類似性と非類似性に基づいて反定立を、選択することで多様な誤った論難となるとまとめて述べられたものを詳細に分類する。それらは実に以下のものであり、誤った論難は[対論者が]論証する際の理由が提出されたときにある、24の否定する理由である。

誤った論難とは(1)類似性による対等、(2)非類似性による対等、(3)属性の付加による対等、(4)属性の否定による対等、(5)述べなければならないもの[の非提示]による対等、(6)述べる必要のないもの[の提示]による対等、(7)別な選言による対等、(8)論証対象による対等、(9)到達による対等、(10)未到達による対等、(11)遡及による対等、(12)反例による対等、(13)不生起による対等、(14)疑惑による対等、(15)対立論題による対等、(16)無根拠による対等、(17)意味上の帰結による対等、(18)無区別による対等、(19)成立するものによる対等、(20)知覚による対等、(21)非知覚による対等、(22)無常による対等、(23)常住による対等、(24)結果による対等である。(5-1-1)

 総体的にすでに述べられた誤った論難について詳細が述べられなければならないので今「類似性」などのスートラが始められる。云々と。
 類似性によって反定立が[対論者が]論証する際の理由と異ならないものが類似性による対等である。異ならないものの例はそれぞれの場で例示しよう。同様に非類似性による対等などもまた、説明される。

[類似性による対等・非類似性による対等]
類似性と非類似性に基づいて、結論に対してその属性と反対のものが成り立つとするならば、(1)類似性による対等と(2)非類似性による対等である。(5-1-2)

[1.類似性の主張に対する類似性の反定立]
 類似性による結論に対して、論証対象である属性と反対のものが成り立つとして、類似性によってのみ反論しており、結論づける理由と異ならないものが、類似性による対等という否定である。例「アートマンは運動を有する。実体は運動の原因である属性と結合するから。実体である土塊は運動の原因である属性と結合しており、運動を有する。アートマンも同様[=実体であって運動の原因である属性と結合するもの]である。それゆえ[アートマンは]運動を有する。」このような結論に対して他の者が同じ類似性によって反定立する。「アートマンは運動をもたない。遍満する実体は運動をもたないから。遍満するものである虚空はまた運動をもたない。アートマンも同様[=実体であって遍満するもの]である。それゆえ[アートマンは]運動をもたない。」しかし運動を有するものとの類似性から運動を有しなければならなず、また運動をもたないものとの類似性から運動をもたないものでなければならないというための特定化する理由はない。特定化する理由がないから類似性によるものという論難である。
[2. 類似性の主張に対する非類似性の反定立]
 さて非類似性によるものとは、「[アートマンは運動をもたない。]運動の理由となる属性と結合した土塊は[空間的に]限定されていることが見られる。アートマンはそのよう[=限定されているもの]ではない。それゆえ[アートマンは]土塊のように運動を有するものではない。」しかし運動を有するものとの類似性から運動を有しなければならず、また運動を有するものとの非類似性から運動をもたないものでなければならないというための特定化する理由もない。特定化する理由がないから非類似性による対等である。
[3. 非類似性の主張に対する非類似性の反定立]
 非類似性に基づく結論は「アートマンは運動をもたない。遍満するものだから。運動を有する実体である土塊は遍満するものではないことが見られる。アートマンはそのよう[=実体であって遍満するもの]ではない。それゆえアートマンは運動をもたない。」非類似性に基づく反定立は「[アートマンは運動をもたないものではない。]運動をもたない実体である虚空は、運動の原因である属性を欠くことが見られる。しかしアートマンはそのよう[=運動の原因である属性を欠くもの]ではない。それゆえ運動をもたないものではない。」しかし運動を有するものとの非類似性から運動をもたないものでなければならなず、また運動をもたないものとの非類似性から運動をもたないものでなければならないというための特定化する理由もない。特定化する理由がないから非類似性による対等である。
[3. 非類似性の主張に対する類似性の反定立]
 それでは類似性によるものとは「[アートマンは運動を有する。]運動を有する土塊は運動の理由である属性と結合していることが見られる。アートマンも同様[=運動の理由である属性と結合しているもの]である。それゆえ運動を有する。」しかし運動を有するものとの非類似性から運動をもたないものでなければならなず、また運動をもつものとの類似性から運動をもたないものでなければならないというための特定化する理由もない。特定化する理由がないから非類似性による対等である。

牛性に基づいて牛が成り立つようにそれは成り立つ。(5-1-3)

 [反定立において]類似性のみによって、そして非類似性にのみによって論証対象の論証が主張されているとき、不確定になってしまう。しかしそれ[=不確定]は特定の属性に対しては成り立たない。牛との類似性である牛性という特定の類的特徴に基づいて牛が成り立つのであって、垂肉などとの関係に基づくのではない。馬などとの非類似性である牛性に基づいてのみ、牛が成り立つのであって、属性などの区別に基づくのではない。よってそれは支分の章[=1-1-39]において、また[論証の]文章においていくつかの認識手段が共同して一緒に同一の目的をなすものとなると説明済みである。実際この不確定は誤った理由に基づくからである。

[属性の付加による対等・属性の否定による対等・述べなければならないもの[の非提示]による対等・述べる属必要のないもの[の提示]による対等・別な選言による対等・論証対象による対等]
論証対象と実例について、属性の別な選択肢を出すならば、また両者が未論証であるならば、(3)属性の付加による対等、否定による対等、(5)述べなければならないもの[の非提示]による対等、(6)述べる必要(4)属性ののないものよる対等、(7)別な選言による対等、(8)論証対象による対等がある。(5-1-4)

[属性の付加による対等(非類似性による)―sparzavattva]
 論証対象に対して実例の属性を付加するものが属性の付加による対等である。「もし運動の原因となる属性と結合するから土塊のようにアートマンは運動を有するならば、土塊と全く同じに感触もあることになる。もし感触がないならば、土塊のように運動を有するものでもないことになる。あるいはこの逆転に対して特定化する[理由]が語られねばならない。」
[属性の否定による対等(非類似性による)―avibhutva(=vibhutva-abhAva)]
 論証対象に対して属性の非存在を実例から付与するものに属性の否定による対等がある。「実際は土塊は運動を有し遍満しないことが見られる。もしアートマンもまた運動を有するものであるならば遍満しないものでなければならない。あるいはあるいは逆転に対して特定化する[理由]が語られねばならない。」
[述べなければならないもの[の非提示]による対等、述べる必要のないもの[の提示]による対等(非類似性による?)]
 説明されるべきものが述べなければならないものであり、その反対が述べる必要のないものである。そしてこの2つはそれぞれ論証対象と実例の属性であり、それに反すると述べなければならないもの[の非提示]による対等と述べる必要のないもの[の提示]による対等になる。
[別な選言による対等(非類似性による?)―guru/laghu]
 論証手段である属性と結合した実例に対して、別の属性を選択肢に入れることに基づいて論証対象の属性の選択肢を付与するならば、別な選言による対等がある。「運動の原因となる属性と結びついたものには、土塊のように重いものと、風のように軽いものがある。同様に運動の原因である属性と結合したものには土塊のように運動を有するものと、アートマンのように運動をもたないものがある。あるいは特定化する[理由]が語られねばならない。」
[論証対象による対等―sAdhyatva]
 理由などの支分の力と結びついた属性が論証対象であるが、それを実例において付与すると論証対象による対等になる。「もしアートマンが土塊のようなものであるならば、土塊はアートマンのようなものとなる。このアートマンが運動を有するということが論証されるべきならば、土塊も[運動を有することが]論証されるべきである。もしそうではないならばアートマンは土塊のようなものではない。」

これらについて答えがある。

あるものとの類似性に基づいて結論が成り立つとするから、非類似性に基づいては反論とならない。(5-1-5)

 すでに成立したものを否定することはできない。そしてある類似性に基づいてガヴァヤは牛のようなものであるという類推はすでに成立しているところに、牛とガヴァヤとに属性の別な選択肢を取り上げて反論することはできない。同様に論証するものである属性が実例などの力を備えているときに、論証対象と実例との属性の別な選択肢による非類似性に基づいて論難することはできない。

また論証対象を一般化することに基づいて実例が成り立つとするからである。(5-1-6)

 世間一般と探求する者たちの見解が等しいものと相容れないものではないものが知らせるために一般化される。そのようにして論証対象を一般化することに基づいて実例が成り立つときには、論証対象であることは成り立たない。

[到達による対等・未到達による対等]
論証対象に到達して、または到達しないと、理由が到達によっては差異がなくなるというならば、そして未到達によっては論証するものとならないというならば、それぞれ(9)到達による対等、(10)未到達による対等になる。(5-1-7)

 理由は論証対象に到達して論証するのか、それとも到達しないで論証するのか。まず到達しないでではない。到達する場合差異がなくなり論証するものではなくなる。両者が存在するとき、そのうち到達になるならばどちらがどちらを論証手段としたり論証対象としたりするのか。
 到達しないと論証するものとならない。[対象に]到達していない灯明は照らさない。到達によって反論することが到達によるものであり、未到達によって反論することが未到達による対等である。

この2つについて答えられる。

壷などの完成が見られるから、また苦しめるときに呪術によるから、論難とならない。(5-1-8)

 実際どちらでも論難は正しくない。行為主体・行為手段・基体は粘土に到達して壷などの結果を完成させるし、苦しめるときには呪術によるから到達しないで論証する対等となることが見られる。

[遡及による対等・反例による対等]
実例の理由が提示されていないというならば、また反例によって反論するならば、それぞれ(11)遡及による対等、(12)反例による対等となる。(5-1-9)

 論証手段についてもまた論証手段が述べられねばならないと遡及して反論することが遡及による対等という否定である。「運動の原因となる属性と結びついて土塊は運動を有するということの理由が提示されず、理由なしに成立することはない。」
 反例によって反論することが反例による対等である。「アートマンは運動を有する。運動の原因である属性と結合するから。土塊のように」と言われたとき、反例が用いられる。「運動の原因である属性と結合した虚空は運動をもたないことが見られる。」それでは虚空の運動の原因である属性とは何か。「潜勢力[=vegaなど]に依拠する風との結合である。風と木との結合のように。」

この2つについて答えられる。

灯明を取り上げると遡及が終わるように、それは終わる。(5-1-10)

 まず問われた者が以下のことを答えるはずである。「誰が、何のために灯明を取り上げるのか。」見たいと思った者が、見るべきものを見るためである。「それでは灯明を見たいと思った者が、別の灯明をどうして取り上げないのか。」別の灯明なしでも灯明が見られる。その場合、灯明を見るために灯明を取り上げることは無意味である。それでは実例は何のためにあるかというとまた理解していないことを理解せしめるためである。それでは実例に対する原因の提示は何のために示されるのか。もし理解せしめるためであるならば、実例はすでに知られたものである。実際、それは「世間一般と探求する者たちの見解が等しいものが実例である」といわれ、それを知らせるために理由が提示されることは無意味であるというのが無限遡及による対等への回答である。

それでは反例による対等に対して答えよう。

反例が理由になるとき、実例は理由以外の何物でもない。(5-1-11)

 反例を述べる者は特定化する理由を提示していない。「このようにして反例が論証するものとなり、[あなたの]実例はそうではない」というように。このようにして反例が理由となるとき、実例が理由ではないということは成り立たない。そしてそれはどうして理由ではないだろうか[依然として理由のままである]。もし否定されず、論証するものであるならばそう[=理由]であるはずである。。

[不生起による対等]
生起する以前には原因がないとするならば、(13)不生起による対等になる。(5-1-12)

 「音声は無常である。意志的努力の直後に付随するものだから。壷のように」と言われたときに他のものが言う。「生起の前には言葉は生起していないので、無常性の原因である意志的努力の直後に付随するものであることはない。それがないから常住であることになる。そして常住なものが生起することはない。」不生起による反定立が不生起による対等である。

これについて答えられる。

すでに生起したものについてそのようであるのであり、原因が成り立つので、原因の否定にはならない。(5-1-13)

 「すでに生起したものについてそのようであるから」ということについて。実際、すでに生起したものがこれが音声だということになる。生起する以前には音声そのものがない。生起したものが音声であるのであり、存在する音声について無常性の原因である意志的努力の直後に付随するものであることが成り立つ。原因が成り立つので「生起する以前には原因はないから」というこのような誤りは正しくない。

[疑惑による対等]
普遍と実例とについて、[普遍について]等しく感覚器官で捉えられるものであるので、常住なものと無常なものとの類似性があるとするならば、(14)疑惑による対等になる。(5-1-14)

 「音声は無常である。意志的努力の直後に付随するものだから。壷のように」と言われたときに、理由について疑惑によって反定立する。「意志的努力の直後に付随するものであるならば、それは常住なものである普遍と感覚器官で捉えられることが類似するし、無常なものである壷とも類似する。これゆえ常住なものと無常なものとの類似性があるから、疑惑はおさまらない。」

これについて答えられる。

類似性に基づく疑惑について、非類似性に基づくと疑惑はない。あるいはどちらもあるならば、疑惑について無限に疑惑が付随する。そして共通性が常にあることが承認されないので、否定にならない。(5-1-15)

 特徴すなわち非類似性[e.g.手足]に基づいて「人」という対象が確定されようとしているとき、柱と人との類似性[e.g.直立性]に基づく疑いの余地はない。このように非類似性すなわち特徴である意志的努力の直後に付随するものであることに基づいて音声の無常性が確定されようとしているとき、常住なものと無常なものの類似性にもとづく疑いの余地はない。もし例えばであるが[余地を]もつとすると、そうすると柱と人との類似性が排除されないので無限に疑惑が続くことになってしまう。特定化するものが把握されているとき、常に類似性が疑惑の原因となるということは承認されない。というのも人の特徴が把握されているとき、柱と人との共通性が疑惑の理由になることはないからである。

[対立論題による対等]
両者の類似性に基づいて、論題対立状態が成立するとするならば、(15)対立論題による対等になる。(5-1-16)

 両者すなわち常住なものと無常なものとの類似性に基づいて、主張と反対主張とが起きることが論題対立状態である。ある者は「音声は無常である。意志的努力の直後に付随するものだから。壷のように」という主張を起こし、次のものは常住なものとの類似性に基づいて反対主張を起こす。「音声は常住である。聞かれるものであるから。音声性のように。」そしてこのような場合、意志的努力の直後に付随するものであるからという理由は無常なものとの類似性によって述べられており、対立論題に勝らない。対立論題に勝らないから、結論に決着しない。そしてこれは常住なものとの類似性によって理由が述べられているときも同じである。だからこれは対立論題に勝らないことによる反定立、対立論題による対等である。またこれは非類似性についても同じである。両者の非類似性に基づいて対立論題が成立するとするならば、対立論題による対等になる。

[相手の]対立主張に基づいて対立主題が成立するから、対立主張が正しいならば否定は正しくない。(5-1-17)

 両者の類似性に基づいて論題対立状態の成立を述べる者は、対立主題に基づいて論題対立状態が成立すると言っていることになる。もし両者の類似性があるとするならば、その場合どちらか一方が対立主張となり、このようなとき対立主題が正しいものとなる。対立主題が正しいならば、否定は正しくない。すなわちもし対立主張が正しいならば否定は正しくない。もし否定が正しいならば、対立主張が正しくない。対立主張の正当性と否定の正当性は矛盾関係にある。しかし真理が確定されていないから対立論題が成り立つ。その反対では対立論題が終わるからである。すなわち真理が確定されれば対立論題は止むことになる。

[無根拠による対等]
理由が三時にわたって成立しないとするならば、(16)無根拠による対等になる。(5-1-18)

 「理由とは論証手段であり、それは論証対象の以前か以後か同時かにあるはずである。もし以前に論証手段があるならば、論証対象がないときに何の論証手段なのか。もし以後にあるならば、論証手段がないときに、何についてこれが論証対象となるのか。もし同時に論証手段と論証対象があるならば、両者が存在しているときに何が何の論証手段となり、何が何の論証対象となるのか、というように理由は理由でないものと異ならない。」理由でないものと類似することに基づく反定立が、無根拠による対等である。

理由に基づいて論証対象が成立するので、三時にわたって不成立ということはない。(5-1-19)

 三時にわたって不成立ということはない。なぜならば、理由に基づいて論証対象が成立するからである。達成されるべきものの達成、認識されるべきものの認識、両者とも原因に基づいて見られる。そしてそのことは偉大なる直接知覚の対象である実例なのである。実際、「論証手段がないときに、何についてこれが論証対象となるのか。」と言われたが、[論証手段の後に]達成され、かつ認識されるもの、それについて[論証手段となるの]である。

そして否定が正しくないから、否定されるべきものが否定されることはない。(5-1-20)

 以前、以後、同時に否定することは正しくない。否定が正しくないから、[対論者が]論証する際の理由が成立する。

[意味上の帰結による対等]
意味上の帰結に基づいて対立主張が成立するとするならば、(17)意味上の帰結による対等になる。(5-1-21)

 「音声は無常である。意志的努力の直後に付随するものであるから。壷のように」と主張が論証されているとき、意味上の帰結によって対立主題を論証すると、意味上の帰結による対等になる。もし意志的努力の直後に付随するものであることから無常なものとの類似性に基づいて音声は無常であるというならば、これの常住なものとの類似性に基づいて常住になるということになり、これの常住なものとの類似性である不可触性があると意味上含意される。

これについて答えられる。

述べられていないものについて意味上の帰結があるならば、主張の放棄が成り立つ。[主張の放棄が]述べられていないからである。また、意味上の帰結は不確定だからである。(5-1-22)

 「能力の説明がないとして、述べられていないものが意味上帰結する」という者には、主張の放棄が成り立つ。[主張の放棄は]述べられていないからである。すなわち[音声が]無常という主張が成り立つ際、[音声が]常住であるという主張の放棄が意味上帰結される。また、意味上の帰結が不確定である[=命題の裏は真ではない]からである。この意味上の帰結は両方の主張に等しくあてはまる。もし常住なものとの類似性である不可触性に基づいて、虚空のように音声は常住であるならば、無常なものとの類似性である意志的努力の直後に付随することに基づいて、常住であるということが意味上帰結される。また意味上の帰結は単に逆にすることで一義的に定まるものではない。実際、固体である砂利が落ちたといっても「流動体である水は落ちない」と意味上想定されることはないからである。

 

[無区別による対等]
一つの属性の成立に基づいて違いがないので、存在性が成立するから一切に違いがないことになってしまうというならば、 (18)無区別による対等になる。(5-1-23)

 一つの属性である意志的努力の直後に付随するものであることが音声と壷とに成り立つので、両者にとって無常性に違いはないので、一切が違いがないことになってしまう。どうしてか。存在性が成立するからである。一つの属性である存在性は一切について当てはまり、存在性が成立するから、一切が違いがないことになってしまうというならば無区別による対等という反定立である。

ある場合にはその属性はあてはまり、ある場合にはあてはまらないから、否定にはならない。(5-1-24)

 論証対象[=音声]と実例[=壷]について、一つの属性である意志的努力の直後に付随するものであることがあてはまることに基づいて、無常性という別な属性は違いがないが、そのように一切のものについて、存在性の成立に基づく別な属性はない。あるならばそれによって無区別になるだろうが。
あるいは以下のように考えるかもしれない。無常性こそが別の属性であり、諸々の存在の存在性の成立に基づき、すべてにわたって存在するだろう。実際このように想定されるならば、「一切の存在は無常である。存在性が成立するから」という主張になる。その場合、主張の対象[=一切の存在]と異なる別の実例はなく、喩例のない理由はない。主張の一部分について実例であるということは正しくない。というのも論証対象が実例になることはないからである。そして存在するものについて、常住なものも無常なものもあるから、無常性が成立しない。それゆえ存在性が成立するから一切が異ならなくなってしまうというこの文は述べるべきではない。一切の存在について存在性があてはまるから、無常であるという者は音声が無常であることを認めている。そこで否定は妥当ではない。

[成立するものによる対等]
両方の根拠が成り立つとするならば、(19)成立するものによる対等になる。(5-1-25)

もし音声について無常性の原因が成り立ち、音声は無常であるならば、これ[=音声]について常住性の原因である不可触性もまた成り立ち、常住性も成り立つ。両方すなわち無常性と常住性との原因が成り立つことによって反定立することが成立するものによる対等である。

成立の原因が追認されているから、否定にはならない。(5-1-26)

 両方の原因が成立するからと言う者は、無常性の原因が成立するから無常であることを否定していない。もし否定するならば、両方の原因が成り立つことはないはずである。両方の原因が成り立つと述べることによって、無常性の原因が成り立つことを追認しており、追認しているから否定は妥当ではない。
 不一致に基づいて否定になるというならば、不一致は共通する。あるものが無常とも常住ともなってしまう不一致を述べて、否定があると説くというならば、自説にも他説にも不一致が共通し、それ[=不一致]はどちらか一方を論証するものではない。

[知覚による対等]
提出された原因がなくても、知覚されるとするならば、(20)知覚による対等になる。(5-1-27)

 提出された意志的努力の直後に付随するものであることという無常性の原因がなくても、風によって揺らされて木の枝が折れたことから生じた音声が無常であることが知覚される。提出された論証手段がなくても、論証対象の属性が知覚されることによる反定立が、知覚による対等である。

これについて答えられる。

別な原因に基づいてもそれの属性が成り立つから、否定にならない。(5-1-28)

 意志的努力の直後に付随するものであるからと言う者は、原因から生起することを述べるが、結果[=音声]が必ずその原因[=意志的努力の直後に付随するものであること]からのみあるとは述べていない。だからもし別の原因[e.g.風との接触]に基づいても生起する音声について、その無常性が成立するならば、この場合何が否定されるのか。

[非知覚による対等]
 発声される以前には音声は存在しているにも関わらず、知覚されないということはない。なぜか。覆いなどが知覚されないからである。存在している水などの対象には覆いなどによって知覚されないことがあるが、そのように音声について、把握しないことの原因である覆いなどによって、知覚されないことはない。そしてこれが把握されないことの原因であるこれ[=覆いなど]は水のように把握されるはずだが、[実際には]把握されない。それゆえ把握されていない音声は、水などとは逆[=覆いがあるのではないから存在しない]なのである。

それ[=覆いなど]の非知覚が知覚されないから、非存在が成立し、それと反対のものが成り立つとするならば、(21)非知覚による対等になる。(5-1-29)

 これらの覆いなどの非知覚が知覚されない。知覚されないから存在しないので、それ[=覆いなどの非知覚]の非存在が成立する。非存在が成立するとき、理由[=非知覚]がないからそれと反対の存在性が覆いなどについて確定される。それと反対のもの[=覆いの非存在の非存在]が成り立つから、前に主張された「発声される以前には音声は存在しているにも関わらず、知覚されないということはない」ということは成立しない。このようにこれは「覆いが知覚されないから」というこの理由は覆いなどについても、覆いなどの非知覚についても当てはまる。等しく知覚されないことによって反定立することが非知覚による対等である。

これについて答えられる。

非知覚は知覚でないものを本質とするから、理由にならない。(5-1-30)

 「覆いなどの非知覚はない。[非知覚が]知覚されないから」というのは理由にならない。なぜか。非知覚は知覚でないものを本質とするからである。非知覚は単なる知覚の非存在を本質とするからである。存在するものは知覚の対象になり、知覚によってそれは存在すると主張される。存在しないものは非知覚の対象になり、知覚されていないものが存在しないと主張される。このようにこの、覆いなどの非知覚の非知覚は、知覚の非存在すなわち非知覚という自らの対象に対してはたらき、自らの対象を否定しない。そして[覆いなどの非知覚が]否定されなければ、覆いなどの非知覚は理由に資するものになれる。さて覆いなどは存在しているならば知覚の対象となり、それらは知覚されなければならない。それら[=覆いなど]が知覚されないならば、自らの対象[=覆いなど]を理解させるものであるその[覆いなどの]知覚が存在しないすなわち知覚されないから、非知覚の対象であると理解される。「覆いなどの音声が把握されない原因は存在しない」と。一方非知覚[という認識手段]に基づいて非知覚が成り立つ。「それ[=非知覚]はそれ[=認識手段としての非知覚]の対象である」というように。

また様々な知の存在と非存在は誰にとっても知覚されるものだから。(5-1-31)

理由にならないことを説明する。各身体において様々な知の存在と非存在は知覚されるものである。「私に疑惑の知がある」「私に疑惑の知はない」というように。直接知覚・推理・伝承・聖典の知についても同様である。このようにこの覆いなどの非知覚すなわち知覚の非存在は自ら知ることができる。「私に音声の覆いなどの知覚はない」「音声を把握されない原因である覆いなどは知覚されない」というように。そこで前に述べられた「それ[=覆いなど]の非知覚が知覚されないから非存在が成り立つ」ということは正しくない。

 

[無常による対等]
類似性に基づいて等しい属性が成り立つから、一切が無常になってしまうとするならば無常による対等に(22)なる。(5-1-32)

 無常なものである壷との類似性に基づいて音声は無常であると言う者には、無常なものである壷と一切の存在は類似性をもつといって一切に無常性という望ましくないものが帰結する。そのような無常性による反定立から無常による対等がある。

これについて答えられる。

類似性に基づくと[音声の無常性が]不成立になるなら、否定も不成立になる。[否定に]否定されるものと類似性があるから。(5-1-33)

 主張などの支分を備えた文章であり主張を斥けるものであり、反対主張を知らしめるものであるものが否定である。それには否定されるべき主張との類似性である「主張などを備えていること」がある。さて、もし無常なものとの類似性に基づくと[全部が無常になってしまうので]、[音声の]無常性が不成立になるならば、類似性に基づいて[主張が]不成立になるから、否定もまた不成立になる。否定されるものと類似性があるからである。

実例において論証対象と論証手段との関係をもって主張された属性が理由であるから、また、それ[=属性]が両方になるから、無限定にではない。(5-1-34)

 実例における属性は実際、論証対象と論証手段との関係をもって主張されるが、それが理由として述べられる。そしてそれは両方になる。すなわちあるものと共通しあるものと異なる。共通するならば類似性になり、異なるならば非類似性になる。このように特定の類似性が理由となるのであって、限定要素のないことによる類似性一般や非類似性一般が[理由なのでは]ない。類似性一般と非類似性一般に依拠してあなたは「類似性に基づいて等しい属性が成り立つから、一切が無常になってしまうから、無常による対等である。」と言ったが、これは妥当ではない。無区別による対等の否定において述べられたこともまた、知られるべきである。

[常住による対等]
常に無常であるから無常であるものに常住性が当てはまるとするならば、等になる。(5-1-(23)常住による対35)

 「音声は無常である。」と主張される。その無常性は音声において常住なものなのか無常なものなのか。まずもし常にあるならば、そのときは属性が常にあるから基体も常にあることになり、音声は常住なものとなる。あるいは常にはないならば、無常性がないから音声は無常なものとなる。このように常住性によって反定立するならば、常住による対等になる。

これについて答えられる。

否定されるものにおいて常に無常性があるから、また無常なものにおいて無常性が当てはまることになるから、否定にならない。(5-1-36)

 否定される音声において常に無常性があるからと言われるとき、音声の無常性は追認されており、無常性が成り立つから「音声は無常ではない」という否定は正しくない。もし[「音声は無常である」と]承認されないならば、常に無常性があるからということは理由がなくなるので、理由がないから否定が成り立たない。生起したものが消滅して非存在になるというのが音声の無常性であり、これについての反問は正しくない。すなわち以下のような反問になる。「その無常性は音声に常にあるのか、それとも[常に]ないのか。」これは正しくない。なぜか。生起したものが消滅によって非存在になること、音声にとってそれが無常性である。このようであるので基体[=音声]と保持されるもの[=無常性]の区別は、矛盾するのでない。また常住性と無常性が矛盾するからである。常住性と無常性とが同一の基体にある2つの属性であるというのは矛盾してしまう。不可能だからである。そこで前に述べられた「常に無常性があるから常住にほかならない」ということは意味のないものが述べられている。

[結果による対等]
努力の結果は一つではないからとするならば、(24)結果による対等になる。(5-1-37)

 「意志的努力の直後に付随するものであるから音声は無常である。」意志的努力の直後に存在するものは実際、存在していなかった後に存在する。壷などの結果のように。ところが無常なものはというと、存在していた後に存在しなくなるというように知られる。このように決まっているときに、努力の結果は一つではないからといって否定が述べられる。意志的努力の直後に存在することが壷などに見られるが、妨げられたものには妨げの除去からの顕現が見られる。そして音声については意志的努力の直後に存在することがあるのか、それとも顕現があるのかということを特定化する理由はない。結果に関して区別がないことによる反定立が結果による対等である。

これについて答えられる。

他に結果には、非知覚の原因が成り立つので意志的努力は理由にならない。(5-1-38)

 他に結果があっても非知覚の原因が成り立つから、意志的努力は音声の顕現に対して理由にならない。意志的努力の直後に顕現がある場合、非知覚の原因である妨げが成り立ち、妨げが除去されれば意志的努力の直後に存在する対象について、知覚を知らせるものである顕現が生ずる。しかし音声の非知覚の原因であるものは何も成り立たない。それがあるならば意志的努力の直後に除去されて音声の知覚を知らせるものである顕現が生ずるだろうが。それゆえ音声は生起するものであって顕現されるものではない。

[六主張論議]
 [前主張者A(1)「音声は無常である。意志的努力の直後に付随するものであるから。壷のように。」に対して反対論者B(2)]「理由に不確定性があてはまり、不確定であるから論証するものとならないだろう。」というならば、[A(3)]もし不確定であるから論証するものとならないならば、

[A(3)]否定にもまた同じ過ちがある。(5-1-39)

 否定もまた不確定である。あるものを否定してあるものを否定しないというように不確定であるから論証するものとならない。あるいは音声が無常であるという主張において意志的努力の直後にあるのは生起であって顕現ではないと特定化する理由がなく、[音声が]常住であるという主張においてもまた意志的努力の直後にあるのは顕現であって生起ではないというと特定化する理由がない。このように両主張が同じく特定の理由を欠くので、両方共に不確定である。

全てにおいて同様である。(5-1-40)

 全ての類似性[による対等]をはじめとする否定の理由において、不特定化が見られる場合には常に、両方の主張が同じということになる。

[B(4)]否定を再否定するとき、否定の過ちのような過ちがある。(5-1-40)

 否定においても同じ過ちすなわち不確定性が帰結するが、これが否定の再否定においても同じにある。それ[=誤った反論]について「音声は無常である。意志的努力に付随するものであるから」という論証が前主張者の第1主張である。「努力の結果は一つでないから、結果による対等である(5-1-37)」というのが反対論者の否定の理由による第2主張である。そしてそれが否定であるといわれる。彼[=前主張者]が「この否定にも同じ過ちがある(5-1-39)」という第3主張が再否定といわれる。「その、否定の再否定にもまた同じ過ちである不確定がある」というのが第4主張である。

[A(5)]否定が過ちをもつことを承認して否定の再否定に同じ過ちが付随し、対論承認である。(5-1-41)

 「否定である過ちをもつ第2主張を承認して、すなわちそれを取り除かずに追認して、否定の再否定すなわち第3主張において同じ不確定性があるとして、同じ反対論を述べる反対論者は対論承認になってしまう」というのが第5主張である。

[B(6)]自らの主張の特質に依拠して成り立つことを結論し、理由を提示しているならば、反対論者の主張の過ちを承認しているから同じ過ちがある。(5-1-43)

 「論証する主張において努力の結果は一つではないから」という過ちは、論証する際の理由を述べる者の自らの主張に基づく。なぜか。自らの主張から提起されたものだからである。そして彼[=前主張者]は自らの主張の特質である過ちに依拠してすなわち取り除かず追認して「[A(3)]否定においても同じ過ちがある(5-1-39)」と、成立している過ちが反対主張にあると結論する。そしてこのように「否定は不確定である」と理由を提示する。その場合、自らの主張に基づく[過失]に依拠することで成立している過ちを結論し、理由を提示する場合、彼によって反対主張の過ちはすでに承認されているものである。どのようにしてか。反対論者によって「[B(2)]努力の結果は一つではないから」など[の理由]によって不確定と言う過ちが述べられたが、それを排撃せずに「[A(3)]否定においても同じ過ちがある」と言う。このように過ちをもつ論証を承認して否定においても同じ過ちを付随させる者には、反対論者の主張を承認しているから同じ過ちがある。反対論者の過ちをもつ否定を承認して「[A5]否定の再否定にも同じ過ちが付随し、対論承認になってしまう(5-1-42)」のと同様に、彼[=前主張者]にもまた過ちをもつ論証を承認して否定にもまた同じ過ちが付随し、対論承認になってしまう。実際、以上が第6主張である。
実際そのうち、論証する際の理由を述べる者は第1・2・3主張をし、否定の際の理由を述べる者は第2・4・6主張をする。これらが正しいものか正しくないものかと調べられるとき、第4・6主張は意味に違いがないから無駄な繰り返しという過ちが付随する。第4主張においては反対論者に同じ過ちがあることが述べられる。「否定を再否定するとき、否定の過ちのような過ちがある。(5-1-41)」第6主張においても「反対論者の主張を承認するから同じ過ちがある。(5-1-43)」というように同じ過ちがあることのみが述べられ、全然意味が違わない。第3・5主張は同じであり無駄な繰り返しという過ちが付随する。第3主張においても「否定においても同じ過ちがある(5-1-40)」と同じであることが承認される。第5主張においても「否定が過ちをもつことを承認して否定の再否定に同じ過ちが付随し、対論承認である。(5-1-42)」と承認しており、意味が違うことは全然述べられない。そこで第5・6主張は意味が違わないから無駄な繰り返しという過ちが付随し、第3・4主張は対論承認であり、第1・2主張は特定化する理由がないというように6主張論議においては両者が不成立である。
いつ6主張論議になるのか。それは「否定においても同じ過ちがある」とこのように始められるときである。その時両者の主張は不成立になる。一方「他に結果があっても、非知覚の原因が成り立つので意志的努力は理由にならない(5-1-38)」と彼[=前主張者]によって第3主張が述べられるならば、その時には特定化する理由が述べられるので、「意志的努力の直後に音声は存在するのであって、顕現するのではない」という第1主張が成立し、6主張論議は起こらない。

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