草岡と洞松寺周辺

池田ヤス子

 長井盆地の中央を流れる最上川を挟んで、西側の山際の集落が西根村、東側が東根村であったのは、町村合併以前のことである。

 長井市草岡は、北に勧進代、南に川原沢と寺泉が山裾に沿って横並びになった西根地区にある。その一帯は縄文の宝庫となっていて、旧石器時代の遺物や遺構が、多く発掘されている。中でも草岡の長者原からは、近年多くの遺跡が発見されて注目を集めた。

 長井盆地を大きな翼で抱えこむようにして聳え立つ西山。秀峰西山は、大朝日岳を頂点として南北に走る葉山系の連山である。連山の渓谷は、長井市の北端白兎あたりから草岡にかけてのりょう線が際立って深く美しい。

 屏風のように鋭く切り立つ西山を真後ろに草岡に生まれた私は、山の高さを知らずに育った。長井盆地の平野からあらためて仰ぎ見た山の雄大さに驚き、またその美しさと荘厳さに心打たれた幼いころの記憶がある。あまりに高い西山は、特に秋の入り陽が早く、山影は東へ延びて明暗を分けた。まだ明かるい陽の中にある盆地の稲田がまぶしかった。

 草岡―。この地名を耳にするとき、私はいつものどかな安らぎを覚える。草岡は、至る所清冽な水に恵まれた緑豊かな所である。草岡の梨の木平から、葉山へ登る途中に「おけさ堀」と呼ばれる堰がある。その昔、水不足に悩む草岡村では、山の峰を越えて陰山の水を里前に引くことを願っていたという。やがてこの願いが叶った。水が里前に流れるまでのいろいろな言い伝えが「おけさ堀勘三郎」の伝説になって残っている。いずれにしても草岡の人たちが、長い間おけさ堀の恩恵を受けてきていることに変わりはない。

 西山の麓長井から荒砥に通ずる西回りの県道沿いの高台に、草岡を代表する曹洞宗三峯山洞松寺がある。昔は本堂と厨の切妻屋根の鋭角な白壁を、長井村五十川に続く大土井の道あたりから容易に確かめることができた。秋であればその在りかは、高々とした建物とともに色づいた銀杏の大樹が目印となった。今ではあじさい寺の異名を持つ洞松寺を、中学時代の恩師である三十二世和尚小野寿一氏が守っておられる。

 洞松寺は、応仁のころ(一四六七〜)に瑞竜院五哲の一人月窓正印和尚の開基といわれている寺で、勧進代と境界を接する草岡側の光森という所に建てられた。が、後年山麓に近い問答山、洞松寺の寺領の一部であるや否やの勧進代側と草岡側との抗争が起きた。一説によれば、抗争はついに放火事件に発展し、一夜にして寺は灰燼に帰したという。その後、延享三年(一七四六)十二世月寒耕雲和尚の代に、草岡の中央部の現在地に寺を再建した。

 洞松寺から北へ四百メートルほどの所に草岡赤地蔵がある。これは洞松寺十六世文明恵紋和尚が建立したものといわれ、草岡では葬儀の際、ここで引導を渡していた。

 洞松寺はその後、明治六年(一八七四)当時の草岡村と川原沢村が連合して草岡小学校を開設した折、明治十四年まで学制に基づく小学校教育の場として伽藍を開放していた。

 寺の境内の北約百メートルほどの所に、古杉に囲まれた文殊堂(大聖文殊師利菩薩)があった。夏七月の祭礼には隣村から招いた高玉芝居が上演されて、観客の人気を博していた。夜店のアセチレンガスの臭いと、村芝居の出し物への期待で、文殊堂への坂道を急ぐ足取りは軽かった。

 洞松寺下の一本道は、今も昔も変わらない通学路である。戦時中は、寺の下の道沿いに松根油を搾る工場が建った。松の油で飛行機を飛ばすのだという。油の臭いは吐き気をもよおすほどの悪臭で、そこを通る時はだれもが息を止めて走りぬけた。雨でも降れば、雨水と一緒に黒いタール状の油が流れ出して道を汚した。

 寺下の道は西山おろしの厳しい雪道、夏は日照りの強い退屈な道だった。寺の大銀杏が色づき、身が落ちはじめると子供たちは競って階段を駆け上がり、下草を踏みしだきながら銀杏の実を拾うのに夢中になった。やがて銀杏の葉が散り終わると、もう冬である。いつの間にか西山の屋根に白い冠が載っていた。

 春彼岸。山形をたち、国道348号を通って草岡を訪ねた。まだ雪の残る墓地山で墓参を済ませ、洞松寺へ行く。そこで銀杏の古木を仰ぎ、高台から長井平野を望んで過ぎた日への想いを馳せた。寺の階段をおりる時、左手の土手一面に、福寿草が咲き競っていた。(山形新聞平成5年4月5日)