2000年11月アーカイブ

喫煙者差別

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 筒井康隆の「最後の喫煙者」という短編小説を読んだ.愛煙家である小説家が禁煙を進める世論の高まりと共に迫害されていくというお話.名刺に「わたしはタバコの煙を好みません」と印刷している女性編集者,「犬と喫煙者立入るべからず」という公園の看板,ぼろぼろなのに二割増の新幹線の喫煙車,そして事態は喫煙者の惨殺・日本たばこ会社の焼き打ちへと発展していく.
人類の叡智は常に,その愚行が極端に走ることを食いとめるという説があるが,おれはこの説に反対である.極端というのがどれほどのレベルをさしているのか知らないが,過去,人類の歴史をふり返れば愚行が私刑とか集団殺人とかいう極端の一種に走った例は数限りなく存在する.喫煙者差別もついには魔女狩りのレベルにまで達したが,差別する方はこれを愚行だと思っていないのだから始末が悪い.宗教とか正義とか善とかいう大義名分がある時ほど人間の残虐行為がエスカレートする時はないのだ.
 このファンタジーはもしかしたら現実のものとなるかもしれない.大多数が嫌煙者になれば,喫煙は悪習であるという風潮が高まり,やがてそれが喫煙者は悪人であるという偏見を生んで粛清が始まりかねない.
 すでにその種は現在においてもある.吸殻のポイ捨てを見て,煙草を吸わない人は「喫煙者はマナーが悪い」と思う.それを数回見れば「喫煙者は誰でもマナーが悪い」と思うだろう.同様に路上で煙を撒き散らしている人を見て「喫煙者は他人の迷惑を顧みない」と思い,数回繰り返されれば「全ての喫煙者は他人の迷惑を顧みない」と決めつける.そこまでいけば「喫煙者は誰でも悪人である」と思うのはあと一歩である.もちろん中には携帯灰皿を持ち歩いて吸殻を捨てない人や,他人に煙が降りかかるおそれのある場所では吸わないことにしている人もいる.帰宅して自分の部屋でしか吸わないという人もいる.しかしそういった「喫煙者は誰でも〜」という偏見に対する反例は見過ごされがちであり,ましてや嫌煙者が感情的になればなおさらである.
 人類の悪しき遺産である男女差別,職業差別,人種差別,障害者差別なども同じ論理でエスカレートしてきた経緯がある.ひとつふたつの小さな違いが過度に一般化され,偏見を生み,過剰な反応につながっていく.このことは今や差別する側に立つ嫌煙者が「愚行」に走ることがないよう大いに反省しなければならない.そのために以下のようなことを自分に言い聞かせる材料として用意してみた.
●喫煙と人格は一切関係がない.非喫煙者にも悪人はいるし,喫煙者にも善人はいる.(この場合の悪とは殺人をはじめ犯罪行為を意図している)<喫煙と人格の切り離し>
●同じく喫煙と能力には一切関係がない.喫煙をするかしないかによって能力が優れたり劣ったりすることはない.<喫煙と能力の切り離し>
●喫煙は自由に選ぶことのできる嗜好である.嗜好としての喫煙は他人がとやかく言うことではない.(ただし健康を心配するという親切についてはこの限りではない.また,煙草という毒物の販売は社会問題として問題視されなければならない)<自由の尊重>
●嫌煙者は自分自身が煙を吸い込むことを避けるという場合のみ,喫煙者に対して嫌煙を主張することができる.(喫煙者が吸う場所・時間一般に干渉しない.嫌煙者に迷惑をかけなければいつどこで吸おうが自由である)<過干渉の忌避>
●迷惑な煙もある場合には我慢するという寛容が必要である.誰でも他人に迷惑をかけないで生きていくことはできない.<限定的な許容の必要性>
●喫煙をするか否かという点でのみ異なる喫煙者と嫌煙者は,お互いに住みよい環境をつくるべく尊重し合いながら協力していかなければならない.<相互理解と協力>
 ただし煙草は気軽に手にとることができるにもかかわらず,自分及び周囲の人間の健康を害する毒物であり,しかも常習性があるという異常な事実,さらにその事実があまり認識されていないという異常な事態がこの問題を複雑にする.大蔵省とJTの責任が追及されるべきなのは言うまでもないが,社会問題として,さらには喫煙者・嫌煙者ひとりひとりの問題として意識していかなければなるまい.

何様?!

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竹 先日ある老僧の言葉で非常に心を動かされました.

「みんな,和尚さま,和尚さまといって敬ってくださる.法事のあとの食事はいちばん上座に席を用意され,みんな次々にお酒を注ぎにやってくる.こちらの言ったことは誰も文句を言わずにたいていその通りになる.こちらが文句を言えばみんな平謝り.  でも,それで勘違いして調子に乗ってはいけないと常に私は肝に命じています.ほんとうに調子にのっていばりちらしても,誰もいさめはしません.でもそうなったらみんなみーんな,心の中で(この人はこれだけの人なんだ)と軽蔑していることでしょう.」

 この言葉のとおり僧侶は,みんな陰で何を言っているにせよ,表立っては敬って接するため,自分が本当に偉いのだと勘違いして傲慢になってしまうという悲しい傾向があります.特にお寺で生まれ育った人は(私もそうですが),子供の頃から周囲にちやほやされ,修行というごく一時的な苦労だけで人生経験もなく僧侶になってしまうので,人を思いやることが人並み以下になってしまいます.

 檀家さんはヘソを曲げられたりすると厄介なので丁重に接しますが,調子に乗っていると心底「こいつはバカだ」とあざけります.そして法事と葬式以外ではできるだけ顔を合わせたくない人物ナンバー1になっていくのです.

 仏教徒であることの条件は三帰依であるとよくいわれます.すなわち仏さま・仏さまの教え(法)・その教えを保持する僧侶の3つを心身の拠り所とすることです.僧侶はこのうち3番目の僧侶であって,1番目の仏さまではありません.なのに自分自身が「天上天下,唯我独尊(お釈迦さまがお生まれになってすぐおっしゃった言葉とされています)」という僧侶の何と多いことでしょう!!

 仏さまに礼拝し,仏さまの教えをよく学んで,和合して仲良く教えを広めていく.これが僧侶のあるべき姿です.これに反する者は,僧侶ではありません.仏教でもっとも忌み嫌われる「悟ってもいないのに悟ったという者」にほかなりません.

 僧侶とて人間ですからエゴイズムを完全に消し去ることはできません.いろいろな欲が出ます.お金,私もほしいです.世間への見栄もある程度は張りたいし,出世もしたい.でもそういう欲は結局自分自身の苦しみの元になるのです.

 もっと肩の力を抜いて,自分を磨き上げたいと思うこのごろです.

今回の騒動、加藤紘一氏が山形出身ということでひいき目で見ていたが、まことに残念だった。「無理が通れば道理ひっこむ」ということなのだろうか、新聞が永田町を面白おかしくストーリー仕立てで報じているが、実際起こっていることは政治家にしか、いや政治家にすらわからないように感じられる。
内閣不信任案否決は午前3時46分だったという。そして朝8時すぎにはもう記者会見などしていた。どう見ても2,3時間しか寝ていない。政治家って人間なんだろうかと思わせる。途中で倒れれば「それだけの器じゃなかった」と言われるだけ。国を動かすということがいかに大変か。
街頭インタビューで居酒屋帰りの上機嫌が、「ほんっと、加藤さんには失望したね」なんて言っているのは全くお話にならない。政治に関心を持ち、投票行動を通じて参加していくことだけでなく、機会があれば積極的に政治について真面目にいろいろな立場の人と話を重ねることも大切だろう。
ところで、野中氏の名前が広務だというのを実は知らなかった。国会中継の名札を見て、「へぇー、内閣には広務っていう役職もあるんだなあ」と思ったのは私である。偉そうなことを言う資格は全然ないですな。

ゲームの話

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先月、ドイツであるゲームの本が出版された。日本でも少しは知られているドイツゲームの傑作「カタンの開拓者たち」の新しいシナリオとヴァリアントを掲載した「カタンブック」。
アマゾンコムなどを使えば日本から直接手に入れられたのだろうが、ドイツに住む叔母の夫(ドイツ人)に頼んで買ってもらった。
日本のゲーム屋さんでこれに翻訳をつけて売り出そうとしているところはまずないだろうと思う。本を1冊翻訳するのはゲームについている小冊子のルールを翻訳するのとはわけが違う。
そこで、自力で翻訳を開始した。ルール自体はそれほど単語の種類が多くないので楽だが、その前についているメルヘンチックなストーリーの翻訳が骨が折れる。
カタンの掲示板で翻訳仲間を募った。参加者が少なくてもぜひ完成させたい。
今回の翻訳のルールとして以下のように提案している。
・ですます体
・訳語は既存の日本語版に従う
・わかりやすくするための意訳・括弧注歓迎

Schauspieler(俳優)

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住職になって2年が過ぎた。緊張だらけの最初のころに比べ、法事も葬式も落ち着いて執り行うことができるようになってきたと思う。間違えても動揺せずに次の手を打つことができる。
自己完成の修行をしている僧侶にとって、葬式や法事は利他行、つまり他人を満足させる仕事、言ってみればサービスだ。初期仏教では出家者が在家のことに関わらなかったという。日本でも僧侶以外の葬式に僧侶が行くようになったのはそれほど昔ではない。はじめは僧侶の葬儀法を一般の在家者に適用していいのか議論があったほどだ。葬式仏教といって葬式と法事がメインになったのは江戸時代になってからのことである。
そういうわけで、僧侶がもっとも施主を満足させる効果的な方法を模索するのは当然の帰結と言える。今の時代、「わけが分からないからありがたい」というような人は滅多におらず、きちんと理性で納得できなければ受け入れないのが普通だ。となると従来の葬式・法事のやり方もわかりやすいものに改めるという必要が生じてくる。
最近詠讃歌という強力なツールを入手した。それも含め原義を損なわないよう注意しながらいろいろ工夫してみている。それは言ってみれば「演出」である。
この「演出」の副作用が最近出てきた。葬式や法事は人がたくさん集まってくるから一生懸命になる。それはいいことだがその分、人が見ていないところでだらけてしまう。起床が遅い、朝のお勤めがテキトーなどなど、息抜きにしてもひどすぎる実態だ。そのことをふと反省するたび、「ああ、何やってんだ?!」と自分自身に苛立ってくる。
「君子は人が見ているかどうかで行動が変わらない」と論語にあるのを思い出す。当たり前のようにして自分を律していけるようになりたい。

電車の色について

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都内を走っている12本の地下鉄のうち、いちばんイヤなのは日比谷線である。
まず、灰色という色がよろしくない。火葬の後の灰を思い出してしまう。
そして事実、サリンをまかれたり、脱線したりとよくないことが立て続けに起こっている。
霞ヶ関駅の壁をよく見ていると、人の顔が浮かんでいるように見える。実に不吉な地下鉄だ。(ユーザーの方、すみません)
2番目は、有楽町線のドドメ色。もう色がないのはわかるが、営団ももう少し色を検討すべきではなかっただろうか。
中央線で自殺者が相次いでいるが、その一因に電車の紅色があると思う。
山手線の緑、京浜東北線の水色、埼京線のエメラルドグリーンなどと比べて、生暖かく楽しそうな色だ。
思い詰めたとき、あれを見たら「死んだら楽になれる」と思うのも無理はない。極楽直行便。日比谷線と比べこちらはおめでたすぎる。
武蔵野線も同じような色だが、路線の大部分が高架になっており、幸いにして飛び込めない。
JRも、安全祈願祭などをする前に、この色を検討すべきではないだろうか。

女装

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友人の結婚式の出し物として、友人と3人で女装してパラパラを踊りました。馬鹿と笑われてもしかたなく、こんなところに書いておくと恥ずかしいのですが、気合のはいった内容だったので書きとめておきます。
金髪のカツラ、ガン黒のドーラン、白のアイシャドウ、白い口紅、付けまつげ、ラメのタンクトップドレス、黒いミニスカ、黒ソックス、黒サンダル。これで材料費11,000円也。
買出し、準備、練習に要した時間は計13時間。これはもはや結婚する友人のためではなく、我々自分自身の満足のためであった。
パラパラのCDとビデオを借りてきて研究。振付けは専門家にしていただいた。何度も何度も繰り返し練習。メロディーは歌えるくらいになった。腰使いが難しい。
当日は本番までパラパラのことで頭がいっぱいで、本番後はすぐお開きとなった。まさに、踊るためだけに結婚式に来たといった感じである。下品さはかけらもなく、その完成度に多くの方から賛辞を頂いた。
女装をすると、なぜか言葉遣いも女性になる。また普段気にしない容姿なんかが気になってくる。誰が一番きれいかなんて、考え始める。スカートをはいてすうすうする裸に近いような身体感覚。これらはとても新鮮な経験だった。癖にならないようにしたいものである。
実は、このメンバーは、前回(私は不参加)の結婚式ではバニーガールの格好で醜悪なラインダンスをやっている。そのときと比べ、かける労力が確実にエスカレートしている。次はどうなることだろうと思うと、恐ろしい。

地元での演奏会

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コチアンカルテットチェコ共和国の弦楽四重奏団「コチアン・カルテット」の演奏会を地元で開くことになり,主催者兼司会として仕事をした.もともとは吹奏楽団の活動費を捻出するための方策だったが,世の中はそんなに甘くなく,会計の話ではおそらく赤字になったようだということである.それでも私自身の満足度,お客さんの喜んだ顔からすれば全く後悔のない演奏会となった.
赤湯駅で奏者の方々をお迎え.同行のピアニスト白澤さんはシュトットガルトで勉強していたことがあり,奏者とドイツ語で話していた.話していると4人は仲間内ではチェコ語を話しているが,対外的には英語で用を足し,そのうち2人はドイツ語も堪能だった.つまり2人にはドイツ語で話し,残りの2人には英語で話すことになった.さらに白澤さんは日本語,地元のスタッフは山形弁で話すので,英・独・日・山のテトラリンガル(四重言語)になる.今までに経験したことのない状況に,頭が容量オーバー気味.「Er
has ...」など言葉も互いに交じり合う.何を言っているのか自分でもわからなくなり最も得意とするはずの山形弁にまで障害が出てくる始末.
奏者の具合が悪くなり急に病院を探したり,イスが低くて急遽ピアノ用イスをあちこちから調達したり,カーテンコールがまだあるのに司会アナウンスを入れたり,もう1曲アンコールがあったのに演奏会を終了してしまったりするなどハプニングはたくさんあったものの,完成度の高い演奏のおかげで演奏会は大成功に終わった.プログラムはドヴォルジャークの「糸杉」という歌曲アレンジもの,モーツァルトのピアノ四重奏曲,メインが「アメリカ」だった.ドヴォルジャークは「これがお国芸だ!」と言わんばかりの演奏.テンポのゆらし方が自由自在でロマンティックに歌い上げる.ソロがメロディーを引っ張ってもアインザッツが乱れない.特に「アメリカ」の3楽章のチェロの情緒たっぷりのソロは感激ものだった.モーツァルトもその調子で遊び心のある好演.ピアノがえらく情熱的だったのが印象に残った.こういう情緒のある演奏はクラシックに縁遠い山形人にも十分迫るものがあったようで,大拍手となった.
演奏会終了後のレセプションも楽しいものとなった.「やっぱり演奏会の後はビールだよね」「こういう小さい町は好きだなあ」などとご機嫌の奏者の方々とおしゃべりをして過ごす.「日本の仏教徒は肉も食べるし酒も飲みます」という話をしたら,「仏教は哲学だと思う.だからモラルとは切り離していいはずだ」などと言われた.また盛んにプラハを宣伝しており,プラハでの連絡先まで教えてもらった.「いつ頃来られる?」なんて気の早い質問もあったが,いつかは行ってみたいものである.その他サイン入りプラハ写真集を頂いたりして,2時間という短い時間だったが刺激的な発想に触発される有意義なひとときだった.
こういう貴重な経験はたとえ大金を出したとしてもなかなかできない.ひとつのコンサートは2時間ぐらいのものだが,その陰には奏者の手配から始まり,交渉やらプログラム作成やら,その他こまやかな気配りがたくさんあってやっと成功といえるものに結実する.演奏会の準備に携わったスタッフに心から感謝したい.

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