映画(25) 繰り返し見ること








アイシャー・タキヤは昨年、新人賞を受賞している
思ってもみなかった

Socha na tha(思ってもみなかった)
〈あらすじ〉
 財閥の御曹司ヴィレーン(写真左)はいい車に乗って毎日遊び暮らしていた。それを見かねた父がお見合い話をもってくる。渋々了承するが、実は恋人がいるヴィレーンは結婚する気など全くない。お見合い相手のアディティ(写真右)も同じ考えを持っており、2人は相談して破談させる。それがもとでヴィレーンのオベロイ家と、アディティのマーロートラ家は険悪になってしまう。
 しかしそんなことにお構いなく、ヴィレーンは自分の恋愛の相談相手として、アディティとその後も会っていた。恋人のキャレンとあまりうまくいっていなかったためである。そこでアディティは仲を深めるために2人でゴアに旅行に行くことを提案、キャレンの親を説得するため自分も同行する。
 しかしゴアの旅は、結果としてヴィレーンとアディティの仲を親密にしてしまった。しかしやがてこの秘密旅行のことが両家にばれて、両家はさらに険悪な関係になっていく。ヴィレーンは、アディティのことがだんだん気になりながらも、これまでのなりゆきでキャレンにプロポーズし、キャレンはこれを承諾した。「こんな嬉しいニュースはさっそくアディティに知らせなくちゃ!」「こんなときにあなたはアディティなの?!」
 やがてゴアの思い出に浸っているうちに、いても立ってもいられなくなったヴィレーンはアディティの家に忍び込み、愛の告白をする。アディティも彼のことが好きになっていた。しかしどうする2人?
 ヴィレーンはキリスト教徒のキャレンの親のところに行き、「ヒンドゥー教と結婚するからには、酒も肉食もやめてもらわないといけない」などと言って親を怒らせ、破談にしようとするがそれも失敗。とうとうキャレンに「僕は、君のことをもう愛していないんだ」と告白することになる。そして単身小さな荷物をもってまたアディティの家に忍び込み駆け落ちしようと誘うが、アディティは、幼なじみと婚約の準備を始めてしまっていた。マーロートラ家に捕まって追い出され、父親からも親子の縁を切られてしまうヴィレーン。
 すっかり意気消沈したヴィレーンは父親にすがって許しを乞い、放蕩をやめてまっとうに働くことを誓う。オベロイ家の建築プロジェクトで昼夜を忘れて働き、成果を認められるようになる。しかしそのがむしゃらさの影に、恋人への傷心があることを父親は見逃さなかった。
 ヴィレーンのプレゼンが行われていた日、アディティは婚約の日だった。メーンディを塗っているところにキャレンが現れ、「あなたのせいで私とヴィレーンの仲はだめになったのよ。それなのにあなたは別の人と結婚するの?」と詰め寄る。アディティは「出てってください!」と追い出したものの、ヴィレーンのことが忘れられないのは事実だった。この一部始終を見ていた姉が励まして、とうとうアディティはメーンディをカーテンにこすりつけ、小さな荷物をもって家から逃げ出す。プレゼンを終えたヴィレーンのもとに駆け込むと、2人はそのままタクシーに乗って遠くに旅立った。
 やり方は強引だったが2人の仲はやがて両家に認められ、後日めでたく結婚となる。
〈感想〉
お見合い結婚を越えて恋愛をまっとうするという話はインド映画でよくある筋書き(最近では「ヴィール・ザーラー」など)だが、それを捻ってお見合いの相手と出会うことでそれまでの恋愛がかすんでいくという筋書きになっていたのが面白い。もっとも、キャレンとの仲は慣れきっていてもう恋愛と呼ぶには程遠かった。
 とはいえ、アディティと出会ってすぐ恋愛関係になったのではない。キャレンとの恋愛相談とゴア旅行を通して何度も会っているうちにだんだんと恋が芽生えていくのである。昨年のヒット作「ハム・トゥム」もそうだったが、一目惚れが基本だった一昔前のインド映画と比べて恋愛関係ができるまでに要する時間が格段に長くなってきている。
 インド哲学で、2つのものにある関係を正確に把握するまでに何回見なければいけないかという議論があった。例えば火と煙には因果関係があるか否かといった場合である。2つがたまたま一緒だったということもあるので、検証という意味合いでは繰り返し実験・観察しなければならないが、やがて関係は1度見ただけで把握されるという説が登場した。結果論的にその関係は最初の1回で把握されているという訳である。それ以上観察するのは、単に記憶の弱い人が確認するためにすぎないという。
 これを恋愛関係で考えてみよう。ある人と自分との間に運命的な関係があるか否か、1回で分かることもあるだろう。特にお見合い結婚では即座の判断が求められる。しかしこれは現代においてはもはや幻想というほかない。実際に男女は、繰り返し会うことで関係を発見していく(正確には築いていくというべきか)。現代では特に、男女ならば誰でも必ず良好な関係を結べるわけではない。結婚したらとんでもないハズレだったなんてこともあるだろう。世知辛いことかもしれないが、関係は常に疑っていかなければならないのである。
 映画の中で出会いから結婚までの時間が長くなっているのは、一目惚れが時代遅れとなり、関係を検証し続けることが不可欠となった現代のひとつの反映ではないかと思う。もっとも日本はさらに進んで行きずりの恋愛の時代に突入しているのかもしれないが。
 アディティ役のアイシャー・タキヤはビビアン・スーに似ていて日本人好み。しかしヴィレーン役のアバイ・デオルの顔がほとんど喜劇俳優。今公開中の「ザヘール」に出演しているイムラン・ハシュミもそうだが、もっとハンサムな俳優がいるだろうと思う。わざとか?

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