるものが「無」「不」「空」といった言葉で否定され、その先に最高の智恵「般若波羅蜜多」が説かれる。
 『般若心経』に「能除一切苦」という文句があるように、このお経は読むだけで功徳があるとされ、宗派を超えて祈祷に用いられてきた。ところが600巻を全部読んでいたところではまる1日でも終わらない。そこで本をパラパラとめくって目を通す「転翻」という方法が取られている。
 私が住職を務めるお寺がある地域でも、大般若の祈祷が行われている。毎年1月9日に行われる新春恒例行事だ。隣のお寺さんと1年交替で行っており、2年に1度当番が回ってくる。今年は私が住職になって3回目の大般若会というわけである。2回目の様子はこちら
 今年は2回目の備忘録を読んでから臨んだこともあり、全体を見渡す余裕が出てきたと思う。それでもインドに行っていた3ヶ月間、衣に袖を通さなかったブランクは大きかった。直前になって、何か足りないような気がしたら、侍者の和尚さんに「坐具は…」と言われて忘れていたことに気付いた。葬式などでは使わないので奥にしまったまま。忘れたまま法堂に出ていたら大恥をかくところだっただろう。
 前回問題になった浄道場は、導師が出ていくのがこの辺の通常だという。今回私はすぐ出ていったが、他に出るべき和尚さんが忘れて座ってしまった。声をかけられて気がつき、やっと出ていらした。この辺はまだよい。
 次に問題だったお札の薫香は、また失敗。せっかく侍者さんが出てきて待っていて下さったのに、第一ケイスで出ようとしてこちらも自位で待っていたため、侍者和尚さんが目配せをしてきた。こちらは「そこで待っていて下さい」という意味で頷いたのだが、それが「お札の薫香はありません」と解釈され、侍者和尚さんが下がってしまう。これでタイミングが合わず、薫香できないまま。予定では知殿和尚さんに出てもらって、薫香の後仏前に上げてもらおうとも思っていたのだが、知殿和尚さんは座ったまま。
 打ち合わせの時間はあったが、遠慮してしまってイニシアチブを取れなかったのが敗因だ。そのうち集まったご寺院さんたちは新年会の日程を相談し始めてしまった。一番若いうえに、久しぶりですっかり気後れしてしまったが、こんなようでは一山の住職は務まらない。
 そのほか般若経の数が等分に配られていなかったので、終わりが揃わなかったりもしたが、全体としては大きく崩れはしなかったと思う。経験豊かな侍者和尚さんに全て支えてもらったかたちだ。この方がいなかったら、かなり危ないところだっただろう。
 終わってからは寄付を集めてくださった寺役員さんたちと新年会。住職の長期不在でも、しっかり寺を支えて下さっているのを感じて複雑な思いになった。檀家さんの中には、住職が帰ってくるまで死ねないと頑張っておられる方もいるという。その厚い信心に応えるのが、住職として一生を費やすべき責務なのだと、強く心に刻み込んだ。

2004年2月 4日

プネー再訪

 昨年暮れに帰国してから1ヶ月半ぶりに戻ってきた。日本ではお寺の行事に追われ、寒さと乾燥のせいか咳が止まらなくなる。帰国する前日に医者にかかって軽い喘息という診断。気管支拡張剤を携えてのインド行きとなった。インドはもう初夏の陽気で咳も収まりつつあるが、排気ガスもうもうで空気の悪いところには極力行かないようにしている。




 前回のエアーインディア機に懲りて今回はJAL便にした。成田空港からデリーまで直行で9時間半。バンコク経由のエアーインディア機と比べると混んではいるものの、早くて快適だ。このルートはデリーで一泊し、翌日朝に国内便でプネーに向かうため、到着はやや遅れる。それでも宿で約12時間休むことができ、疲れが翌日に残らないのですぐ仕事を始めることができた。国内便が2時間も遅れるのは想定外だったが。



  • エアーインディア便

    成田―バンコク―デリー―ムンバイ―(乗合タクシー)―家

    ○安い、翌日早朝に着く ×寝る時間もなくずっと移動
  • JAL便

    成田―デリー(ホテル泊zzz...)―(飛行機)―プネー空港―(リキシャー)―家

    ○途中でゆっくり休める ×高い、着くのがやや遅れる



 インドの国内線エアー・サハラでは、このところ乗客プレゼントキャンペーンが行われている。この仕組みが面白い。



  • 賞品カタログを見てAコース(2000ルピー)、Bコース(1000ルピー)、Cコース(500ルピー)からひとつ選ぶ。
  • ほしい賞品と賭け金額をカードに記入して提出。
  • コースごとに賭け金額を多く書いた人から希望の賞品をゲットできる。
  • 賭け金は実際に払わなくてはならない。ただしこれは基金を通して社会福祉に役立てられる。

 Aコースの賭け金額は最低2000ルピーだが、賞品は4000〜5000ルピー相当のものが用意されている。同様にBコース1000ルピー、Cコース500ルピーについても賞品は賭け金の最低額よりずっとよいものになっている。ただしこれはあくまで最低額。賞品をゲットするにはいくらか高い額を記入しておかなければならない。最低額と賞品定価の間でどの額にするか考えどころ。もっとも、ほかの乗客の賭け金との比較で決まるのだからどうしようもないところがある。ゲーム感覚だ。

 このような少々ややこしいルールをわざわざ作ってキャンペーンをやっているところを見ると、煩雑な手続きを好むインド人の性格が分かるような気がした。




 プネーに戻った当日はまず大学に行って時間割を確認したり先生と個人授業の打ち合わせをしたりする。先生方は授業が始まって忙しくなっており、個人授業再開の目途はしばらく立たない模様。電気代、電話代、家賃の払い込みを済ませればまた普段の生活が始まるが、自習の時間がまた増えそうだ。何のためにインドにいるのか分からなくならないように、新しい先生を探したり、写本調査の予定を立てたりし始めている。

2004年2月 7日

流暢

弁論大会第16回西インド地区日本語弁論大会に質問係として参加する。


 この大会は全国大会の地方予選を兼ねる。地方予選はほかに東インド・コルカタ、南インド・チェンナイ、北インド・デリーで行われ、各上位入賞者が全国大会に進む。全国大会の優勝者には日本旅行がプレゼントされるという。近年の日本語熱で大会参加者のレベルも上がっているようだ。


 この大会は地元に住む日本人が審査員というかたちで協力しており、日本人会の伝手で私にも役目が回ってきた。質問係とは、弁論が終わった後でその内容について質問をして、発表者の即興的な会話能力をそれとなく試すという仕事。記憶力では世界に名高いインド人のこと、中には日本人や日本語の先生が書いた文章を丸暗記して大会に臨む人もいる。そこで本当に自分の言っていることを分かっているのか、チェックする必要があるというわけだ。


 この質問というのが、やってみてなかなか難しいものだと分かった。「○○という言葉の意味が分かりますか?」などというあからさまに人を試すようなことを言って追い詰めてはいけない。また発表にあまりに関係のないことを聞いてもいけない。質問が難しすぎてもいけないし、簡単すぎてもいけない。発表が終わったばかりの人を励ましつつ、日本語の運用能力をさりげなく試す。そのためには発表内容をよく把握し、しかも発表者に応じた細やかな心配りが必要となる。


 発表の間ずっと言葉を注意深く聞きながら同時にどういう質問がいちばん効果的かを考える。試験は要らないという話をした人に「試験がなかったら、どうやってみんなが勉強すると思いますか?」、迷信の話をした人に「インド人が神様を信じるのは迷信だと思いますか?」、微笑は大切だという話をした人に「あなたが最近微笑みかけた人は誰ですか?」…などなど。発表者は22人。持ち時間はひとり3〜4分で、質問時間が2分。後半は頭が朦朧としてきた。


 ジュニア部門で優勝した人のテーマは「戦い」。スポーツの例を挙げながら、戦いは自分を伸ばすという話だった。質問では「戦いには国と国の戦いもありますが、戦争は必要だと思いますか?」とつっこんでみると、「自分の国だけが得をするための戦争はいけません」という見事な回答。日本人は「戦い」という言葉を好まないことは、後で発表者に伝えた。彼はイラク派兵で国会が紛糾したことも知っている様子だった。


 シニア部門で優勝した人のテーマは「消しゴム」。失敗してもくじけずに将来のチャンスを待てば、それが消しゴムとなってそれまでの失敗は帳消しになるという話。斬新なアイデアだ。「消しゴムには四角いものもあれば、丸いものもあります。」などずっと消しゴムそのものの話だったのでいったいどうなることやらと思ったが、最後に人生の失敗にまで広げてうまくまとめた。ただ、途中で「消しゴムがなくても人生何とかなる」というような話になったのでクエスチョンマーク。質問は消しゴムが必要なのか否か聞くため、遠まわしに「あなたはこれまで消しゴムで消したいと思ったことはありますか?」答えは「あるけれども、将来のチャンスが消してくれると思っています」という穏当な答え。自分の失敗談を進んで言うようなことはさすがにあるまい。


 審査員は全員日本人。私は質問に専念して審査には入らなかった。質問と審査の両方をするのはたいへんだから分業しているのだという。審査よりも質問の方がたいへんだったねと、後でたくさんの人に慰労していただいた。そこで思ったのだが、審査が絶対評価(ひとりが終わるごとに採点表を回収)だったので、結果的に序盤不利だったと思う。審査員の中に審査基準が形成される前に審査されてしまうからだ。ジュニア部門の前半は粒ぞろいだったのに、ひとりも入賞しなかったのは納得がいかなかった。ましてや序盤は緊張度も高く、何かと不利だ。終了後に審査会議を行うべきだったのではないかと思う。


 終わってから会場を移して入賞者と夕食会。こんなに熱心に勉強してもらえるなんて、日本語を母語とする私にはとても感激だったし、誇りにも思った。彼らの前途が開けていくことを心から祈る(写真提供:竹内氏)。

2004年2月 8日

女神

 プネー周辺の寺院めぐり。寺院といっても仏教ではなく、小島さんがこれまでに調査した土着の神様たちが祀られた寺院である。


 プネーは何といっても顔が象の神様ガネーシャの信仰が盛んだ。街のあちこちにガネーシャの祠があり、大きなお祭もある。だが、プネーから一歩外に出るとヒンドゥー神話に出てこないような土着の神様たちが信仰されている。小島さんがそこに目をつけていろいろ下調べをし、10箇所近くのお寺や祠を巡った。


 こういった神様たちはくりっとした目とオレンジ色に塗られた体に特徴がある。たいていはちょっと変わった形の石からできており、彫刻などはなされていない。その飾りっ気のなさが素朴で心温まる。


 今回一番大きかったのがマソーバー(モサビ)寺院の本山というところ。バラモンがマントラを唱えながら皆でご神体にスプーンで水をかけていた(写真)。この後まもなくして、正午のお祈りの時間となる。人がたくさん集まってくると、バラモンがマイクでマントラを唱え始める。皆は思い思いに手を叩いてお囃子。そのうち全員がその場でくるっと回転したと思ったら、正面から皿をもった人が出てきた。皿の上では火が燃え盛っている。皆はこの火に殺到し、手をかざして頭に頂いていた。


 いったいこのマソーバー神とは何なのか、お寺の人に聞いてみるとシヴァ神の化身だという。確かに正面にはシヴァ神を讃えるサンスクリット偈が掲げられており、寺院の2階にはシヴァ神の像がもあったが、何となく後付けくさい。K氏とあれこれ推測したが、この地方で昔から信仰されていたマソーバー神に、信者獲得や時代のトレンドからシヴァが割り当てられたのではないかと思う。他のところでも、土着の女神像にお参りをしている人が「これはパールヴァティー神だ」と言ったりしていた。


 仏陀もヒンドゥー教徒にかかればヴィシュヌ神の化身だ。インドにはたくさんの神様がいるが、その実はひとつの神様がいろいろな姿をとっているのだという考えをよく聞く。日本の八百万の神とは発想が異なる。以前ホームステイしていた家族によると、神様は本当は目に見えないものであり、それが人間の前に現れるときに、さまざまな姿をとるのだという。ブラフマンを人格をもつ宇宙原理としたヴェーダ以来の一神論的な傾向が息づいているようだ。


 寺院はもちろん、どんな小さな祠でもお参りする人があとを立たない。家族連れで来ている人たちもいる。インド人の信仰深さを再認識した小旅行だった。

2004年2月 9日

映画(4)

ロード・オブ・ザ・リングロード・オブ・ザ・リング(ネタバレなし)

 3部作の完結編。第1部・第2部と何とか毎年見てきたが、今年は日本で見られないことになった。しかしこれほどの映画ならインドでも上映されるだろうと思っていたら案の定、近くの映画館で上映されていた。時間を新聞で確認して、自転車で見に行く。

 インドでアメリカ映画を見るのは初めて。戸田奈津子の日本語字幕はもちろん付かないが、かえって映像に専念できるだろうと安心していた。第1部は、日本語字幕を読むのに気を取られてディティールまで見切れず、映画館に2回行ったものである。


 ところが始まってびっくり。何と中国語の字幕が入っているのである。これが気になって仕方ない。ミスター・フロドは「弗拉多先生」、サムは「山姆」、メリーは「梅里」、ピピンは「比平」…何だか中国映画のようだ。アルウェンが“I choose mortal life.”というくだりは「我選択凡人的生活」となっていて、感動的な場面で独り笑ってしまった。


 そしてインドの映画館のしきたりとして途中で必ず休憩が入る。客はポップコーンやアイスクリームを買いに行く。映画館の思惑通りといったところだろう。インド映画は休憩が入るように作られているが、アメリカ映画にそんなところはない。場面が切り替わるところでブツ切りだ。もっとも、いくつかの場面が同時進行する今回の映画ではそれほど気にはならなかったが、K氏によると「ラストサムライ」のいいところでIntermissionが入ったのはつらかったと言う。


 3時間というインド映画と同じ時間だったが、あっという間に過ぎた。第1部、第2部から続いていた暗い場面が第3部の終盤まで続くので、最後のカタルシスはものすごいものがある。インドらしく最後のいいところで隣の人の携帯がなったり、あまつさえ前の人が携帯で話し始めたりしたが、さほど気にならなかった。日本と比べると映画の音量が大きく、多少のおしゃべりならかき消してしまう。


 冒険映画ということでラブストーリーは控えめになっている。その埋め合わせなのか分からないが父と娘の場面が少なくない。そういう場面が来るたびにぐっと来てしまうのは、日本にいる娘を思い出してしまう私だけかもしれなかった。

2004年2月10日

自転車(2)

自転車(2台目)昨年一時帰国する直前に自転車が盗まれてしまった。2つ鍵をしていたのだが、もうひとつがチェーンが緩かったらしく、見事に縄抜けされていた。アパートの駐車場には警備員がいることにはいるが、夜は家に帰ってしまうのでどうしようもない。となりのお姉さんはスクーターを盗まれたことがあるという。


自転車泥棒は東京でもよくあることだが、こちらでは重要な移動手段なのでなくなると結構つらい。大学まで自転車なら10分で行けるところを歩いて25分。リキシャーに乗りたくもなるというものだ。ちなみにリキシャーで行くと5分、35円くらいだが、時間帯によってはリキシャーがつかまらないこともある。


そこでインドに戻って最初にしなければならなかったのは自転車探しだった。幸いにも下の階に住んでいる電気屋のオヤジが余っている自転車を譲ってくれることになり、700ルピー(1750円)で入手。ふっかけられたような気もするが、近所づきあいもあるので仕方あるまい。


今度の自転車はマウンテンバイク系。タイヤが太くて安定感があり、でこぼこ道もへっちゃらで、パンクもしづらいようだ。ただ、これまた相当年季が入っているものなので、問題もない訳ではない。


一番大きな問題は、ブレーキが左(後輪)しか付いておらず、なかなか止まらないことだ。急ブレーキをかけるときは両足も動員しなければならない。それでも制動距離は5メートルぐらいある。とっさの場合は止まるよりもよけることを考えなければならない。


したがってスピードもあまり出せないわけだが、スピードをある程度出すとチェーンがなぜか外れるようになっている。チェーンが外れるとペダルをこいでも進まない。停まってチェーンをかけなおさなければならない。行き届いた配慮?である。


今度は盗まれないようにしっかりチェーンをかけているが、どうなることやら。

2004年2月14日

健康

本日の夕食近所のゴーパールさんというお宅を日本人から紹介してもらい、今週から夕食は弁当になった。


ダヴァと呼ばれる段重ねの弁当箱を家にもっていくと、奥さんがつめてくれる。野菜料理2品、スープ、チャパティ、ご飯という内容で、野菜料理とスープは日替わりだ。自分の家で食べる料理を多めに作って分けてくれるので、塩分は少な目で美味しい。日曜日を除く毎日の夕食を作ってもらって、月々300ルピー(750円)ぐらいという価格もありがたい。日本だったら一食分の値段だが、レストラン通いだと800ルピー(2000円)は下らないだろうから、お金の節約にもなる。


弁当をつめるときに「バース(もういい)?」と言いながらつめるのだが、こちらが「バース(もういい)」と言ってもさらにひとさじ余計につめてくれるので、いつも大盛りになってしまう。あっさりしているから胃もたれはしないものの、あまり食べ過ぎると太りそうだ。野菜料理ではナスやキャベツの煮物(味付けは全部カレー味)が特に美味しい。


さて、日本にいるときから咳が止まらなくて困っていた。寒くて乾燥した空気のためである。インドに来れば暖かいから治るだろうと高をくくっていたが、いかんせん空気が悪い。朝は家の前のスラムで煮炊きしている煙、道に出れば排気ガスだらけ、大学に行けばゴミ捨て場のゴミが燃えている。普段なら気にならないのだが、敏感になっているとたちまち咳が出る。その上インドに来てから久しぶりに会う人と話すことも多く、喉もやられる。夜も目が覚めてしまうありさまでつらかった。


日本では出発直前に医者に行って気管支拡張剤をもらっていたが、あまり効き目がない。ゴーパールさんの家に弁当をもらいに行ったとき、家の中でお祈りをした後の線香の煙でゲホゲホ咳き込んでいた。それに見かねたゴーパールさんが、医者を薦めてくれる。下の階に住んでいる電気屋も、同じ医者の名前を言っていたので、評判はよいだろうと思って行ってみた。


インドの開業医は、午前中と夜に診察していることが多い。午後は暑くて客足が少なくなるので、昼寝タイムとなるようだ。夜の8時に行くと待合室は結構混んでいた。受付では保険があるかも聞かれずしばらく待つ。30分ほどして診察となった。


机の上には使い終わった注射器があり、それを見て注射だけは勘弁してもらおうと思う。診察は英語で行われ、喉を見たり、聴診器を使ったりすると、処方箋を書いてくれた。これで70ルピー(175円)。薬は近くの薬屋で130ルピー(325円)。あわせて500円で全部済んだ。保険もないのにこの価格は安い。薬の内容は抗生物質、咳止め、眠り薬、シロップの4種類。


インドの医学は進んでいると言われるのであまり心配は要らないが、薬の強さはインド人仕様。早速薬を飲んだその日は、眠くなったばかりでなく腕の感覚も鈍るという強い作用だった。おかげで夜もぐっすり眠れる。咳の数は確実に減ったが、今のところ薬で無理やり押さえつけている感じ。早く治ってほしいものだ。

2004年2月15日

不可触民

『不可触民と現代インド』 山際素男著、光文社新書123


インドの悪しき身分制度として名高いカースト制度。カーストとは15世紀にインドを訪れたポルトガル人がつけたもので、インドではヴァルナと呼ばれる。僧侶・司祭階層のバラモン、王侯・戦士階層のクシャトリヤ、商人階層のヴァイシャ、これらの階層に仕えるシュードラ。これらはさらに無数のジャーティという職業集団に分けられる。そしていずれのカーストからも弾き出された不可触民層がいる。


上位階層は3000年前に北インドに侵入したアーリア人の末裔である。アーリア人はインダス文明以来のインド先住民族ドラヴィダ人を征服して、奴隷とした。それ以来、インドは少数の支配階級が政治・宗教権力を手中にし、強固な身分制度をもって君臨してきたのである。ここまでは高校の世界史でも習う知識だろう。


アーリア人は低い身分の男性が台頭してこないよう、結婚は男性のほうが女性より身分が高くなければいけないというアヌローマという制度をしいた。身分の高い階層の男性はどの階層の女性とでも結婚できるが、低い階層の男性は自分の階層以下の女性としか結婚できない。


こうして現在も全人口のわずか15パーセントが残り85パーセントを支配しているという状況が続いている。バラモンは教育関係、クシャトリヤは軍事・政治関係、ヴァイシャは商業関係を独占し、残りは低賃金での労働を余儀なくされる。当然貧富の差も大きい。特に不可触民は触るだけでなく見るだけでも不浄とされ、インド社会から差別され続けてきた。清掃や汲取りなどの社会に重要な役割を担っていたにもかかわらず、お寺にお参りすることすら許されなかったのだ。


今、彼らがインドを変えるべく立ち上がっている。その精神的支柱になっているのが、仏教だ。仏教は全ての人間の平等をうたい、貧困にあえぐ人々に手を差し伸べてきた。不可触民出身でインド憲法を作ったアンベードカルという人物が指導者となり、その遺志を日本人僧の佐々井秀嶺という人物が継いで、現在ではすでに人口の1割、1億人以上が仏教徒に改宗しているという。この本は彼らがバラモン支配体制に抗い、人権を勝ち取る闘争を描いている。


この話を読む中で、バラモン教がアーリア人の支配原理として作用してきたことを知る。ヒンドゥーの神々はアーリア人の絶対性を象徴するものとして君臨し、何人もこれに逆らうことを許さなかった。ヴェーダや法典も、アーリア人を中心とする社会の秩序を説き、その真理が永遠に変わらないことを強調している。インド哲学の根底にある「真理は自明である、変わることはない」というのは、自分たちの支配を正当化する方便になっていたのである。


それを考えると、バラモンの支配原理となってきた哲学を研究することに疑問も生じてくる。「不変の真理」のもとで3000年にも渡って苦しんできた人々がいること。そして彼らの闘いはまだまだ終わっていないこと。私はなぜインド哲学を学んでいるのか、一から考え直さなければならないようだ。

2004年3月 3日

僧侶

『破天〜一億の魂を掴んだ男』

山際素男著/南風社


 インドといえば仏教の故郷であるが、12世紀ごろから衰退し、多くの人がヒンドゥー教やイスラム教に改宗してしまった。それが何世紀と続いてきたが、第二次大戦後状況が変わりつつある。新仏教(ネオ・ブッディズム)と呼ばれる復興運動が起こり、今では人口の1割、1億人が仏教徒と言われている(政府統計では1%とされるが、急増している様子)。


 日本で話をしていて気付いたのは、多くの人が、インドで仏教が衰退したことをまず知らないことだった。田舎ではインド=仏教国という印象が強い。また仏教が衰退したことを知っている人でも、戦後になって仏教徒が急増していることを知らない人が大部分だ(私もそうだった)。そして、新仏教について知っている人でも、この復興を担っているのが実は日本人の僧侶だということを知らない。インドはかくもつかみにくい国なのである。


 佐々井秀嶺師、68歳。岡山県新見市の出身で人生紆余曲折の末に出家し、真言宗の僧侶となった。僧侶となってからも紆余曲折あってインドに渡り、1988年にインド国籍を取得、プネーと同じマハーラシュトラ州のナグプールというところに住んでいる。この本は師の半生記を綴ったものだ。


 師の生き方は常に険しい道を選ぶというもので、僧侶としても、日本人としても他に類のない稀有な人物である。このような人物が現代に生きているということ自体、とても驚くべきことだ。


 はじめインドに来たのは仏跡巡礼のためだったという。ラージギル(王舎城)で日蓮宗系の日本山妙法寺の活動を手伝い、日本に帰るかというときに夢のお告げがあり、急遽帰国を取りやめてナグプールに向かう。ナグプールでインド仏教徒と出会い、やがてその真摯な姿によって次第に信頼を得、お寺を建設してもらうことにまでなった。そこを足がかりに各地で改宗式を行い、仏教徒を次々と増やしている。


 ブッダガヤにある大菩提寺(マハーボーディ寺院、釈尊が悟りを開いたところに建てられたもので、玄奘の『大唐西域記』にも出てくる由緒ある仏跡)の管理がヒンドゥー教徒に牛耳られているというのに異を唱え、「大菩提寺を仏教徒の手に!」とインド政府に直接訴える運動を展開している。ヒンドウー教徒に遠慮してなかなか動かない政府に対し、これまで何度も抗議してきた。その手段が、いつも断食なのである。政府が降参するまで、飲まず食わずで座り込む。終わってから病院に担ぎ込まれてカンフル剤を打たれるのは毎度のことだ。


 こんな苦行は、常に命がけだ。体もぼろぼろになる。それでも彼はやめない。命も惜しまぬその姿は多くのインド人に感銘を与え、仏教徒に改宗する者、抗議運動に加わる者も増えていった。デリーでデモを行うとなると、すぐに何万人も集まってくる。これには首相も無視するわけにはいかず、佐々井氏は何度も官邸に招かれ、歴代首相とサシで話をしてきた。相手が首相だろうと州知事だろうと、声を荒げて詰め寄る。インド社会で長い間差別されてきた低層カースト出身の仏教徒に自信を与え、インド社会全体にまで波及しつつある。


 圧巻は1998年にインドが核実験を行ったときのこと、デリーで特大のスピーカーを使ってデモを行い、「おー、大馬鹿者のバジパイ首相よ、出て来い!」と国会の前で怒号を挙げたことだろう。「私に腹が立ったら、この場で撃ち殺すがいい。何十万もの人間を一度に殺す気でいる汝に私一人を殺すことなどわけもないであろう。さあ、殺すがいい。私は仏陀と共に哂ってやろう。この大馬鹿者の恥知らずめがと」


 仏教徒、とりわけ日本人は争いを好まない。しかしこのインドの国では、争いなしに変わるものなど何一つないのだ。もちろん彼らの闘争は武器を一切もたない。それゆえに命がけになるし、勇気も試される。そして視点は常に苦しみの多い人生を生きている人たちに注がれている。彼らの救済こそが目的であり、生きがいであり、喜びなのだ。今の日本仏教界が、彼から見習うことは何と多いことだろう。「僧侶は職業ではない。生き方なのだ」というある老師の言葉が重くのしかかった。

2004年3月 4日

勉強

哲学科 インドに戻って1ヶ月になるが、メインの教授であるジャー先生からは1度も教えてもらえなかった。


インドに着いたその日にすぐ(2月3日)行くと「18日までインド科学のセミナーがあるからできない」と言われ,半月後の18日に行ったら「Come
tomorrow !」と言われ、次の日に行ったら「インド経営学のセミナーがあるから3月9日から」と……。怒っても仕方がない。忙しくて時間がほとんどないのは事実だ。昨年のインド物理学あたりから、サンスクリット学とどれくらい関係があるのか?というようなセミナーが続いている。先生はインド全土から集まる教授たちの接待そのほか運営で大忙し。その合間にデリー、ムンバイ、コルカタ、南インドと行ったり来たり。大学でたまに見かけるときは、ゲッソリしているかイライラしているか。


 個人授業が無理ならばと正規の授業にも出席してみたが、休講は多いし、先生の気まぐれで授業が進んだり戻ったり、演説をしたと思えば説教をしたりちぐはぐなので出るのをやめた。最近やたらインドの叡智は最高!という話になるのは歳のせいだろうか。


 その代わりというわけではなかったが、日本人3人で毎朝1時間、サンスクリット文法学の個人授業を受け始めた。サンスクリット文法学とは紀元前4世紀に完成された、驚くべきほど系統立てられた壮大な体系だ。日本語で言うと「『ない』の前は未然形」「『行く』の格助詞は『に』」「『立つ』などの連用形は促音便』というような感じの規則が何千と、その適用の順序まで考えて整然と並べられている。これをひとつひとつ解説し、議論していく。1日に勉強するのは1つか2つの規則だけだが、そこには深い歴史があり、さまざまな解釈があって面白い。言葉というものは生き物だから、次第に規則に当てはまらない例も増えてくる。それをどう説明するか。歴代の文法学者が四苦八苦してきた痕跡をじっくり学ぶ。


 先生はマヘーシュ・デオカールという若い先生で、来日経験もある。全盲なのにその何千もの規則は全部頭に入っていて、どんな質問にも分かりやすく答えてくれる。分からなければ説明をどんどん丁寧にしてくれ、時には気さくにぶっちゃけ話も。しかしそのぶっちゃけ話も深い教養に裏付けられており、尊敬してやまない。


 終わってから図書館に行って復習。これで午前中はだいたい終わる。学食で昼食をとって帰宅。午前中はジャー夫人による祭事哲学の講義もあったが、出席して2週間ほどで終わってしまった。


 帰宅の道は非常に暑い。2月に入ってから毎日温度が上がっていき、3月初めで最高37度ぐらいになった。おかげで手も顔も真っ黒に日焼け。37度は日本だったらたいへんなことだが、インドでは標準的な暑さだ。これから4,5月にかけてさらに暑くなり、45度ぐらいまで行くという。暑いのはわりと平気な私だが、大丈夫だろうか?


 でも家の中は30度ぐらいだから耐えられないことはない(猛烈に眠くなるのが欠点だが)。天井の大型ファンの下で、ラジオを聴きながら博士論文の準備。休憩にはスイカ(1玉100円)やパイナップル(1房50円)を食べたり、日本から持ってきた本を読んだり、インターネットをしたり。煮詰まったら散歩に出てラッシーやドーナツを食べる。甘いものばかり食べている気がするが、暑いとどうしてもそうなってしまうようだ。水も1日2リットル飲む。


 今月からもうひとり、哲学科のマンガラー・チンチョーレーという先生と仏教論理学の勉強ができることになった。図書館で読んでいた本の著者を何気なく見たら「プネー大学」と書いてあったので調べてみると、すぐ隣の建物にいたのである。早速訪問してみたところ快く迎えて下さり、すでに何度か話をしたがよくものを知っている。仏教論理学とは、仏陀の正しさを論理的に証明しようとする立場から生まれた、これまた壮大な体系だ。日本や西洋に研究者が多い。しばしばインド人を疎外して研究が進められていることに先生は怒っていた。この前来ていたカナダのチャン先生なんか、ずっと日本の学者のことばかり話していたから余計にそう言うのだろう。


 ここの哲学科では主任のプラディープ・ゴーカレー教授も仏教論理学に取り組んでおり、日本の大学における哲学科とは趣が違う。もちろん彼らは西洋哲学も教えている。チンチョーレー先生の授業をちらりとのぞくと黒板に形式論理学の記号が並んでいた。洋の東西を問わず、またオリエンタリズムに組することなく哲学を追求するという態度は見習うべきものだ。


 現地のパンディット(伝統的学者)探しは続行中。サンスクリット語しか話さないという先生と75才の先生の2人から教えてもらえる可能性が見つかったが、住んでいるところが遠かったりしてなかなか会えない。パンディットは見つかるまで1年かかるというが、どうなるかとやら。


 さて、ジャー先生が上記のように1週間に1時間時間を取って頂くのも不可能か、たとえ可能でも申し訳ないような状態なので、来年度(今年9月)から別のところで勉強をしようと検討し始めた。幸いプネーはたくさんの学者が訪れるところで、コルカタにあるサンスクリット3大学のムコーパディヤーイ教授、ダス教授、ライェーク教授と直接会うことができた。これにヴァラナシ、ティルパティも候補に加えて、比較的時間の取れる先生を探している。いずれもプネーより過酷なところだが、勉強できなければプネーどころか、インドにいても意味がない。


 一方写本(手書きの古いテキスト)調査も本格化、バンダルカル東洋研究所、アーナンダ・アーシュラマ、ヴァイの3ヶ所を探索。アーナンダ・アーシュラマは1枚コピーするのに3ルピーだが、バンダルカルは1枚4ルピー+1冊100ルピー、コピーできないレアな写本は写真撮影料が何と1枚100ルピーと、べらぼうに高い。『ニヤーヤ・マンジャリー』というインド哲学史上とても重要な本があったが、これを全部撮影しようとすると10万円ぐらいかかる計算だ。


 今のところはサンスクリット文法学の授業で1日がもっているようなところ。マヘーシュ先生は4月からヴァラナシに移るとのことで、その後どうなるか今のところ全く分からない。

2004年3月 7日

ホーリー

ホーリー 今日はホーリーという春祭りの日だった。太陰暦で期日が決まるので、毎年一定ではない。こんなに暑くなって春というのもなんだが、インドの春とはこんなものかもしれない。色のついた粉をかけあって騒ぐ。北インドの都市と比べるとプネーはおとなしいもので、しかも郊外ではあまり騒がしい感じはしない。それでも2,3日前から店頭で粉と水鉄砲(粉を水で溶いた色水をかける)が売られており、K君も子供に見事やられたというので家で大人しくしていることにした。


 窓から時々騒ぎ声が聞こえてくる。見ると美容院から出てきたばかりの御婦人にビルの上からバケツで水をぶっかけているところだった。ご婦人方は怒るどころか、キャーキャー騒いで笑っている。そのうちにまた一杯水をぶっ掛けられた。


 夕方になると隣りの夫婦がアパートの下で親戚か何かと粉をかけあって騒いでいる(写真)。ただかけるだけでなく、背中に入れたり頭にまぶしつけたり、とっても楽しそうだ。この親戚はわざわざ車に乗って粉遊びをしにやってきていた。


ホーリー 私が窓から覗いているとき、ちょうど下の階の窓からお姉さんの頭に水風船が直撃! 上を見上げたお姉さんと目が合ってしまう。「ナイーナイー!」自分がするのではないことを説明するのに一苦労。でも皆ゲラゲラ笑っている。不思議な光景だ。


 それから降りていってみると、お前もするかと言わんばかりに粉を持っている。これには辞退して、写真だけ取らせてもらった。道端で見ていると手や顔を赤くしている人が通っていく。若い人だけでなく、お年寄りも色がついているからおかしい。


 暑気払いという感じであろうか、これからの暑い季節を元気に乗り切りましょうというメッセージが感じられなくもなかった。


2004年3月 8日

日帰りバス旅行

スワルゲート プネー近郊のワイという街へ写本調査に行く。


 ワイはプネーから70km南にある小さな街。ここにプラジュニャー・サンスクリット学校というのがあって近隣の写本を集めている。その数1万2千本。いろいろなものがあるという噂をよく聞いていたので、大学を休んでK夫妻と3人で行ってきた。


 ワイ行きのバスはプネー南部のバスターミナル、スワルゲートから出ている。家から30分リキシャーに乗り、朝9時15分発のバスに乗り込んだ。バス時刻はインターネットで調べられるらしいが、結局窓口で確認しないと本当かどうかはっきりしない。


 バスが動き出すと車掌が料金を集めに来る。ワイまで40ルピー(100円)。常にほとんど満員の乗客だったが、途中の村々で乗り降りするので終点までずっと乗っていたのは少なかった。おじいさんおばあさん、学生、家族連れなどが乗っていてしばし旅情にひたる。


 ゴーゴー音がうるさい割にスピードがあまり出ないバスは、エアコンなど当然のようについておらず窓全開。バス停は10分に1回ぐらいあり、結局70kmを2時間以上かかって到着。ワイはプネーよりもさらに標高の高いところにあり、途中ひとつ山を越えていく。プネーよりもやや涼しい気がした。


 サンスクリット学校はバス停から歩いても行けるようなところにあったが、道が分からないのでリキシャーで行く。こじんまりとした建物で、自力で見つけるのは難しそうだった。早速、ライカルという秘書のおじさんにあいさつをして写本の話を切り出す。


 ところがおじさんの答えは「紹介状が必要」。大学の先生はそういうものは要らないと言っていたし、プネーの中で写本所蔵しているところもすぐにコピーを取らせてもらっていたし、プネーで本屋を営むサプレ氏が連絡しておいてやると言っていたので、この対応は意外だった。しかもプネー市内と違って往復5時間もかかるところである。目の前が真っ暗になった。


ワイ しかしこのまま引き下がるのも情けない。カタログを見せてもらって何があるかチェックし、続いてどういう手続きをするか聞いた。先生の紹介状を送ると、許可証が発行されるとのこと。書類のやり取りは郵送で行うことにし、あと1回だけ来ればよさそうな話になったので納得。いずれにしてももう1回来なければならないような予感はしていたので、諦めもついた。サプレ氏は結局連絡していなかったそうな。あのオヤジめ。


 というわけで用件は1時間ちょっとで終わり、とぼとぼバスターミナルへ。途中に大きなガネーシャ寺院があり、その前の川では洗濯をしたり、子供たちが水浴びをしたりしていた。自分たちが入りたいとは思わないが、プネーの川と比べれば格段に澄んでいる。この寺院と川がこの街の唯一の観光地らしい観光地だ。


 昼食を食べて14時30分のバスに乗る。帰りは3時間かかったが、うだるようなバスの暑さに眠りつつ大汗をかく。座席も狭いのでプネーに着いたら足がおかしい。K氏宅でスイカを食べ、その後レストランでビールを飲んだ。


 目的が達成されなかったというのもあるが、もう1回行くと思うと気が遠くなりそうだ。

2004年3月10日

映画(5)

ネパールの恋Love in Nepal(ネパールの恋)


ストーリー

 ムンバイの広告代理店で働くデザイナーのアビーはぐうたらで女好き。新しくやってきた女上司のマクシは時間も守らない上にしょっちゅう口説いてくる彼にいつも手を焼いていた。そんなとき、広告の撮影で一行はネパールに行くことになる。美しい自然が残っており、交通費も安く上がるという理由だった。

 アビーは夜にホテルで酔っ払って、ネパール旅行に同行していたサンディーを口説き、彼女の部屋に行く。そこで踊ってそのまま眠ってしまったが、朝起きると何と隣りでサンディーが死んでいた。警察の追っ手から逃げなければいけなくなるアビー。しかもマフィアが嗅ぎ付け、彼を脅してくる。マフィアの本部に行くが殺されそうになり、命からがら逃げ出した。こうして警察とマフィアの両方から追いかけられる破目になる。会社の同僚やネパール人ガイドが彼を助け、マクシと2人で幽霊屋敷にかくまわれる。

 屋敷まで追いかけてきたマフィアは幽霊を怖がっており、アビーはマクシと2人で幽霊の真似をして難を切り抜ける。そこにアビーを助けたネパール人ガイドがやってきたが、何と彼こそが殺人犯だった。サンディーに愛を告白したが取り合ってもらえず、かっとなって殺してしまったのである。

 ネパール人ガイドはサンディーを口説いた彼をなじりながら殺そうとするが間一髪、アビーは銃を取り上げてガイドを撃ち殺す。その後警察もやってきたが事件の真相は了解済みだった。


感想

 Love in 〜という映画はこれまでLove in Tokyo、Love in Goaが作られている。そのシリーズかと思っていったが、どうも違ったようだ。ポスターを見ると拳銃を持っているマフィアや、「第三次世界大戦勃発か?」という文句。明らかに甘い恋愛物語ではなかった。しかしバイオレンス映画かというとそうでもなく、途中の休憩直前にサンディーが遺体で見つかるまで物語は平和に進行した。

 休憩後はインド人が大好きらしい逃走シーン。そもそも自分が女たらしだったことが原因で起こった事件で、自分が渦中の人なのに、至って呑気なアビーのセリフに皆笑っていた。シリアスな場面にギャグを入れるのがこの映画の狙いなのかもしれない。

 筋はさておき、インド人が隣国のネパールをどういう眼で見ているか垣間見ることができたのが興味深い。ネパール人ガイドは殺人犯と分かるまでコミカルな役目だったが、同行していた代理店の男の役職が「マーケットマネージメント」と聞くと、「いいバザールありますよ」と言って笑わせる。ガイドが「顔がネパール人っぽい」と言うと、その男は鏡を見てえらく悩むシーンもある。ネパールのホテルのバーテンダーは蝶ネクタイなどしているがアビーが酒をがんがん飲むのを見て目をぱちくり。またマフィアの本部はアヘン窟になっていて気だるそうな若者たちがたむろしていた。こうしたシーンから分かるネパール人像は、田舎者、前近代的、無法者といったものだ。ネパール人が見たら怒るかもしれない。

 途中アビーのモンタージュが作られてしまうシーンがある。ホテルの従業員が前日酔っ払っていたアビーを見ており、スケッチの得意なアビーの女友達が頼まれて顔を描いているうちにそれがアビーであると気付く。そこでトイレから携帯でアビーに連絡を取るというところ。アビーが「中国人か、日本人に描き変えてくれ」というセリフ。インド人は笑っていたが、こちらはあまりいい気がしない。ヒンディー映画は本質的に娯楽映画であるがゆえに、外国人の貶め方はあからさまなのだ。

 事件が解決したところで踊って終幕となり、マクシとの恋も実ったのかよくわからない。セクシーなシーンも多いし、もしかしたら対象年令高めなのかも。これまで評判の高かった映画ばかり見てきたから分からなかったが、こういうのをB級映画というのかもしれない。

2004年3月28日

パソコン崩壊顛末記

 インドでは、パソコンが壊れやすいと言われている。


 その一番の原因は電圧の乱高下と停電の頻発で、物価が10分の1のインドでも日本と同じ価格のパソコンに、インド人も電圧安定機と非常用バッテリーで対策を立てている。インドに留学していた先輩からも「使わないときはプラグを外す」など、口を酸っぱくして言われた。


 私は停電になっても何時間かもつノートPCなので、高価なバッテリーなしの電圧安定機だけで済ましている。そのPCが突然クラッシュ。作業中にフリーズしてそのまま起動しなくなったのである。電圧のせいではどうもないようだ。


 起動するとハードディスクがガリガリと奇っ怪な音を立てるが、ウィンドウズは立ち上がらない。その読み込もうとしている音がまた耳障りで、2,3度挑戦してすっかり観念した。その夜は、どこまでバックアップを取ったか必死に思い出しながら、冷や汗にまみれてなかなか寝付かれなかった。


 さて、東芝のダイナブックには1年間の海外保証がついており、インドも対応していたのがこのパソコンを選ぶ大きな理由だったが、藁をもすがる気持ちでその海外保証を頼むことになろうとは、あまり想像したくなかったことである。翌朝、国際電話で日本の窓口へ電話した。


 窓口の方はとても親切に対応してくれたが、いかんせんここはインドである。まず現地の修理会社を選定しなければならない。いきなりバンガロールとか言われても、パソコンを担いで飛行機に乗るのは嫌だ。インドの宅配便や小包郵便は、どうしてもパソコンを任せる気になれない。


 さらに修理会社が決まってもまだ関門がある。部品は日本から送るということで、税関でストップしたりすると何日かかるかわかったものではない。5月の連休に一時帰国したときに修理に出したほうが早そうな気がしたが、連休前後の日本は半月ぐらいかかるとのことでこれも無理。


 ただひたすら待つしかないことを悟る。することのなくなった翌日はロード・オブ・ザ・リングの2回目を見て、翌々日はビールを一人でかっくらって寝た。自棄酒・自棄映画というわけだ。ロード・オブ・ザ・リングはもう客があまり入らなくなったので正午過ぎから入場料100円ポップコーンつきで上映していた。


 しばらくは家で本を読んだりしていたが、暑くてしかたがない。そこで近くのネットカフェに通い始めた。1時間50円でISDNの上に、冷房も入っているので午後や夕食後に行くのが日課となった。そのうち日本語IMEが入っていることに気づき、日本語でメールやホームページ更新、さらには勉強までし始めた。近くに結構韓国人が住んでおり、彼らが韓国語IMEをダウンロードするとおまけで日本語が入るらしい。


 その一方で、パソコンを何とかする方策も別に模索していた。幸いなことに、一緒にサンスクリットを勉強している日本人の?T氏に相談したところ、ひとまず見てもらえることになった。彼はコンピュータ業界に勤めたことがあり、ノートPCのハードディスクを交換したりもしているという。


 話を聞くと、ノート用の2.5インチハードディスクはインドでも売られており、互換性があるのでノートを分解して交換することもできなくはないとのこと。分解してしまえば保証対象外となるのは承知の上で、1日も早い復旧を望んだ。


 しかしハードディスクを交換する場合でも、セットアップCDが必要ということになる。当然といえば当然だが、交換したハードディスクには何も入っていないので、そこにウィンドウズをインストールしなければならない。違法コピーもガードが堅くなっており、仮に他の人のCDをインストールしようとしても動くかわからないという。


 セットアップCDは日本。そこで妻に電話をしてEMSで送ってもらう。金曜夜発送で、翌週の火曜日の昼には自宅に届けられた。CDが10枚以上ある上に、マニュアルも入って重量は1キロを超え、送料は3000円以上だったが、普通郵便でも何百円ほどの違いだったらしい。


 EMSを開けると、中には妻がちょこっと描いた娘の似顔絵が入っていて勇気付けられる。まずマニュアル通りに再セットアップを試みた。ガリガリ…ガリガリ…相変わらず奇っ怪な音である。再セットアップが始まって5分ほどしたところで、画面に変化が見られないのとその音に耐えかねたのとで中断してしまった。このハードディスクは壊れている、それが私の直感だった。


 しかし直感というものはあてにならないもので、I氏にパソコンとCDを託すと、一晩で再セットアップができたと言って持ってきてくれた。I氏の話では、ハードディスクに物理的な損傷が起こると、プログラムが別の箇所を選んで書き込み始めるそうな。賢いものだ。しばらく時間がかかったが、そのうち奇怪な音も消え無事再セットアップできたという。分解しないで解決したことは、とても嬉しかった。


 それでめでたしめでたしとなるはずだったが、もうひとつ問題が待ち構えていた。バックアップ用にとっていたCD−RWが変なのである。ごく最近書き込んだデータがなく、代わりに去年の暮れに書き込んだ古ーいデータが出てくる。これでまた冷や汗の眠れない夜を過ごすことになった。


 翌日はまたネットカフェに駆け込み、4台あったCDドライブ全てでどう読めるか試させてもらう。そのうち1台から、やや新しいデータが読み出せた。しかしそれでも最新版ではない。今度はK夫妻の家に行って試したが今度は1ファイルも読み出せない。大学に行って女子留学生専用のコンピュータを特別に使わせてもらったが同じ結果。


 CDドライブごとに読み出すファイルが違うので、まだ最新データが出せるCDドライブがあるのではないかと諦めがつかない私は、I氏を頼って彼の家に。彼のCDドライブでもダメだったが、彼には秘密兵器があった。ディスクのデジタルデータをしらみつぶしにスキャンしていくソフトである。さすがだ。


 しかしそのスキャンは想像を超える時間がかかるものだった。夕方5時ぐらいから始めて、結局終わったのが翌午前3時。200メガのデジタルデータを読むのだから仕方がないが、読み込むスピードが異様に遅かった。おそらく書き込み時のエラーのせいで読みづらくなっているようだ。ほかのCDドライブでも結果が違うのはそのせいらしかった。

 待つ間に外で食事をしたり、インド哲学論議を交わしたり、パソコン利用法を聞いたり、ドリフのコントの思い出話をしたりしていたのでずっと楽しかったものの、最後はもう眠くてしょうがなかった。もっとも、勉強を中断されて何時間も付き合わされ、挙句に帰り送ってくれたI氏の迷惑ははかりしれない。


 結局新しいデータは出てこないまま。でもその長い時間は、私をあきらめさせるのには十分であった。翌日は睡眠もそこそこに、気合を入れて復旧作業を開始できた。淡い記憶を頼りにデータを復旧していくのは時間がかかるが、1度やったところなので2回目となるとより多くのものが見えてくる。怪我の功名というべきか。


 バックアップはその日のうちに、自分宛のメールに添付して出した。サーバに残しておけばまたいつ壊れるともしれないパソコンよりは安心できる。CD−RWは懲りたのでメモリースティックでも導入しようかと考えている。


 今日はウィンドウズアップデート20メガ、インターネットセキュリティー更新に10メガなどでまる一日。日曜日はプロバイダ料金が課金されないが、電話代はしっかりかかる。その合間にI氏から教えてもらったLaTeXでサンスクリット文書を作る勉強。修士論文ではワード文書が何度も壊れて泣きを見たので、今度の論文はLaTeXでいきたい。


 夕方からは?T氏秘蔵のDVD『シベリア超特急』を鑑賞する。製作・監督・原作・脚本をあの水野晴郎が手がけたという、どちらかというとマニア系の邦画だ。1944年、ヒトラーとの会談を終えた山本陸軍大将(水野晴郎)は部下の佐伯大尉、青山外交官と共にイルクーツクから満州に向かうシベリア超特急に乗り込む。1等車に乗った軍人など10人の乗客は、次々と殺されていく。犯人は誰か? という話。台詞の7割が英語で、日本人も頑張って話している。列車が全く揺れない舞台セットを差し引いても、いい雰囲気を出していた。


 話は逸れてしまったが、これから部品がインドに届いたときどうするかが次の悩みどころである。インドの修理会社は奇跡的にプネーで見つかったが、バスで1時間以上かかるところ(バス代は片道20円だが)。しかし?T氏の話では一度傷がついたハードディスクは、傷が増えやすくなっており、また近いうちに壊れる可能性があるという。


 保証期間内で無料だし、今後のことも考えると交換してもらうことになるだろうが、またウィンドウズアップデートやらを想像すると気が遠い。今度帰国したときにADSL回線で一気に片をつけよう。その前に届くことを祈るばかりである。

2004年3月31日

極小旅行

各駅停車 インドには年度末がない。大学の授業は2月ごろから始まったかと思ったら1ヶ月半で終わり、今はどこも試験期間中。4月に試験が終わると、あとは8月まで長い夏休みになる。


 しかし私のように個人的に先生に習っている身では、夏休みのほうが先生の時間が空くだろうと楽しみにしていたら、昨日ジャー先生から5月は忙しくて時間がないと言われた。ジャー先生は普段も忙しいが、夏休みになるとインド各地で行われる集中講義に行かなくてはならず、さらに忙しくなるという。


 5月の連休(インドは連休ではないが)に短期間の帰国をするという話をすると、そのまましばらくいて6月に戻ってきてはと提案された。インドで一番暑い5月に、授業もなく家でぼうっとしていることを考えたら、その提案は悪くない。


 というわけで先日予約したばかりの航空券の変更をしに旅行会社に行く。日本航空ムンバイ支店から紹介された旅行会社はプネーの中心部にあり、家から10キロほどもある。リキシャーで125円(リキシャーは1キロ13円ぐらい)というのはかなり高い。


 航空券の変更が終わって近くにある本屋に立ち寄った後、お昼過ぎだったので美味しい店でもないかと歩いてみる。するとマクドナルドの看板を発見した。「5 minutes」と書いてある。


プネーにはマクドナルドが2件しかない。日本ではどこにでもあるものが、こう少ないと希少価値が出てくるというもので、チキンバーガーを食べたくなった(インドなのでビーフはない)。看板をたどって歩き始める。角を曲がると看板は「3 minutes」になっていた。


 しかしそこからは行けども行けども、マクドナルドが見つからない。途中で道を聞くと知らないのにでたらめなことを言ったおじさんがいて、もと来た道を戻ったりもした。そのうち道端でパーン(ミントや消石灰を混ぜた食後の口直し・まずい)を食べていたおじさんが「今そっちにいくところだから乗ってけ」と言う。


 そこからスクーターの後ろに乗って行ったが5分ぐらいかかった。歩いたら15分以上かかりそうだ。その間に看板は全くない。「3 minutes」というのは車でということだったのだろうか。


 ようやくマクドナルドにたどり着いた。INOXという映画館の1階に入っているところで、全体に冷房がきいており涼しい。マックグリル・バリューミールを食べた。ちなみにビッグマックは「マハラジャマック」になっていた。


 後は帰るだけだが、せっかく中心部に来たのでいろいろ見て回ることにする。持ってきた地図を見るとプネー駅が近そう。駅まで行ったことがなかったのでどんなものか行ってみた。


 駅は思ったほど大きくなかったが、人の多さが壮観。地べたに寝転がって昼寝している人たち、ホームで信じられないような長さの列を作って待っている人たち、券売所に殺到する人たち、軍人さんの一団。警官は物騒な鉄砲を持って雑談している。


 時刻表を見ると、ちょうど家の近くを通る各駅停車ロナワラ行きが20分後に出るところだった。チケットを並んで買ってホームに行き、列車に乗り込む。わりあい空いているなと思っていると「レディース!」という声、そこは女性専用車両だった。隣の普通車両は結構込んでいる。


 列車は驚いたことに定刻に出発した。扉全開で走るので、扉付近にいると風が涼しい。特に鉄橋を渡ったときの風はさわやかだった。肩をどついてくる人がいるので振り向くと車掌だった。簡単に偽造できそうな紙にスタンプを押しただけの券を見せる。


 乗ったのはたったの2駅。料金も13円である。改札はないから、駅のどこから出てもよい。そこからリキシャーに乗ったら、近すぎて10円くらいぼられた(10円をぼられるというのかわからないが)。


 15分ぐらいの小さな小さな鉄道旅行だったが、インドで鉄道に乗るのは初めてでもあり、楽しかった。これ以上長いとつらいぐらいだったかもしれないが、買ってきた時刻表を見たら、プネー発デリー行きは特急でも28時間かかることがわかった(飛行機なら2時間)。ジャンムーやヴァラナシ、ブパネーシュワルなど、信じられないくらい遠いところまで直行列車が出ている。途中の駅もほとんど聞いたことのない名前ばかり。まるで銀河鉄道のようだ。


 しかしどんなに遠くに行くにも格安の鉄道は、予約の手間がたいへんであることを差し引いても魅力的な手段であり、インド人の足となっている。今日もたくさんの人の夢を乗せて列車は走る。インドにいるうちに、長距離旅行をしてみたくなった。

2004年4月 3日

王宮

 郊外の高級レストラン「ラージュワダ(王宮)」日本人と会食。ラージュワダは風雲たけし城(?T氏談)のような建物の中にある中華レストランと、その前の広い庭にあるインドレストランの二本立て。


 建物の2階にある中華レストランは豪華だった。広々とした店内、回転テーブル、ウーロン茶のサービス。壁には中国風の絵が飾られている。店員もネパール人なのかもしれないが東アジア系が配置されている。冷房は効きすぎかというほど。


 中華料理は世界中どこにでもあるというが、なるほどその通りだと思って席に着くと、ビールの付け合せにキャベツのキムチにキュウリと唐辛子の酢漬け。しかもアジア人は我々しかいないインド人だらけの店内に、なぜか演歌が流れている。「二輪草」「舟歌」「雨の慕情」「氷雨」「娘よ」「津軽海峡冬景色」などがエンドレスで。

 その演歌が妙な雰囲気を醸し出していた。演歌といえば下町の小さな居酒屋、日本酒か安い焼酎でイカでもつまむときに流れるという刷り込みがあるようで、こんなに広々とした店内ではどうしたものか。


 メニューもよく見ると中華だけでなく、インドネシア、タイ、マレーシアなどさまざま。その中にポツンと「Tempura」250円が。タマネギなどの野菜だけだったが、塩をつけて食べるとなかなか美味しかった。ビールがすすむ。ついでにワインまで飲んでしまった。ぶどうジュースのようなすごい甘口。


 さとうきびジュースは飲んでも大丈夫かとか、インドでダイエットをする方法とか、今年度末で日本に帰った人々の話とか、いろいろ盛り上がって3時間。値段も一人当たり1000円ぐらいといつもの5倍ぐらいになった(そのうち半分ぐらいは飲み代だが)。その辺のレストランとは桁違いである。

 最後はアイスクリームでしめ。さんざん飲んでいるはずなのに汗をかくせいか酔わない。娯楽の少ないインドでは、食べるということが大きな娯楽だということがわかってきたような気がする。

2004年4月 4日

王宮(2)

サユリちゃん 昨日行った「ラージュワダ(王宮)」で文法学のマヘーシュ先生たちと会食。今度は屋外の広い庭でインド料理を食べた。


 マヘーシュさんは32才で、つい昨年博士号をとったばかりの若手文法学者だ。若くしてサンスクリット文法学をマスターし、博士論文ではパーリ文法学を扱った。大学ではパーリ語を教えている。全盲ながら博識で、どんな質問にも満足の行く答えを出してくれる。


 奥さんのラタさんも研究者で、『アマラ・コーシャ』というサンスクリット語辞典の失われた注釈を、チベット語訳から再構築しようという何だかすごいことをやっている。マヘーシュさんが『アマラ・コーシャ』まで覚えているのはどうしてかと思ったら、奥さんの手伝いをしているらしい。


 この夫婦にかかったら、パーリ、サンスクリット、チベット(ついでにヒンディー、マラーティー)とインド学に必要な言語を全部カバーしてしまう。そしてこの夫婦は、何年か前に金沢大学に交換留学で来ていた。日本でどれほど勉強すべきことがあったのかわからないが、日本好きのようだ。


 日本にいる間に奥さんが妊娠し、インドに帰ってきてから産んだ娘さんのサユリちゃんが3才(写真)。インドでも通用する日本風の名前にしたという。お父さんが大好きで、出勤前は嫌がって泣くのでお絵かきをしている間に出かけたり、飴をあげてなだめたりしなければならないそうだ。

 今日はサリーを着たいと言い張って、子供用のサリーを身にまとっている。我々日本人は「かわいい」の連発。食事もそこそこに、となりにある遊び場で滑り台などで遊び始めた。ここのレストランが人気があるのは、子供が遊べる遊具がたくさんあるからで、サユリちゃんもサリー姿で走り回っている。


 サユリちゃんの子育て話から、息子がいいか娘がいいかとか、名前はどういうのがいいかと言った話になり、やがて日本に行ったときの旅行話、インド料理の話などして楽しいひとときを過ごした。

 帰り際サユリちゃんが他の子供と遊具の取り合いで泣き始め、お父さんに抱っこされているうちにお休み。?Tさんが日本から持ってきた盲人用便利グッズを奥さんに説明する。マヘーシュさんは本が読めないため、勉強の大半は録音したカセットテープで行う。今ではICレコーダーという手もあるが、データ管理がたいへんかもしれない。


 明日から家族でサールナート行き。マヘーシュさんは夏休みなので、そこで奥さんの仕事を手伝うという。プネーと比べると暑さが尋常でないエリアに、もっとも過酷な時期に行くのはつらいものがある。


 大学には7月に戻ってくればよいのだが、サユリちゃんの保育園が始まるとかで6月に帰ってくることになっている。それなのに別の大学でアメリカ人相手にパーリ語を教えることになっているそうな。優秀な上に文句も言わないので、引っ張りだこである(というよりも、こき使われているといった方が正しいかもしれない)。


 2月にインドに戻ってから2ヶ月、月曜日から土曜日までほぼ毎朝文法学を習えたことは非常にためになった。6月に戻ってからもまた習えることを楽しみにしている。そして将来にはまた、奥さん共々ぜひ日本に来てもらいたいものである。(写真提供:K氏)

2004年4月 6日

夏バテ?

ワイ 先月に行ったワイの写本図書館を再訪。K氏が大学の先生に紹介状を書いてもらってそれを送り、毎日のように電話をかけたのに許可証が送られてくるまで2週間もかかった。


 前回の往復5時間の蒸し風呂バスに懲りた我々は小島さんに車を融通してもらう。所要時間は半分ほどで、エアコン付きの快適な旅ができたのはたいへんありがたい。そうでなければ秋ごろまで諦めていたかもしれない。


 図書館に着くともう必要な写本は用意されていて、すぐにコピー屋に行くことになる。やっと発行してもらった許可証も提示を求められなかった。それなら電話でもよかったのではないかと思う。


 しかし今度はコピー屋の方で時間を食う。次々と客がやってきて仕事が後回しになってしまうのだ。300枚のコピーで、はじめ2時間と言われていたが結局4時間かかった。もっとも、コピーした後にオリジナルと照合したりして丁寧なコピー屋だったので文句はあまりない。


 その間に観光や昼食。街の中央にはガネーシャ寺院があり、すぐ隣にはカーシーの神様の寺院がある。ガネーシャの方が人気があるようで、参拝者がひっきりなしに訪れていた。決して大きくはないがなかなか由緒ある街のようだ。


 コピーが終わると図書館に戻って精算。「またいつでも来て下さい」と言われたが、そう言うなら許可証を早く送ってもらいたいものだ。その時点でもう4時近く。小島さんからカルヴァーイーという女神寺院を勧められていたが、結構遠いことが分かって近場の湖ドーム・ダム(写真)を見て帰る。周囲を峡谷に囲まれた大きな湖で水もきれい。ボート貸し出しがあったがこんな暑さでは乗る気も起きない。しばらく眺めて退散。季節がいいときにきたら面白いだろう。


 前日寝不足だったせいか、暑いので天井のファンを回したまま寝ていたせいか、あるいは水も飲まずに暑いところにいたせいかわからないが、帰宅してから俄かに具合が悪くなりフラフラに。お腹の調子も悪い。K夫妻とピザでビールでもと話していたがキャンセルして寝た。


 起きてからもあまり食欲がわかず、とっておきのカップラーメンとバナナを食べて就寝。翌朝にはほとんど回復していたから、寝不足が原因だったのかもしれない。


 3月は異常気象でいきなり40度を超えたが、その後しばらく暑さは緩んでいる。それでも夜はかなり暑く、窓全開、天井のファンを付けっぱなしで寝るようになった。ところがこの高地では夜になると急速に冷え込むので、お腹を出して寝ていると寝冷えしたり、喉をやられたりする。その上窓から蚊が入ってきて、蚊取りリキッドを使っていても刺されるのでなかなか快適に寝られない。その結果いわゆる夏バテになるのだろう。


 ふと、日本のさわやかな季節が恋しくなった。


2004年4月11日

インドのトイレ(お食事中の方注意)

トイレ インドのトイレには紙がない。


 用を足した後、水を入れた手桶を右手にもち、左手の指にちょっと水をかけてぬらす。その左手の指で肛門を拭い、汚れた指に再び水をかけて洗う。これを何度か繰り返してお尻を洗うというわけだ。


 指は長くて太い中指が一番よい。指の腹を使う。はじめは便がついていることがあるが、それを指でこそげ取って流し落とす。次に第一関節ぐらいまで肛門の中に入れてぐりぐり洗い、ついで肛門の周囲半径1,2センチまで洗う。ヌルヌルした感触がなくなったら終わり。排便の直後には開いていた肛門が、徐々に収縮していき完全に閉まるまで数十秒(下痢の時は収縮が非常に遅れる)。この間が勝負だ。


 洗い終わったら、中指が触れないように薬指と親指でズボンを上げる。そして石鹸でしっかり手を洗う。石鹸がないときは、長めにごしごし洗う。


 インドのトイレにはたいてい、便器のそばに蛇口と手桶がある。金隠しがないのは、腕を回しこまなければらないからだ。水をかけながら洗うので、必然的に前から回しこむことになる。洋式もあるが、水をかけながら洗うのはつらい。


 外のトイレで用を足すときには、手桶がなかったり、底が抜けていたりすることもたまにある。そういうときは右手を丸めて水をもつことになる。あたりは水浸しだがすぐ乾くものである。


 紙を使っている日本人も多いが、紙は大きい店でしか買えない上にトイレに流していけないので、面倒くさがりやの私はいつしかインド式になってしまった。もっとも日本でも僧堂でこのやり方がつい最近まで行われており(『Fancy Dance』参照)、あまり抵抗を感じなかった。


 抵抗どころか、すみずみまでキレイになるし粘膜を傷つけないしで紙に戻れないのではないか思うぐらい。インドでは左手が不浄とされ、ご飯を食べたり握手をしたり、人を指差したりしてはいけないのだが、お尻を洗っているとこれが身をもって分かる。いくら石鹸でキレイに洗っていても、ご飯をつかむ気にはなれない。


 気をつけるのは、爪をよく切っておくこと。そうでないと肛門を傷つけたり、爪の間に便が挟まったりしてしまう。あと、日本人の間でインド式で洗っていることをあまり公言しないこと。さもないと「彼は指で洗っている」とエンガチョーされてしまうかもしれない。


 最近、トイレの後だけでなく前にも手を洗うようになった。肛門に雑菌がつかないようにである。そこまで来ると自分も、一皮向けたなあと思うところだ。日本では、できないだろうなあ。

2004年4月12日

停電と断水

 3月に40度を超えたのは異常気象のためで何十年ぶりだという。その後しばらく暑さが和らいでいたが、今週になって再び盛り返してきた。夏本番である。


 昨晩午後9時ごろだっただろうか、夕食を食べているとき停電に見舞われた。窓から見渡す限り、どの家も電灯がついておらず、ロウソクがほのかに点っている。外では自家発電機をもっているお店がわずかに明るいだけだった。


 夜に飛行機でプネーからデリーに向かうとき、1エリア全部の電気が消えたのを見たことがある。一緒に乗っていた円実さんは「あ、街が消えた」と言っていた。今、私の住んでいる街が消えたのだ。


 石窟寺院を見るために小島さんに勧められて買った懐中電灯が役に立つ。フックにかけてぶら下げながら、懐中電灯の下で夕食を続行。それからインターネット。ノートパソコンはバッテリーがあるのでこういうときに便利だ。


 それでも暗い中では目も疲れてくる。11時になっても停電が回復しないので、寝ることにした。夕食の容器を洗おうとすると、今度は断水。停電と断水のどちらかというのはよくあるが、どちらもというのは珍しい。わずかの水で歯を磨いて床に就く。


 日本の場合、停電も断水もめったになく、しかも前もって通知されるがインドでは何もかも突然の上、頻度も多い。新聞かテレビで計画停電・計画断水(電力・水不足のため定時にストップする)のお知らせが流されることがあるが、計画にないものも多いという。


 床に就いて1時間、蚊取りリキッドがないので蚊に襲われまくる。蚊の羽音が耳障りなのと、刺されたところがかゆいのとで眠れない。日本から持ってきた蚊取り線香を焚こうとしたが、……マッチがなかった。しばらく考えた末、虫除けスプレーを体中に塗ることでようやく眠ることができた。


 この時点で温度は34度。湿度は低いものの天井のファンも動かないので汗だくになる。もっとも、肌寒いのに比べれば私は少し汗ばむぐらいの暑さが好きなので、朝までぐっすりお休み。


 普段から電気も水道もないとなりのスラム街だけ、何事もなかったように過ごしていた。


2004年4月21日

日本語学習

 今住んでいるアウンドという街は、時折無料の情報誌「アウンド新聞」が配られる。その中にジャパニカという日本語学校の広告をよく見かけるので電話をしてみた。近くだと分かったので遊びに行ってみる。


 そこは一般家庭の部屋を使った、1クラス5人くらいの教室。先生のマニーシャさんは18年間日本に住んでいたが、一昨年夫を病気で亡くし、16歳の息子を連れてプネーに戻ってきた。旦那さんの話になると顔がまだ曇る。


 習いに来ている人はさまざま。12歳の子どもから定年退職したおじさんまで、日本語関係の職を探したい人から単なる興味できている人まで、ひとまず世界共通の日本語能力検定試験をめざす。


 サレーシャさんは製薬会社に勤めている1児の母。仕事が終わって帰ってくると夫とお義母さんが送り出してくれて、教室に通っている。夢は日本の製薬会社と共同で働くこと。息子のテージャス君(6才)が「それは違います」というフレーズだけ覚えているそうだ。


 スレーシュさんは銀行を退職したおじさん。出身はタミル地方で、日本語とタミル語の雰囲気が似ているので興味を持ったという。大野晋氏の「日本語タミル起源説」の話をしたら喜んでいた。


 彼らの勉強方法は、あくまで日本語能力試験をめざしているので教科書中心の、どちらかというと退屈。「荷物はもう着いて( ? )」の括弧に「あります」「います」「はずです」「きます」などから選ぶというような問題が延々と続く。


 もっと会話を重視して、自分の言いたいことを日本語で話せるようにしたらいいと思う。「これはペンですか?」みたいな文から入るのはつまらない。コミュニケーション意欲が全く湧かないからだ。文法規則を習うのは後の方がよい。


 ちなみにインド人は記憶力がよいとか、数学が得意だとかいうが、それはほんの一握りの人たちであることが、インドに住んでいると分かってくる。計算を間違えて釣りを出してくることなどしょっちゅうだし、物覚えの悪い人は悪い。比率の問題でいえば「勤勉な日本人」とどっこいどっこいというところか。


 それはさておき、マニーシャさんの息子から風邪がうつったらしく、先週末は1日半寝込んでいた。熱が出て起きると頭が痛く、食欲もない。翌日は下痢続き。


 夕方になってフラフラになりながら医者に行く。5時からの診察で早めにいったが結局医者が来たのは6時頃だった。薬を処方してもらい、命からがら帰宅する。


 おそらく頭痛薬と下痢止めと抗生物質だったと思うが、これがやたら効く。翌日の夜にはほとんど回復し、下痢は便秘になってしまうほどだった。薬はまだ半分ほど残っていたが飲むのを止めることにする。一緒にもらったインド・ポカリは香料がきつくて飲めた代物ではなかったが、我慢して8割ほどまで飲んだ。


 数日間は食欲が湧かなかったので、日清のラーメンを買ってきて家で自炊。袋ラーメンはマギーと日清の二種類があるが、味は断然日清に軍配が上がる。ただし全部カレー味。カレー味のもとは使わず、日本から持ってきた味噌汁の元を入れて、味噌ラーメンにして食べた。


 暑い日が続いているので一度体調を崩すとなかなか回復しづらい。救いは来週から日本に一時帰国できること。でも法事三昧だからどうなるか。体がもつか心配している30歳の夏であった。


2004年4月23日

映画(6)

マスティー 先月に壊れたパソコンの修理が、今日終わった。東芝国際サポートが送ったハードディスクは日本からシンガポール、デリーを経てプネーへ。なんと修理係が自宅まで持ってきたところまではよかったが、新しい型でハードディスクが奥の方に入っていたため、その場の修理を諦めて本社に戻ることになった。


 一緒に付いてくるように言われたので車で来ているのかなと思いきや、手に持っているのはヘルメット。パソコンをカバンに入れてバイクの2人乗りである。修理係はヘルメットに長袖、手袋までしているのに、後ろに乗っている私はノーヘル、Tシャツ、サンダル履きだ。バイクは50キロぐらいで走る。落ちたらパソコンどころか命はないと必死にしがみついていた。


 事務所は看板もないひっそりとしたところ。中に入ると東芝製品のポスターが一応貼ってあった。修理は1時間ほどで済み、無事ハードディスクを交換。関税がかかることもあると言っていたが、全部無料だった。だけど、帰りの送りはなし。


 待っている間に新聞を見て、映画の時間をチェックしていたので見に行くことにする。


マスティー(浮気)


 ミート、アマル、プレームは仲のよい3人組。結婚を境に疎遠になっていて3年振りの再会を果たす。その3年間に3人は、結婚の大変さをつくづく思い知っていた。ミートはプロレスのチャンピョンを目指す妻と義母にしごかれ、プレームは妻が宗教に凝ってお祈りの毎日、アマルは愛してる?寂しくない?といつも過干渉してくる妻を鬱陶しいと思っていた。


 そんな憂さを晴らそうと3人は酒を酌み交わし、浮気を決意する。ところが3人がいい関係になった女性は同一人物だった。写真を見せ合ってびっくりしているところにそのモニカが登場。奥さんたちにばらされたくなかったら100万ルピーを用意しろと脅してくる。


 妻の目を盗んで何とかお金を工面し、モニカの指定する場所で落ち合うと、彼女は車の中で死んでいた。とにかく慌てて死体を港の倉庫に隠す3人。


 この死体が発見されたため、3人は警察に付け狙われることになる。何とか尻尾を見せないように頑張っていたが、そのうちモニカを殺した男が現れ、3人がモニカを運んでいる写真を突きつけて脅してくる。


 再びお金を工面しなければならなくなったものの、お金を用意できないまま現金受け渡し現場へ。そこに警察も現れてカーチェイスが始まる。モニカを殺した男は拳銃の誤発射で死亡、3人は警察に向かうことになる。観念する3人。


 警察では妻も呼び出され夫がそんなことをするはずがないのにと泣いている。と思ったら妻たちは笑い始めた。気が触れたのかと思ったそのとき、この一連の事件が妻たちの用意したシナリオだったことが判明する(!)。モニカも、モニカを殺したという男も実は死んでおらず、警察まで全部ぐるだったというオチ。3人は妻たちに詫び、もう二度と浮気しないことを誓うのであった。


感想


 ちまたで結構面白いという評判だったので見に行ったが、全体的に下世話で大衆コメディ映画という感じだった。笑いを取るところがゲイネタというのは「カルホーナホー」でも見られたが、あまりしつこいと面白くなくなってくる。同性愛の人権とか、そういう問題には考えが及ばないようだ。でもアマルが妻の電話を切ってからも電話を話すふりをして、強がって言いたい放題言っていたら、また電話がかかってきたためにばれたというシーンは笑った。


 どんでん返しはお話とはいえやや無理を感じる。警察が浮気夫を懲らしめるためにわざわざ動くとは思えないし、モニカが死んでいるのは3人で運びながら確認しているわけだから生きているのはおかしい。ここまでどうしようもなくなってどうなるのだろうと最後を楽しみにしていただけに、不自然さの残るオチには納得できないものがあった。


 もっともこのオチは、純真だと思われていた妻たちが実は策略に長けた親玉で、夫たちは手塩に取られていたということを言いたいだけなのかもしれない。私の妻ももしかしたらそうなのかも…くわばら。


公式サイト


2004年4月24日

ドライデー

 日曜日からグジャラート経由で帰国するため、円実さん、K夫妻、I氏と5人でしばしのお別れ会。


 レストラン「ラージュワダ」に行ってキングフィッシャーを頼むと、今日はドライデー(禁酒日)だから出せないという。ちょうど今、インドでは議会選挙が行われており、選挙が終わるまで3日間、暴徒が酒を飲んで暴れないようにプネー全体で禁酒になっている。酒屋は閉まり、レストランも一切酒を出さない。出しているのがばれると警察に捕まってしまうという。


 席に座ってからそれが分かり、真剣に話し始める我々。ここで酒なしで食べるか、ほかに酒が手に入る方法はないか、10分くらい話し合う。酒がないだけでこれだけ真剣になるとは、注文を待っていた店員さんも呆れたことだろう。


 「ラージュワダ」のような大きなレストランは厳しいが、場末のバーのようなところならばテイクアウトでこっそり売ってくれることもある。そういうバーを探そうということになって我々は席を立った。「ラージュワダ」には申し訳ないことをしたが、選挙のたびに死者が出る国だから仕方あるまい。


 場末のバーを手分けした結果、キングフィッシャーを1本200円で手に入れられることが分かり、ひとまず安心。ピザハットでピザとチキンウィングをテイクアウトし、みんなでK氏宅に集合した。


 ピザは2つともカレー味で、チキンウィングもいまいちだったが、執念でビールが飲めたのには満足。いつもながらインド風でない食材と料理の話、プネーに住んでいる日本人の四方山話などを4時間ぐらいだらだらしてすっかりくつろいだ。


 ピザがカレーパンの味がするいう話から、プリーバージーとか、パティスとか、日本のカレーパンに一番近いのはどれだということになったが、要するに全部カレー味ということだろう。それが毎日毎食続くのだから、飽きるのも無理はない。特に体調が優れないと辛いものなどが受け付けなくなる。日本人は結局日本食に落ち着くのだった。


 I氏が大学の友達から酒を飲んだことがあるか聞かれて、あると答えたら今度は「今まで何回飲んだ?」と聞かれた話が面白かった。プネーのような保守的な街では、若者が酒を飲む機会はかなり限られるのだろう。今日買ってきた瓶ビール8本は、すぐになくなった。

2004年4月25日

アーメダバードへ

 インド最西部に位置するグジャラート州のアーメダバードへ写本調査に向かう。


 実はアーメダバードはプネーからそれほど遠くはない。電車で行っても我慢できるぐらいだが、飛行機の早割(1ヶ月前予約で半額)を利用してムンバイから行くことにした。飛行機代は4000円。ムンバイからわずか1時間ほどのフライトだ。


 ところがプネーからムンバイが近いようで遠い。距離は160キロ、インド有数の高速道路が走っているので3時間ぐらいで着くのだが、バスの時間が合わないことが多く、空港に早く着いて3時間も待っていたらそれだけで1日つぶれてしまう。


 今日は17時のフライトに乗るために予約したバス時間が9時。その後のバスでは間に合わない。バスといっても乗り合いのタクシーで、4人ぐらいをそれぞれの家の前から乗せて空港に向かう。


 旅行代理店では8時40分ころからバスが待っているだろうと言うので、8時50分ごろに下に行ってみる。しかしバスはまだ来ていなかった。それから9時30分ころまで待ったが一向に来ないので待ちきれずに電話した。


 「ミスター、オノ、予約を確認しました。今から行きます」「……今から?」結局車が来たのは10時だった。私以外の客は誰も乗っていない。「フライトは何時か?」「17時だが」「それならノープロブレム!」「……」


 時間というものは本当は非常に得体の知れないものだ。インド哲学では空間と共にすべてのものを入れる容器のように実体視されているが、異論もある。時間とは何かという問題は、洋の東西を問わず大きな哲学的なテーマになっている。


 今の日本人、先進国の多くの人は時間を売り買いできる商品のようにみなしている。そういう考えに慣らされると、何もしない時間は無駄に感じられ、待たされることや不本意な時間の使い方をさせられることに大きなストレスを感じるようになる。


 でも、時間の経過を意識しないで何もしない時間は単なるブランクだと考えたらどうだろう。今日は車が来るまで通りにきれいな花が咲いているのに気づいたり、歩いている人を眺めたり、話しかけてくる人としゃべったりしているうちに何となく過ぎた。


 あるいは、気温が高いせいで待っている間は頭のスイッチが切れるのかもしれない。


 前ならば怒っていただろうが、運転手が言うとおり確かに間に合うわけだし、どうせ早く着いても空港で待つだけだからと思うと不思議に腹が立たない。しかし何でも遅れるインドにあっては、こうして早めに予約しておくことが大切だということはよく分かった。ただ気になるのは、もし電話していなかったら車ははたした来たのかどうかということ。


 ムンバイの空港までは3時間。エアコンをつけないで窓を開けていたが、ムンバイに近づくにつれてどんどん暑くなってくる。予約時にエアコン付きであることを確認していたはずだが……? 汗だくになって運転手に「エアコンないの?」と訊いたらあっさりスイッチオン。逆に「OK?」などと訊いてくる。運転手がエアコン嫌いなのか、それともガソリン代節約のためか(たぶん後者)、もっと早く言うべきだった。


 ムンバイの国内線は飛行機会社別に建物が異なる。私が乗るジェット・エアーの入り口に着くと早速ポーターの少年が寄ってきた。「ナコー!ナコー!(要らない、要らない)」悪名高い国際線ほどではないが、金持ちの集まる空港にはさまざまなボッタクリも集まっている。用心モードに切り替えなければならない。


 空港の中は快適。こぎれいなラウンジがあり、サンドイッチセットが400円もしたが冷房のきいているところでのんびりできた。一般の待合室も冷房がある。3時間ほど、この日記を書いたりして過ごす。


 飛行機は20分ほど遅れて出発。わずか1時間のフライトに、機内食が出た。アテンダントは忙しそう。食べるか食べ終わらないうちに回収が始まり、回収し終えたころに着陸となった。


 空港から広島大学の小林氏に電話する。今回の写本調査は1日だけで済ます予定だったため、アーメダバードで勉強している彼に予め手続きをお願いしていたのである。ひとまず大学近くのホテル「クラシック・ゴールド」で落ち合うことになった。個人タクシー・エアコンなしで250ルピー、30分。


 それにしてもアーメダバードは暑い。機内アナウンスで現地の気温が発表されるが41度というので一瞬機内がざわついた。到着時刻が6時を過ぎ、日も翳っているはずなのにこの暑さは何なのだろう。


 ホテルでは小林氏が待っていてくれた。大学の近くには高いホテルしかないが、1泊1650ルピーのところ、大学関係者割引で1329ルピー(中途半端なディスカウントだ)。チェックインをして夕食に出発。


 プネーより人口の少ないアーメダバードだが、大学の近くはずっとにぎやかだ。おしゃれな衣料品店が並び、若者や家族連れがつめかける。小林さんによると、菜食・禁酒・禁煙なのでお金の使いどころが衣服に向かうらしい。確かにいい服を着ている人が多いような気がする。


 グジャラート州は州全体で禁酒法が制定されており、外国人が滞在するような一部の高級ホテルを除き、届けを出さないと飲めないようになっている。当然夕食は酒なし。夏ばてに効くというのでバターミルクを飲んだ。屋外レストランで大理石がホカホカだったのは昼間の暑さを想像させる。汗だくになったので冷房のきいているバリスタ(喫茶店)に移動してコーヒーを飲んだ。


 ホテルはエアコンがない部屋で、やはりホカホカ。扇風機を回したまま寝ることになった。

2004年4月26日

アーメダバードで

アーメダバード旧市街 LDインド学研究所は11時の開所で、その前にゲストハウスの小林氏を訪ねる。レンガ造りの2階建に住んでいて、1階には誰もいない。それどころか、LD研究所に在籍している学生は彼しかいないというから孤独だ。あまり珍しいのでこれまで何回か新聞に載ったという。私だったらこの暑さの中の孤独に耐えられるだろうか。


 LD研究所はサンスクリットの教師を育成するために作られた伝統ある機関だったが、今は出版活動も学生の受け入れもあまりしておらず閑散としている。だが創設時に気合を入れて集めた写本は充実。注目されるのはグジャラート北部のパタンという街にあるジャイナ寺院が保管している写本を、そっくりコピーして保存している点だ。パタンの写本にはジャイナ教はもちろんのこと、仏教やニヤーヤの貴重な本がある。


 しかしLD研究所に行くと、写本担当の係がムンバイの結婚式に行っていて3日帰ってこないという。所長も含めてほかに写本を出せる人がいなく、申し訳ないが分かってくれと言われた。膝がつくくらいガッカリ。「こんなもんですよ」と小林氏。


 一番の目的がかなわず、いきなりすることがなくなってしまった。マンゴージュースを飲んでいると、小林氏が本屋に行くことを提案する。ジャイナ教関係の出版を行っているサラスヴァティー出版は、サンスクリット本ではアーメダバードで1番大きいらしい。リキシャーに乗り込んで旧市街に入る。


 プネーのリキシャーは(メーター×5+2)ルピーという計算だが、アーメダバードは(メーター×3)ルピーという安さ。ただメーターの進み方がやけに早い気がするのは気のせいだろうか。


 サラスヴァティーはジャイナ教文献をはじめ、ほかの出版社の本も置いてあった。荷物が増えるのが嫌だったので軽く見るつもりでいたが、隣で小林氏が気が狂ったように買っていたのでつられて15000円分ぐらい購入する。店の人が後払いでいいからといううちに、小林氏のツケは50000円ぐらいになっているらしい。


 それからインド双六「チョーパド」を探す。昨年デリーの博物館で見たもので、グジャラート刺繍が入った布製のボードが美しい。グジャラート刺繍ならきっとアーメダバードで見つかるだろうと、本屋で店を訊いて探し始めた。


 最初に行ったのは布製品のお店。ボードだけ1枚250円で売っていた。コマとダイスは別の店にあるという。店の名前を書いてもらい移動。次の店はコマだけ1セット100円で売っている。ダイスはまた別の店。ハヌマーン寺院の近くにあるブレスレット屋で売っていると言われたが、そこにはなかった。戻ってまた別の店。やっとダイスを発見できた。手作り感のあるいかにも出目が偏りそうなダイスが2個13円。


 こうしてボード、コマ、ダイスをそれぞれ別の店で入手することになったが、全部探すまで2時間、40度を超える日差しの中でずっと歩き通し。途中途中でパックの水や、ジュースや、スイートミルクで水分補給していたが、フラフラである。


 ホテルにいったん戻ってから、小林氏と先生の家を訪ねて回る。LD研究所にはきちんと教えてくれる先生がおらず、小林氏は定年になった先生たちにプライベートで教わっている。


 はじめに訪れたのはナギン・シャーというジャイナ認識論の先生。私の専門を中心に1時間ほど話をしたが、近年インドにサンスクリット学者が少なくなり、LD研究所も機能していないという愚痴になると涙目になった。


 次はE.A.ソロモンというおばあちゃん先生。主著『インドの弁証法(Indian Dialectics)』は30年も前に出版されたものなので、まさか生きているとは思わなかったが、寝床に伏せっておられた。これまで多くの著名なインド学者を育ててきたが、かなりのご高齢で、今はもう小林氏以外は習っていないという。


 そこで帰るつもりだったが、ソロモン先生の薦めでもうひとり、ラクシュマン・ジョシという先生に会うことになる。ソロモン先生の弟子で、近年グジャラート大学サンスクリット学科を定年退官された。私も修士論文で扱ったバーサルヴァジュニャという人物の研究があり、現在はブラフマスートラのグジャラート語訳を作っている。パティルという弟子が出版したグジャラート語のバーサルヴァジュニャ研究を紹介してもらった。


 3人の先生と話している間、水を2杯、チャイを1杯、ぶどうジュースを1杯ご馳走になる。その後小林氏行きつけのグジャラート定食屋でバターミルク。さらにフレッシュジュースを飲んだ。いくら暑くてのどが渇くとはいえ、飲みすぎである。グジャラート定食は砂糖入りカレーと油を塗ったチャパティーで、これまたお腹がいっぱい。


 1日だけの滞在で、肝心の写本が見られなかったものの、小林氏のおかげで入手困難な本と、著名な先生に会うことができた。暑さは堪えたが、充実した1日だった。

2004年4月27日

日本へ

 アーメダバードから朝の飛行機でデリーへ、デリーから夜の飛行機で成田へ。


 昨日の飲みすぎ、食いすぎが祟ったか、あるいは熱射病だったのかわからないが朝から調子が悪い。胸焼けがして眠れなかった上に、朝は下痢続き。熱はないようだがだるい。


 デリーでは11時間ぐらいの待ち時間がある。市内観光や映画も考えたが、体がついていかないので近くのホテルを予約して休むことにした。休憩も宿泊も値段は変わらず、4000円。ホテルに着いて、NHKを見ながらウトウト。


 お昼はスープを飲んで、またウトウトする。そのお陰で夕方にはだいぶ回復した。寝ると治るというパターンは、夏になってから多い気がする。あまり食欲はわかないが、下痢は収まったようなので一安心。インターネットをしたり、この日記を書いたりできるようになった。インターネットは市内通話でできるのに、フロントが国際電話をしたと勘違いして出掛けに1000円ぐらい余計に払ったのは悔しかったが。


 さらに空港に着いてからチェックインすると、アーメダバードで買った本のおかげで荷物が35キロもあることが発覚。10キロの超過荷物料15000円となった(カード支払い)。これまた悔しいが、疲れ気味なので言うがまま。日本から本を注文することを考えればそれほど高くないと、自分に言い聞かせた。


 飛行機は夜の9時出発、追い風で早まり日本へは7時間で到着した。

2006年1月16日

手持ち無沙汰な1月

年が明けて早くも半月が過ぎた。これをあと23回繰り返すと1年も終わるのか。9日予定の第二子はまだ産まれていないし、3月提出予定の論文も凍結状態になっている。忙しくはないのに、そこはかとない焦りが漂う今日この頃。
今日は午前中に隣のお寺のお葬式のお手伝い。このあたりでは一番若い者が法話をするということになっていて、今日は山折哲雄氏の無常の三原則「この地上にあるもので永遠なるものは一つもない」「形あるものは必ず滅する」「人間は生きて死んでいく」を話してみたが、思いのほか効果が大きかった。
感情に訴える葬儀屋さんの司会は引いてしまう人が多いが、このような教理的なものを淡々と述べるのは理性に訴えかける。無常観は、仏教が日本に根を下ろす際に大きな足がかりになっている。
後の法要では正法眼蔵道心「この生の終わるときは、二つの眼たちまちに暗くなるべし。その時、励みて南無帰依仏と唱え奉るべし。この時、十方の諸仏憐れみをたれさせたもう。」を話そうとしたが、フレーズを覚え切れていなかったのでやめた。
葬儀を終えて、昼から開基檀頭のお宅にて宅祈祷。大般若経理趣分品を40分で読む。「ノーボバギャバテーハラジャハラミタエイタニャタシッレイエイシッレイエイシッレイエイソワカ(namaH
bhagavate prajJApAramitayai tad yathA zriyai zriyai zriyai svAhA)」というマントラがあるが、「世尊に帰依す、般若波羅蜜に帰依す、吉祥(天)に帰依す、吉祥(天)に帰依す、吉祥(天)に帰依す、幸あれ」という意味で、訳さないのは言霊のような信仰があるからなのだろう。効き目バッチリ、でも足イタイ。
お昼をご馳走になって帰宅、ほろ酔いで昼寝。夜からは小正月行事であるヤハハエロ(斎灯焼)の祈祷に出かける。この季節、外でお経を読むのは堪えるものがあるが、引き締まるものだ。
終わって地区の方々と反省会。というわけで法要のトリプルヘッダー、飲み会のダブルヘッダーという1日だった。1月は法事がないのに、毎週週末に行事がある。

2006年1月17日

息子が生まれた日

1月16日、第二子が誕生した。
長女が予定日よりも20日も早く生まれたので、2人目も同じだろうと年末から待機していたが、結局予定日を7日過ぎての出産だった。この間、私は山形とつくばを3往復している。不在の間は、妻の両親に来てもらっていた。
16日も、小正月の行事を終えてつくばに着いた日だった。米坂線が除雪作業のため1本運休になり、朝8時30分に出たのに予定より1時間遅く14時につくば着。妻が駅まで迎えに来たが、「今日生まれそうだ」とか言っている。妻の両親は私と交替でお帰り。
午後は2人でインターネット。私は専らボードゲームのメールばかりだが、妻は仕事のメール。論文を始めようと思ったころにはもう娘の迎えの時間が来ていた。
娘は帰ってくると笑いながら恥ずかしそうに「パイパイ」と言っておっぱいを吸い始める。これまでもパイパイを吸われているとお腹が張ってくることが多かったが、今日は陣痛が始まった。陣痛の合間に夕食を食べて産科へ。家からは歩いても5分のところにあるが、とても歩いていける状況ではなかった。
産科に着くと、点滴が始まる。そこに母から電話で、お葬式の伴僧を頼まれたという。家にかけても電話が通じず、またインターネットかと思っていた母は陣痛を聞いてびっくり。依頼されたご寺院さんに電話して「ちょうど今陣痛が始まったところでして、今回は申し訳ありませんがお断りさせていただきます。」
妻がうんうん唸っている隣で、娘に絵本を読んでいたが、忘れ物をしたというので取りに行ってくる間に、妻はもう分娩室に入っていた。帰ろうかと思ったら「もうすぐ生まれますので、お部屋で待っててください」と看護師さん。
子どもを連れての立会いはできないので、部屋で絵本を読んだり、分娩室の前でひそひそ話をしたりした。部屋にテレビがあったので「西遊記」を見ていたら、怒鳴りっぱなしの悟空に娘が恐がってスイッチオフ。
また分娩室の前に行くと今にも生まれそうな様子が聞こえてくる。オギャー!……先日生まれた隣りの部屋の赤ちゃんだった。気を取り直して、耳をそばだてていると、オギャーオギャーと元気な声が聞こえてきた。「元気な男の子ですよ!」(性別はまだ聞いていなかった)と先生。
1人目のときほど胸が詰まらなかったし、娘も呆然としていたのでちょっと間抜けだったが、ともかくも無事に生まれたのが嬉しい。3186グラム。
しばらくすると妻は歩いて分娩室から出てきた。やや顔が青ざめているような気がするがすっきりした表情になっている。1人目より長引いたのは大便が邪魔していたせいらしい。夕食も全部吐いてしまったという。
中を覗くとオムツをした赤ちゃんがもう泣くのに疲れたのか手をパタパタさせている。娘が「やっぱり弟だったねー」などと知ったかぶったが、実は私も男ではないかと思っていた。
というのも、私は印象に残った夢を記録しているのだが、6年前に亡き祖父が夢枕に立って平成18年か20年に生まれ変わることができると予言していたのである(http://www.tgiw.info/life/d00.html、2月26日の項)。この日記をつけていたことすら忘れていたが、母が覚えていた。
生まれ変わりだからといって性別が同じになるとも限らないのだろうが、ともかくも祖父、亡くなってから8年を経て復活ということである。母に電話をしたら仏壇に線香を上げて祖父にお願いしていたといい、声を詰まらせた。
しばらくすると部屋に赤ちゃんがやってきて、親子4人で団欒タイム。名前はどうするかとか、今週の生活はどうするかとか、のほほんとしたひとときを送る。妻はまだ痛そう。毛糸の帽子をかぶせられた赤ちゃんはこっちを見ているんだか見ていないんだか分からない視線をときどき飛ばしながら、手をグーパーグーパーしている。顔は、残念ながら今回も妻似のようだ。また負けた……。
娘と帰宅したのは23時を過ぎていた。風呂なしで即就寝。長いような、短いような1日だった。これからが勝負だ。

2006年1月26日

出生届

火曜日に山形からつくばに行き、長男の出生届。母も孫の顔を見に一緒にやってきて一泊。水曜日に帰っていった。私はそのままつくばに留まる予定だったが、檀家さんの葬儀で結局母と一緒に山形に戻ってきた。
子どもの名前は陽平(ようへい)に決定。長女の晶子(あきこ)と「日」つながりでもあり、家族みんなが気に入ってくれた。
この頃ヒドイ名前がはびこっていると思う。氏名欄にひらがなで書いて、振り仮名欄に漢字を書いてほしいと言っている人がいた。
これは6年前に書いた文章である。憎しみすら感じられる。
奇をてらった特別な読み,強い思い入れが入った難字,ちょっとひねりをきかせた普通名前に使わない字.子供がかわいそうだと思わないのだろうか.

初対面の人に呼ばれるとき,テストで名前を書くとき,電話口で名前の漢字を説明するとき,携帯にその人の名前を入力するとき,などなど.いつも苦労しなければならずその子供の人生は真っ暗だ.「どうしてこんな名前をつけたんだ?!」と親を恨むときがきっとくるだろう.

名前はありきたりな方がいいと思う.覚えてもらいやすいし,どんなにありきたりでも同姓同名などという事態はまず起こらないからだ.名前はその子供の定義ではなく,他人と区別するための恣意的な固有名である.

将来,新聞で凶悪犯罪者が凝りに凝った名前だったりする日が来るだろう.そのとき,何人かの人が思うかもしれない.「ああ,こんな名前じゃなければもっとましな人生だったろうに・・・」

というわけで妻と話し合って決めた我が家の名前の決め方は長女も長男も以下の通り。
1.普通の名前(世間で十分通用しているもの)にする

2.女なら「子」、男なら「平」を付ける

(「平」は、妻の祖父、父、兄についている字。私の家系にはそういうシリーズがない)

3.その中で音の響きがよいものを探す

4.その中でよさそうな漢字を探す

5.父母のこれまでの人生で、その字が名前に入っている人物を一通り思い起こし、問題のある人物はいなかったか確認

6.パソコンで普通に変換されるか確認
このうち1,6でヘンな名前はたいがい排除できる。ここまで来るともうヘンな名前アレルギーかもしれない。
実は「あきこ」は亡くなった私の叔母の名前で、「ようへい」は母が私の名前の候補にしていた名前である。だからこれにしたという訳ではないが、名づけた理由のひとつとして取り上げられるようにもした。水晶のサンスクリット語はスパティカーで女性名詞、太陽のサンスクリット語はスーリヤで男性名詞、この類の理由なら後付けでいくらでも出てくる。
長女のときはすぐに決まったが、長男ははじめ「しゅうへい(修平)」が濃厚だった。修行の修はお寺の息子らしいだろうと。
しかし子どもが生まれてみると「どうもシュウヘイって顔じゃない」と妻。そこで急遽「ヨウヘイ」が浮上した。そういえば映画で本木雅弘が演じた『ファンシーダンス』の主人公も陽平だったなぁとか言っているうちに決定した。「普通であること」以外は大した思い入れもなく、テキトーである。
「陽ちゃん、陽ちゃん」と呼ぶと陽子さんみたいで最初はピンと来なかったが、だんだんと耳になじんできた。今はまだ1日のほとんどを睡眠に費やしているが、さあ、どんな人間に育つだろうか、陽平君。

2006年2月10日

パキスタン

保育所の娘のクラスにパキスタン人の子どもが入って、迎えに来たお母さんにアッサラームアライクムとか挨拶したらすっかり仲良しになった。ヒンディー語とウルドゥー語は文字こそ違え喋る分にはほとんど同じなので、会話に支障はない。いざとなったら英語。
お父さんは自動車の輸出業をやっていて、ニュージーランドから引っ越してきた。娘と同じ3才の息子と、2才の娘がいる。今は会社で借りているアパートに住んでいるが、そこを会社で使うというので家を探さなければならなくなった。そこで市営住宅の申込を手伝ってほしいと頼まれる。
申請書、源泉徴収票、納税証明書、住民票、給与証明書、貸主からの手紙、保険証の写し、外国人登録カードの写しなど、提出書類がたくさんあって驚いた。結局これで3回も会い、書類の代筆や確認をすることになった。
そして書類がやっと揃って市役所に赴く。2,3質問があったが想定の範囲内。貸主からの手紙は英語で係員には読めない様子だったので、こういうことが書いてあるとだけ説明した。
これで終わったかと思いきや、奥さんの収入または無収入を証明するものがないという。別の窓口で申請してみたら、その時期はつくばにいなかったので証明書が発行できないとのこと。この証明書は、奥さんがつくばに来る前住んでいた江戸川区でもらわないといけない。さあ、困った。
しかしここはお父さん、経験豊富だった。江戸川区に行くなら今日は無理かとあきらめていた私に「私がやるからここで待っててくれ」と立ち向かう。私がいると、係員が私に理解を求めてしまうので、カタコト日本語で押し切るつもりらしい。そして待つこと15分。「私を信じてください」の一点張りでお父さんのネバリ勝ち。さすが。
申請中、日本はこういう手続きが早い、インドでは「カル・アーナ(明日来い)」ばっかりだったという話をしたら、パキスタンもそうだとお父さんも同調。特に裁判の遅さがたいへんで、審理を早くしてほしかったら賄賂、お前ら裁判官だろ!と。それがイヤでパキスタンを出てきたのに、今はパキスタン大使館で同じ思いをしているそうだ。
しかし次の問題が待ち構えていた。空き部屋なし、待機者30名で空く見込みは当分なし。県営住宅の申込書ももらったが、また同じ書類が必要。しかも県営住宅もいっぱい。つくばエクスプレスの開通で人が増えているそうだ。
ここまで絶望したのは、インド=ネパール国境で、千キロ以上離れたプネーまで戻って警察から許可証をもらってこいと言われて以来だ(その場は同行したK氏の賄賂500ルピーで乗り切った)。でも、お父さんはあまりガッカリしていない。この逆境での楽観は、見習いたいものがある。
帰り道、まるで反対方向に行くお父さん。「この辺の道はよく知ってるからドント・ウォーリー」といった5分後、「あれ?道が分からなくなった。」ここは日本かと疑問に思うような体験ばかりで楽しかった。

2006年2月18日

2つの閉店

つくばで家から一番近かったスーパー「リブレ京成」が2月いっぱいで閉店することになった。雑貨・文房具全3割引セールをやっていて、いつもは静かな店内(だから閉店なのだ)がハイエナで埋め尽くされていた。私もそこにいたわけなのだが。
それでも29年間やっていたらしい。食料品の質はよかったが値も張るので、何かちょっと足りないときにしか使っていなかった。近所の人の話でも皆そういう使い方をしていたらしい。だから閉店になったのだろう。
でもいざ閉店というと寂しいもので、店長になったつもりで店内を見回し、感傷的な気分になってしまった。おそらくこの跡地に別の店が入ることはないだろう。日本のどこでも起こっていることだが、郊外に大きなショッピングモールができており、人の流れはそうやすやすと取り戻せない。
そして今度は山形。先代からずっと毎月雑誌を配達してくれている本屋さんが支店をたたみ、社員を全員解雇して家族だけで営むことにした。そのため配達はこれで最後ですと告げられた。その配達員のおじさんも解雇されることになっており、再就職のあてはないという。
街の本屋さんも大型店舗の開店やインターネット通販の普及で窮地に立たされている。こちらはまだ閉店というわけではないが、何か大切なものを失ったような寂しい気持ちに再び襲われた。
ひるがえってみれば私のお寺は大丈夫だろうかなどと不安になる。スーパーや本屋のように商売ではないからといって安心してはいられまい。戦後世代の宗教離れと葬祭業者の進出はお寺の存在感を薄れさせ、それに過疎化が拍車をかける。
50年後に生き残るお寺として曹洞宗の先鋒・南直哉老師は檀家数が現在1,000件以上あるところか、都市部で土地貸しなどの副収入があるところか、カリスマ住職がいるところしかないという。実際、何百年も続いてきたお寺でも自分の代で終わりだと思っている住職が結構見受けられる。
お寺とて危機感をもって時代についていく努力を怠れば、未来はない。そんなことを強く思わせられた、2つの店じまいだった。

2006年3月17日

子守り

妻の産休明けに合わせて、平日は私が自宅で赤ちゃんを見ている。幸いお葬式も今のところ入らず、山形のお彼岸は雪でお墓参りもしないから、今週は無事に過ごすことができた。
赤ちゃんはほとんどの時間寝ているので、その間インターネットし放題。ボードゲームのことばかりやっていて、世捨て人だ。インド哲学の論文を書いているのも、十分世捨て人だけれども。
赤ちゃんがときどき起きたら、オムツを替えるか(泣き声が「うぇーん」の場合)、だっこしてゆするか(泣き声が「ひょえーん」の場合)、ミルクを作って飲ませるか(泣き声が「ギャオー」の場合)。
赤ちゃんは4月から保育所入りが決まっているので、こうしていられるのもあと半月ほど。子育ては10年だと、知り合いの和尚さんから言われたが、子どもはどんどん変わっていくから、同じことを10年続けるわけではない。そう思うと貴重な時間に感じられる。
ただ自分を子育てのオリに閉じ込めてしまうと、精神的に持たないような気はする。視線を時折外にも向けながら、子どもと向かい合うぐらいのスタンスがちょうどいいのかも。外出だってしたければできる。花粉症なので決してしないけれども。

2006年3月26日

ボードゲームシンポジウム

昨日から妻の実家に向かい、妻子を置いて浅草へ。NPO法人世界のボードゲームを広める会『ゆうもあ』主催のボードゲームシンポジウムの当日である。
思うように参加者が集まらず、収支はぎりぎりのライン。早めに浅草に着いたので、浅草寺にお参りして般若心経を唱え、気持ちを落ち着かせる。
着いたら会場設営なんかでバタバタしているうちにもう時間。心配していた参加者だが、東北勢6名のお陰で何とか赤字を免れた。当日参加の東北勢は、ヘルム峡谷でエルフを見た思いでしたよ。
最初にゲーム賞の発表。今回は全部の賞にデザイナーからコメントをもらえたので翻訳して読み上げた。フェデュッティのが受けたかな。そして能勢さんに表彰。
シンポジウムの発表者は新大陸の坂本さん、メビウスの能勢さん、バネストの中野さん。3人がずらりと並ぶと壮観である。
坂本さんはメーカーがロングスパンで取り組むことと、ゲームの露出を多くする必要性を説き、ルーンバウンドの日本語版、ファミレスで導入されつつあるテーブルトーク端末へのブロックス導入など、具体例も示された。
能勢さんは分かりやすい日本語ルール作りのためのノウハウをご披露。ただ言葉を変えればいいだけでなくて、文化的背景やゲームの前提知識も含めて、日本人が読みやすい翻訳をする難しさを感じた。
中野さんはバネストのこれまでを振り返りながら、今後の展望を述べられた。国産ゲーム・日本人デザイナーの応援、そして日本語の環境でゲームが出ることで一般人により親しみやすいボードゲームのあり方を提案している。
後半のディスカッションは、まず邦題統一の可能性という、我々が用意してきたテーマに多くの時間を割いた。話の結果、新大陸でもメビウスでもバネストでも、先行して販売されたタイトルにできる限り合わせるということでお三方が合意されたのは大きな収穫であろう。ゆうもあが邦題が分裂しそうなメーカーの命名権を管理するという案も出たが、事実上無理そうだ。また、ドライマギアやツォッホなど、たくさんの輸入業者が関与しているメーカーでは、このような同意が得られないのも課題として残された。
次に国産ゲームに何を期待するかという話題では、ルールが簡単で多人数向きの日本語ワードゲーム、クイズゲームなどを期待するという声が上がった。確かにこれは、世界中どこを探しても日本にしか作れない。この手のゲームではワードバスケット、アップルトゥアップル、ワードリンク(同人)が出ているが、まだまだ可能性は残っているだろう。
最後にサマリー、フローチャートを作ってつけてほしいという話から、カード訳はシールがいいか対訳表がいいかなんていう話まで。ここまで4時間、本当にあっという間に過ぎてびっくりした。
懇親会も盛り上がった。前夜祭があるため「1時間だけ」という中野さんが最後までいてくれて一本締めまでしてくれたこと、メビウスママさんがお店を閉めてから駆けつけてくださったこと、そのほかウェブではなかなか話せない四方山話をできたことが嬉しい。これまた2時間があっという間に過ぎた。
二次会はお断りして仙台組のお二人とつくばへ。家に着いたら郵便受けに「ボードゲームシンポジウムのご案内」当日かよ!
意外に早く着いたのでちょっとゲームを遊ぶ。明日はゲームマーケットで早起きだ。

2006年3月29日

大学へ

2か月ぶりぐらいになるだろうか、大学へ。もう学籍はないのだが、私と同じくインドのディベートについて研究しているウィーンの先生が来日しているというので教授からお呼びがかかる。
本当は御詠歌の講習会だったが急遽キャンセル。もともとこの講習会のためにベビーシッターを頼んでいたので難なく上京することができた。子どもを2人連れて帰る妻のため、午前中に夕食の買出しと準備を済ませる。
講演の内容はアーユルヴェーダの根本聖典ともいうべき『チャラカ・サンヒター』(2世紀)の医者のたしなみとしてディベートを学ぶ章について。50以上の写本をインド各地から集め、使われている文字(シャーラダ、デーヴァナーガリー、ベンガーリー)や誤字脱字をもとにA写本はB写本の写しで、B写本はC写本の写し…などと系統樹を作っていく。気の遠くなる作業だ。その過程で、刊本では現代のインド人が勝手に解釈して改変している箇所がわかり、古代における専門用語の意味が明らかになる。
理由(hetu)は後代、論証の一部分をなすものになるが、チャラカの時代は4つの認識手段(pramANa)の意味で使われていた。ところが編者が論証の一部分という考えに引きずられて、順番を改変したり、複数形を単数形に変えたりしてしまう。そしてそれは、どの写本からも支持されないことで、編者の改変だと分かるのだ。
オーストリア科学アカデミー・アジア文化思想史研究所の所長であるプレッツ博士は、8年前の来日のとき都内で泊まるところがなく、当時亀有に住んでいた私の6畳一間に約1週間滞在した。浅草に浴衣を買いに行ったり、地下鉄の階段を転げ落ちて病院に連れていかれたり、緑茶を出したら夜眠れなくさせてしまったりしたことを思い出す。4年前に来日したときは奥さんと一緒にお寺を回った。
講義は英語だったが、終わってからもう当然のようにドイツ語で話しかけてくるのでそのままドイツ語モード。時折ヒンディー語が出そうになったが(アッチャーとかイスリエーとかレーキンとか)、それはともかくも存分にしゃべれて満足だった。教授や先輩後輩も交えて、久しぶりに終バスまで飲んだ。

2006年5月11日

娘を看病

連休中は家族で山形にいたが、連日の法事と接客・会合、その合間の家族サービスがぎっしりとつまり、メールやミクシィは開いて5分ぐらい読むのが精一杯。
ゲーム会は根性で1回、自宅の小屋にて開催したが「フレッシュミート」プレイ中に訃報。葬儀のために滞在延長となり、先に赤ちゃんを連れて帰った妻とつくばで会えたのは火曜の夜遅くだった。
妻が2人を連れてつくばに行くのは辛かろうと、娘も滞在が伸びた。日頃「お母さん!お母さん!」とキイキイ声を上げている娘だが、母がいなければ父に甘え、父もいなければ祖母に甘える柔軟性はまだ赤ちゃんの部類に入るのかもしれない。
月曜日は葬儀の準備を午前中で済ませた。かわいい絵を描いている子どもと向かい合わせになって位牌を書いている私という構図。
午後からは牛を見たいという娘を眺山牧場に連れて行き、道の駅でソフトクリームをご馳走した。ソフトクリームをなめる子どものそばで溶けたアイスをタオルでふき取る作務衣姿のお坊さんという構図。
葬儀が終わって火曜の夕方から、フラワー長井線、山形新幹線、高速バスを乗り継ぎ5時間かけてつくばに移動。娘との2人旅は初めてではないが、のんびりはできない。
食べかけの弁当を娘が蹴飛ばして全部床にこぼしてしまい、厳しく叱責していると、娘の泣き声に耐えかねた後ろの人が「何とかなりませんか?」私は叱った顔のままで振り向いたものだから、「すみません」と返したけれどもヤクザみたいになってしまった。バンダナをかぶっていたのがせめてもの幸い。
そして2人ともほとんど眠る間もないまま、つくば着。娘はちょっと熱っぽい。朝起きてみると38度だったのでそのまま医者に行き、楽しみにしていた秋葉原水曜日の会は参加できなくなった。
私がつくばにいるということはお寺の仕事がないことを意味するが、医者に行ったり、買い物をしたり、料理を作ったりしていると時間はあっという間に過ぎる。気を抜いている暇がない。昨日は妻まで頭痛で早退してきて、娘と2人で寝ていた。
そして今日も、娘の熱は下がらず私が家で看病している。連休中は次から次へとお客様がやって来て疲れたのだろう。体調が心配なことは心配だが、額に冷たいおしぼりを当てたり、食べたい料理を作ったり、本を読んであげたりしながら娘に向かい合っていると妙に気持ちが落ち着くような気がした。

2006年5月22日

何もない山形の日曜

私が山形にいる=お寺の仕事があるなのだが、今回は母が旅行に行っていて留守番を仰せつかり、山形にいてお寺の仕事がないという珍しい日曜を送った。いつもは母頼みの祖母も心なしか張り切っている。
メインはつくばにいるときと同じく、炊事である。朝に作る仏様のお膳と朝食は精進料理。味噌汁にだしの素も入れない。昼食は麺類や余ったご飯でチャーハン。夕食は魚を焼いたり。つくばでは、メニューに合わせて食料を買ってくることができるが、山形では食料(ほとんど頂き物)に合わせてメニューを考えなければならない。
今日は冷凍イクラを解凍し過ぎてホッカホカにしてしまい失敗。
午後からは花に水をやった後、境内で筍掘り。昨日雨だったので、「雨後の筍」でいたるところニョキニョキ。25本掘ったら汗だく。シャワーを浴びて剃髪してから総代さんなど5件に5本ずつ配ってきた。
その帰りに市立図書館へ本探し。福田恆存が目当てだったが、はたしてなく、語学や宗教の棚をちらちら見て帰ってきた。
図書館の前ではちょうど「つつじ祭り」をやっていて、何人か知り合いに会う。暖かくて人出はよかったが、つつじの方はまだ七分ほどといったところか。
帰宅後久しぶりにテレビ。大相撲千秋楽で応援に来ていた白鵬のお父さんのほりの深い面構えや、歌丸師匠が司会になって楽屋ネタが面白くなった笑点を見る。つくばにはテレビがないので、もの珍しい。

2006年5月29日

総代会/披露宴

午前中は教区の総代会(各寺院の代表者会議)、午後からは友人の結婚披露宴に出席。
ここ2年、総代会は教区長と総代会長の公開討論会のようになっていた。総代会長が「近頃は葬式仏教と揶揄されており……」と言えば教区長は「葬式仏教で何が悪い!」と憤慨し、気がつけば1時間、足イタイ。
今日もそんなやり取りを覚悟していったが、総代会長が今日こそは決着をつけようと時間を長く取ったのを事前に察知したのかどうか、教区長は開会式が終わると会議に参加せず帰っていった。
それはそれで拍子抜けである。総代会長は今期で交替し、次期会長はマイルドな方なので、もう当分このようなドンパチは見られないだろう。ちょっと寂しい気もする。
ちなみに今回、総代会長が話し合いたかったテーマは「会葬者に配るため、葬儀が終わる前に花輪を崩すことの是非」だったらしい。マイナーだな〜。例えば会葬者が読まれるお経の意味を分からないのは仏教離れにつながるのではないかとかいう問題の方が、ずっと大事だと思うが。
というわけで会議はあっさり終わって、人権学習ビデオを見てから昼食。でも乾杯して20分でお開きって、どうよ? しかも真っ先に帰るのは、お坊さんのほうである。檀信徒に寄り添い、その声を聞くことの重要性が叫ばれている中、上からあーだこーだ言うだけで総代に対してこんな態度をとるのでは、そのうち檀家さんみんなからそっぽを向かれるのではないか。檀信徒は、仏の如く敬うべし。
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午後からの披露宴は、余興を頼まれていた。誰かと一緒なら打ち合わせをして「アルゴリズム体操」でもやろうかと思っていたが、独りでやってくれとのこと。ネットを調べているうちヨン様スピーチ(http://plaza.rakuten.co.jp/yxesagan/diary/200601200000/)を見つけたので、これをやることにした。
それから1週間、ハングル語を必死で覚える。「ハムケヒンモリセンギルプディサイチョケ!」前日は、米沢のヒッポファミリークラブに行って綿密な予行練習をさせてもらった。当日もずっとブツブツ……外面は平静を装っていたが、食事も味わう余裕がない。
他の余興がマイク一本やカラオケしか使っていないのに対し、こちらは冬のソナタのBGM、マスク、バラの花、そして司会の「通訳」、さらにスポットライトまで当ててもらって使えるものを全部使っただけに、話に夢中になっている人も注目してくれた。目立ちたがり屋ではないつもりだが、人前でやる芸には小学校のころから気合を入れる癖がある。
余興が終わると、まもなくお開きになる。恒例の新婦が涙ながらに読むお父さんへの手紙。そこでふと、自分がお父さんの立場になって聞いているのに気づく。「いつの日か私も娘からこんな手紙を読んでもらう日が来るのだろうか?」と思うと目頭が熱くなってしまった。数年前、自分を新郎の立場に重ね合わせて「私ならこの奥さんはどうか?」などと品定めしていたのとは大違いだ。
二次会は出席せず、新幹線でつくばに直帰。19日以来、8日ぶりとなる。もう子どもの顔が思い出せなくないぐらいだ。さあどんな寝顔で寝ているだろうか。

2006年6月10日

まごころに生きる

曹洞宗は今月初めに札幌で開かれた梅花流全国大会にて、新曲『まごころに生きる』を発表した。作詞作曲は南こうせつ。九州の曹洞宗寺院の三男坊なのだとか。
お坊さんでない人が作った曲はこれまで古賀政男の『彼岸御和讃』があったが、あれは唱歌のようでいまひとつ。今回はどうなるだろうと興味津々だったが、かなりいい曲だった。
これが一番の歌詞。ホロリと来た。解説では「諸行無常」「諸法実相」を説くという。
(一)そよ吹く風に小鳥啼き  川の流れもささやくよ

   季節の花はうつりゆき  愛しい人は今いずこ

   ほほえみひとつ涙ひとつ 出逢いも別れも抱きしめて

   生きてる今を愛して行こう
旋律の特色はファ音を基調とする四七抜き音階。つまりシとミがない。ド音を基調としない曲は涅槃御詠歌に続いて二曲目だが、長調は初めてである。
それ以上にこれまでにない大きな特徴が、拍速70。たいていの詠讃歌は38〜50だったので、異様な速さだ。この速さでは3,4拍目の鈴が振れないため、鳴鈴は3拍目だけとする。
さらに詠衆は詠頭が唱え始めたら撞木も鈴ももって準備する。いつも通り撞木だけをもっていたのでは、鳴鈴が間に合わない。
……こんな講習会が今日の9:00〜15:00。私は助講ということで講習の手伝いをしていた。昼に鴨そばが出たが、昨日の昼は八郷でしゃもそば、夜は宇都宮で天ぷらそばを食べていたことは内緒にしてある。
講習会が終わってから寺に戻り、16:00から寺役員会。決算・予算の承認など。日記でも以前にまとめたが清め塩、シダミ、六曜は迷信であることを強調し、生前戒名を全員に勧める。
今最も難航しているのが総代人事。総代長が体調不良で辞意を表明し、後任選びが難航している。
かつて総代はしかるべき家(いわゆる庄屋)の当主にのみ許されるポストであった。うちのお寺も基本はその路線だが、そのしかるべき家というのが5件しかなく、その中に後継者がいない家や親族関係にある家があって、総代の定数を確保できなくなった。
となると総代の次に来る地区役員の中から、長年の業績があった人物を繰り上げるしかない。地区役員経験のない人物では、お寺のしきたりを知らないまま総代になってはつらい。
しかも総代は最低10年は勤めてもらいたい役職。そうなるとあまり年配の人に頼むわけにもいかない。60代半ばが限度。長年の業績がある50〜60代というと2,3人ほどしかいなかった。つまり、代々地区役員をしている家で、父親が早くして亡くなり、交替して30代くらいからずっと役員をしているという方々だ。
その中で最も有力とされていた方が、他の業務と家庭の事情を理由に断られた。「気力がない」という言葉は勧誘をあきらめさせるのに十分だった。
そこでどうするかという相談。30ちょっとの住職では、やれと強く言うこともできない。ひとまず経過を関係者に伝えて、互選で決めてもらうか、無理だったら総代に一任してもらうようにしてはというアドバイス。こういう段取りは苦手なもので、たいへん勉強になった。
役員会終了22:30。長い一日だった。明日も朝から法事ですよ。

2006年6月14日

帰ったらまた

昨日は午前中火葬、午後から葬儀、帰宅してほっとしているとすぐ訃報が入って枕経。檀家数200件ほどのお寺では、こんなことも珍しい。すっかり気を吐いたので早々と就寝した。
お葬式で伴僧にいらした和尚さんからいろいろ聞く。税理士もなさっているので法人関係に明るい。
まず檀家総会をするかどうか。うちの寺では総代会(5名)、役員会(20名)を行って、檀家総会(200名)は大きな行事がある年だけ開いている。しかし「お金を集める年だけ総会をするのか」という批判もあって毎年開催も考えているが、さすがに年3回も集まるのは集めるほうも集まるほうもたいへん。
和尚さんのお寺では代議員制度を設け、総会はしないようにしているという。大和尚になる大法要では、説明のために総会を設けたが、出席したのがたった10名。それでは意味がない。
うちのお寺は現在役員会が代議員会のような役割を持っているが、それを定める文面はない。規約を作って毎年恒例のことは役員会の決議が効力をもつとしたほうがよさそうだ。
それから伴僧のお布施は帳簿にどうつけたらよいか。伴僧というのは、お寺から頼まれて葬式のお手伝いをするもので、そのお寺からお布施をもらったことにするとそれは給与になり、源泉徴収の対象になる(日雇い)。それでは頼んだほうのお寺の税務がたいへんだし、記載していなければ査察が入ったときに問題になる。
そこで帳簿には寺名・施主名と表記し、施主から直接頂くかたちをとる。そうすれば布施収入となるので非課税だ(もっとも国会で審議されている宗教法人法の改正によっては、これも課税対象になる可能性はある)。
なるほど勉強になるなあと。

2006年6月15日

客来すぎ

朝の8時から夜の8時まで来客ラッシュ。明日の葬儀の遣い、供え物届け、祭壇設営、引き出物届け、境内の草刈、境内墓地の契約、墓地の造成見積もり、墓地参道の工事、その見学、庫裏新築の下調べ、子ども会の行事打ち合わせ、宅急便……当初の予定では夜の打ち合わせだけだったはずだが。
お客様の合間を縫って境内の掃除、そして檀家さんが床屋をオープンするというので祈祷、そして明日の葬儀で使う書き物。詰め込みすぎた。体が順応すると、一仕事終えると休む気も起きず次の仕事を探してしまう(そして、仕事はいくらでもある)。危険なことだ。
境内の清掃では、初めてブロアーが登場した。ガソリンエンジンでモーターを回し、強力な風を送る機械で、落ち葉を吹き飛ばすのに使う。昨年、イチョウの葉を片付けるために購入したものだが、すぐ雪が降ってしまい未使用のままだった。
今日は今まで大汗をかいて1時間もかかって箒で掃いていたところをわずか5分という鮮烈なデビュー。葉っぱもゴミも波状に飛んでいくさまは壮観である。これからも活躍してくれそうだ。
夜は子ども会の会長さんがいらっしゃって一泊坐禅会の打ち合わせ。何年か前、近くの公民館で行われた教育座談会で私が「いかにして地域で(非親を巻き込んで)子どもを育てるか」という問題を提起したところに、会長さんが目をつけたという。おそらく当地区で初めての試みである。
私の狙いは2つあって、ひとつはいのちの教育、もうひとつはボードゲーム。
いのちの教育は近年大いに叫ばれているが、学校が政教分離のもと避けて通っている宗教なしには教えられるものではないと私は思っている。なぜなら死を通してしか、いのちの意味は分からず、死は宗教が最も深く扱っている問題だからだ。
ボードゲームは私の単なる趣味だが、外遊びもできず、テレビゲーム一辺倒の子どもたちにコミュニケーションスキルを楽しみながら身に着けてもらえればいいなと思っている。
というわけで、お寺でボードゲーム&坐禅という通常ありえない組み合わせの行事が8月に開かれる。さあ、どうなることやら。ゲームの選定とインストラクターの確保を、ぼちぼちやっていこう。

2006年7月 2日

病み上がり

火曜日の午後から頭を下げるとガンガン痛むようになり、夜には寒気と発熱になって、水曜日に医者。感染症つまり夏風邪ということで結局金曜日まで休養した。
そして土曜日、何とか回復して11:30に家族に別れを告げ、山形に向かう。荷物が多かったので高速バスで上野まで行ってしまい、新幹線に乗ることにした(いつもなら、バス―つくば―南流山―南浦和―大宮―新幹線のルート)。
高速バスは渋滞などで時間が読めないが、上野に新幹線発車15分前に到着。ちょうどよいと思いつつ、券売機にクレジットカードを入れてネット予約の切符を受け取ろうとすると……
「調整中です。しばらくお待ち下さい」ピンポンピンポン……
新幹線発車5分前。機械の隣の窓から顔を出した係員「機械がまだ立ち上がりません。もうちょっとお待ちいただけますか?」「新幹線があと5分で発車なんですけど」「すみません」
そして新幹線発車時刻。「お待たせしましたー!こちらの切符ですね」「もう新幹線行ってしまいましたよ」「……」
そして次の新幹線は禁煙席満席。切符を全部払い戻し、替わりに買った自由席券をもってトボトボと新幹線ホームへ。禁煙席ないならグリーン車ぐらいサービスしろよ!…と日本で言ったらヤクザもんである。タバコ吸わないヤクザだけど。
1両しかない山形新幹線の禁煙自由席に座るには、始発の東京にいかなければならない。東京駅で30分ほど並んで、ようやく昼食の駅弁にありついた。
新幹線が1本遅れたせいで母に赤湯まで迎えに来てもらう。帰りに100円ショップでクラッカー(引っ張ってパンというアレ)を購入する母。何に使うんだろう?
帰宅17:30。急いで剃髪し、18:00から隣のお寺との総代懇親会。大般若会当番の件でちょっと話し合ってから、4時間近く飲んでいた。病み上がりなのでウーロン茶で勘弁してもらったが、1リットル近く飲んだのではなかろうか。
会議ではこれを言うとあの人に悪い、あれを言うとこの人に悪いなどと思っているうちに発言しないまま。たとえ事実でも、いや事実だから言えないことが多い。今日は「人にあれこれ吹き込まない」をテーマに黙って人の話を聞くことに。普段は会わない隣のお寺の総代からいろいろな情報を得ることができた。スパイみたい。
―死んでいる時間のほうが生きている時間よりもずっと長い。だから、あなたと私が長い歴史の中である時間を共有したという事実はほとんど奇跡的なことである。(広井良典『死生観を問い直す』)

2006年7月 3日

平日が休日

朝からお墓でのお経読み2件。その檀家さんや工務店、子ども育成会の方がぽつぽついらっしゃって来客多めの1日となった。
睡眠不足が続いているのに、場をもたせようとして何かしゃべってしまうものだから、支離滅裂なことを言っていたような気がする。グライスの協調の原理では、
量の格率

1.(言葉のやり取りの当面の目的のための)要求に見合うだけの情報を与えるような発言を行いなさい。

2.要求されている以上の情報を与えるような発言を行ってはならない。
というルールがあるが、眠いとなかなか守れない。しかしそれはそれで、思わぬ話の展開を引き出すこともあるものだ。
明日は近くのお寺で前の住職の法事。法要の進行を司る堂行(鐘や太鼓を鳴らす係)を初めて頼まれたので虎の巻で予習した。曹洞宗は、法要の淀みない進行を殊のほか重視し、法要の途中に少しでも無駄な間を作るのはよくないとされる。進行係は法要の次第を頭に入れ、次の次まで考えておかないといけない。うまくいくといいな。

2006年7月 4日

さくらんぼ

山形は今、さくらんぼの季節だ。上野駅では毎日、新幹線改札を出たところにお店が出ている。佐藤錦(さとうにしき)が有名だが、今日檀家さんのところで味見をしたら紅秀峰(べにしゅうほう)のほうがずっと甘い。贈答品が多いこの季節、食べ過ぎて下痢にならないよう気をつけたい。
今日の午前中の先住忌は鐘を一発多く叩いてしまったが、無事滞りなく終わった。拈香法語の後、大ケイ三声の一発目をどこで入れるか迷ったのが敗因。進前焼香低頭時で正解だったが、それから行道開始前の進前では小ケイだけでよいのに、第一ケイ子までおまけで入れてしまった。修行中ならゲンコツは免れないが、今日は口頭注意。教えてもらえるだけまだ幸せか。
食事を終えて帰ると福岡のあるお寺の副住職という方から電話がある。ホームページを読んで、私が今の日本仏教の堕落ぶりをちょっと書いていたので電話したとのこと。
話によると、先日仏教会で台湾に研修旅行した際、ゴルフをしていた人がいて、それはどうかと会長に言ったらいさめられたそうで、これをどう思うかというこれまた微妙な質問だった。ゴルフに疑問をもちつつも自分も飲み屋などには行くので、戒律に背くという批判をするつもりはないけれど、まっとうなことを言ったつもりが反対にいさめられたのが不満だったらしい。
お坊さんが海外でゴルフをするのは、戒律というより社会通念上どうか、一般の檀家さん信者さんがそれを聞いてどう思うかというところで考えたほうがよいと答え、僧侶はどうしても他人に厳しく自分に甘くなってしまうから、この機会に反省のきっかけができたのはよかったのではないかとまとめてみたが、答えになったかどうか。近くに愚痴を言い合える同じ年代の僧侶がいたら、これしきのことでわざわざ山形まで電話をかけてこなくてもよくなるのにと思った。
でもホームページを開いていると、こうした新しい出会いがあるから楽しい。
先日山形市内の会社からセールス。「簡易ホームページを製作している会社ですけれどご住職様はホームページをお作りでしょうか。」「はい。」「……えっと、それでは定期的に更新もされていらっしゃいますね。」「ええ、まあ。」「それでは失礼しました。」ホームページをもっているお寺は数えるほどしかない。

2006年7月 6日

外出日

たまった用事を済ませるため、1日中外出の日になった。
午前中は川西町の宗務所に行き、責任役員変更届と財産処分申請の書類をもらう。
寺院は1件1件が宗教法人であり、宗派はそれを総括する宗教法人という二重の構造になっている。そのためたくさんの複雑な手続きがあるが、特にオウム真理教の一件以来運用が厳格化され、何かしようとするたびに膨大な書類が必要になった。
寺院では住職は代表役員ということになっているが、1人で実験を握っているわけではない。総代など檀信徒から責任役員が登録され、重要な事項は全員の印鑑をもらわないと進められないようになっている。責任役員の任期は4年。それが今年切れるので、任期満了に伴い手続きをしなおさなければならない。今年から印鑑登録証明の添付も必要になった。早めに始めなければ。
また寺院が土地を売却した場合、それがたとえ道路拡張のための提供であっても財産処分申請を宗務庁に対して行わなければならない。うちのお寺では、おそらく先代住職が昔処分した土地が国土調査で明らかになり、どこを誰に売却したか調べるところから始めなければならない。「2年ぐらいかかるでしょう」と師匠。気が遠い。
帰宅して午後からは曽祖父の五十回忌の拝請。来てほしい近隣の寺院10件ほどを訪問し、案内状をお金を添えて差し上げ、お拝をする。1つのお寺で6回、五体投地のお拝をしてくるので60回。だんだん膝がガクガクしてくる。着替えの時間を節約するため大衣を着て車を運転した。
お拝が終わったらすぐ帰って来るのだが、2ヶ寺だけ断れずお茶をご馳走になった。教区長からは私も知らない曽祖父の思い出話、布教師からは葉っぱを増やす=人間としての魅力を高めるという話を伺った。
終わったのが午後6時半。そのまま米沢のヒッポファミリークラブ(外国語サークル)に出る。いきなり大衣を着たお坊さんが乱入したので子どもたちがあっけに取られていた。フランス語で挨拶し、スペイン語を喋る。「リングアヘ」って、languageのこと? アヘアヘ、間寛平。
去年買った新車のメーターを見たら12000キロ。1ヶ月に1000キロ走っている計算だ。ガソリン代だって、1万円を超えているぞ。

2006年7月27日

ネーパール

先週に引き続きお葬式の手伝いを頼まれ、つくばから山形へ。そのまま来週明けまで山形にいることにして、家族とは離れ離れだ。ついでにいうと山形も母と祖母が北海道に旅行のため独り暮らし。
7:50に家を出て13:10にお寺に着いた。道中は『精子戦争』(ロビン・ベイカー)を読んでモヤモヤしたり、昨日のゲーム会のレポートを書いたりして過ごす。『精子戦争』読了したらレビューに書こうと思うけれど、世界観変わりますよこれ。
そんな本を読んでいたので、お葬式の進行ではうっかり変なことを口走りそうになる。「亡くなったおじいさんの遺伝子は、皆様にもしっかり受け継がれております、これを不倫してでも後世に伝え、子孫繁栄を……」ダメダメ!
お葬式が終わって、折角だからヒッポファミリークラブに出ようと米沢まで足を伸ばす。しかし今日は休み。がっくりしていたところ、同じ会場で素敵な催しを見つけた。米沢市国際交流協会が主催する国際理解講座・ネパール編というものである。
恐る恐る会場に入ると、一般当日参加OKとのことだったので喜んで聴講する。講師は米沢に嫁に来て10年というチャンダー・スレースタ伊藤さん。米沢在住600人の外国人のうち、唯一のネパール人だとか。

http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/shisei/hisyo/kouhou_yonezawa/kouhou_pdf/060501PDF/15.pdf
お名前のチャンダーは月、名字のスレースタは最良、最年長という意味のサンスクリット語。クシャトリヤ・カーストだとか。名前、名字という順番は欧米と同じなんだって。
ネパール舞踊の日本公演で来日したとき、米沢在住の旦那さんから見初められたらしい。インドやネパールなどの保守的な国で、女性が外国にお嫁に行くということは非常に珍しいと思う。事実、父親が「牛肉を食べる日本人なんかとの結婚は絶対反対!」で、父親が亡くなってからようやく結婚したのだという。ましてや米沢といえば米沢牛だもんな〜(チャンダーさんは今も牛肉どころか豚肉も食べない、食べたいとも思わないそうだが、子どもには栄養のため豚肉は与えている)。
国教がヒンドゥー教のネパール、下位カーストの友達を部屋に入れてはいけないとか、結婚相手の家系は下位カーストが混じっていないか三代前まで調べるとか、そんなのを無視して恋愛結婚でもしたら親が亡くなったとき葬式に出られなくなるとか、日本だったら人権問題になりそうなことが常識としてまかり通っている。「日本みたいに自由ない、ダメダメいっぱい」なのである。
終わって雨乞いのダンスを披露してもらい、柔らかな指先の美しさに見とれる。ネパールのサリーも(色合いがインドとちょっと違うような気がする)美しい。
それから会食。Alu Ra Anda Ko Tarkari(ポテト・エッグカレー)ネパールから取り寄せたスパイスでチャンダーさんが自ら作ったカレー、そしてチャイ。クミンの懐かしい味につられてつい3杯も食べてしまいお腹いっぱい。
そしてネパールの公用語であるネパール語と、チャンダーさんの民族言葉であるネワール語をちょっと教えてもらう。同じようなものかと思ったがこれが大違い。
「私の名前は○○です。」が、ネパール語だと「メロ・ナーム・○○・ホー」、ネワール語だと「ジグナン・○○・コー」。「私は△△に住んでいます。」はネパール語なら「モ・△△・バスツィエ」、ネワール語なら「ジ・△△・ツォナツォナ」。ツォナツォナって!
ネパール語は、ヒンディー語のベンガル訛り(アがオになる)みたいな感じで分かるが、ネワール語は別系統なのだろう。ネパール人でもネワール族じゃなければ分からないって言うんだからしょうがないか。
チャンダーさん、さすが来日10年だけあって日本語が堪能。「家サ帰ります」……やっぱり訛りますよね。
たまたま見つけたにしては最高にピッタリの催しだった。運がいい。

2006年7月30日

のど自慢

今日、地元長井でNHKのど自慢の公開収録が行われた。先月、御詠歌仲間から一緒に出演しないかとか誘われたが、「冗談でしょう」と流す。衣姿のお坊さんが何人も出てきてはNHK的にまずかろう。
毎週見ている母は、家族全員の観覧応募をして自分の分だけ当たったので見に行っていた。私はといえば朝から法事、法事、法事。
放送も見られないだろうと思っていたが、法事の後の食事で檀家さんがテレビを脇に置いていたので話をしながらちらちらと見ることができた。
のど自慢の予選は必ずしも上手な人ばかりではなくて、よく言えばヒューマニティに溢れる、悪く言えばいじれるキャラクターを必ず入れる。
高齢のお年寄りが伴奏を無視して暴走し、チャイム1つで止められるのは私が最も好きな場面。あれは、NHKが送る、高齢化社会へのレクイエムなのだろう。
だから上手い人ばかりが入るとは限らないが、それでも地元長井の人で本選に出場できたのは3人ぐらいだったらしい。「あー、あれは勧進代の○○さんの息子だ」なんて会話はほとんど聞けなかった。
家に帰った母が「民謡でチャンピオンはない」などと審査に文句を言っていた。「今のは合格だろう?!」などと文句を言いながら見るのも、のど自慢の楽しみ方らしい。
午後からは地区のお祭が2つあって祈祷のダブルヘッダー。さらにこれから懇親会もダブルヘッダーということで、お酒とカラオケを覚悟の出発。私ののど自慢がこれから始まる。

2006年8月 6日

教育か介護か

カレンダーを見ると6月最終週以来、週末はずっと法事がある。平日もたまにお葬式があるので、7月と8月のつくば:山形の滞在率は2:3である。たまにしか家にいない父に娘がなつかないのもむべなるかな。
帰宅後せっせと塔婆を書いて、夜から地元吹奏楽団の後援会長宅へ。今後のことを4時間も話し合う。
今後の方向性には2つの選択がある。すなわち地元の若者を集めてアマチュアらしく演奏活動をやっていく方向が1つ、それから一流の奏者を招き聴く専門でコンサートを興行する方向が1つ。どちらも立派な文化活動だと思うが、主役を青少年にするか老壮年にするかの違いは大きい。
青少年を主役にするのは、将来性があるが骨が折れる。仕事が忙しく、休みは独りで過ごしたい人たちにとって、同じ時間に集まることさえ難しい。そもそも若者がそんなにいない。そんな中で統率を取って、定期的に何かやっていくには相当のエネルギーが要求される。
一方老壮年を主役にするのは、比較的易しいが奉仕的である。時間もお金もある人たちにパトロンになってもらえばエネルギーは節約できるが、自分たちが楽しむより人を楽しませることが先にたつのは避けられない。そうなると、何のためにやっているのかだんだん分からなくなる。
少子高齢化と過疎化で寂れていく地方にとって、この2つの選択は音楽に限らない。教育問題と介護問題がそうだ。教育する側かつ介護する側に立つ世代にとって、どちらかでさえ一筋縄ではいかないものが両方同時に迫ってくるのは恐ろしい。
そんなことを考えたが、結局どちらかといえば後者(老壮年)を取ることになりそうだ。でもそれは住職という立場だからなのかもしれない。介護はその人が亡くなったら終わるが、供養は亡くなってから始まるものだから(現金な話)。
青少年のほうは、音楽よりボードゲームをうまく活用できないか考えている。

2006年8月 7日

ネズミ!

朝から法事とか墓経とか来客とかぎっしり。その後に明日開かれる「いまどき寺子屋体験」(坐禅&お話&ボードゲーム)の準備。何話そう?
お葬式や法事では「誰でもいつかは死ぬ。だから私もあなたも死ぬ。限られているからこそ尊い命」といって死の準備教育のようなものができるが、将来のある子ども相手にそんなこと言ってもなぁ。先祖から代々受け継がれてきた命だから大切にと言っても、親が健在なうちはそんな実感がないだろうし。
今日の法事で実験的に因果応報や自業自得の話をしてみた。今生きているのは、前世の業を清算するためなのである……と言いかけたがこれはかなり危険。お坊さんは、この理屈で社会的な差別に加担してきたのである(いわゆる「悪しき業論」)。
これでは「あなたが不幸なのは、前世で悪いことをした報いなのだ。このツボ(印鑑)を買えば……」というようなインチキ宗教よりもっとタチが悪い。因果応報の原理は現状を肯定するためのものではなく、あくまでよりよい未来を志向するものとしてのみ、適用されなければなるまい。
ひとまずお寺とはどういうところか、お坊さんとは何をする人か、どうしてお経を読むのか、なんてところから始めてみようかな。そして先祖の話から、親心という無条件の愛につなげて、生きているというそれだけで尊いことを説き、感謝の念にあふれた生活を薦めるという道筋で。小学1年生から中学生まで、どれくらい伝わるか不安だ。
話が終わってしまえば、お寺の境内を探検して、流しそうめんの昼食を取って、午後はボードゲームと何の心配もない。先日、役員さんに集まってもらってワードバスケット、キャッチミー、ニワトリのしっぽ、投扇興、カヤナック、オバケだぞ〜を一通り遊んでルールを覚えてもらった。さらにジェンガ、ブロックス、ネコとネズミの大レースなどを用意(ゆうゲームズが多い)。無敵。
ゲームではなくて現実の話だが、先ほどから部屋の中に1匹子ネズミがいる。ときどき顔を出してチョロチョロしていたが、1時間前からどこかに行ってしまった(部屋からは出ていない)。寝ている間に耳をかじられたらヤだな。

2006年8月13日

お盆だよ全員集合

先ほど棚経から帰ってきて、お盆の初日が終わる。朝は墓経、帰ってお盆参り客の接待、午後から合同法事、お墓参り、そして棚経と、例年通りの幕開けである。昨日の睡眠時間は3時間だったが、何とかもってよかった。
お墓参りは歴代住職の墓前でお経を読みながら、お寺が始まって540年の間、お寺を守ってきた32人の住職(私で33代目)の積み重ねに思いを致す。
32人の住職で、今生きているのは1人もいない。それぞれの時代を生き、仏法の灯火を受け継いできた面々。私は彼らからものすごく重いものを背負わされている気がした。やがて私も名を連ねたとき、誰がここでお経を読むのだろう。
私たちのいのちは、過去から現在、未来へと向かういのちの流れにある。それを体感できる機会がお盆だ。お墓参りで行き交う近所の人と笑顔で挨拶をかわす。
棚経は、江戸時代に檀家がキリスト教に改宗していないかチェックするための検査だったらしいが、今は檀家さんとのコミュニケーションの場となっている。だからお経3分、お話30分(その代わり全部の檀家を回らない)。
総代の家では何はなくとも今進行中の案件の相談や打ち合わせになるもので、話をしているうちに頭を整理することができた。本堂で使う椅子のこと、地区の墓地の管理のこと、総代の交替時期のこと、今度の先住忌のことなど。
いつもだと14日は法事5件、棚経10件ぐらいだが、明日は法事3件と少なめ。

2006年8月14日

お盆2日目

昨日はたっぷり寝たので充実。午前中に法事3件、午後から棚経15件ほど。
8月14日といえばかつては最も法事の多い日だった。お盆のお墓参りをした翌日、遠くの親戚が一堂に集まり、明日からは神社のお祭もある。
それが今日は3件で拍子抜け。考えてみると月曜日で、若い人は地元でも働いている人が結構多い。何人かに聞いてみるときちんとお盆休みを取る会社のほうが少ないように見えた。
農業から会社勤めという労働事情の変化に加え、「お盆休み」から「夏休み」への変化で、お盆に家にいるのはご先祖様だけという家が増えている。そんな留守がちの家に帰ってきたいものだろうか。
法事では盂蘭盆経を全員で読んだ上でお盆=盂蘭盆の起源をサンスクリット語ウランバナ(????????)音写説、中国の盆起源説、イラン語のurvan音写説に分けて説明し、いずれをとっても現在の行事には謂れがあること、そしてその意義は親孝行にあることを説いた。
どんな行事も惰性でやっていてはやがて滅びる。時々意義を確認する必要があるだろう。
棚経読みで一件、中国人のお嫁さんが留守番をしていた。「お経読ませてください」「お父さんいない、分からない」しばらく中国に帰っていたせいか日本語がいまひとつ通じていない。どしどし上がってお経を読ませていただく。
お経を読んでいる途中、子どもがしきりに「チェー是什マ?(これ何?)」とお母さんに聞いているので、終わってから中国語で話かけてみる。「什マ時候回来了?」「わからない」「我説漢語、什公時候?」「…!、昨天!」「為爺々我念了仏教経、明白了?」「明白。」「在中国也仏教??」「不是…」久しぶりに話す中国語だがどうにか会話になっている。喋っている間、子どもがいたずらをしてきた。「很可愛。」「可愛?ウルサイ」「在漢語ウルサイ是什マ?」「ホワンイン」「児子都ホワンイン」
ときどきアッチャー(ヒンデ