坐禅

三鷹寮の思い出'92

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三鷹寮入口1992年上京して2年間住んでいたのがこの三鷹寮だ。

三鷹寮は一応、京王井の頭線三鷹台駅が最寄。電車に乗ってしまえば大学まで25分だから近い。とはいえ自転車で15分かかる上に勾配が大きい。雨の日はバスに乗って吉祥寺に出た。自転車を盗まれたり移動されたりして、しかも夜遅くに帰ってきたりすると、40分も歩かなければならない。当然のことながら、学生がタクシーなど乗れるはずもない。

北寮三鷹寮は南寮と北寮に分かれていた。1部屋は3?6人で構成されており、サークルの名前がついていた。私が入った部屋は「スポ研」。1部屋といっても談話室、寝室、学習室の3つがセットになっていて、生活時間帯がまるで違っていても困らない。誰かが寝る頃に、誰かが起きる。

前には寮生用のテニスコート。ときどき女学生が来て遊んでいるのを私はうらやましそうに眺めていた。

森昔は馬場だったという敷地はものすごく広く、外でトランペットの練習をしている人がいるほど。建物の周りは森になっていて、誰も足を踏み入れることはなかった。ちょっと歩き回っったことがあったが、あまりの茂みで退散した。

どこからでも入ってこれるはずなのに、犬を散歩させている人を除くと外部の人にはまず会わない。森はおいしい空気の源であるとともに、外界からの遮断として機能していたのである。


浴室テニスコートの裏にある浴場。渡り廊下があるので雨の日でもあまり濡れなかったが、冬は寒い。冬場は2日に1回で、よく近くの銭湯にいった。銭湯は早い時間に閉店するが、寮の風呂は午前になっても入れた。

風呂掃除は当番制だが、ボイラーは寮委員会の仕事。ボイラーを止められてしまうとお湯が出なくなるが、寮委員会はたいてい遅くまで起きて酒盛りをしているのでその心配はなかった。

浴場遅くまで入れるということになると、ついウダウダしてしまう。同じ部屋や近くの部屋の仲間と連れ立って入りに行く。当時は疲れを知らない年だったが、おしゃべりしながら風呂につかるのはリラックスできる至福の時間だ。

夜の11時ごろがピークだっただろうか。お湯は継ぎ足しできたので温かさを保つことができたが、時間が経つにつれて湯舟にはいろいろなものが浮いてきて、うっかり口に入ろうものならたいへん。

ホール夏の風呂上りは、隣りのホールで延々とビリヤードや卓球をしてから帰る。とにかく広い上に、だだっ広い建物がいくつもあり、夜の3時や4時まで遊んでいても何も言われない。金管楽器の練習でさえもすることもできた。

発情期のネコの声を赤ん坊の幽霊だと思って、すごく怖くなったのを思い出す。それぐらい建物は古びており、がらんとしていた。

食堂寮の食事は朝はサンドイッチと牛乳、夜は黒板に発表されたメニューをおばちゃんが作る。1カ月分の寮食費を払って、あとは自分の都合で2、3日前までに止食の手続き(黒板の前の帳簿に×をつける)ができた。止食分は翌月に還元される仕組み。こうした手続きも寮委員会の仕事だ。

1カ月1万円台で安かったが、いつも夜の6時くらいにはできていたので時間がたつと全てが冷めてしまい味噌汁は煮詰まりカレーはルーに逆戻り。

食堂「十時軍制度」は、朝も夜も十時を過ぎて残っていた寮食は誰でも食べていいという決まりである。9時50分くらいになると何人か集まってきてハイエナのように待っている。そして10時になると始まるじゃんけん。「ジャンケンポン!」かなり気合が入っていた。

普通に予約している人は十時軍に食べられないよう走ってやってくる。じゃんけんが終わった頃に着いてよくトラブルになっていた。

ラウンジ各階にあるラウンジは、洗濯、物干し、電話置き場、冷蔵庫置き場、ゴミ置き場になっており、人の休む場所はない。掃除しようとしてもすぐに諦めざるを得ないような何十年分の汚れの蓄積で、通路だけ確保しておくのがやっと。スペース無駄遣いもいいところである。

電話番は当番制。事務室に待機していて、電話がかかってくると全館放送で案内。「○○さん、○○さん、1番に電話です。」これを聞いて各階にある電話から、案内された番号を押して話す。女性からかかってきた場合は「お電話です」、親(らしき年配の人)からかかってきた場合は「おお電話です」という決まりになっていた。「お電話」だったりすると、後からねほりはほり聞かれる。

電話をかける場合は、外にある電話ボックスから。電話ボックスで長電話している人がいたら、寮の外までいかなければならない。まだ携帯なんてなかった時代の話だ。


バイク置き場昔はさぞたくさんの寮生が住んで、さまざまな寮内行事があったのだろう。ホールが2つもあった。1つはビリヤード兼卓球場になっていたが、もう1つはバイク置き場に。昔は何に使っていたのか分からない。廃墟寸前である。

寮祭は年に1回あったが、日本酒をジョッキで一気飲みさせられるらしいというのを聞いて、私は小平の友達のところに避難していた。

トレーニング室ホールだけでなく、建物の中にも謎の部屋があった。ここはトレーニングルーム兼自転車修理場といったところ。昔は何に使われていたのだろうか。

ゴミはカゴに入れておいて、決められた日に出す。建物周りはおじちゃんが掃除していたが、部屋の中を掃除することはまずなかった。はじめのうちは気持ち悪いが、やがてゴキブリがブーンと飛ぶと、「あ、ゴキちゃんだ」とか言えるようになってくる。

洗面所トイレだけはおじちゃんが定期的に掃除していたので概して汚くはない。しかし、使用中止の貼り紙がずっと貼ってあったり、扉がなかったり、ナイスな落書があったりとその強烈さは印象的だった。

「昨日、このトイレで用をたしていたところ、体内から巨大な物体が出てきた。イモムシ状の茶色い物体で体長20cm、直径4cmほどもあった。気持ち悪いので流してしまったがいったいあれは何だったのだろう?」(北寮3F)

春三鷹寮の広大な敷地にはたくさんの木があふれ、とくに銀杏の木は四季の移り変わりを色濃く映し出していた。木漏れ日が気持ちいい夏、そして黄金色に染まる秋、日差しが横向く冬。

1993年、広大な空き地に国際留学生会館が建ち始め、寮生の引越しが終わると旧寮は全て取り壊された。もうひとつの駒場寮では、取り壊しにずっと反対運動が起こっていたが、三鷹寮では特にそのような運動は起こっていない。

三鷹寮・秋自称「平成のムッソリーニ」とか、司法試験X浪でちょっとおかしくなっている人とか、いることはいたが政治活動の拠点になっているわけでもなく、寮委員会も酒癖は悪かったが中立だった。

新寮はやや家賃が上がったが、完全個室で各部屋に電話も引かれている。シャワーだけになったり、電熱器しかなかったりと不便になることはあったが、概して生活の質は向上したと言えるだろう。

三鷹寮・冬しかし今になって振り返ると、友達と夜な夜な麻雀をしたり酒を飲んで語ったり、一緒に風呂掃除をしたり電話番をしたり、マンガ雑誌の回し読みをしたり、その結果午前中の授業はほぼ出られず、勉強はきまってテストの1週間前になってしまったが、そういう生活も、悪くはなかったような気がする。無駄だらけのスペースも、今そんな場所が果たしてあるだろうか。

三鷹寮よ永遠なれ。

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1983-85年に住んでいました。
私の頃は解放派のおじさんがいましたが、フログ主様の頃にはもういませんでしたか。
おかしくなっている方はいました。火事も出しました。

懐かしく、貴重な写真をありがとうございます。
胸かきむしられるような思いで拝見しました。

三鷹寮よ永遠なれ。

私もMJさんと同じ時期に棲息してました。
火事は北寮4Fでしたね。
食糧研で酒ばかり飲んでました。
懐かしいですね。

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このページは、おの1999年1月20日 00:00に書いたブログ記事です。

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