2007年7月アーカイブ

ナーランダー大学を世界遺産へ

かと思えば、

「仏教」の看板はずす大学相次ぐ 志願者減受けて

と仏教大学の浮き沈みが激しい。世界的に仏教学を含むインド学は斜陽で、ベルリン大学、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学で講座が閉鎖されそうになっている。

私が留学していたプネー大学も予算がいつも削られそうになっていて教授が嘆いていた。

記事の中に「葬式のイメージもあって抵抗感を持つ人もいる」という分析があるが、今の大学は日本に限らず「就職に重点を置いた課程」になっている。イメージ云々よりニーズ。そんなご時勢に仏教(というか人文学一般だが)を学ぶ意義が見えづらいのだろう。

でも、ナーランダ僧院跡のそばに大学ができたとして、ちょっと勉強できそうにないなぁ、暑くて。三蔵法師はほんと偉い。

今週の金曜日(8/3)に、地域の子ども育成会で坐禅会が開かれる。昨年に引き続き2回目。

朝7時集合。坐禅、朝課、粥、講義と僧堂と同じ生活をして、その後ボードゲーム(やっぱり)。ということで育成会の役員さんたちと前もってルール勉強会を行った。

時間はどれくらいかかります?と訊かれて1時間半くらいと答えていたけれども、ついつい熱中してしまって終わったのは3時間後(笑)。

昨年はほとんど子どもゲームばかりだったが、小学生も中学年以上になると物足りない様子。そこで今回は『ブロックス』、『パウワウ』、『ダイヤモンド』、『ハイパーロボット』など対象年令が高いものを準備。

私よりも一回り年上の役員さんたちだったが、反応は上々。普段は全くゲームをしない人たちでもゲーム勘はあり、面白さも分かってもらえる。子どもたちよりも大人が熱中しそうな勢いだ。

終わってから、今回に限らず、子どもが集まるときに呼んでいただければゲームをもって参上しますとさりげなく宣伝もしておいた。

当日、ボードゲームの後は流しそうめんをして解散ということになっている。さて、今年は何人集まるか。

『反社会学講座』

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『つっこみ力』のマッツァリーノ氏による渾身の秀作が文庫版に。社会学を、個人的な偏見を都合のよい統計で理論化し、ありもしないものに警鐘を鳴らして食べていく「マッチポンプ」と茶化し、その虚構を検証する。

・凶悪少年犯罪が近年増えたというのは捏造
・パラサイトシングルは公平な社会に役立つ
・フリーターが日本経済を救う
・国の「ふれあい」施策は効果なし
・日本人の若者は欧米諸国よりよっぽど自立している
・読書をしても成績がよくなるわけではない
・夏だけ根室に首都移転すれば環境効果あり
・国の少子化対策は効果がないが、やらないと困る人がいる
・65歳で1億円の資産がある人には年金を辞退させよ

社会学者が言い出したのかどうか分からないが、もう十分に一般化している世間の通説がバッタバッタと切り倒されていくのは痛快。ですます調の文体も楽しい。

「ちょっと努力してタバコをやめて健康になろうとか、ちょっと努力してブサイクな女房と子供を作って少子化を防ごうとか、サラリーマンのみなさんがちょっと努力して夏場に背広を脱ぎ、地球温暖化とエネルギー資源の無駄遣いを防ごうだとか、思うのだけれど、実行できない。→落ち込む。→相田みつをの本を読む。→癒される。→その間にも地球環境や社会情勢は、刻一刻と悪化する……と、まあ、こうした負の連鎖反応により、世の中が悪くなるのです。」
「社会学者と心理学者がタッグを組めば、統計操作と深層心理を駆使して、どんな理論も思いのままに正当化できます。」
「仕事と家庭の両立なんてご立派なことをいいますが、実際には―人並み程度に仕事ができて、まずいけれど食えないことはない料理を作れて、洗濯機と掃除機の使い方は知ってます―なんて人がほとんどです。なんでもそこそこ、器用貧乏ってやつです。」
至言名言盛りだくさん。クスクス笑いながら読んだ。

『仏教と日本人』

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インドから中国を経て日本に伝来した仏教が、独特の姿に変容した背景を、仏教が伝来する前からの民族的精神風土から読み解く。

境界を守護する「塞の神」に取って代わった地蔵、地獄が極楽とつながるあの世観、戒律より「聖」の役割を期待された僧侶、わざと醜い姿に作られた不動明王、女性神が転化した観音、両者がお互いに歩み寄った神仏混淆、自然宗教を基礎とする葬式仏教。いずれも、仏教が日本民族の習俗にうまく乗っかる形で溶け込み、現在の日本文化を形成していることが民俗学・文献学から示されている。

斬新な分析ばかりで、これが仏教学的・民俗学的に裏付けられていることなのかという疑問はあるが(例えば五来重の説)、典拠もきちんと示されており納得できる点も多い。「こういう説もある」というかたちで身につく知識多数。

日本の僧侶に対して肉食妻帯が鷹揚なのは、司祭者が祭りのときだけ苦行や精進潔斎を行って、それ以外は普段の暮らしでもよいという神意識に共通するのではないかという。そういう使い分けは確かになされているだろう。大乗とか専修念仏という仏教的な考えは後付けかもしれない。

しかしそれが進みすぎれば僧侶が僧侶たる所以まで失いかねない。

「肉食妻帯や有髪など、俗人と変わらない生活形態を公然と採用しながら、俗的生活と違う、僧侶たらしい生き方を模索する努力を失念しているということだ。」

葬式仏教の主眼を、死者のタマシイを「ご先祖」祖先の霊の集合体にまで昇華させるとした点は秀逸。仏教の教義はほんの飾りでしかないといわれると悲しいが、実際そんなところなのだろう。

著者は仏教の本来の立場を生きている人間の課題に応えること、在家主義を実践することとし、葬式仏教の崩壊を歓迎しつつも、死者を差別せず平等なものとして成仏を願い、安心を与えてきた仏教の恩恵にも銘記を促している。祟り、天罰、報いといった前近代的な思考を離れるのに、仏教の役割は重要だ。

日本人が仏教から学んできた慈悲と、それにすがりすぎて生まれた精神的横着さ。もっと世間と緊張感をもって接し、世間に流されない仏教だけの価値を固めていきたいと思った。

地獄

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火曜日に期末試験が終わってから山形に向かい枕経。風邪が治らないので医者にかかったら体質改善のための「柴胡清肝湯」という漢方薬を処方してもらった。扁桃腺炎になりにくいようにするものだが、カンの強い子どもに飲ませる薬でもあるとか。

さて、山形でもお盆まで1ヶ月をきった。暑い中のお経読みは苦行そのもので、今から思いやられるほどだ。

お盆になると「地獄の釜の蓋が開く」という。もとは単にこの世とあの世に通路ができて、亡くなった人が帰ってくるという意味だが、逆に生きている人が死にやすい(亡者大募集中!)という意味もあるのだろうか。うちの祖母は、お盆に交通事故で死者が出たりすると「地獄の釜の蓋が開くっていうからなぁ」などとコメントする。

それにしてもあの世も極楽から帰ってくるのではなくて地獄から。『仏説盂蘭盆経』では、目連の母が餓鬼界にいるところから話が始まる。なぜ餓鬼界に落ちたのかと言うと、どうも自分の子どもを愛するあまり、他所の子どもに食べ物を分けてあげなかったのが理由らしい。

そんなんで何万劫と、飢えの苦しみを味わい続けなければならないの〜?

罪と罰のバランスが取れていないなぁと言えば地蔵和讃。親より先に死んだ子どもの罪をあげつらう。まず死ぬことで父母を悲しませたこと、赤ちゃんのとき母親のおっぱいが出ないからといって叩いたこと(「胸を叩くその音は奈落の底に鳴り響く」)、父親がだっこしようとしたときに、お母さんがいいと言って泣いたこと(「母を離れず泣く声は八万地獄に響くなり」)。

……どれも親としては子どもの罪とは思えないんですけど。こんなので餓鬼界や賽の河原にいくものかと。

しかし道元禅師はこう書いている。

悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。(『正法眼蔵』三時業)

こんなんで悪い報いはないだろうと思うこと自体が、悪い報いを受けるもとになるという。反省反省。でも地獄を盾に取って恫喝的な説教をするのは絶対してはいけない。死ねば皆が仏様、これぞ日本仏教の境涯なり。

変身

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7月15日はお盆の日。

大宮駅のうどん屋で夕食をとったときのこと。店員があったかいうどんにするか冷たいうどんにするか訊かなかったとかで、おばちゃんが絡んでいる。
「ちょっと! あったかいか冷たいか訊かなかったけど、あったかいのが暗黙の了解なの?」
「すみません。あったかいうどんでよろしいでしょうか?」
「冷たいうどんよ! 全くもう、がっかりしたわ」
「申し訳ありません……」
「もう二度と来ないわよ!」

美味しいうどんを食べて満足していた矢先にこれだ。「じゃあ二度と来んな!」と言おうか「心狭いですよ」と言おうか迷ったが、おばちゃんをちらっとにらんだら妙に怖がってしまったのでやめた。

何しろこちらは坊主頭に作務衣姿。しかも風邪気味で顔がこわばっている。こんなのと目が合ったら背すじが寒くなるんだろうなぁと思っていると、おばちゃん携帯を取り出した。聞こえよがしに、

「帰り迎えに来てくれる? ちょっと怖いのよ……」

悪いことしたなぁ。

ユニフォーム効果というのか、娑婆服(洋服とか)を着ているときと違って衣姿でいると私の性格が多少なりとも変わる。だから、仮面ライダーの気持ちがよく分かる(笑)。

今回はそれが悪いほうに出てしまったが、人の励みになればと思う。怒鳴られていた店員に、店を出るとき「頑張ってください」と小声をかけてきたが聞こえたかどうか。

「人に迷惑かけてない」という理由で正当化される電車内での化粧や雄言不実行、「価値の多様性」「人間らしさ」「生命の尊重」というキレイゴト教育を一刀両断。「己の美学」をキーワードに自律的な道徳を提示する。

感動を求める立会い出産、かたちばかりのボランティア、先天的な障害が判明したときの中絶、臓器移植、機会と結果を混同した平等主義、内容が吟味されていない教育勅語、子どもに苦しい選択を強いる夫婦別姓、トリックだらけの死刑廃止論と、具体的な問題に踏み込み考察を加えている。

「己の美学」に従うと(特にジェンダーについて)保守的になるのは必然なのか疑問であるが、親として「いじめられたら先生や親にすぐ相談しなさい」と教えるだけでなく「もしお前が友達をいじめたとして、そのいじめが原因でその子が自殺したとしたら、お前は必ず自分の命で償わねばならない」と付け加えるというような心構えは確かに必要なことだろうと思った。

夫婦別姓論者と死刑廃止論者に対して、その根拠をひとつひとつ崩していく反論が見もの。再反論の余地もありそうなので、議論の深まりに期待したい。

常磐線

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昨日は風邪でふらふらになりながらも、千葉の檀家さん宅へお盆のお経読み。行きはつくばエクスプレス(TX)で行ったが、帰りは久しぶりに常磐線で帰ってきた。

常磐線のイヤなところ。
1.取手より先の客のことなんか考えていないような列車間隔。待ち時間の長いこと長いこと。取手が北の果てで、そこから先は外国みたい。
2.特急でもないのにグリーン車。ほとんど乗っている人はおらず、普通車両が混むだけ。
3.沿線の駅前の下品な看板。テレクラとかパチンコとか、ボクシングジムじゃない角海老宝石とか。

あとシート席で裂きイカ食べながらワンカップ飲んでるおっちゃんとか。すぐ近くにいかにも理系っぽいおっちゃんとセレブな奥様・お嬢様たちが乗っているTXが走っているなんて信じられない光景である。

つくばエクスプレスだって、妙に不自然な街並みや大型SCが気色悪いとは思っていたが、常磐線の生き馬の目を抜くような世界ではもう生きていけなさそうな気がした。6年前までは亀有に住んでいたんだけれど。

爆笑問題が東大教養学部に殴り込み。教養とは何かを教授連や学生たちと討論したのを収めたDVD。

太田光は人類のためなどと大上段に構えるエリート教育のあり方や、世間との接点を失った象牙の塔を鋭く批判。もっと「共通の言語」で語るべきだとする。学者を、山奥で気に入らない作品を割る陶芸家に喩えたのが印象に残った。

これらに対して小林康夫教授は、基礎(知識だけでなく学問的態度)があってはじめて自発的な意欲が湧いてくることを説き、まずはしっかりした基礎を身に付ける必要を訴える。そして最後は10代後半に出会った感動が学びの核であるということで一応意見の一致を見ている。

学問に対して真摯であることと、世間に対して開かれていることの両立は難しい。蛸壺と大衆迎合のどちらでも、健全な状態ではないだろう。

この討論では、「教養」こそがその両立を可能にするものだと位置づけられていたが、「教養はどのようにして役立つか」にばかり重点が置かれ、「どんな教養が役に立つか」が触れられていないので片手落ちに感じた。

とはいえ、歯に衣着せぬ太田光の発言は鋭く、インテリぶったくらいの人間ではとても太刀打ちできない力がある。ところどころに笑いつつ、大きな刺激を受けた。

学問は本だけではない。多くの人と出逢い、さまざまなものの見方を学び、共通の言語で語ること。めまぐるしく価値観が変わっていく現代では、こうした態度がより大切になっていくのだろうと思う。

それにしても東大生、自信に満ち溢れているなぁ。私も見習いたい。

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