理解の異なること・理解のないことの想定にいくつかの敗北があると総説されたが、それが今分類される。敗北とは打ち負けることであり、基体を投げ捨てることである。一般的に命題主張などの支分に依拠し、真実を語るもの・非真実を語るものに現れる。それらの分類である。

敗北の場合とは(1)主張の破棄・(2)別の主張・(3)主張の矛盾・(4)主張の破棄・(5)別の理由・(6)別の対象・(7)無意味・(8)意味が理解されないもの・(9)無関係・(10)時の不適宜・(11)不足・(12)余分・(13)繰り返し・(14)沈黙・(15)無知・(16)思い付かず・(17)逃避・(18)見解の承認・(19)批判すべきものの看過・(20)批判の余地のないものへの批判・(21)定説無視・(22)誤った理由である。(5-2-1)

そしてこれが22種類に分類されて後、定義される。

(1)主張の破棄とは敵対する実例の性質を自己の実例において承認することである。(5-2-2)

証明される性質と敵対する性質によって敵対されたときに、敵対する実例の性質を自らの実例において承認し命題主張を破棄することが主張の破棄である。例:「音声は無常である。感覚器官で捉えられるから。壺の如し。」とするとき、対論者に「普遍は常住であり感覚器官で捉えられることが知られている。なぜに音声がそうでないのか」と敵対され、このように言う。「普遍は感覚器官で捉えられ実に常住である。壺は常住である。」そしてこの者は、証明手段となる実例が常住であることを付随させてしまい、結論に至る命題を破棄する。命題を破棄するということは命題主張を破棄することであると言われる。命題は命題主張に依存するものだからである。

(2)別の主張とは主張したものが否定されたときに性質を想定することによってそのものを示すことである。(5-2-3)

主張したもの=「音声は無常である。感覚器官で捉えられるから。壺の如し。」と述べたとき、これについて敵対する実例によって否定され理由概念が逸脱する。「普遍は感覚器官で捉えられ常住である。」そしてそこで主張ものが否定されたときに「性質を想定することによって」=実例と敵対する実例とが同じ性質をもつときに別の性質によって「普遍は感覚器官で捉えられ遍満している。しかし感覚器官で捉えられる壺は遍満していない。」と性質を想定することによって、「そのものを示すこと」=証明すべきものの証明という意味。どのようにかというと、「壺が遍満しないものであるようにそのように音声もまた遍満しないものである。まさに壺のように。故に無常である。」ということである。その場合前に「音声は無常である」と主張しておいて次に「遍満していない」と主張するのは別の主張である。それはどうして敗北なのかというと、主張の証明手段は別の主張ではなくて、理由概念・実例における主張の証明手段であり、そこでその証明手段でないものを提示することは無意味であるからである。無意味なものは敗北である。

(3)主張の矛盾とは主張と理由とが矛盾することである。(5-2-4)

「実体は属性と異なるものである。」という主張、「色などと別のものであることが知覚されないから」という理由。これが主張と理由との矛盾である。どうしてかというと、もし実体は属性と異なるものであるならば、色などと別のものであることが知覚されないということは成立しないからである。もし色などと別のものであることが知覚されないならば実体は属性と異なるものであることは成立しない。あるいは実体は属性と異なるものであるということと色などと別のものであることが知覚されないということは矛盾する=対立する=成立しない。

(4)主張の放棄とは命題が否定されたときに主張したことを捨て去ることである。(5-2-5)

「音声は無常である。感覚器官で捉えられるから。」と述べたとき、対論者が「普遍は感覚器官で捉えられるが無常ではない。同様に音声も感覚器官で捉えられるが無常ではない。」と述べる。このように命題が否定されてもし「誰が音声は無常であるなどといったのか」というならば、その者は主張したことを否定し、主張を放棄している。

(5)別の理由は区別のない理由概念が否定されたときに区別を望む者にある。(5-2-6)

例:「この個物は単一の元素からなる。という主張。どんな理由からかというと、単一の元素からなるものの変容には量があるから。泥土を前提とする皿などについて量が見られる。元素の形態をもつ限り変容がある。また再変容としての量も見られる。そしてこの量は再個物化されたものである。故に単一の元素からなる変容には量があるから、この個物は単一の元素からなると我々は考える。」これが逸脱によって反論される。「多様な元素よりなるものと単一の元素よりなるものの変容について量が見られる。」このように反論されたときにいう。「単一の元素に結びつくものである場合、皿などの変容について量が見られるからである。というのも快・苦・迷妄に結びついた個物が量られて把捉されるからである。その場合、別の元素からなるものに結びつくことがないので、単一の元素からなるものである。」すなわち区別のない理由概念が否定されたときに区別を述べるのは別の理由である。また別の理由があるならば前主張者の理由概念は証明手段ではないから敗北である。別の理由が述べられるとき、もし理由概念の対象を例示する実例が提示されるならば、この個物は単一の元素からなるものではない。別の元素が示されるからである。あるいは提示されないならば、実例において理由概念の対象が例示されず証明手段であるであることが成立しないから無意味であるので、理由概念について敗北が避けられない。

(6)別の意味とは、主題の意味と関連しない意味である。(5-2-7)

さきに特質が述べられたような命題・反命題を総合する際に、理由概念から証明すべきものの証明をするという主題において述べる。「音声は常住である。接触されないものであるからという理由がある。hetu(理由概念)という語はhiという語根についての、tuという接辞における、k.rt接辞で終わる語である。また語は名詞か動詞か接辞か不変化辞である。名詞とは、表示対象について別の行為に結びつくことによって限定されつつある相をもつ言葉である。動詞とは行為の成因の集合を有し、成因の数によって限定された行為の時に結びつくことによって表示させられるものであり、語根の意味のみが時の表示によって限定される。不変化辞とは原形において意味から表示されつつあるものである。接辞とは接しつつ行為を照らすものである。」云々と。故に別の意味が知られるべきである。

(7)無意味なものとは、字音が順に示されるものである。(5-2-8)

例:「音声は無常である。k,c,.t,t,pがj,b,g,.d,d,.c であるから。jh,bh,.j,gh,.dh,dh,.s の如し。」このような方法は無意味である。表示と表示対象との関係が成立しない場合、対象は理解されないから字音だけが順に示されているのである。

(8)意味が理解されないものとは聴衆と対論者に3回言っても理解されないことである。(5-2-9)

文章が聴衆にも対論者にも3回述べられたのに理解されない。二重の意味の言葉・元来の意味の無理解・はやすぎる発音などといった原因によってそれが理解されないというのが対象が理解されないものである。無能を隠すために行われるので敗北である。

(9)無関係とは前と関係なく結びついて意味の関係がないものである。(5-2-10)

いくつかの語や文章について前と関係のないことによって支分に結びつかないので、意味が関係せずに把捉される。そのような場合それは集合の意味が理解し損なうので、無関係である。例:「10個のザクロ・6つの菓子・皿・羊皮・砂糖の塊。」あるいは「これは鹿皮である。娘の水である。彼女の父である。流体ではない。」

(10)時の不適宜とは支分の逆転した言論である。(5-2-11)

命題主張などの支分は定義通りの意味で順序がある。この場合支分の逆転によって時が達成されていない言論は意味の関係がなく、敗北である。

(11)不足とはどれか一つでも支分を欠くものである。(5-2-12)

不足とは命題主張などの各支分についてどれか一つでも支分が欠けるものであり、敗北である。証明手段がないとき証明すべきものは証明されないからである。

(12)余分とは理由と例示が余計なものである。(5-2-13)

一つのものによってなされるものであるからいずれか一つが無意味になるということを、この規定の承認の際に知らなければならない。

(13)繰り返しとは言葉や意味の繰り返しである。但し再言及を除く。(5-2-14)

再言及を除いて、言葉の繰り返しまたは意味の繰り返しがある。「音声は常住である。音声は常住である。」というのは言葉の繰り返しである。意味の繰り返しとは、「音声は無常である。音は壊れる性質をもつ。」というものである。一方再言及においては繰り返しはない。言葉の提示によって意味の区別が成立するからである。理由に言及することによって命題主張の繰り返しが結論になるというようなことがある。

意味上理解されるものについて、自身の言葉による繰り返しがある。(5-2-15)

主題は繰り返しである。例:「生起するという性質をもつから無常である。」と述べた後、意味上理解されたものを表示する言葉がその者自身の言葉によって述べられる。「生起しないという性質をもつから常住である。」それも繰り返しであると知るべきである。言葉の使用が意味の共通理解を目的とするので、その意味は意味の理解によって理解される。

(14)沈黙とは聴衆に理解されているのに3回言っても返答しないことである。(5-2-16)

聴衆に文の意味が理解されているのに3回言っても対論者が返答しないのは沈黙という敗北である。返答しないものが何に依拠して他者の命題の否定を述べるのか。

(15)また無知とは理解していないことである。(5-2-17)

聴衆に理解されているのに3回言っても対論者が理解しないのは無知というはいぼくである。実にある者が理解せずして何について否定を述べるのか。

(16)思い付かずとは返答が思いつかないことである。(5-2-18)

他者の命題を否定する際の返答が思いつかないときは敗北となる。

(17)逃避とは仕事に意を向けて議論をやめることである。(5-2-19)

するべきことに意を向けて議論をやめ、「私はしなければいけないことがある。」といい、後からその議論を終える場合、逃避という敗北である。議論が一方の敗北で終われば、まさに自ずから別の議論となる。

(18)見解の承認とは自説に誤りを認めた上で対論者の説に誤りを付すことである。(5-2-20)

対論者に批判された誤りを自説において認め、それを否認せずに「あなたの説にも同じ誤りがある。」という者は自説に誤りを認めた上で対論者の説に誤りを付し、対論者の見解を承認しているので、見解の承認という敗北になる。

(19)批判されるべきものの看過とは、敗北になったものに敗北はなしとすることである。(5-2-21)

批判されるべきもの=敗北になって批判されるべきもの、その看過は敗北である。「あなたは負けた」と批判しないことである。またこれは何かについて負けであると批判する聴衆が述べるべきであり、実に敗北になった者が自らの落ち度を示すべきではない。

(20)批判の余地のないものへの批判とは、敗北のない場合に敗北を適用することである。(5-2-22)

敗北の定義が誤りであると確定することで、敗北のない場合に「あなたは負けた」と対論者に言う者は批判の余地のないものへの批判であり、敗北であると知るべきである。

(21)定説逸脱とは、定説を認めておいて無制限に議論を付会することである。(5-2-23)

あるものについてそのようであると主張して後、主張したものと反対の無制限から議論を付会する者には定説無視があると知られるべきである。例:「有を本質とするものは滅しない。有は消滅しない。有を本質としないものは知覚されない。非有は生起しない。」と定説を承認してから自説を定立する。「この一切の個物は単一の元素からなる。変容の付随が見られるから。泥土に付随する皿などが単一の元素をもつことが見られる。そのようにこの一切の個物の差異が、快・苦・迷妄に付随されることが見られる。それ故付随が見られるからこの世界の一切は快などによって単一の元素からなる。」このように言うものは批判される。「まず元素と変容とはどのように定義されるのか。」「ある定立について別の性質が止滅するとき、別の性質が展開する。そのような定立をもつものが元素である。別の性質が展開したり止滅したりするのが変容である。」しかしそれは主張したものと反対の無制限から議論を付会している。この者の主張したものとは「非有は顕現しない。有は消滅しない。」ということである。また有と非有とは顕現・消滅なしにどんなものにも展開したり展開を止めたりするものではない。実に定立された泥土においては皿などの特質である別の性質があるので、展開があるか又は展開の終止があった訳である。だからこの泥土の性質にもそれがないことになってしまう。このように反論されてもし、有が本性を捨て非有が本性を獲得すると認めるならば、その者には定説逸脱がある。あるいは認めないのならば、この者の説は証明されない。

(22)誤った理由とは先に述べた通りである。(5-2-24)

誤った理由も敗北である。知識手段や知識対象性のようにまた誤った理由が別の定義と結びついて敗北になるので述べる。「既に述べたように。」まさに誤った理由の定義によって敗北となる。そしてこの知識手段などのものは列挙され定義され考察されている。

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