洞松寺外伝

青木喜作

 勧進代と境を接する草岡側の山麓に字名を光森と云うところがある。そこに三峯山洞松寺の発祥地がある。寺趾と伝えられる台地の真後ろの山は寺山と呼ばれ、三つの小峯があたかも松の傘の如く連らなり、土壌質から見ても山は松、山麓は杉の適地であり、古木うっ蒼としてありし頃が偲ばれ伝承的価値は十分ある。昨年六月の会報に遠藤信利氏の記事「問答山」が載りましたが、洞松寺移転にまつわる事件として興味をもっているので古老(故人)から聞かされた話題等記憶を辿りながら書いてみたい。

 当時の村界は尼ヶ沢の北峰だったという(現在より一沢南の草岡大谷地山の北峰)従って山麓に近い問答山は寺領の一部であった。そうでないと主張する勧進代側と、従来通りを譲らない草岡側の勢力を代表するものに、草岡側は洞松寺、勧進代側に丹波守某なるものがおった。この人は知謀の主であった。領界立証の物的証拠を立案して極秘裡に木炭を埋めた。だが、寺は容易に折れることはなかった。抗争は久しく続いた。ある年寺に怪火があった。防火の術なく寺は一夜にして灰燼に帰した。その后、寺は草岡中央に再建された、現在の洞松寺である。

 ちなみに寺が再建されたのは、十二世住職月寒耕雲和尚の時、延享三丙寅年三月十四日(一七四六年)のことである。(現住職のお話では)尚、寺が焼失したのは前の住職十一世在住のときではあるまいか、これは推測に過ぎないが、そのように考えられるとのことである。

 次にこれは自分の推測の域を出ないのであるが、洞松寺が仁府に実在していたということを前提において考えてみたい。

 尼ヶ沢の水が里に流れ出る所に堰型がある。自然の流れを改め草岡側に向けて掘られている。光森に接する東の地名を境田と云って勧進代との境界に位置している。現在は畑であるが、田型が各所に見られその時代は多分に用田化され、寺領から流れる水等は貴重な水源としてありがたく頂戴していたものではないだろうか。次は参道であるが、現堂岡口(林道に通ずる)でなく旧街道(日信電子の前を通り勧進代に通じた)より日信電子南を通り、大谷地山より流れる通称ガニ沢に添って元ニワトリ権現趾を右に見て真直に洞松寺趾に通ずる道が今も残っており、又東からは五十川の野際から仁府に向かって(二、三の分岐道、多少の蛇行はあった)花曽根街道があり、花曽根・曲沢・鍋屋敷(何れもまだ解明できない伝説を持つ)等の側を経て前述の旧幹道に交叉して洞松寺参道に入ることができた。当時の仁府の住民のありかたはどうだったろう。西に西光寺北に洞松寺やや東南に下って歓喜院があり、この三つの寺と線で結ぶ三角形の中にこの部落が入っていた訳で、宗教文化の影響がなかったとは考えられない。恵まれた位置・地形・豊かな地味は、ずっと溯って縄文時代の土器等の破片も見られ、古代より人間が住む自然的条件は十分あった土地と云えそうです。

 だが三峯山(三は光森のミツからとったものとも云う)洞松寺が去ってからの住民の沿革等はこの時代と前後して衰微の一途を辿ったものの如く、現在迄に家を嗣ぎ続いたもの二、三戸を数えるに過ぎない。