2005年9月アーカイブ

仏教ブームだなどというけれども、寺院のもつ危機感は近年増している。過疎化と個人主義化による檀家制度の変容、お寺を中心としてきた地域コミュニティの崩壊、葬儀社主体の葬儀、無宗教を標榜する世代の成長……世の中の動きに無自覚なまま旧態依然としていてはお寺も潰れる時代がやってきている。それにどうしていくか。

インタビューは宮坂宥勝・真言宗智山派管長、青山俊董・愛知尼僧堂堂長、島薗進・東大教授という豪華な顔ぶれ。曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗から3人の青年僧が匿名で本音をぶつけあう座談会、子弟教育を考えるフォーラムなど、生の声を聞くことができる。

僧侶として大事なことは慈悲の心や実践であり、若い人には教理よりもそちらを培う機会を増やしていかなければならないというような話になっている。具体的にはボランティア活動や、ターミナルケアへの参加である。

それは道理だが、かつて起こった「禅主学従論」のように、僧侶にとって仏教学はいらないという話になってくるとすれば由々しき問題である。座談会の中でも「学者は学者の考え方しかない」という話が出てくる。

勉強が嫌いな僧侶はたくさんいるだろうが、嫌いなら嫌いでかまわないから、勉強している僧侶を妨げるべきではない。理論と実践の両方がかみ合うためには、もちろん個人の中に両方があることが望ましいけれども、教団としてみれば両方にエキスパートがいて手を取り合うことが肝要となるだろう。

葬儀屋さんの司会

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このところ田舎にも葬儀屋さんがだいぶ進出してきた。近所で互助的にやっていたところが、地域コミュニティが崩れ始め、同時に各家が経済的にも力をつけているため、お金を出して葬儀屋さんにお願いした方が何かと楽になってきたのである。
その結果、これまでは町内会長(隣保長)がしていた葬儀の司会も葬儀屋さんが取り仕切ることが増えてきた。餅は餅屋、葬祭コーディネーターという資格もあり、ソツがない。だが今日のお葬式の司会は正直いただけなかった。
若い人だったが、葬儀が始まるまでは方言まじりの愛嬌ある声で客に声をかけている。ところが開式前になると突然、しんみりとした口調になって覚えてきたような口上を述べ始めた。そのクサイことクサイこと。聞いていて恥ずかしくなり、笑ってはいけないとついうつむいてしまうほどだった。
司会は式の進行を円滑に進めることが仕事であって、場を変に盛り上げようとしたり、あまつさえ説法を始めたりすべきではないと思う。自分のカラーを出さずに粛々と進めるのが望ましい。司会とは元来そういうものだし、それを逸脱すれば少なからず違和感を生み出し、式を滑稽なものにしてしまう恐れがあるだろう。
一方、私も反面教師にすべき点があった。それはあまり演出めいたことをしすぎないこと。演出が遺族の心にヒットすればよいが、そうでなかったら式が一気に白けてしまう。そんな小手先のテクニックに腐心するよりも、誠心誠意務めることを第一としたい。

宇井伯寿、玉城康四郎、平川彰、和辻哲郎……日本を代表する仏教学者をロゴスの剣でバサバサ切っていく怪著。

「ブッダは輪廻を否定した」「形而上学的な問題には不可知論をとった」「苦行を否定した」「自己を否定した」「十二因縁は後代の付加」「ブッダになった後の瞑想は人間の証」「無明は純粋論理的な概念」「悟りは神秘体験だった」など、仏教学者が採用してきた説に徹底的に異を唱える。あたかも仏教学の世界にセンセーションを起こして再考察を促そうとしているかのようだ。

ブッダは理詰めでこの世の因果関係を審らかにしたこと、そこに悟りがあるのであり、ブッダの独創性があることは、石飛道子氏も唱えるところである。二人とも「外道(非仏教のインド哲学)」から出発し、仏教を外から見ることによってこのような結論にたどり着いた。これらの批判に「仏教学者」はどう答えるのか、同じく外道を研究している私はとても知りたい。

ところでブッダの経験主義と論理は、相容れるのかどうかふと疑問に思った。ブッダの論理=因果関係は、あくまで経験論からもたらされたものだというが、経験を演繹しているわけではない。したがってブッダの結論が人類に普遍的であるかどうかが、その論理の正当性を左右する分かれ目になると思うのだが、どうだろうか。

実に考え抜かれた本だった。

西洋論理学は時間を対象にすることができない。「クジラならば哺乳類である」の対偶「哺乳類でなければクジラでない」は正しいが、「家事をしなければ妻がうるさい」の対偶「妻がうるさくなければ家事をする」はそのまま取ると変だ(余談だが私の場合前者は偽、後者が真)。それは2つの項目に時間の差があるからである。

ブッダの説く因果の公式「Aが生ずるからBが生ずる」「Aが滅するからBが滅する」がこの穴を埋めるという。そこには時間差が埋め込まれている。「家事をしないから妻がうるさい」「家事をすれば妻はうるさくない」これならOKだ。

なおかつ、原因がないのに結果があるということはないから、真理表を作ればAが偽でBが真「家事をするのに妻がうるさい」のときだけこの公式は偽になり(家事をしないことと妻がうるさいことに因果関係があればの話だが)、命題論理学の真理表になかったパターンが生まれる。

ここからブッダは西洋論理学でも扱うことのできなかった関係までも知る一切知者であることが導き出されている。

さらに、「自己を愛する者は他人を害してはならない」という黄金律から大量破壊兵器の殺戮をやめさせようとして大量破壊兵器で殺戮したアメリカ・イギリスの愚を批判し、仏教の論争の的である無我論(自己はない)と非我論(Xは自己ではない)にまで足を伸ばす。

ブッダの説く十二因縁(苦しみの原因を次々とたどっていき、最後に無知に行き着く教え)を「存在論敵認識論体系」というのはまだ筆者にも迷いがあるのかもしれないが、そこは一番難しいのだろう。存在論は実在論につながりやすく、認識論は錯覚のそしりを免れない。

『アングッタラ・ニカーヤ』に説かれる討論の項目から、筆者は定言的三段論法、仮言三段論法、選言三段論法に対応させているのが面白い。でもこれをレトリックの観点から考えてみる視点も面白いのではないかと思った。

原始仏典がどことなく冗長で退屈なものに思える方にお勧め。

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