2007年3月アーカイブ

今日の夜に予定されていた御詠歌の練習会は、参加者4人という寂しい状況だったが難曲の『歓喜』を心ゆくまで練習できて満足。

今年、師範養成所を卒業したばかりの新人さんが現れて嬉しかった。師範養成所とは、全国の若き僧侶が2年、計30日間にわたって研修する梅花流の虎の穴。私も数年前にお世話になった。寝食を共にしてひたすら御詠歌に取り組むうちに、強い絆が生まれる。

休憩中に聞いた話だが、今期の師範養成所は、期間中(研修中ではないが)に1人お亡くなりになったのだという。私と同じくらいの年令で急逝。

そこで研修中に仲間は遺影を飾り、毎朝供養のお経を皆であげて、食事も毎食お供えし、遺影の前に法具を開いて研修する。最後の祝賀会は遺影の前に酒を継ぎに行く人が絶えなかったそうだ。

実に切ない話であるが、ここまで宗教団体らしい行動は、集団になって感情が増幅したのかもしれない。でもこんな危なっかしいとさえ思えるぐらいの情の熱さが、僧侶として大事な資質なのだろうと思った。

振り返るに最近の私は、僧侶の世間への説明責任ということに意識が偏りすぎて、感情の共有とか吐露といったものに重きを置いてこなかった気がする。

涼しい顔をして他人事みたいに説法しても、ついてくる人は少ないのだ。法話ひとつとっても、絶えず自分の問題として問い続け、もっと皆と一緒に泣き笑いしなければと思った。反省。

それにしてもそんな年で世を去らなければならない人がいる一方で、同じくらいの年令の私がのほほんと御詠歌を続けられているのも何かの巡りあわせなのだろう。生きているという、ただそれだけで価値があることをもう一度かみしめなければなるまい。

名も知らぬその若き同志に合掌。

僧侶と性欲(2)

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欲望に負けた!25歳修行僧が女子高生買春(スポーツ報知)
うぶな子が…」僧侶が15歳女子高生買春(日本テレビ)

出家者のセックスそのものを禁じた原始仏教とは異なり、世間の中にどんどん入りこんでいかなければいけない大乗仏教においては、まず世間法に順ずることが大事になる。一僧侶である前に、一市民であれというわけだ(小市民であってはいけないと思うが)。

一休さんも、遊郭に出入りしたり庵に女を囲ったりしていて、僧侶からはずいぶん冷たい目で見られていたというが、庶民には親しまれていたのだから人柄の魅力のほうが大事なんだろう。

今の僧侶は、お坊さん仲間から尊敬されているのに、世間からは冷たい目で見られている方が多いような気がする。

私の見聞する範囲でも、新宿で覚せい剤を買ったとか、下着泥棒をしたとか、少女にわいせつ行為をしたとか、そんな僧侶がいるそうだが犯罪行為は誰でもアウトだ。

一方で、研修中に毎晩風俗に通っていたとか、二号さんがいるとか、修行中に同性愛関係になったとかいうのは、倫理的には僧侶としてどうかと思うが、犯罪ではないので少なくとも表沙汰にはならない。

今回の事件は、未成年に買春という犯罪行為が問題になるのであって、欲望が抑えきれないのなら、夜にこっそり風俗店にでも行けばよかったのだろうと思う。煩悩はえてして、僧侶として目覚める大きなきっかけになるものだ(真言立川流ではないが)。

このお坊さんはまだこれから何十年も生きられるのだから、罪を償い、世間から慕われるような立派なお坊さんになってほしい。

ついでに。

寺の本堂倒壊、7人危機一髪で脱出

朝日新聞の一面に丸つぶれの本堂の写真が出ていたが、死者が1人も出なかったのはすごいことである。神仏の御加護か。
でも、それは結果論であって、お寺や神社は地震で倒壊しても決して死者が出ないということではない。この頃、本堂の耐震補強工事をしているお寺が多いが、うちもしたほうがよいのかなと思った。

先週の金曜日、檀家さんが亡くなった連絡が入って、家族に「じゃ、月曜日にお葬式が終わったら帰ってくるよ」と出てきた山形に、まだいる。

この辺のお葬式はたいてい亡くなって3日目(2日後)というのが普通。今回は3日目が友引だったので月曜日になるだろうと予想していたのだが、もうひとつ罠があった。それはシダミ※。

昔はそんな風習はなかった当地域だが、こういうものは一旦気にし始めるとダメなものらしい。私が「それは一部の地域でしか通用していない迷信だから、葬式をしないというのは全く賛成できない」と繰り返し繰り返し言ったが、聞いてもらえなかった。ああ無力……。

というわけでお葬式は五日目となってしまい、つくばに帰るのが1日遅くなった。家族には「ごめん、シダミだとかいうものだから……」

でもお陰で今日は銀行に行って住宅ローンの相談ができるようになった。時代は最長年で固定金利のプランである。ほかに長井線の新しい時刻表をもらったり、ドコモショップで携帯の充電をしたり。

そんな今日、近くのお寺さんから電話があり、明後日に御詠歌の大会のための練習を水曜日の夜にするという。「明後日というと、水曜日ですね……」ガックリ。

練習が終わってからではもうつくばに帰れないから、帰るのは木曜日になってしまった。家族には「ごめん、御詠歌の練習だとかいうものだから……」今日は長男が目やにで早退したとかでつくばはたいへん。

木曜日に帰ったとして、土曜日には近くのお寺で大般若があるからすぐ戻らなくてはならない。それでも、1週間以上家を空けるよりは2日でも帰ったほうがよい。新幹線やバスで5時間の移動は疲れるので、体力を温存しておきたい。

でもその前に、明日か明後日別の用事ができて、滞在がさらに延びないことを祈るばかりだ。

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※シダミ
死後四日目の葬式(ダミ)を避ける風習。葬儀社に勤める友人によると、シダミの風習は県内でも長井・中央地区と高畠にしかないそうだが、誰かから聞いてだろう、徐々にこちらまで広がってきている。
日々是好日という曹洞宗では、友引も迷信という公式見解を打ち出しており、こうした語呂合わせのタブーを全て否定している。しかしそういう日にお葬式をして、後日何か不幸が続くと「ほれ見ろ、だから言ったんだ」という馬鹿が必ずいるので遺族もつい消極的になってしまう。
最近は気にしない人が増えてきたというが、中にはこういう風習を口実にして、故人に1日でも長く家にいてもらいたいという遺族の思いがあったりするので、なかなか厳しい態度で臨めないのが現状である。

昔の手紙

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庫裏の新築が決まったので、今の庫裏を片付けなければいけない。昨日は第一弾として亡き祖父の部屋の整理を始めた。

不要なものは解体業者が分別するのでそのままにしておいてよいという。したがって必要なものだけを取り出していく作業だが、いつも乱雑にしているツケが回る。本堂の倉庫に続くリアル倉庫番2。

その中から、曽祖父が受け取った手紙が出てきた。大正から昭和初期のものである。

札幌に嫁いだ大叔母が曽祖父に送金をお願いする手紙が胸を打つ。父母を案じ、日々の苦労を愚痴り、お金を無心するこの手紙は生活の苦労をしのばせる。切手は三銭。

「雪を見た時すぐ内地の事を思ひ出しました。事に此の頃はいろいろ見たり聞いたり珍らしい事が有る度びに御父母様の事を思い出し弟達の事を思ひ出されてなりませんです。」

「私は針仕事をして少しづつの家計のたしにして居ります。朝早くから夜十時半十一時頃までやって居ります。(中略)夜は子供を寝かしてからやりますの。だから歯が浮きてしまって奥歯は皆物をかむははなく前でやうやく物を食べて居りますの。それで別に体も悪るくしないで毎日働いて居ります。これも御父母様の御陰と感謝して居ります。」

「いつか前ニ年も立ちましたがジャケツの袖と足袋カバーとをあんで有りましたの。御氣に召さないでせうけれども弟につけてやつて下さいませ。カバーはキノヱにビン止め二ツキノヱに上げて下さいませ。」

「それから私の命にかけてのおねがひで御座居ます。主人にはおこられるから内証で十二月の二十日頃まで間違なく御返し致しますから十円何んとか都合して借して下さる様固く固くおねがひ致します。」

ほかにお寺で酒を飲んで暴れた檀家さんが「私儀酒癖ノ過失ヲ懺悔シ将来ヲ謹慎スル」とした誓約書、寄付で頂いた十円札(大叔母にやったらよかったのに)、近くのお寺から頂いた達筆の手紙など。いずれも貴重な古文書としてファイルした。

今は何事もパソコンですましてしまうので手書きの手紙など滅多に書かないし、豊かになって昔のような生活苦もない。この手紙を見ていて、言葉だけではない感謝の気持ちとか、父母や年長者に対する尊敬の気持ちも、昔と比べるとずいぶん薄くなってしまったのだなぁと、心寒くなった。

悟りを目指す原始仏教から、救済を目指す大乗仏教、そして死ねばたちまち成仏という日本仏教へと変容してきた仏教の歴史を分かりやすく説き、御霊信仰・先祖崇拝という日本人古来の死生観をふまえて、現代における仏教やお寺のあり方を問う本。

市井の仏教研究家による本だし、キャッチーなタイトルも軽いのであまり期待せず読み始めたが、なかなかどうして、学術的にもしっかり押さえられているし、著者の考察も筋道が通っている。それでいてこの手の話に陥りがちな仏教原理主義からも距離を置くバランス感覚もある。経験談も織り交ぜられていて楽しく、すっかり敬服した。

長寿国家の日本では、かつてのはかない死生観が薄れつつある。「人間八十歳を超えると、まず三分の二はボケる。ボケるから死ぬことなど考えない。ボケない方も延命治療で何がなんだか分からないうちに一生が終わるという時代」である。

そんな中、葬儀を中心にして発展してきた伝統教団の足場が急速にもろくなっている。しかし仏教信仰ではなく民族習慣の強みから、今後も寺院による葬儀は続いていくだろう。

そのカギとなる戒名のあり方を再考し、葬式仏教に徹して、「無量の光によって故人をつつみ、遺族の悲しみをやわらげ、会葬した人々に仏に頼ることのたしかさを信じさせ」なければならない。

戒名料などの名目でお寺がお金を要求することに対して、お寺がよく批判されるが、「社会的な立場と財力を表現できる」ものと考えた庶民にも責任はある。

しかしそれももう昔の話、今は「戒名が故人の生前の業績や社会的な地位、あるいは人柄といったものが反映されず、単にお布施の額に寄って決まる」ようになってしまい、「戒名の尊厳と価値」が薄れて「戒名が金銭と名誉欲の上に胡坐をかいている」という。

最後に筆者は、戒名をつけるならば戒の意味を真に問うこと、そうでなければ戒名のない(俗名のままの)仏式葬も認めることを提案する。

私が読んだ限り「困る」というより快哉を叫びたくなったが、多くのお寺で戒名料は大きな財源になっているため、僧侶の側からこうした問題提起がしにくいのは事実である。

しかし早いところそういう状態から脱却して、信仰を築く努力をしていかないと、お寺の運営どころの話ではなくなっていくのだと思う。

著者は福島にいらっしゃるようなので、一度直接お話を聞いてみたい。

お寺の詭弁

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「お寺の常識、世間の非常識」ということは多々あるが、お寺はお寺の論理を説明するのに、詭弁を弄することがある。

「学校を出たばかりの若い者に百万、二百万の車を買ってやるクセに、末代まで残る戒名になんでゼニ金を惜しむんだ」(村井幸三『お坊さんが困る仏教の話』)

これと似たようなパターンで、「この世に生まれるときには何十万と出すんだから、この世を去るときにもせめてそれくらい出しなさい」というのも聞いたことがある。家族である以上、生きていても死んでいても平等に扱えという論法である。

これを修辞学では「類似からの議論」といい、すでにアリストテレスも触れているほど昔からある(『弁論術』第2巻23章)。前者はさらに、若者より年長者が丁重に扱われるべきであるという論拠(「なおさら」論)も加えて論法を強化している。

しかし、どこまでを類似と認めるかによって、この論法は説得力をもたなかったり、逆に反論の余地もある。

「車代(出産費用)とお布施はその目的も性質も全く違う。そういったものは関係ないので比較にならない。」
「もし同じにしろというなら、子どもや孫のことでお寺にお布施をしているわけではないのだから、亡くなった人のことでお布施をしなくてもよいことになってしまう。」

さてこの判定だが、宗教的な行為であるお布施が三輪清浄(お布施、お布施を出す人、受ける人に私利私欲があってはならないという教え)を謳う以上、一般的なお金の使い方とは一線を画すわけだから、安易に同列に並べるお寺のほうが負けだと思う。仏教でお布施は清らかなものだとされているのに、お寺のサービスを半ば強制的に買わせるのでは清らかになるはずがない(インド論証術でいう定説逸脱-apasiddhAntaという敗北の場合)。

実際はお寺のほうが立場が強いことがほとんどだろうから、まともに反論することはまずできないだろう。「もし出さなかったら、どうなっても知りませんよ……」などと明言しているわけではないが、これは「威力に訴える論証(appeal to force)」または「恐怖に訴える論証(appeal to fear)」という詭弁にあたる。お寺がこんなことを言えば二重に詭弁を犯していることになるのだ。

論理的に矛盾していても力で勝ってしまうお寺だが、檀信徒の信仰をなくすという点では負けているともいえる。さらに言えば、お寺がお布施の金額に口出しするのは、利益誘導と捉えられても仕方ない。

寺院を維持していくのにそれなりのお金が必要なのは間違いないが、その前に十分な信仰と信頼が大前提になっているということを肝に銘じて、日々の教化にいそしみたい。

『学者のウソ』

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危険と叫ばれた住基ネット、実は意義があったというゆとり教育、環境によいという脱ダム、少子化対策になるという男女共同参画……学識者が先導し、それにマスコミが乗って喧伝された数多くの社会問題は、その是非が検証されないままになっている。なぜ学者は平気でウソをつくのか、社会に悪影響を及ぼした責任を取らないのかを考察する書。

この考察のため、まず科学=過去の事例を分析し、未来の予測を立てる学問の方法論から説き起こし、その不完全さを悪用して利益誘導する学歴エリート=学者、マスコミ、官僚、経営者を糾弾する。そしてウソを見破るために目的のすり替えを正し、一般が納得できる価値を守るため、言論責任保証・先見力検定という具体的な試みを示す。

誰も反対できない理想を掲げ、その理想に自分の利益を強引に結びつけて正当化するのが学歴エリートの常套手段。目的と手段は別々のはずなのに、手段(学者の利)を否定すると目的(理想)まで否定するように仕向けるのは詭弁であるという。

筆者もまた学歴エリートであるが、自戒の念をこめてまとめたと書いているところに好感がもてた。ただ性悪説を意識せざるを得ない言論責任保証がどこまで普及するかは疑問が残る。

専業主婦が優遇されているという主張があるが、実際共働きの夫婦は二重に基礎控除を受けており、さらに子どもの保育サービスも受けられる。現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯だというのは同感。

また筆者は、大学・大学院で自分が合格することで他の人がそこで学ぶチャンスを奪ったのだから、その分きっちり勉強し、その成果を社会に還元する責務を負うと述べ、ところが今の学歴エリートは競争を勝ち抜いてきたことで既得権益が得られたと思っているのが倫理の欠如につながると指摘する。全くその通りだと思う。

ちなみに社会科学以外の文系学問、つまり人文学は科学ではなく、学説の正当性の評価が難しいという弱点をもつという理由から考察の対象から外されている。哲学には真実もウソもないのかな?

フェミニズムや左翼・右翼などナイーブなところまで切り込み、具体例を交えながら主張していて分かりやすく過激なほどに刺激的な論考であった。

檀家総会

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1週間の山形滞在を経て昨日、長女とつくばに帰ってきた。保育所は結局、インフルエンザのため6日中2日しか開かず、ほとんどの時間を子守に費やす。YouTubeでプリキュアをずっと見ている長女のそばで読書。

土曜日は2年ぶりの檀家総会で、34人の檀家さんが集まった。洞松寺の場合、檀家総会は毎年行わず、何か大きな事業がある場合などに臨時で開いている。

今回の議案は庫裏建築。1戸あたり4〜6万円の高額の寄付をお願いすることになったが、小野家が9割を負担することにしていたためか、すんなり承認頂いた。

庫裏は住職とその家族の住まいなので、基本的に全額を住職が負担するべきだと思うが、さまざまな事情や信条から全額を檀家さんに出してもらうお寺もある。そういうお寺がいくつもあることを檀家さんは知っていて、住職(正確に言うと大部分が妻)が自ら9割を負担すると言ったことを喜んで下さったようだ。

ちなみに1割負担の理由は和室。法要のときの控え室にする和室は、建坪の1割を占める。

それにしてもこの経済情勢の厳しい中、すんなり承認頂いたのはありがたいことである。ちょうど今年は、住職になって10年目を迎える。その間大学院の授業に通ったり、インドに留学したりして不在が多かったけれども、今回の承認はこれまでの務めに一定の評価をして頂いたものかもしれない。それとも、「もう行ったり来たりしないで、ここに落ち着け」というメッセージかな?

終わってからの懇親会では長女が大活躍。むさずられたり(※むさずる=山形弁で「からかう」)、背中をたたいたり、こちょこちょされたり、なぞなぞをかけたりして並み居るおじさん・おじいさんたちを悩殺(?)していた。「めんごいなー」(※めんごい=山形弁で「かわいい」)の大合唱。

皆さんが帰られて後片付けをしてから長女と温泉「はぎの湯」へ。お湯につかって頭をからっぽにすると疲れが癒えて、次の気力がわいてくる。本当にたいへんなのはこれからの引越しだ!

『仏教が好き!』

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ユングから仏教に至った臨床心理学者の河合氏と、チベット仏教から神話研究などを進めている宗教学者の中沢氏の対談集。2人とも仏教学者というわけではないけれども、仏教の捉え方は鋭くて深い。

収められている対談は6本。

「仏教への帰還」ではキリスト教・イスラム教・仏教の異同を検証。一神教の作る神と人/人と自然との「非対称性」に対して、仏教が備えている対称性を見る。秩序を崩す「シャーマニズム」と、秩序をつくる「野生の思考」の共存が仏教の基本であるという。この2つの相反する動きを両立させる仏教の知恵が現代において必要になっている。

「ブッダと長生き」では、早逝したキリストと長生きしたブッダ、ムハンマドを対比し、その思想の老獪さを考える。とりわけ迫害も受けず、普通の人間として死んでいったブッダの中道は、真理が世界と同居している点で魅力的である。

「仏教と性の悩み」では、仏教の戒律を現実の女性から離れることによって、世界の女性原理=空に近づくためのマニュアルと捉える。ブッダがいかにして弟子たちのセックスを禁止したかが分かる付録の『律蔵』抄訳が最高。屍姦・獣姦なんでもあり。

「仏教と「違うんです!」」では最後まで肯定をいわずただ否定し続ける仏教を、心のケアにおける否定の技法から光を当てる。それは世界の外にある何か(空とか法身)に到達する=悟るための手段である。安易な癒しではなく深い否定を。

「幸福の黄色い袈裟」ではキリスト教的な幸福=ものに恵まれた状態と仏教的な安心=ものが少ない・ちょうどよい状態で対比。本当の楽、人生の損得を考えることを勧める。自殺は悪ではなく損。

「大日如来の吐息―科学について」では仏教と科学について考察。否定的な見方をされる「科学」が近代科学に留まっていて、ハイゼンベルクのマトリックス理論など現代科学は仏教の曼荼羅と同じことを示していると指摘する。

いずれもほかのどこでも読めないような刺激に満ちた仏教論で、仏教の捉え方が少なからず変わったように感じる。次々と言及される文系理系の学者の思想が有機的につなげられているのも面白い。現代において仏教を思想面からどのように生かせるか、示唆するところ大であった。

大学を終えて就職先を考えているときにふとお坊さんになることを思い立った若い僧侶の日記。初出はブログなので文体が軽く、さらっと読める。

これといって面白いエピソードもないし、哲学科卒らしい論考もない「野郎の日記」だけれども、仏教やお寺に対する視点はきわめて斬新である。

「仏教コンテンツを売りこむこと」が仏教界に入った大きな理由のひとつだという筆者は、今のお寺が本来魅力的な仏教コンテンツに埃をかぶらせているという。コンテンツを時代感覚に適したものに料理し、インターネットなどの新しいチャンネルで発信し、潜在的なニーズを掘り起こし、そういう発信をする僧侶がお寺の大小に関係なく報われること。

したがって布教も、ただ仏様のありがたさを説くのではなく自分の言葉で伝えたい。僧侶同士で馴れ合い慕い合うよりも、庶民から慕われるように。檀家さんに「このお寺なら寄付して支えるだけの意味がある」と思ってもらえるようにいろいろチャレンジしてみよう。

実際に筆者は、東京・神谷町のお寺で寺院内カフェを開いたり、築地の本願寺でライブイベント「本願寺LIVE2005〜他力本願でいこう!〜」を成功させたりと、伝統教団がとってきたこれまでのスタンスから飛び出して活動している。

檀家制度や葬祭の意義が急激に変化している東京で、寺院が生き残るための新しい模索として捉えることもできるだろうが、寺院の社会責任など、全国的な文脈で捉えられるものも少なくない。最近、教団内の人の目を気にして小さくなっている僧侶としては読んで勇気付けられた。

それにしても、これだけ若い僧侶をどんどん法話会に招いたり、寺院内カフェやライブにゴーサインを出す浄土真宗も大したものだと思う。ほかの宗派もこれくらい積極的だったら、日本仏教はもう少し明るくなるのではないだろうか。

長女保育所へ

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昨年から、私が山形に仕事にくるとき長女がついてくるようになった。お目当てはつくばにはないテレビらしい。というわけで今週1週間も長女と一緒に山形で過ごしている。子育てのワークシェアリング。

長女はこの頃『ギャグマンガ日和』にはまっていて、母や祖母の前で「うんこ大好きうんこ丸」とか「松雄芭しょんぼり」とか連呼する。それはそれで、それなりに会話が成り立っているのがおかしい。

とはいえもうすぐ5才になる子が1日中室内にいても退屈して力を持て余してしまうし、お寺の行事があると面倒を見切れないので、保育を申し込むことにした。私の母校(っていうのか?)西根保育園。今は予算取りなどの関係で西根「児童センター」と名前を変えているが、自分と同じ保育所に子どもが入るとは感慨深い。

親子ともつくばに住民票があるので、厳密にはこちらで保育してもらうことはできない。最初に市役所に相談にいったときも、係の人が困っていた。しかしその後、保育士をしている親戚づてに情報を集めているうちに、里帰り出産しているお母さんが上の子を一時保育するケースがあることを知り、その親戚の口添えもあって申し込むことができた。

ちなみに保育所の所長さんは、うちのお寺の総代さんの奥様だったりして、いろいろ話が早い。最初の面接に行ったときはもう委細承知といった感じで申込書をもらうだけ。これが地元でなかったら、お寺のこと、つくばにいる訳を長々と説明しなければならなかっただろう。

というわけで月曜日が初登所。私が年小クラスに通っていたときは、お迎えのバスに乗るのがイヤで毎日泣いていたのを今でも覚えている。しかし長女はすでに0才児から保育所に通い、週末もゲーム会のたびに託児されてきたので、もう慣れたものである。父にバイバイすると、すぐ先生と奥に消えていった。

つくばでは布団・着替え・弁当などをセルフで所定の位置にセットしなければいけないが、こちらは一式を先生に渡して、親は玄関のところで引き返すようになっていた。100人もの子どもが通うつくばの保育所と比べると、非婚少子化で子どもが少ないこちらの保育所はゆとりがあるのかもしれない。

お迎えは存外に早く15時。もっともお寺の場合はだいたいそれぐらいの時間までに用事が終わっていることが多いので問題ない。園児服に付けてもらったピンクの名札がかわいい。山形弁全開の保育所内でも、楽しく遊んできたようでほっとした。

また明日もお願いします、というはずが年長さんのクラスでインフルエンザが流行し、火曜と水曜は全園お休み。火曜は結局、親子共に家にいてYouTubeでプリキュアを見たりしていた。今日はちょっと出かけてこよう。

僧侶と性欲

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住職ざん殺で少年を逮捕、買春めぐるトラブルか
http://www.newsclip.be/news/2007301_009960.html

日本でもつい先日、除霊と称して少女に性的暴行を加えた北海道八雲町の住職が逮捕されたが、一部の心ない僧侶に仏教が貶められるのはつらい。

しかし同じ仏弟子として知らないふりもしているわけにもいかない。せめて他山の石に。あまり抑圧しすぎないことが大切なのかもしれない。いまどきの不邪淫戒は「異性に近づかない・セックスしない」という宗教的な誓願ではなく、「不倫しない」という倫理的なものにすり変わっている。

一昨日訪問した松戸のお寺さんのエッセイを思い出した。日本の僧侶が結婚していることに疑問を抱いたフランス人の青年に真摯に答えて、異性との接触が禁止されているのではなく、「むさぼること」が禁止されているのだと答える。 それをよく守った上で、尊敬と信頼のある伴侶と協力して、修行を完成させたいと。

なるほど、こうして考えれば、不邪淫戒もまた宗教的(しかも大乗仏教的な)な誓願に戻せるのかもしれないと思った。それにしても中道の難しさよ。

私? 日本にドイツの下ネタゲーム『おっぱい神経衰弱』と『ポルノスター・プロジェクト』を紹介したのは何を隠そう、私であります。中道には、当たらずとも遠からずといったところかな(ホントかよ!)。

咳が止まらない

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土曜日に長女を連れてつくばから山形に移動。しかし咳が止まらない。花粉症による喘息だが、かれこれ1ヶ月以上続いていて、咳をするたびにわき腹の筋肉が悲鳴を上げる。

母に赤湯駅まで迎えに来てもらい、アイスクリームをなめる長女を尻目に車中で着替え。そのまま枕経へ直行した。枕経の間、プリキュアグッズを買ってもらって満足気な長女とお寺へ。布団をかぶって寝込むzzz。

しかし翌日のお葬式の都合で法事がひとつ繰り上がり、夜の7時から本堂で読経。『摩訶〜ゲホゲホ、般若波羅密多〜ゲホゲホ、心経〜』みたいな調子でお経の4分の1くらいを参加者に読んでもらうような状態だった。

「花粉症の喘息で、お聞き苦しいところがありました点をお詫び申し上げます。ゲホゲホ。この喘息、夜に出ることもあるのですが、お寺などにおりますと、このまま心臓が止まって、朝冷たくなっていたらどうなるんだろう、などと考えることも、ゲホゲホございます……」などという法話。夜ということも手伝って話していてずいぶんしんみりとする。

そして翌朝。わき腹に貼り薬などしてみたものの、それで咳が止まるわけではない。日曜日の日程は朝8時の出棺から始まって、屋外の祈祷、大般若会、午後の葬儀、終わってからの法事と多彩でハードなスケジュール。急遽、いつもの薬に咳止めの売薬を付け足して出動した。用事がひとつ終わるごとに、あといくつと数えて無事最後まで務められることを祈る。

お経の最中は咳との戦いで本当にぎりぎり。咳が出そうなのを押し殺してお経を読み、やがて負けてゲホゲホ咳き込み、一段落収まったところでお経に復帰するという繰り返しである。特に御詠歌は、どうかこのフレーズが終わるまで咳が出ませんように!と祈る気持ちでのお唱えだった。

5つの行事が終わったときは、よく持ちこたえたものだと自分でも信じられないような気持ちになった。「仏天冥護を垂れ給い」である。そして布団をかぶって寝込むzzz。

今日は朝から御詠歌の講習。夜はもう無理かというくらい咳き込んでいたが、講習中は何とか乗り切った。ほんとうにありがたいことである。長男が最近覚えた喃語「トゥヌトゥヌトゥヌトゥヌ」を合間合間にずっとつぶやいていたのが功を奏したか。

もちろん、仏の加持ばかりを期待しているわけにもいかない。帰りにはちゃんとお医者さんにいって咳止めを頂いてきた。

東大印哲の博士課程を終えて、福井の永平寺と宝慶寺で修行した著者が思い立って30そこそこでお遍路さんに出る。托鉢で道中費をまかない、野宿をしながら2ヶ月弱、1100キロを歩き通した記録。

著者は柔道の有段者でもあるので体力的には問題はないはずだが、自動車専用道路に入ってしまって警察に通報されたり、アベックがたむろする公園で眠れぬ夜を送ったり、道に迷って雨の崖を登ったりと、一寸先は闇の冒険譚になっており、淡々と書かれているのに読んでいてハラハラ、1日の日記が終わるたびにホッとするほど。

道中で考えたことが随所に挿入されているが、それがいちいち深い。仏教とは何か、禅とは何か、修行とは何か、真理とは何か……。特に僧侶が衆生をどうやって救えるのかという問題は、道中通して葛藤していたことであり、何度読んでも唸らせられる。

その他、禅宗で重んじられる坐禅と法要の法式はどう結び付けられるのかということや、現世利益の意義、菜食主義や不飲酒の是非など、僧侶として避けて通れない問題にも、真正面から取り上げていて傾聴に値するものばかり。

何よりも禅語がぽんぽんと出てきて、それを自分のこととして咀嚼していくのがすごい。訳が分からないまま引用して何となくありがたかっているなどということはなく、分かりやすい言葉で説いているのはただならぬ才能である。咀嚼するだけでなく、「葛藤記」という言葉が表す通り、大学の研究室や寺院の僧堂で培われた理念に自分の姿を重ね合わせようと努力し、それができずに慙愧するという繰り返しは、無骨なほどに真面目で頭が下がる。

貴重な歩き遍路のガイドブックとして(?)だけでなく、冒険小説としても、現代僧侶論としても面白く、示唆に富んだ本である。 私も「区切り打ち」でもいいから行ってみたくなった。

予定がいっぱいで生活がカチンカチンになってしまう「時間病」、そして頭で理解できないことは拒絶する「脳化」=都市化の中で、自然な出来事であるはずの死はどんどん疎外され続けてきた。我々人間こそが無意識の中で日々変化し続けていることを再認識し、仕方ないものは仕方ないと受け止め、目を向けるべきものはしっかり言語化していこう、という本。

内容的には『死の壁』とあまり変わらないどころか、8つの講演を1冊にまとめた本書の中にさえ、同じ話(ブータンの虫取りなど)が何度も繰り返されていてうんざりしたり、宗教や経済など著者の専門外のことについての考察(仏教は自然宗教であるなど※)などについては稚拙とさえ思われる箇所もあったりしたけれども、生と死について考えるときには貴重な視点を提供してくれる。

死体は「もの」、生きている人は「人」だが、二人称の死体(家族など)については「もの」とはいかないところから、「もの」や「人」というのはその共同体(「世間」)で決められた約束事であり、つまるところ恣意的な名前の付け方であるというところや、ものを知ることは自分が変わっていくことであるはずだという卓見は、なるほどと思うだけでなく、自分の問題として深く考えさせる。

著者の本が刊行過多なのは著者のせいだけではないと思うが、あまり大風呂敷を広げず、解剖学から言えることをもっと発信してほしいと思う。

※仏教は自然宗教
インド仏教は都市を基盤にしており、また日本仏教も都市生活者である貴族・皇族のものとして広がった以上、今のお寺が「山」にある程度で単純に自然宗教などということはできないはずである。

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