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      <title>寺日誌</title>
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         <title>『冥途の旅はなぜ四十九日なのか』</title>
         <description><![CDATA[表題の答えは現世と来世の間にある世界を七日間ずつ七回さまよって、七回の審判を受けるからで、なぜ七なのかといえば七曜ということと、七という数字は素数で縁起がよいという説明がなされている。 

中陰四十九日説の由来は、『阿毘達磨大毘婆沙論』（インド、2世紀ごろ）第七十で設摩達多という人の説として「中有極多住七七日。四十九日定結生故。」という文言に由来する。ほかにも七日以内という説と無限という説が挙げられている。ここでも根拠述べられていない。インドでも時間のひと区切りであった七日を適用したものという説明しかなさそうである。 

とはいえ、後世には冥土の旅の絵解きなども作られ、死者が三途の川を渡って地獄極楽めぐりをするという観念が一般化しているので、それと四十九日を重ねて説明を試みてもよかったのではないか。 

仏教にはとてつもない広さや長さがあるのを数学的に分析したくだりは面白い。お釈迦さまの守備範囲である一仏土は、小世界十億個分で、小世界を太陽系くらいの広さと仮定すると、一仏土の幅は100万光年。さらに西方浄土は十万億仏土なので、1000京光年の遠くになるという。 

天人の寿命は500歳だが、天界の1日は人間界の50年にあたるので、人間で言うと9125000歳。しかしこれは天界でも下のほうの下天の話で、もう少し上の兜卒天は、1日が人間界の400年にあたり、天人の寿命は4000年に延びる。人間で言うと5億7600万年である。ここに住む弥勒菩薩が人間界に現れるのが、釈尊入滅後56億7千万年といわれており、1桁違うがだいたいこの計算に合致する。 

「劫」という時間の単位は、実際何年かを考察してもらいたかった。天女が百年に一度、羽衣で7km四方の石を軽くひとこすりして、その石が摩擦でなくなるくらい、または7km四方の箱に芥子の実をつめて、百年に一度一粒ずつ取り出し、全てなくなるくらいが一劫である。 

本に書いていないので自力で計算してみる。すりきれのほうは定量的な評価ができないが、芥子の実の直径を0.8mmとすると、体積は8立方mm。7km四方の箱には4287京5000兆個入るから、一劫はその100倍で42垓8750京年ということになる。 

世界は20劫ずつ成・住・壊・空の段階があり、合計80劫で1サイクルとなる。現在は住劫の第9劫だそう。仏教の尊い教えは、百千万劫に1度会えるかどうかだという説き方があるが、その長さを年で表したら、428穣7500ジョ（のぎ編に予）年となる。お釈迦様の教えに行き会うまでいったい何回生まれ変わって待っていなければならないのか。 

仏教由来の単位である恒河沙、阿僧祇、那由他には30桁くらい足りないが、宇宙ができた137億年前、地球が誕生した46億年前なんていうのはごく最近の話という気がしてくるから面白い。 

ほかに大仏の黄金比や、百八つの煩悩の計算など。こじつけに感じる説明もあるが、仏教のいろんな数字に着目して整理した本として面白く読めた。
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         <pubDate>Wed, 10 Mar 2010 11:51:18 +0900</pubDate>
        
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         <title>『日々是修行 現代人のための仏教100話』</title>
         <description><![CDATA[朝日新聞に2年間にわたって掲載されたコラムを加筆修正したもの。初期仏教の思想を、現代の生活に即して紹介する。著者は花園大学の教授だが、空理空論に走らず、また抹香臭い説教にもならず、日常の言葉で語っているところがよい。 

インドの仏教では当初、肉食と殺生は切り離して考えていた。生き物を殺さないようにして暮らしつつ、お布施はありがたく頂かなくてはならない。しかし一部の仏教徒が肉食しなくなったのは、インド社会の「肉には穢れがある」という考えに影響されてのことだという。それでは「差別の沼に足を踏み入れている。」 

お寺は、野宿で暮らす修行者を気の毒に思う人が建てたのが始まりである。今も、お寺に固定資産税がかからないのは、公共物だからであり、仏道修行という業務、誠実さという家賃を怠ってはならない。建物だけは立派なんてことになっていないか。 

仏教は本来、非社会的な宗教であり、世間の片隅で悩む人たちをそっと受け入れてきた。お釈迦様が、自分の出身の一族が滅亡させられてしまうが、政治的にも軍事的にも抵抗しなかった。それは「仏教は政治に関わることができない」というメッセージだという。 

その一方で、社会に迎合してしまう危険性がある。日本中の僧侶がこぞって戦争協力をしたのは、当時の善意でもあっただろう。この「宿命的板挟み」には、自分の考えが絶対正しいと思わないことと、仏教がもつ独自の世界観を失わないことで正しい判断を心がけるしかない。世界平和だって、ときに全ての人の幸福になるとは限らない。 

宗教の実体は、資金調達と使途、決定システム、一般社会からの批判に対する対応、政治へのかかわりの4点が注意点である。ありのままに社会に向かって公開できているか。不都合なことは隠していないか。 

仏教の3つの柱に入っている「僧」とは、集団としての僧である。集団生活には、雑事に時間をとられず、病んだり老いたりしても支えてもらえる相互扶助システムがある。僧侶は、みんなと力を合わせて修行に専念していることによってのみ、敬われる存在になるということだ。 

慙愧＝良い人を敬い、至らぬ自分を反省するのはとてもよいことであるとされる。劣等感も、心の大切な栄養であるという。傲慢になって地道な努力をやめてはならない。 

仏教では自業自得ということをよくいう。でも著者は「そうやって批判する人は、今苦しんでいる人たちの、苦しみの原因を、きちんと論理的に説明できるのか」と反問する。社会の巡り合わせまで考えることが必要であり、因果応報を誤ってはならない。 

「お坊さんの価値」は、新聞連載時から気に入っていた一節だ。お布施の適正価格が決められないのは、僧侶の「姿や言葉」に対して払うものだからである。金額を、お布施をされる側が決めるのはおかしいことなのだ。 

お釈迦様の遺言に「自灯明、法灯明」と2つあるのは、どちらか一方ではいけないからだと著者は考える。前者だけでは独りよがりになり、後者だけでは盲信になってしまう。「一見修行しているが、実際はパターン化した儀礼を繰り返すだけ」というのは鋭い指摘である。 

ほかにも輪廻、自殺、科学、悟り、言葉など興味深い問題が続々。どの章を取っても、自分に当てはめてあれこれ考えたくなってしまう。折に触れて思い返し、考えていきたいことばかりである。
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         <pubDate>Tue, 09 Mar 2010 20:19:33 +0900</pubDate>
        
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         <title>朝の日課</title>
         <description>長女が小学校に入って早いもので1年。ようやく朝のスケジュールが固まりつつある。 

6:20　起床　長女を起こす・着替え・洗面 
6:30　テレビ体操　お湯を沸かす・PCでメールとmixiのチェック 
6:45　朝食を作る　長女は朝読み・髪とかし・テレビ 
7:10　朝食を出す　仏様に食事と水・お茶をあげて朝のお勤め 
7:30　長女登校　朝食を食べる・新聞を読む 
8:00　次女・長男起床　朝食を出す・洗濯もの干し 
8:50　長男登園　バス乗り場まで送り 

子供の起床時間や機嫌はイレギュラーなところもあるが、ルーティンワークになるとあまり忙しさは感じない。近所の勤め人は8時始業だから、それと比べるとだいぶ余裕がある。 

妻と母はそれぞれ次女・祖母の世話のため夜が遅く、だいたい7:10頃から登場。子供と一緒にご飯を食べてもらったり、次女にご飯を食べさせたりするほか、洗濯もの干しや長男の送り、日によって弁当作りをする。 

9:00から16:00は仕事がなければだいたい自分の時間（次女の世話は妻任せ）。勉強にしろ、ブログ更新にしろ、翻訳にしろ、ほとんどPCの前にいる。運動不足になるわけだ（朝のテレビ体操をしているのは長女だけで、私はメールのチェックをしながら部分的にやるだけ）。 

来月からは妻がいなくなり、次女が保育園に通い始める。もう少しタイトなスケジュールになりそうだ。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/03/post_663.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 09 Mar 2010 08:41:00 +0900</pubDate>
        
      </item>
            <item>
         <title>法事札</title>
         <description>お正月に、お寺では今年法事が当たっている方の法事札を張り出す。いつから始まったのか分からないが、近隣の寺院はどこでもやっていることであり、珍しいものではない。 

どこのお寺もそうだが、法事札には戒名、俗名、享年、地区、現在の当主、続柄、回忌年数などが記されている。お正月に年始にいらした檀家さんは、これを見て今年自分の家で法事がないかを確かめる。法事が終われば住職がその分をはがし、1年かけて少しずつ札がなくなるという仕組みだ。 

この法事札、個人情報保護の観点から問題があるのではないかということが数年前にあった。でもそのときは、全員に承諾を得る必要はなく、掲示拒否の申し出がなければ掲載してかまわないという通知が出された。 

しかし、去年になって、掲示拒否の申し出がなくとも、法事札の掲示は望ましくないという見解を本庁で聞いてきたという方がいた。理由は相変わらず個人情報保護だったが、どうも法事をしない人の急増が背景にあるのではないかと思っている。 

お坊さんを呼ばないでお墓参りだけとか、そもそも法事をしないとか、そんなかたちが増えているらしい。いわゆる寺離れである。確かに、意味の分からないお経を読んで、檀家さんとゆっくり話をせずにすぐ帰っていくお坊さんには、ありがたいと思う暇もないし、お布施のし甲斐もない。 

今はお葬式もお坊さんを呼ばないで行う人が増えているのに、まして法事で呼ぶはずもない。お坊さんが法事に呼ばれなくなれば、お寺に法事札を貼っておいても仕方がない。 

田舎ではまだましである。法事をしないと、法事札はずっとお寺に貼られたままになる。これが田舎では無言の圧力になることが多い。残された法事札を見た本家や親戚が、早くしろよと忠告するからである。 

お寺としてはそういって促してもらえるのはありがたいが、一歩間違えると、世間体のために法事をするというような話になりかねない。そんな法事は早晩形骸化する。無言の強制力で、施主家の自主性を失わせ、法事を形骸化させる恐れが、法事札の掲示にはあるかもしれない。 

お寺がお葬式や法事ではもう成り立たない時代が近づいている。しかし今一度、法事は何のために行うのか（もちろん、亡くなった人の祟りを恐れてなどでは決してない）を説明するとともに、やってよかったと思われる法事にしたいと思う。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/03/post_659.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 08 Mar 2010 23:39:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>パーリ文法学</title>
         <description>インド留学中にサンスクリット文法学を教わっていたマヘーシュ・デオカール先生が来日し、東大で講演会を開かれるというので聴きに行ってきた。副貫首の選挙の仕事が終わってすぐ長井線に飛び乗り、夕方には東大へ。 

上野から東大構内行きのバスに乗り、第二食堂前で降りる。生協書籍部に立ち寄り、哲学と宗教学のコーナーで立ち読み。そして法文二号館まで歩く―いつものコースだが、久しぶりで懐かしい。 

マヘーシュさんは、全盲の天才文法学者である。パーニニという紀元前の文法学者が作った4000近いサンスクリット文法の規則を暗記しており、しかも専門はパーリ文法学。現在、プネー大学のパーリ学部長を務めており、サンスクリット学部を上回る100人以上の学生を受け持っている。実は私より3つしか年上でないことを今回知った。 

私がインドに留学した折、先に留学していたIさんの紹介で授業に出席した。カーラカという、サンスクリット語に七つある格の使い分け方についての講読だった。大学はすぐ休みになるので、日本人3人で自宅に押しかけたり、逆にお招きしたりして講読を続け、ずいぶんお世話になったものである。私が最初に師事した先生が多忙でかまってもらえなかった時期は、図書館でも文法学ばかり勉強していた。 

さて演習室に着くと、マヘーシュさんの子供たちがマラーティー語で騒ぎながらホワイトボードに落書きしている。私が帰国してから生まれたサンバル君はもう4歳。うちの長男と同じ年である。プロジェクターの明かりに照らされて、得意げに演説を始めたが、お母さんに抱えられ悲鳴を上げながら出て行った。長女のサユリちゃんはもう10歳で、英語もよく話す。講義を聴きに来たのは先生を含めてたったの8人。いくらマイナーな分野とはいえ勿体なさ過ぎる。 

講義の内容は、非パーニニ系統のサンスクリット文法学やパーリ文法学の概要と、文法学の目的について。テクニカルで複雑なパーニニのシステムに対し、後世になって分かりやすい文法学が生まれた。カータントラ派とチャンドラ派である。術語を用いず、例外的な規定を削って規則を減らし、各章で完結し、ヴェーダ語を収録しないことで、一時はパーニニよりも人気を博した。仏典と共にミャンマーやチベットまで伝播したという。 

同じ時代、パーリ文法学も生まれた。カーッチャーヤナ、サッダニーティ、モッガラーナの3系統があり、後代になるに従って改良が加えられ、サンスクリット文法学の影響も見られる。 

サンスクリット文法学のもともとの目的は、バラモン教の柱であるヴェーダ聖典の理解と正しい読誦のためである。ヴェーダには祭式の次第や由来、そこで唱えるマントラが記されている。祭式を聖典通りに行い、マントラを正しく発音できなければ、バラモン教の司祭としては失格である。そのために文法学を勉強する必要があった。さらには、サンスクリット語を理解するバラモン階級の社会的アイデンティティにもなる。 

しかし主流派のサンスクリット文法学はやがて、自己目的化していった。文法学を学ぶこと自体が真実を知るということであり、解脱の道であるという人が現れたのである。そこから言語自体が究極の真理であるとか、言語なしには思考もないという言語哲学も生まれる。日本の言霊信仰や、ヴィトゲンシュタインの言語哲学のようなもので、ヴェーダの文言を究極の真理とする一派と共に、インド哲学特有の思想を形成している。 

これに対しパーリ文法学は、あくまで仏陀の言葉を正しく理解するための手段と位置づけられた。大事なのは言葉ではなく仏陀の意図であり、経典に説かれた内容を理解することで涅槃を目指す。非主流派のサンスクリット文法学も事情は同じである。中世からは多くの仏教書がサンスクリット語で著作されており、マスターしやすい文法書が求められたのだろう。今の日本でいうと、辻直四郎では難しすぎるので、ホンダ（ゴンダ）が使われるようなものか。 

質問では、サンスクリット語がバラモンのアイデンティティになったように、パーリ語が仏教徒のアイデンティティになったということはないかを尋ねた。インド留学中、仏教を信奉する被差別部落を訪れ（仏教が一端絶滅し、東南アジアから逆輸入されたインドでは、ヒンドゥー教の階級社会からはみ出した被差別階級が仏教を信奉しているという事情がある）、仏教徒なのになぜパーリ語ではなくサンスクリット語を勉強するのかと詰め寄られたことがある。しかし中世には仏教はサンスクリット語で研究されており、サンスクリット語＝バラモン教、パーリ語＝仏教という単純な二分法ではないようだ。もっとも、現代ではサンスクリット語＝大乗（北伝）仏教、パーリ語＝上座部（南伝）仏教という相克があるのかもしれない。 

講義が終わるともう20時。戻ってきたマヘーシュさんの家族と一緒にそのまま演習室でテイクアウトのインド料理を食べた。上野泊。今日は6時18分発の朝一番の新幹線で帰り、10時から写経教室である。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/03/post_658.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">India</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 05 Mar 2010 13:10:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>副貫首選挙</title>
         <description>今日は本山の副貫首選挙の投票日で、立会人をしてきた。副貫首は次期に禅師（本山の住職）となる重要な役職である。同じく選挙で就任された善寶寺の方丈さんが昨年遷化されたため、その後任を決めるための選挙ということになる。 

僧侶の世界では根回しが徹底されるせいか、無投票になることが多く、選挙は珍しい。毎日のように両陣営から手紙や葉書が届いたが、今回は誹謗合戦にならなくてよかった。前回は、これが本当に僧侶の書いたものかと思うような見苦しい誹謗もあった。 

この選挙、国政選挙のように本格的で驚いた。投票箱に何も入っていないことを確認して施錠。鍵は封筒に入れて押印する。選挙人名簿を参照し、投票用紙を渡して投票受付。投票終了後、投票箱は紙の帯で封をしてまた押印。余った投票用紙は本庁へ簡易書留で返送。そして立会人とともに開票所に届ける。報告書を提出し押印。さらにここから別の立会人のもと開票作業が行われ、結果が本庁に報告される。本庁は、投票数と残票数を足して、発行数になることを確認した上で有効になるという。 

これが今日、全国一斉に行われているのである。事務費用のほか、立会人には日当も出る。果たしてそこまでかける意味はあるのかとは思ったが、ダライラマのように、亡くなった禅師の生まれ変わりを見つけて、その子を育てれば……とはいかないか。 

開票所から直接長井線に乗って都内へ移動。夕方からは大学で講演会がある。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 21:43:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>今日の勉強</title>
         <description>勉強することが珍しくなくなるまで、しばらくこのタイトルで。 

ムンバイ版との照合作業は7/60。夕方から始めたのであまり進まず。 

8日に送る日本印度学仏教学会発表の発表要旨をささっと作成。ゲーム的にものを見る癖がついているなと実感した。まあ、古代・中世インドのディベートにもルールがあるわけで。 

今日はあと『ボードゲーム・ジャンクション』の書評と『哲学としての仏教』のレビューを書いたり、ドイツ人の原稿を翻訳したりと、ずっとPCの前。 

明日は午後から上京して夕方の講演会に出る。『今回の講演会では、日本ではなじみの薄い非パーニニ系の文法学諸派の特徴と、パーニニ系及び非パーニニ系諸派における「文法学の目的」に関する哲学的議論についてお話いただく予定です。』という案内だったが、どこまでマイナーな話になるか楽しみである。 

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学会発表要旨 
六主張論議（SaTkoTika/SaTpakSin）は、仏教徒とニヤーヤ学派が取り上げる議論の形式で、『廻諍論』、『方便心論』、『ニヤーヤスートラ』（2〜3世紀）に収められている。立論者と反論者が、対立する主張と反論を交互に3回ずつ提示するもので、『ニヤーヤスートラ』では両者ともに敗北し、『廻諍論』と『方便心論』は反論者の勝利と判定している。 

ニヤーヤ学派で両者ともに敗北と判定されるのは、他説追認（matAnujJA）と繰り返し（punarukta）という2つの敗北の場合に該当するからだが、ウダヤナ（1050-1100A.D.）は著書『ニヤーヤ・パリシシュタ』において新たに詳細な解説を加えた。その中で、三主張論議・四主張論議・五主張論議もありうることを述べ、数が増減する理由を、立論者と反論者のほかに、討論の主審と、通常は発言権のない会衆の出番に求めた。敗北の場合に該当することを指摘するべき人が指摘しなかった場合、論議は延長され、次に指摘するべき人の出番になる。 

さらに、勝敗ではなく真実を追究する議論では、主審がいなくなり、立論者が自ら訂正する場合が想定される。勝敗を競う議論で自論を訂正したら、その時点で別の主張（pratijJAntara）という敗北になってしまう。 

このように、古い伝承を、実際の議論の場面に当てはめて解釈しなおしたウダヤナの独創性を提示するとともに、当時の議論のあり方を討論会の次第や役職と合わせて見直す。</description>
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         <pubDate>Wed, 03 Mar 2010 19:29:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>『入門 哲学としての仏教』</title>
         <description><![CDATA[存在・言語・心・自然・絶対者・関係・時間という7つのテーマについて、仏教哲学の考え方を提示し、近代合理主義やポストモダニズムなどの西洋主導の哲学に対して新しい見地を見出そうとする書。 

説一切有、唯識、禅、如来蔵、華厳、多仏、縁起、中観などの仏教哲学の粋を集め、その現代思想的な意義を模索する。 

例えば五感の世界には物はなく事しかないのに、言葉が適用され、それが潜在意識に蓄積されて、世界を構造化するという唯識思想をもとに、言語で固定化された世界を解体する。これがいわゆる「不立文字」「教外別伝」であり、その上で坐禅や禅問答によって、高次元な問答や詩的言語に移行し、真実を語ろうとする。そう考えれば、禅と密教は遠いものではない。 

また善意でさえも自我への執着から生まれているのに、善を実行し続けるのは、自覚的な選択によって、我執にとらわれた自我を変えていく。これが修行である。 

天台における「草木国土、悉皆成仏」の論理は面白かった。釈尊と我々が住むこの世界は別物ではないから、釈尊が成仏した以上、この世界も成仏したといわなければならない（「依正不二」）。そこから自己の身心と自然の同一を見る。ほかの理由は本覚思想が色濃いが、釈尊によって成仏させられた世界に私たちが生きているという世界観は示唆に富んでいる。 

道元の而今という時間論も分かりやすい。永遠の今以外に時間はなく、そこに立てば、老いることも死ぬことさえもない。生きている限りは、死なないし、死んだらもう死なないからである。やや詭弁がかった言い回しにも聞こえるが、坐禅の中で体得される覚悟というものだろう。 

入門と題しながら難解な専門用語ばかりなのと、仔細な比較なしに、西洋哲学と比べてやたら「モダンではないか」というのは鼻につくが、その西洋哲学者を紹介していて知識が増えた。哲学だけで現代社会にはたらきかけるのは難しいだろうが、少なくとも仏教が現代を分析するひとつの道具になりうることを、本書は確かに示している。
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         <pubDate>Wed, 03 Mar 2010 14:59:54 +0900</pubDate>
        
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         <title>今日の勉強</title>
         <description>後輩の結婚披露宴から帰ってきて、まだ熱意が冷めていないので勉強した。ファイルの最終アクセスが2007年3月だったので、実に3年ぶりで手をつけたことになる。印刷した訳注を探すのに30分くらいかかってしまった。 

ちなみにインド留学中に、A4で200ページほどのテキスト校訂と訳注を作っており、そのまま博論にするつもりだった。だが先生に見せたら、もっと解説を入れるようにとの指示が出た。そこで序文を書き始めて、いろんな本を読んでいるうちに、執筆が完全に止まってしまったという次第。 

今日の勉強は休んでいる間に刊行されていたムンバイ版（K.ジャー編）とのテキスト照合。4/60ページくらい。系統としてはマドラス写本・ティルパティ版で、コルカタ版を適宜参照したようだ。コンピュータ製本で読みやすい。ヒンディー語の序文が15ページほどあるので読んでみよう。今月中に照合が終われば、あらためて博論に取り掛かることができる。 

あとそれから9月の学会申込が来週8日までなので、それまでに発表要旨を作る。8年ぶりの発表となる今回は、ウダヤナによる六主張論議と審判・会衆の役割について発表してみたい。 

さらに今週の木曜日には、インド留学中にずっとサンスクリット文法学を習っていた先生が東大にいらっしゃる。上野に1泊して聴講する予定。 

あの結婚披露宴がきっかけで、一夜にして研究者に戻ったのは不思議なことである。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/03/post_657.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 02 Mar 2010 18:38:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>後輩の結婚式</title>
         <description>都内で行われた大学の後輩の結婚披露宴に出席した。新婦も同じ研究者で知り合いだったため、2倍楽しい宴会だった。 

挙式の報告、新郎への祝辞、新婦への祝辞、乾杯はみんな大学の先生。破我品とか、真知論とか、プラマーナとか、聖典解釈学とか、遠慮ない専門用語が飛び交う。4人でまる1時間、講義を聞いているかのよう。 

ちなみに式は文京区音羽の護国寺で挙げてきたという。ちょうど今読んでいる本の中で、徳川綱吉の母が帰依して作られたお寺だというのを読んでいたところ。真言宗豊山派の本山の1つである。すごい人脈（法脈？）だ。 

皇居を窓の下に見下ろす絶景の中、和やかに式は進行した。私のテーブルはインド哲学の先輩方がずらりと並び、合宿までして1日中文献を読んでいたころが懐かしくなった。 

結婚式に呼ばれることはずいぶん少なくなったが、以前は悲壮感を抱くことが多かった。家庭という重荷が増えて、親戚づきあいも2倍になり、お互いに自由を奪われるのはたいへんだろうなとか、出会いがあれば別れあり、いずれにせよ死別するのにとか不謹慎なことを思っていた。だが、今日はあまりそう感じなかったのは、新郎新婦の明るい性格のためかもしれない。しばらく関東にはいないようで、大学やお寺のしがらみから自由でいられるのも安心だろう。 

その後お茶を飲んで2次会。その間にいろいろな人と喋っているうちに、一休みしている博論に着手したいという気持ちがむくむくとわいてきた。 

環境がないと勉強し続けるのは難しいだろうと言われ、独りで勉強し続けるというのは実にチャレンジングなことなのだと思うと、やる気が湧いてくる。関西の先生が私なんぞに期待しているという話を聞き、インド留学仲間は学会発表を勧めてくれた。同輩も、自分の研究分野の関係で私の研究成果を聞きたいという。そして指導教官からは「今年中に！」とダメ押し。 

こんな怠惰な自分を目にかけている方がいると思うと、本当にありがたい。博士号を取っても今の世の中、お金やポストが付いてくるわけではない。でもこんな先生や仲間たちのために書くのは、悪くないことだと思った。 

振り返ると、つくばとの往復生活がなくなった山形生活は、ずいぶん自由時間がある。除雪はしてもらえるし、お葬式は月に1〜2回だし、法事も冬場はお休みである。子供たちが登校・登園すればあとは夕方まで何もない。そこで今はその自由時間のほとんど全てをパソコンに向かい、ボードゲーム関係のブログ更新や翻訳をしているわけだが、博論を書こうと思ったら時間は十分取れる。どこかに勤めている人からみれば、非常に恵まれた環境なのに、生かしていない。 

勉強と仕事を両立させよう、そんな決意が急に生まれた1日だった。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/02/post_656.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 27 Feb 2010 22:56:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>日本舞踊を習う</title>
         <description>2年に1度行われる、宮城・山形・福島の合同御詠歌講習会。夜の懇親会では、各県別に出し物を披露することになっている。前回は腹踊り、前々回はパラパラだったが、今回は日本舞踊となった。 

直江兼続の踊りがあるというので、天地人がみんなの記憶に残っているうちにしようと話は簡単にまとまった。ところがその踊り、かなり本格的なもので、米沢で一番という高名なお師匠さんが教えにいらっしゃった。普通、素人はお習いできないような方なのだが、お寺の奥さんの口利きで教えていただくことになったという。 

はじめはお辞儀の仕方と、扇子の開閉から。あまりに本格的で、みんな引きまくるが、真剣な先生を目の前にしてもう引き返せない。1回目は、ちんぷんかんぷんのまま終わった。中腰の姿勢が多く足が筋肉痛になるほど。 

2回目は、先生のお宅に代表が行ってお習いし、ビデオに録画してきた。3回目はそのビデオを見て自主練習。そして迎えた4回目。3時間みっちりお習いし、「足は斜め！」「扇子の持ち方が逆！」と叱られながらようやく、滞らないで一通り踊ることができるようになった。 

踊りの世界も奥が深い。指先のかたち、回転するときの足の運び、扇子の持ち方など、やればやるほど課題が増える。でも先生によれば一番大事なのは視線なのだとか。全員が同じ方向を見ているときに、ひとりだけ別方向を見ると浮く。これは皆で行う法要にも言えることかもしれない。 

和服姿の先生のお手本は、まるで日本人形が踊っているようで見とれる。この道は言葉ではない。何年もかけて少しずつ芸を盗んでいくんだろうなと、未知の世界に思いを馳せた。</description>
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         <pubDate>Thu, 25 Feb 2010 19:20:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>何もない日曜日</title>
         <description>雪国では冬になると雪に閉ざされて墓参りができないので、4月まで法事はない。なので割と余裕のある週末を送っている。とはいえ、友達を集めて遊ぼうにも、猛吹雪で視界0mだったりするので、夏ほど集まりやすくもない。 

そんなわけで今日は仕事も遊びもない日曜日。朝食を作りながら、子供たちとテレビを見る。 朝食が終わって、スキーに行く予定だったが長女が「キャンセル」というので長男と外で雪遊びを始める。軒下に積もった雪に穴を開けてかまくら作り。その間、長女はずっと読書。 

新しい戦隊シリーズの『ゴセイジャー』は先週始まって、長女が気に入ったらしく、ひそかに公式サイトの掲示板に書き込んでいた（書き込んでいるところを見られて慌てて隠していた）。 

ありがとう. 
あき／７才／女性／2010年02月16日 
7歳の私に，希望を与えてくれそうです．ありがとうございます．「とにかく，やってみないと．　やってみないと始まらないから．」 

…だって。いつの間にローマ字入力を覚えたんだ？　第2話は、途中から本なんか読み始めてしまってもう飽きている様子。

午後から長女の音楽教室と、母のママさんスキーがあって長男も一緒に送迎でお出かけ。合間に買い物をしたり、時間つぶしで本屋やおもちゃ屋さんで過ごす。 

先日、プラレールの「自動ターンアウトレール」というのが売られているのを発見して、長男の「トミカとプラレールの街セット」を拡張したいという気持ちがむくむくと湧き上がってきた。そのためいろんなセットを吟味。でもプラレールって高いのね。帰宅してプラレールのサイトでレイアウトを研究する。それともうひとつ、ベイブレードってすごく流行っているようで、これまた帰宅して調査。面白そうだけど高いな。

そんなふうに遊ぶことばかり考えて過ごした1日だった。夜は祖母の満88歳の誕生日だったので、ちらしずしとケーキでお祝い。子供たちと一緒に寝たが、「睡眠時間が長すぎると寿命が短い」というニュース記事を思い出して起きてきた次第。この頃子供たちに合わせて9時間睡眠になっているダメな大人である。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 21 Feb 2010 23:04:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>般若心経の私訳</title>
         <description>地区で開かれている写経教室で、写経の前に般若心経の解説を行っている。45分ずつ3回行っているから、あわせると2時間以上にもなる。できるだけ分かりやすいよう、それでいて正確であるように努めているが、これが実に難しい。 

以前、講演で十二支因縁の説明を試みたことがあったが、さすがお釈迦様も説法をためらったほどのもの、聞いている人の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶのが見えるかのようだった。 

最後に、出席者から、般若心経を分かりやすく今の日本語に訳したものがほしいと言われた。いろんな人の訳があるが、梵文も参照しながら自分の言葉で翻訳してみた。 
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観音さまは、お釈迦様のそばで仏教の奥義を修行して、私と呼べるものは何もないのに、何かあると勘違いするから、何もかも苦しみになってしまうのだと悟った。そこで修行僧代表の舎利子に尋ねられて、次のように答えた。 

「舎利子よ。まず私たちの身体は実体でない。実体でないものが身体である。同じように、私たちの感覚・印象・意志・知識も実体でない。舎利子よ。この世の全ては生まれたり、死んだり、汚れたり、きれいになったり、増えたり、減ったりしない。だから、私たちの身体・感覚・印象・意志・知識もない。私たちには見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったり、思ったりする器官もないし、逆に見られたり、聞かれたり、嗅いだり、味わわれたり、触られたり、思われたりする対象もない。見える世界から思う世界まで、何もない。煩悩もないし、煩悩を断つということもない。そのため老いや死もないし、老いや死がなくなるということもない。苦しみも、苦しみのもとも、苦しみをなくすことも、なくすための修行もない。知ることも得ることもない。 

得るものがないから、菩薩たちはこの仏教の奥義によって、自由な心でいられる。心が自由だから、恐怖もなく、迷いもなく、永遠の平安を極めている。また、過去・現在・未来に成仏した方々はみな、この仏教の奥義によって、最高の正しいお悟りを開かれたのである。 

だから知っていただきたい。仏教の奥義とは、偉大な呪文のことである。悟りの呪文であり、最高の呪文であり、ほかに比類なき呪文である。全ての苦しみをなくし、必ず効くので真実なのである。さあ、今、仏教の奥義である呪文を教えるのでこれを唱えなさい。 

ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー。」 
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こうしてみると、般若心経は結局、真言宗のお経だということが分かる。禅宗にも密教的要素がないわけではないが、坐禅しないで（あるいは坐禅中に）真言を唱えていればよいという指導はしない。 

そういうこともあって、独りでする朝のお勤めは般若心経を読むが、法事では慈経に差し替えている。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/02/post_653.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Buddhism</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 18 Feb 2010 17:53:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>次女1歳</title>
         <description>2月15日、お釈迦様の命日とされる日が次女の誕生日である。早朝の4時35分。前日の夜に呼び出されたときはワクワクしながら凍結した348号線を走ったのを思い出す。 

誕生日の５日前から長女がカウントダウンカレンダーを作っていて、その最後の１ページが、家族６人が拍手している絵だ。当日のスケジュールも長女が希望して、カラオケに行くことになった。 

前日はお寺の新年会で帰宅は午前様。お酒は飲まなかったが、タバコの煙を吸いすぎてぜんそくが悪化し、わき腹が痛くてろくに眠れない。「明けない夜はない」なんてウソだ。夜中に死んでしまったら明けないぞと、このごろよく思う。 

その上当日は朝から写経教室で講演、午後から会議があり、夕方には車の運転もできないほど疲労困憊した。それなのにカラオケに行ったのは、子供たちを喜ばせたい一心だったからに違いない。 

カラオケは長女の「ハッピーバースデー」でスタート。でもその後には「嘆きのボイン」（月亭可朝）、「うぐいすだにミュージックホール」（笑福亭鶴光）、「哀愁のジンマシン」（コント赤信号）などが続く……子供の前で歌う歌じゃないな（子供たちはシンケンジャーや仮面ライダーの歌を歌っていた）。歌い終わって燃え尽き、妻に運転してもらって帰る。 

帰宅途中に母が予約していたホールケーキを購入。部屋を暗くしてロウソクを消したはいいが、次女はもちろん食べられないし、長女はスポンジケーキが嫌いで、長男は少食。ホールケーキはもう一生分食べた（「もう一生分○○した」はこの頃よく使う台詞）。 

妻のアドバイスで風呂に長く浸かり、わき腹に湿布を貼って寝た。ぐっすり眠れたのは言うまでもない。 

妻と次女は今日から1週間、埼玉の実家と九州方面にお出かけ。母と妹がいない長女と長男は、まだ父を「ママ」と呼んでしまう。</description>
         <link>http://www.tgiw.info/weblog/2010/02/1_9.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Diary</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 17 Feb 2010 19:02:00 +0900</pubDate>
        
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         <title>『ブッダの優しい論理学―縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法』</title>
         <description><![CDATA[ブッダの説法に皆が納得したのは、言い争いを避けた優しいコミュニケーション術にあった。インド論理学の専門家である著者が、原始仏典からそのあり方を見る。

時間軸に沿って順次立てて話すこと、質問者の問いに従って答えること（問いと答えの縁起）、怒りには怒りで答えないこと、矛盾を誤解と考えてみること、二重否定は肯定とは限らないこと、正誤より善悪で考えること、対偶は言葉の縁起で捉えられること、断定（演繹）・場合分け（帰納）・反問（帰謬）・捨て置きの４つの答え方を駆使することなどが説かれている。

はじめに論理学用語ありきではなく、分かりやすく説明して、後からさりげなく論理学用語を当てはめるのは見事。

優しさも、コミュニケーションでは重要な戦略であることが分かる。例えば次のようなブッダの言葉。「罵らない私たちを罵り、怒らない私たちを起こり、争論しない私たちに争論をしかけたが、私たちは、それを受け取らない。だから、それは、あなたのものになる」悪意は、受け取らなければ相手にはね返るだけの話ということである。」

「行かないことはない」という人に、「行くか、行かないか、どっち？」と聞いてはならない。会話を進め、事情を少しずつ知るために、「どうしたの？なにかあるの？」と確認するのが、相手の心を大事に考えるということである。

「討論を通じて、人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、反問して解答せず、捨て置くべき問いを、捨て置かないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしくないのである。」重要な教えならば断定的に解答し、詳しい説明を求められているならば分けて解答し、相手の質問や論に難点があれば反問して解答し、堂々巡りになりそうだったら、捨て置く。一辺倒でない細やかな対応にも、優しさがある。

ブッダの思考法を、西洋論理学の用語で再構築していくのは、かけ離れすぎている分、意欲的な試みである。本書は非常に読みやすい分、物足りなくもあった。著者には今後ももっと多くの経典から、ブッダの思考法を分析してほしい。

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         <pubDate>Wed, 17 Feb 2010 18:26:06 +0900</pubDate>
        
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