どこに奥深さを感じたか

「力をもいれず、心をも費やさずして仏の位に入る(正法眼蔵生死)」
3泊4日で御詠歌の研修会。梅花流師範養成所を修了した中から推薦された全国30数名の僧侶が集まり、朝の8時から夜の8時までみっちりと御詠歌をお習いする。すでにある程度の詠唱技術が前提となっているので、所作(作法)、細かい節回しや曲想を集中的に見てもらう。
基本的に1人ずつなので、皆に聞かれている緊張の中での発表となる。その上に先生のご指導も手厳しい。以前ならば途中でくじけないように誉めて下さったものだが、今は指導者として通用させるため、もっぱら悪いところを指摘されることになる。こちらも本気の本気だ。
「どうやったらもっと深みを増せるか」「どうやったら曲の雰囲気をもっと出せるか」…よりよいお唱えをすることに全身全霊を傾けていると、だんだんもの狂おしくなってくる。テンションが上がって、心は平静ではいられない。
もっとも、感情の高まりは歌一般にあることだろう。人はなぜ歌を歌うか、踊りを踊るかと言えば、普段の立居振舞では表わしきれない感情を表現するためだと言える。歌や踊りの本質はそこにある。御詠歌も然り、「法悦」―仏教にめぐり合えた喜び―という感情がその動機になっている。
しかしこうした抑えきれないダイナミックな心の動きを表出させているとき、心は寂静とはほど遠い状態にある。法悦と寂静―どうやってこの2つに折り合いをつけていくかが悩ましく感じられた。
もっと修行を積めば、御詠歌全てがスキーマに組み入れられ、心をも費やさずして体中から仏が流れ出してくるという日が、果たしてやってくるのだろうか。

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