2007年9月アーカイブ

家の建築状況

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家の完成まであと2ヶ月ほどとなり、だいぶ形が見えてきた。窓の見晴らしをよくするため大きい窓に替えてもらったり、部屋の入り口を増やしたりといった調整も済み、そろそろ内装にとりかかる。

目下の課題は見積もり外の費用の捻出方法。地盤改良で土を全部入れ替えたのと、仮住まいのために電気や水道を引き直したのが見積もりに入っていなかったため、150万くらいオーバーしそうな感じである。

さらに、本堂のトイレを改修するにあたり、ついでに壁や屋根の一部など直してもらいたいところも出てきて、こちらでも費用増が見込まれる。

3月に開かれた檀家総会では、見積もり費用と分担案まで承認されているので、こうした見積もり外費用については正直お願いしにくい。もっとも、少し多めに予算を考えているので、どこまでを檀家さんの寄付でまかない、どこまでを住職の会計でまかなうか、今度総代で話し合うことになった。

ともあれ、もうすぐシステムキッチンも入りそうだし、完成がどんどん楽しみになってきた。日に日に寒くなっており、そろそろ暖房が欲しくなる季節だけに、暖かい家が待ち遠しい。

両祖忌

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毎年、9月29日は曹洞宗の開祖・道元禅師と全国に広めた瑩山禅師の命日法要が行われる。両禅師の命日を太陽暦に変換するとどちらも9月29日になるんだとか。いろいろ調べたが9月29日に揃わないのはどうしてだろう?

永平道元
正治2年1月2日(1200年1月19日) - 建長5年8月28日(1253年9月22日)
瑩山紹瑾
文永5年10月8日(1268年11月21日) - 正中2年8月15日(1325年9月29日)

それはさておき、今年は維那(いの)という大役を仰せつかる。導師に次いで法要をリードする役割である。ここ数年は若手が集まって前日にナラシ(リハーサル)をするので最低限みっともないことにはならないが、緊張したなぁもう。

維那は法要の後半、出班焼香から仕事が始まる。並んだ和尚様に順番に焼香を促す。終わって九拝したら今度は宣疏跪炉。ソロで長い長い漢文を読む。声の高さを途中で変えなければいけないポイントがあって難しい。

宣疏の前に、表紙を読み上げなければいけないのを忘れてしまう。アンドゥ、アンドゥ。懐からまた出して読み直した。あと読み方でワンミス。「住持法孫比丘」をいつも葬式で「住持比丘」と言っているものだから「住持比丘法孫」と間違えてしまった。

それから挙経・読経・御詠歌・回向。回向では「高祖承陽大師」というところを「高祖ど…(うげん禅師)」まで言ってしまった。道元禅師は大師号など願い下げるようなご生涯だったことから、梅花流では「承陽大師」という言葉を「道元禅師」に変換し始めているが、まだ正式には承陽大師が正解となっている。

ともあれ、無事に法要終了。法要をご覧になった各寺の役員さんたちにどれだけの法悦を感じていただいたか心もとないが、まずは心底ほっとした。来年は私が兼務するお寺で行われるのでまた緊張しそう。

親育て

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昨日の昼、スーパーマーケットの前でお母さんが小さい子どもに当り散らしているのを見る。「みーちゃん! あっちこっち行かないでお母さんのほうだけを見て歩きなさい!」……そんなムリだろ?

親も人間だから機嫌のいいときも悪いときもあって、そのつもりはなくても関係のない子どもに八つ当たりするかたちになってしまうことがある。どんなに怒っていても辛かったり悲しかったりしても、子どもにいつも笑顔で接することができたらいいなぁと思った。それを目指すのは修行が必要だなぁとも。

そんな日の夜、1才半を過ぎた長男が食事を床にぶちまける。肉だんごとシラタキをほおばってから、あまり美味しくなかったのだろう、テーブルにボトボト吐き出し、さらに手で床に払い落とす。床中、ひき肉とシラタキが散乱。

長男はけなげにシラタキを1本ずつ拾っては流しに入れているが、3本ほどでやめてしまった。足の裏にもひき肉ベタベタである。こちらも食事が終わったので雑巾で拭いては拾い、拾っては拭き。ひき肉がなかなか拾えなくてイライラしてきた。

やっと終わった頃に妻が帰宅。気が緩んだせいか疲れがどっと出た。そこへ長男が台所のおたまや包丁を取ろうとするものだから、つい大声で「メッ!!!」ビクッとする長男。ついでに奥にいた長女もビックリして機嫌を悪くしてしまった。

どうして私が大声を上げたか訊いた長女に、妻が「お父さんも人間だからね、機嫌がいいときもあれば悪いときもあるのよ」……お昼に私が思ったことと一緒じゃないか(笑)。

とばっちりを受けた長男は、妻がお風呂に行ったのでパイパイを欲しがって泣いている。申し訳なかったとダッコして、そのまま家事を続けた。さっき怒られたのは何でもなかったかのように、すぐ機嫌が直る長男。私も見習いたい。

そんな平日が終わって今日から山形。家族と離れるのは寂しいものだが、主夫にとってはひとつのリフレッシュとなっている。

違法行為

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水戸地裁から手紙が届く。開けてみると「宗教法人法違反事件 過料決定」という見出し。これはまた振り込め詐欺か?と思ったが、心当たりがあった。

先日、庫裏の建設で融資を受ける際、法務局から登記簿謄本を取ってきたが私の住所が都内のまま。住職になったときに登記して以来、一切手をつけていなかったからである。

そこですぐに住所変更の手続き。何度も通わなければならないことの多い法務局にしては1度であっさりと変更できた……のだが。

「左記の者は、左記法人の代表役員に在任中平成13年3月15日(←入籍して引っ越した日)から2週間以内にすべき代表役員の住所移転登記を、平成19年7月11日(←住所変更した日)まで怠った。」

へぇ、仰る通りでごぜえます、お奉行様。

というわけで罰金10,000円。ついでに連絡に使った郵送料80円も収入印紙で納めよとのこと。納付方法はおって検察庁よりお達しがあるそうで。

罰金よりも、違法行為を犯していたという罪悪感が強い。これって、運転免許の減点1くらいの話なのか、それとももっと重いのか、どうなんでしょう。

今度引っ越したら、真っ先に住所変更の手続きをしようっと。

上座部仏教の伝統を受け継ぐスリランカ僧が、大乗仏典である般若心経の問題点を挙げ、上座部の短い経典から空や無常の意味を説明する書。

般若心経の問題点は以下の通り。全部が間違っているわけではないが、お経に必要な理論・実践・向上への躾のいずれも欠けているという。

・観世音菩薩の修行内容を舎利子がチェックしているのに、観世音菩薩が舎利子に教えてあげていると解説されることがある
・色即是空は正しいが、空即是色は論理的に間違い(逆は真ならず)であるばかりでなく空を実体視している
・「無○○」は空というあり方とは異なる虚無主義
・無常なので不生不滅・不増不減ではない
・四諦十二因縁や悟りを否定すれば修行の階梯がなくなる
・無意味な呪文(ギャーテー……)は釈尊も否定している

一方、パーリ経典で「空」は特別な位置づけをされず、無常、苦、病、腫れ物、槍、災い、疾、他人のもの、壊れるもの、無我と同列で論じられる。真理を発見し我執を離れるプロセスで、このうちどれか1つの単語に反応すればよいと。

「無○○」は「○○が存在しない」という虚無主義ではなく、「○○に固執するな」という解説もあるが、それも否定される。苦しんでいる人に苦しみに固執するなといっても、その苦しみは現に経験されているのだから。まず苦しみをあるものとして正面から見つめ、それを乗り越える道を模索していくのがお経の役割であるという。

続いて説かれるパーリ経典では、上座部仏教が、こんなにも論理的で、しかも慈悲も持ち合わせていることに感心する。

日本仏教の要ということでつい絶対視しがちな般若心経を相対化し、釈尊に立ち返ることも意義あることだと思った。目から鱗落ちまくり。

如来蔵思想研究で知られる仏教学者・高崎直道氏と、仏教を分かりやすく説くことにかけてはピカイチの仏教思想家・ひろさちや氏の対談集。

実はひろ氏が東大印哲の修士課程に入ったとき、高崎氏が助手だったというときからの交友で、本書もひろ氏が仏教学の定説や枠組みから自由に自説や展開し、それに高崎氏が仏教学の立場から真偽をコメントするというスタイルをとっている。

もっとも、ひろ氏の知識も高崎氏が及ばないくらい広範で、初期仏典のエピソードや西洋哲学との比較は非常に面白い。

全体的な流れはこうである。現代の日本仏教は葬祭を中心に展開しているが、その理論的な裏づけがない。そこで輪廻(場所・時間・原因)をどう捉えるかが重要になる。続いて輪廻からの解脱=成仏はどのようにしてなされるかを考え、最後に輪廻と解脱を分ける善悪に踏み込む。

解脱(成仏)した者はこの世間にい続けるのか、その外側に出ていくのか。無明とは知識の無なのか何かエネルギーのようなものなのか。本書で答えは示されていないが、仏教を哲学的に考えてみたい人にとってはヒントがたくさん詰まっている。

天台本覚論や批判仏教に対する2人の考えもほかでは読めないだろう。世間がいくら批判しようが、縁起の理法に従い「あなたはそのまんまでいいのだよ」と言えるという。ただし悪しき業論は出世間の教えを世間に過大適用している時点で否定される。批判仏教は、信と法の優先順位が問題だという。

2人の対談を読んで思うことは、哲学的な理論付けをするためには、答えを出すのに難しい難問が多数立ちはだかっているということだ。答えの出ない問いを問い続けるのは大切だが、それだけでは現代日本仏教がよって立つ根拠として説得力がない。本書はひとつの哲学・思想としては知的刺激に富んでいるが、仏教を宗教と捉えるとき、もっと別の面からも考える必要があると感じた。

僧侶と性欲(3)

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裸写真ネット掲載された元交際女性、住職らを賠償提訴

世間の善悪と、出世間の善悪は必ずしも一致するわけではない。戦争において、世間は敵を殺すことを善とみなすが仏教はそれが必要なことであれ悪と言い続けなければならない(大半の僧侶はそれができなくて、今反省を迫られているわけだが)。

しかしこの場合、出世間の立場でも悪でしかない。まず不倫が不邪淫戒(浮気しない)に、ついで脅したことは不自讃毀他戒(人を謗る)に抵触する。さらにこの期に及んで「コメントできない」などとコメントするのは正語とも言えまい。

不邪淫戒の破戒は波羅夷(教団追放)というのが伝統であるが(もともとはセックスしただけで追放だが、日本仏教の僧侶形態では配偶者とのセックスだけは咎められない)、天台宗はどう対応するものだろうか。

もっとも、戒律は人を裁くためのものではなくて自分自身を律するためのものである。悪道に落ちて長時の苦を受けないように、性欲をコントロールしたい。

母のいない夜

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妻が出張で2晩留守。だからというわけではないが、火曜はヤポンブランドのテストプレイ会、水曜は水曜日の会で秋葉原に行ってきた。

先輩の和尚さんから「男の育児は、授乳以外何でもできる」と教わったが、夜はこの授乳がネックになる。保育所のお迎え、ご飯の準備、入浴、夕食、はみがき、洗濯物の取り込みまでは順調にいったが、寝かせるところが難しい。1才半の長男が母のいない夜を過ごすのは2月以来5ヶ月ぶり。

1晩目。20時を過ぎるころからお母さんが恋しい様子。乾いた洗濯物から妻の服を引っ張り出してきて「ママ、ママ」と泣き始める。う〜ん、せつない。昔読んだ誰かのインド旅行記で、牝牛に死んだ仔牛の皮をなめさせると牛乳がよく出るという話を思い出した(逆だが)。

飲み物をほしがるので麦茶を飲ませ、泣いたまま消灯。1時間くらい泣いていた長男も、さすがに泣き疲れて寝入った。長女も、さすがに泣いてはいないがごろごろしたり体をかいたりして寝付かない(いつものことだが)。

長男は真夜中に2度起きた。1度目はまた麦茶を飲ませて寝付いたが、2度目は「パイパイ、パイパイ、パイパイ、アァー〜〜」とおっぱいをほしがって麦茶を飲まない。たまりかねて口の中に鼻頭を押し込んだら、更に大泣きしたけれども諦めがついたのかやっと寝た。

いちおう9時に就寝して、5時に起きるつもりだったがもう眠くて6時半。しかもまた長男に起こされる。今度はパンを食べさせるとにっこりいつも通り。ついでに長女も珍しく早起きしてインターネットなどやっている。おかげで定時に保育所に登所。

2晩目も覚悟していたが、「ママ、なーい」と言うくらいで意外にもあっさりと泣かずに寝入る。夜中に起きたのは1回。麦茶を飲んですぐ寝た。早朝に起きたときはまた「パイパイ」と言って泣いたがパンを食べて機嫌を直す。一昨日の記憶はどこへやら。すごい適応力である。

おかげで私の緊張がほどけてしまって、のんびりやっているうちに保育所へは少し遅刻した。

私はしょっちゅう山形に行くので妻だけで2人見るのは毎週のようにあるが、日中仕事して、夜中起こされて、妻は(体力的・精神的に)よくもつなぁと感心。

それと夜中あれだけ泣いていた長男が、朝になると何事もなかったのようにニコニコしているのもすごい。ちょっと大人になったら、根に持つとまではいかなくても機嫌の悪さが続くだろう。赤ちゃんは仏様なのだ。

来月はもう少し長丁場の留守がある。でもまぁ、この子たちなら何とかなりそうだ。

『小さいおばけ』

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このお話をもとにしたドイツのボードゲームが賞などを獲得していたので購入。児童書だが150ページくらいあるので、小学校中学年〜くらいかな?

今は博物館となった古いお城に何百年も住んでいる小さいおばけ。人を怖がらせるようなことはせず、毎日夜の0時から1時間だけ出てきてお城の中で遊んでいる。夜おばけなので、昼のことは全く知らなかったが、好奇心旺盛なおばけは昼の世界も見たいと思っていた。それがある日、ふとしたことからお昼に目が覚めてしまう。

おばけという得体の知れないものなのに、時計によって活動時間が決まっており、後半はその謎解きをしていくお話になっている。ドイツ人らしい、ロジカルさが印象に残った。

モノクロがかえって雰囲気をよくしているイラストも秀逸。ふくろうのシューフーのような友達が私もほしくなった。

旅行業・インド料理店・落語で日本に深くかかわるインド人が書いたインドの紹介本。さすが日本人が知りたいツボを心得ていて、宗教を切り口に簡潔にインド人の精神や論理を知ることができる。

・お釈迦様の托鉢は目を伏せて鉢を差し出すのは相手が誰でも受けるという一切平等の教え
・苦行の目的は前世を思い出すこと
・アヌローマ制(カーストで上位の男性と下位の女性の結婚は許される)も3〜4世紀前に禁じられた
・相手の側の視点を認めるのがインドの哲学。だから異教徒も認める
・輪廻があるからゆったり生きれる。「今回の人生でできなかったことは、来世でやりましょう。次の人生も、次の次の人生もあるのだから」
・来世にはお金も名誉も持っていけないので、人徳が重んじられる
・天国に行くには息子も娘も必要なので、産児制限は天国に行く権利を奪う
・幼児婚はイスラム勢力に暴行する前に子どもを結婚させて親が天国行きを予約するために生まれた
・善い人間とは家族(場合によっては国家・社会・会社)の一員として家族のために献身する人
・インドでは普通、先に謝ったほうが負けといわれるが、ホーリーに謝れば負けではない
・「ノープロブレム」は神様がたぶんそうしたのだから言う。神様が決めたのでうまくいったのだから、「ありがとう」も「ごめんなさい」もあまり言わない

ものによっては、インド人一般の考え方なのかマルカス氏独特の考え方なのか判然としかねるが、それでも日本人と違う発想で人生を見直してみるのもよい。

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