2006年8月アーカイブ

お盆明け

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睡眠時間3時間ちょっとで午前中に梅花講の法話、その後に法事1件、お昼を頂いて帰ってきてほっとしているところに訃報が入って枕経1件。祖母と母と叔母は肘折温泉に出かけていったので一人でお留守番をしている。

お盆の期間の法事では『仏説盂蘭盆経』をお客様と一緒に読んでいる。祖父が「お盆中の法事用経本」と書いた箱にしまっていたので、それを見つけて以来毎年使っているわけだ。

『仏説盂蘭盆経』はお盆の行事の根拠になったお経。その中で釈尊の弟子の目連尊者が神通力であの世を見たところ亡くなった母が餓鬼界に落ちているのを見つけ、釈尊に助けを求める。

釈尊は修行僧が雨季の修行を終える7月15日に修行僧を集め、供養して祈願してもらうとよいとアドバイスした。それを実行したところ、母親が餓鬼界から救い出されたため、今後7月15日を父母の幸福を祈る行事とした、という内容。

このお経、インドから伝来したものではなく中国で作られた偽経(ぎきょう)であることが分かっている。じっくり読んでみると確かにインド撰述にしてはおかしい表現がある。

「時に仏十方の衆僧に勅し、皆先ず施主家の為に、七世の父母を呪願し……」とあるが、出家者である目連を「施主家」と呼ぶのはおかしい。これでは在家になってしまう。

「初めて盆を受くる時、先ず安じて仏の塔前に在らしめ……」まだ釈尊が生きているときの話なのにもうストゥーパ(仏舎利塔)が建っているとは!

基本的に在家と出家の区別がめちゃくちゃである。繰り返し読むうちにだんだん気になってきた。

そもそも家出人である出家者にとって、捨ててきた家族にどう責任を取るかというのはなかなかに難問である。釈尊は家族を出家させて教団に入れるという方法を取った。

道元禅師の見解も一定しない。
一切衆生斉しく父母の恩のごとく深し(『隋聞記』3-16)」
と言って自分の家族にのみ関わることをよしとしなかったり、
母儀の安堵活命をも支度して仏道に入らば、両方倶によき事なり(『隋聞記』4-10)
といって家族を大事にするよう薦めたかと思えば、その直後に、
老母たとい餓死すとも、一子を許して道に入れしむる功徳、あに得道の良縁にあらざらんや(同)
と見捨ててもよいようなことを言っている。いろいろ言っておいてあとは自分で考えなさいと。

日本で初めて、僧侶が家族をもつ出家在家というスタイルが生まれたのは、家族と祖先を大切にする『仏説盂蘭盆経』を作らせた東アジア世界の儒教的伝統のためだけでなく、その芽はすでに釈尊からあったのかもしれない。

私も幼い子どもを残してインドに2年間旅立った身なので、こういうことはよく考える。父親不在の責任は、一緒にいられる間に精一杯のことをするぐらいしかない。明後日家族が山形に来るが、どれぐらい家族サービスできるかもう不安だ。

明日は1週間ぶりに何もない日。来客が少なかったらホームページでもいじろう。

お盆4日目

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法事3件、棚経2件、寺院へのお盆礼2件、親戚へのお盆礼3件。これで一通りお盆の行事は終わった。ふー
午前11時からの法事は、法要が終わってからずっとお客様が高校野球に釘付け。地元代表の日大山形高校が、県史上初のベスト8をかけて愛媛の今治西高校と戦っていたのである。
山形県代表は最近、関西出身者を多数擁する酒田南高校が多かったが、日大山形はほとんど県内出身者だとか、青木という選手は長井出身だとか盛り上がっている。
ちょっとでもピンチになると「よくやったよ」とすぐ諦め顔になるのが山形らしい。あからさまに勝つことを嫌い、運がよかっただけと言うくらい僅差で勝つか、さもなくば負けて相手に喜んでもらったほうがいいという卑屈なまでの謙譲の美徳。山形代表が甲子園でなかなか勝てなかったのはそのせいかもしれない。
夜は同級生2人を招いて久しぶりに飲み&ゲーム。2人とも何度か遊んだ経験があるのでちょっと冒険をした。ダイス運とブラフが楽しい「カサノバ」、見かけとは裏腹に考えさせる「たぶらか」、アクション陣取りゲーム「プッシャー」を遊ぶ。「コヨーテ」も出そうとしたが自分の顔が窓に映るのでダメだった。
12時近くまで遊んで、同級生の友人が帰ってから明日(というか今日)の書き物を思い出して先ほどまで書く。坦々としたお盆だったなぁ。

お盆3日目

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昨日とほぼ同じく法事3件、棚経18件。うちお茶を頂いたところ半数。
「お茶どうぞ」の言葉は何か相談したくて言っていることもあれば単なる社交辞令のこともあるので、実際にお茶を頂くかどうかの見極めはなかなか難しい。
判断材料はまず家族がいるかどうか。当主とお茶を出す奥さんがいてスタンバイしていたら留まる。当主が留守なら帰る可能性が高い。あるいはいても食事中だったりすれば帰ることにする。
次に準備の出来具合。気がつけばもう机にお茶とお菓子が出されているならばお茶を頂く。反対に、今道具を出してきたばかりという感じならば帰ったほうがよいかもしれない。
最後に軽く断った後の反応。「もう遅いですから」などと曖昧なことを言った後、「いいじゃないですか!」と強い口調で薦めるならば留まる。「一服ぐらい召し上がっていったらいいのに……」と口を濁す程度なら帰る。
何年も続けていると、だいぶ本音が分かるようになったが、まだ下手なのがお布施の頂き方。お茶を断りつつお布施が出てくるを待っているのはとても格好が悪い。お茶を頂かないことにしたならば、玄関にゆっくり向かいつついつ引き止められてもよいようなさりげなさが大事。
もちろんお布施なしでも帰る。お盆は稼ぎ時だねと言われるが、私はお布施を期待してお経を読んでいるのではない。あくまで死者の冥福と生者の安心が目的。お布施はもらって当たり前という顔をしていてはダメだ。
「布施なき経は読むべからず」という言葉があるそうだ。お経を読んだらお布施をもらえという話らしいが、研修会で講師が「思わずお布施をあげたくなってしまうようなありがたいお経を読めという意味だ」と仰っていた。
誠心誠意努めていればお布施は自然と付いてくるものなのである。それを履き違えてお布施が第一目的になり、信頼を失っている僧侶の何と多いことか。
明日も法事3件。棚経はあと2件だけ残っているが、寺院さんと親戚へのお盆礼がある。明日でお盆はおしまい。

お盆2日目

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昨日はたっぷり寝たので充実。午前中に法事3件、午後から棚経15件ほど。
8月14日といえばかつては最も法事の多い日だった。お盆のお墓参りをした翌日、遠くの親戚が一堂に集まり、明日からは神社のお祭もある。
それが今日は3件で拍子抜け。考えてみると月曜日で、若い人は地元でも働いている人が結構多い。何人かに聞いてみるときちんとお盆休みを取る会社のほうが少ないように見えた。
農業から会社勤めという労働事情の変化に加え、「お盆休み」から「夏休み」への変化で、お盆に家にいるのはご先祖様だけという家が増えている。そんな留守がちの家に帰ってきたいものだろうか。
法事では盂蘭盆経を全員で読んだ上でお盆=盂蘭盆の起源をサンスクリット語ウランバナ(????????)音写説、中国の盆起源説、イラン語のurvan音写説に分けて説明し、いずれをとっても現在の行事には謂れがあること、そしてその意義は親孝行にあることを説いた。
どんな行事も惰性でやっていてはやがて滅びる。時々意義を確認する必要があるだろう。
棚経読みで一件、中国人のお嫁さんが留守番をしていた。「お経読ませてください」「お父さんいない、分からない」しばらく中国に帰っていたせいか日本語がいまひとつ通じていない。どしどし上がってお経を読ませていただく。
お経を読んでいる途中、子どもがしきりに「チェー是什マ?(これ何?)」とお母さんに聞いているので、終わってから中国語で話かけてみる。「什マ時候回来了?」「わからない」「我説漢語、什公時候?」「…!、昨天!」「為爺々我念了仏教経、明白了?」「明白。」「在中国也仏教??」「不是…」久しぶりに話す中国語だがどうにか会話になっている。喋っている間、子どもがいたずらをしてきた。「很可愛。」「可愛?ウルサイ」「在漢語ウルサイ是什マ?」「ホワンイン」「児子都ホワンイン」
ときどきアッチャー(ヒンディー語)とかDann(ドイツ語)とか混じりそうになって可笑しい。最初は突然の見知らぬお坊さんの来訪に顔がこわばっていた奥さんもすっかり打ち解けた。「再見!」「再見!!」
明日も法事は少ないから棚経が終わりそうだ。あと16件。

お盆だよ全員集合

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先ほど棚経から帰ってきて、お盆の初日が終わる。朝は墓経、帰ってお盆参り客の接待、午後から合同法事、お墓参り、そして棚経と、例年通りの幕開けである。昨日の睡眠時間は3時間だったが、何とかもってよかった。
お墓参りは歴代住職の墓前でお経を読みながら、お寺が始まって540年の間、お寺を守ってきた32人の住職(私で33代目)の積み重ねに思いを致す。
32人の住職で、今生きているのは1人もいない。それぞれの時代を生き、仏法の灯火を受け継いできた面々。私は彼らからものすごく重いものを背負わされている気がした。やがて私も名を連ねたとき、誰がここでお経を読むのだろう。
私たちのいのちは、過去から現在、未来へと向かういのちの流れにある。それを体感できる機会がお盆だ。お墓参りで行き交う近所の人と笑顔で挨拶をかわす。
棚経は、江戸時代に檀家がキリスト教に改宗していないかチェックするための検査だったらしいが、今は檀家さんとのコミュニケーションの場となっている。だからお経3分、お話30分(その代わり全部の檀家を回らない)。
総代の家では何はなくとも今進行中の案件の相談や打ち合わせになるもので、話をしているうちに頭を整理することができた。本堂で使う椅子のこと、地区の墓地の管理のこと、総代の交替時期のこと、今度の先住忌のことなど。
いつもだと14日は法事5件、棚経10件ぐらいだが、明日は法事3件と少なめ。

表題の計算の仕方は、風が吹くから桶屋が儲かるまでの7段階がそれぞれ50%として、0.5×7で計算する。

「統計的な情報は、まったくと言っていいほどない」し、それぞれが50%でも掛け合わせれば小さくなるよというのが筆者の言いたいことだろうが、その大雑把な計算は0.8%という数字に何か意味を感じて買った読者を馬鹿にしてはいないだろうか。

高校で習った確率の計算の仕方のよい復習になったのと、仮説検定という統計の方法があることを知ったのは収穫だったが、専門用語を分かりやすく解説したという以上の知見は見られず。教科書を読んでいるよう。

人間の性行動―ルーティン・セックス,不倫,オーラルセックス,マスターベーション,夢精,避妊,スワッピング,乱交,オーガズム,両性愛,売春,レイプを,女性が同じ時期に2人以上の男性とセックスすることによって子宮内外で起こる精子戦争から解き明かす.

生物学者である著者はボランティアのカップルから精液を収集したり,ペニスの先端にファイバースコープを取り付けて射精の瞬間を映像に収めたりして徹底的に実証的な研究を行ったという.その結果を収めた学術書から,ストーリー仕立ての「シーン」とともに一般的に書き改めたもの.

サルやトリなどのほかの動物も例に出しながら,多くの性行動は人間に特有でないことを示すとともに,人間の性行動の原理も分かりやすく描く(不倫の多い種では睾丸が大きくなる,など).

精子にはブロッカー(子宮口に滞留して後から来る精子を止める),キラー(子宮内でほかの精子を毒殺する),エッグゲッター(卵子めがけて突っ込む)という役割分担があり,セックスかマスターベーションか,パートナーとの前のセックスから何日経っているかによって男性は量と配合を自由に変えられるという.ピストン運動は前に入っている精液を掻き出すためのものだという.

一方女性は排卵周期を自分でも分からないほど隠すことでパートナーのガードを外したり,オーガズムによって子宮口を塞いだり広げたりしてよりよい精子を集めるチャンスを作る.

これはまさに男と女,男と男のアクションゲームだ.そんな中で勝ち抜いた1匹の精子と,それを選んだ卵子から生まれたのが我々なのである.根本的な生存欲求は並ではない.

これを読んでいると,男女ともパートナーに不倫させないようにして自分は不倫するのがよいように思われてくるが,最後のシーンで貞節も(大部分の人が取る)ひとつの戦略であることを筆者は述べている.

生物学的には,自分の遺伝子をもった子孫をたくさん残した者が勝者なのである(健康であることが大事なので,ただ多ければよいという訳ではないが).不倫も一つの手だが,養育や性感染などの面でリスクが大きい.ステディなパートナーをもち子どもを作り続けられるならば,それに越したことはないのである.ただそれがうまくいかなかったとき,臨機応変な戦略を取るものが勝つということ.まさにゲーム.

400ページを超える大著だが,読み終わる頃には人間観がずいぶん変わったような気がする.

かねて準備していた坐禅&ボードゲームの集いが今日開かれた。主催は地元の子ども育成会連合会だったが、市の仏教会や曹洞宗にも協力いただき、人材も資金も潤沢な会になった。
9:30集合で開会式。般若心経を皆で読んで、市の仏教会の会長さんと育成会長さんからあいさつを頂く。
育成会長さんの話で、この地区の学校のはしりは寺子屋だったことが述べられ、育成会がお寺がかつて持っていた教育機能(今はほとんど0に等しい)に目をつけたことがうかがい知れた。
続いて坐禅。結跏趺坐ができる子どもが意外に少ない。驚策(肩を叩く棒)を見せると悲鳴が上がったが、結局叩かずじまいに終わる。でも5分間だけの坐禅は、いつ叩かれるか分からない恐怖から皆緊張して背筋を伸ばしていた。
そして約45分のお話。地域にはいくつお寺があるか、お寺は何をするところか、お坊さんは何をする人かというイントロダクションからスタート。「心をきれいにしてもらう場所・仕事」という表現を使ったが、これは昨日パラパラ見ていた玄侑宗久の言(「子供にお葬式の意味を教えるには何といったらよい?」『お坊さんだって悩んでる』文春新書)。
それから先祖の数は2のn乗という話になって(実際には重なっているので延べ人数)、人類みな兄弟とか、先祖は(親も含めて)子孫である皆が現代に生きていることが嬉しいとか、数え切れないほど多くの先祖から遺伝子をもらった自分の命を大切にしようという話に。遺伝子の話は、今読んでいる『精子戦争』に影響されている。
次に死後の世界の話。「私も行ったことはないから分からない」と前置きした上で六道を心理面からひとつひとつ説明(欲張り→餓鬼、戦争→修羅、弱肉強食→畜生……)し、天上界が一番いいのではない、釈尊はその外側をめざし、今それが極楽と呼ばれていることを説明した。先日の研修会で「説教師
見てきたような 嘘を言い」という川柳を聞いてから、自分なりに考えた説明の方法である。
そしてインドでは焼け残った遺体を川イルカが食べるという話から、日々私たちが口にするものにも命があるという話(!)に、遺伝子の提供者である先祖と、血肉の提供者である食べ物に感謝しようと話をし、最後に実践として、ゆうもあの一階理事長から教わったありがとう運動(1年の間に年令の数×1万回ありがとうと言うとすごいことが起こる)と、日ごろ私が心がけている「人より先にあいさつしたら勝ち」の話をした。
こうして振り返ると自分自身で作ったトピックはほとんどなく、受け売りだらけであることが分かる。演題である「命の意味」は伝わっただろうか。
話も終わり頃には低学年から飽き始めていたが何とかもたせる。終わってお昼ということになったが、まだそうめんが煮えていないというので寺山の探検へ。往復30分。
山登りは楽しいかなと思って連れていったがお腹が減っていることもあってか子どもたちは「疲れたー」「のど渇いたー」の連呼。「エスカレーターほしい」なんて言うのがいて笑った。
期せずして修験道のようになってしまう。
帰るとようやくお昼。潤沢な予算のおかげで流しそうめんに加えて500mlジュースと草岡ハム(地場産の高級食肉)のフランクフルトが出た。流しそうめんは、せき止めてこぼす子どもとか、終点のざるから食べている子どもとか、性格が出て面白い。
役員が昼食を取って片付けている間に子どもたちは本堂で自由時間。鐘も木魚も鳴らし放題、そのうちプロレスごっこやかけっこを始める子どもたちがいて、お寺がこんなに賑やかなのは生まれて初めてだった。「昔、寺子屋だった頃はこんな感じだったのかな」などと思いながら特にとがめないで喧騒を楽しむ。
そしていよいよボードゲームが登場。今回投入したのはニワトリのしっぽ、カヤナック、ネコとネズミの大レース、オバケだぞ〜、キャッチミー、こぶたのレインボーレース、ワードバスケット、ブロックス、ジェンガ、投扇興の10タイトル。箱を持ってきたとたん、子どもたちが詰め寄ってくる。
役員さんに学年ごとに分かれてもらってゲームスタート。終わった人から他の学年と混ざって遊んだりもした。この中で一番人気が高かったのはブロックス(4人限定だし)。盛り上がっていたのはキャッチミーとジェンガだが、感想ではネコとネズミの大レースが一番面白かったという声が多かった。
ある程度役員さんにゲームを覚えてもらっていたが、子どもが多いので対処しきれない。こんなとき、説明なしに遊べるジェンガが重宝した。それにスティッキーがあればと思ったところである。
皆で掃除をして、参加賞を手渡して解散。
坐禅5分、お話45分、ボードゲーム2時間(笑)。時間配分はなんか変だが、夏休みの子どもたちにはいい思い出になったと思う。もしかしたら来年もあるかもしれない。今度は泊りがけで。そうなったら、今度はお墓で肝試しかな。

ネズミ!

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朝から法事とか墓経とか来客とかぎっしり。その後に明日開かれる「いまどき寺子屋体験」(坐禅&お話&ボードゲーム)の準備。何話そう?
お葬式や法事では「誰でもいつかは死ぬ。だから私もあなたも死ぬ。限られているからこそ尊い命」といって死の準備教育のようなものができるが、将来のある子ども相手にそんなこと言ってもなぁ。先祖から代々受け継がれてきた命だから大切にと言っても、親が健在なうちはそんな実感がないだろうし。
今日の法事で実験的に因果応報や自業自得の話をしてみた。今生きているのは、前世の業を清算するためなのである……と言いかけたがこれはかなり危険。お坊さんは、この理屈で社会的な差別に加担してきたのである(いわゆる「悪しき業論」)。
これでは「あなたが不幸なのは、前世で悪いことをした報いなのだ。このツボ(印鑑)を買えば……」というようなインチキ宗教よりもっとタチが悪い。因果応報の原理は現状を肯定するためのものではなく、あくまでよりよい未来を志向するものとしてのみ、適用されなければなるまい。
ひとまずお寺とはどういうところか、お坊さんとは何をする人か、どうしてお経を読むのか、なんてところから始めてみようかな。そして先祖の話から、親心という無条件の愛につなげて、生きているというそれだけで尊いことを説き、感謝の念にあふれた生活を薦めるという道筋で。小学1年生から中学生まで、どれくらい伝わるか不安だ。
話が終わってしまえば、お寺の境内を探検して、流しそうめんの昼食を取って、午後はボードゲームと何の心配もない。先日、役員さんに集まってもらってワードバスケット、キャッチミー、ニワトリのしっぽ、投扇興、カヤナック、オバケだぞ〜を一通り遊んでルールを覚えてもらった。さらにジェンガ、ブロックス、ネコとネズミの大レースなどを用意(ゆうゲームズが多い)。無敵。
ゲームではなくて現実の話だが、先ほどから部屋の中に1匹子ネズミがいる。ときどき顔を出してチョロチョロしていたが、1時間前からどこかに行ってしまった(部屋からは出ていない)。寝ている間に耳をかじられたらヤだな。

教育か介護か

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カレンダーを見ると6月最終週以来、週末はずっと法事がある。平日もたまにお葬式があるので、7月と8月のつくば:山形の滞在率は2:3である。たまにしか家にいない父に娘がなつかないのもむべなるかな。
帰宅後せっせと塔婆を書いて、夜から地元吹奏楽団の後援会長宅へ。今後のことを4時間も話し合う。
今後の方向性には2つの選択がある。すなわち地元の若者を集めてアマチュアらしく演奏活動をやっていく方向が1つ、それから一流の奏者を招き聴く専門でコンサートを興行する方向が1つ。どちらも立派な文化活動だと思うが、主役を青少年にするか老壮年にするかの違いは大きい。
青少年を主役にするのは、将来性があるが骨が折れる。仕事が忙しく、休みは独りで過ごしたい人たちにとって、同じ時間に集まることさえ難しい。そもそも若者がそんなにいない。そんな中で統率を取って、定期的に何かやっていくには相当のエネルギーが要求される。
一方老壮年を主役にするのは、比較的易しいが奉仕的である。時間もお金もある人たちにパトロンになってもらえばエネルギーは節約できるが、自分たちが楽しむより人を楽しませることが先にたつのは避けられない。そうなると、何のためにやっているのかだんだん分からなくなる。
少子高齢化と過疎化で寂れていく地方にとって、この2つの選択は音楽に限らない。教育問題と介護問題がそうだ。教育する側かつ介護する側に立つ世代にとって、どちらかでさえ一筋縄ではいかないものが両方同時に迫ってくるのは恐ろしい。
そんなことを考えたが、結局どちらかといえば後者(老壮年)を取ることになりそうだ。でもそれは住職という立場だからなのかもしれない。介護はその人が亡くなったら終わるが、供養は亡くなってから始まるものだから(現金な話)。
青少年のほうは、音楽よりボードゲームをうまく活用できないか考えている。

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