1999年10月アーカイブ

修行の回顧

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師匠の危篤・遷化に伴って急遽行うことになった安居修行は、 型を身につけるだけでなく自身の内面にとっても大変実りあるものとなりました。

1.ベクトルの低下

 旦過寮―山に上ってはじめに何日間か篭る部屋。1日のほとんどを坐禅で過ごす。風呂は入らない。この間に食事作法をはじめとする基本的な生活パターンを身につける。

 5日目に書いた文章。 二重の世界の間にて揺れ動いた旦過寮。幸せの程度の低下、原初態への回帰の中で自らの将来、変化のありようについて考える。言葉の非有効性とその超克の可能性、仏教のめざすところと現実との対立、日本人と宗教との関係など、各々の問題を考え、自分にあてはめ、解決策を練るも材料収集に終始する。しかしながらこの問題意識は変わっておらずまた変わらないだろうと思い、自らの変化を否定しつつ、新たな視野視点の加わることを強く望む。あるがままに言表することは果たして可能であろうか。収穫は自尊心は否認されるべきであるという認識に基づく徳目としての謙虚さ、これは卑屈とは異なる。     平成10年1月30日

 自分の何が変わるのかということについて冷静に見つめることができた。そして本質は変わらないということも。

2.自律

 はじめはたくさん叱られた。しかもその殆どが僧侶の社会のみならず一般社会においても常識的なことであった。今までこういった常識をいい加減にしてきた自分に何度も何度も嫌悪感を抱いた。  常識にかなった行動さえしていれば、何も叱られることはないのである。当たり前のことを、当たり前にやる。自分を自分で律することの大切さを思い知った。

君の意志の格率がいつも、普遍的立法の原理としても妥当しうるよう行為せよ。 (カント『実践理性批判』)

3.自己言及

 後輩が入ると、未熟な知識を総動員して教えなければならない立場になった。人に教える資格。それは自分ができること、していることだけを教えるということ。さもなくば自分で言ったことが自分の首を絞めることになるのである。  教えることに限らず自分の発言はまわりまわって自分に帰ってくる。人の悪口を言う者は人に悪口を言われることになり、厳しい当為を述べるものはその当為を守ることを余儀なくされる。

 しかし、そのことを恐れる余り寡黙になってしまう自分がいた。

4.エゴイズム

 仏教でもっとも忌避されるものは自分にとらわれること。1人称で話す者にはこの過失がある。つまらない自尊心が見えるものを見えなくする。

 以常見我故 而生驕恣心 放逸著五欲 堕於悪道中 (妙法蓮華経如来寿量品)

 潜在的なエゴを消し去りきることはできない。常に反省の生活が求められる。

5.信仰

  「宗教」という言葉に付きまとういかがわしさ、無宗教を標榜する日本人、新興宗教をオウムの仲間のごとくに片づけてしまうこと、このもとになるものは信仰の捉え方の問題である。我々現代人の多くは、皮肉にも多くの僧侶を典型として、信仰を疎外した生活を行っている。今までこれは仏教の無神観と対立することはないと簡単に片づけていた。しかし信仰という言葉で表わすことのできない信仰らしきものが全ての人々に確実にあり、それは意識するしないに関わらず我々の根底にあること、そしてそれを正しく認識した生活こそ、もっとも望ましい生活であることに思い至った。

いとふことなく、したふことなき、このとき、はじめて佛のこころにいる。(正法眼蔵生死)

だが、このことを身をもってわかるには、たくさんの年月を要するであろう。


安居中お世話になった、斎藤信義方丈、小松一哉後堂老師、良孝師、良鷲師、各役寮の和尚、僧堂安居の先輩後輩に感謝申し上げます。

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