2001年8月アーカイブ

突発講演会

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昨日先輩からメールがあって、インド人の先生が大学に来るので都合がよければ来るように言われる。たまたま(?)何もなかったので行ってみた。
チャクラボルティという先生で、私はクリシュナ=だと思って論文を探し出し、予習して行ったが、姓が同じで別人だった。ハワイ大学で教鞭を取る快活な若い先生だ。
幕張の国際美学会でインドの美的経験ラサ理論を発表しに来ていたが、桂先生がお友達で少しだけ抜け出してくることになったらしい。学芸大の稲見さんのところへ行くという話はボツになり、結局東大にいらっしゃった。
演習室に集まったのはインド哲学の院生6人。夏休み中、前日の連絡でこれだけ集まるのもすごい。
約1時間半ほどの話であったが、ハワイにいらっしゃるせいかインド英語もわかりやすく、楽しいひとときを送ることができた。
インド哲学は議論を中心とした探求(aanviiksikii)であり、見解(darsana)では狭い。竜樹は「自分の見解は何もない。何もないから過失がない」と説いたが彼は探求者であった。
そして探求を支えるものは文法学である。行為を中心に6要素(格)が分けられる理論は、全ての哲学的問題を包摂している。カルトリ(主格)は主体性、カルマン(対格)は客体性、カラナ(具格)は認識(手段)論、サンプラダーナ(為格)は人間の目的、アパーダーナ(奪格)は因果論、アディカラナ(於格)は内属という問題を内包している。
一切知者論に関しては、ニヤーヤ、ヴェーダーンタ、ヨーガ、仏教、ジャイナ、タントリズムが一切知者を認めているが、資格と内容において違いがあり、特に仏教説は有意なものだけ知っていればよいという一切知者で、特異な点がある。
終了後、文法学派内でカーラカから哲学的な問題を広げていくことが実際にあったかどうか尋ねてみた。答えはあっさりNO。しかし文献学よりも自分自身の啓蒙のために哲学はあるものだと教えられた。
インド人の論文って、どうしてこうMy哲学になっちゃうんだろうと思っていたが、それもそのはずだった。論文を読むのと比べて、実際に話を聞くと古代の哲学が実に生き生きとしていることに驚く。この新鮮さは、きっと論文では伝わらなくて、対面でこそわかることなのだろう。「議論を中心にした探求」ということが体現されている。
ハワイ大学ではあまりインド哲学を学ぶ学生がいないそうで「学生募集中」。ハワイ大学留学・・・周囲には遊びに行ってるとしか思われないが、魅力的な選択だ。
最後に印象に残ったことばを2つ。
paadam upaadhyaayaat paadam sabrahmacaarii, paadam adhyayanaat paadam
kaalakramena.
(勉強は先生から、友人から、教えることから、時間の経過からわかる:オリジナルのバース(聞き取れずあやふやなところあり))
aham Naiyaayiko 'smi, idam mama matam, tasmaat idam Naiyaayikamatam.
(私はニヤーヤ学派の者である。これは私の考えである。それゆえこれはニヤーヤ学派の考えである)

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