お寺の若奥さん

昨日は近隣のお寺さんの結婚披露宴に招かれてきた。6年前の自分の結婚式をあれこれ思い出して懐かしくなる。
私の結婚式では、パンフレットにダンマパダの以下の言葉を印刷した。「家庭を築く」ということに自分の中でいくばくかの違和感があったからである。空々しかったというべきか。
piyehi appiyehi kudacanan maa samaaganchi piyaanam adassanam appiyaanam dassanam ca dukkham. tasmaa piyam na kayiraatha, hi piyaapaayo paapako yesam piyaappiyam natthi tesam ganthaa na vijjanti.(210-211)
(愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。)
しかしその後、もうひとつのダンマパダの言葉を知った。出家して独り歩むのがいいことは揺るがないが、パートナーをもつこともときに悪いことではないという。そして実際に私がいま感じていることでもある。妻に感謝。
nipakam saddhim caram saadhuvihaarim dhiiram sahaayam sace labhetha, sabbaani parissayaani abhidhuyya tena attamano satiimaa careyya.(328)
(もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。)
さて昨日の披露宴だが、式師さんの「愛妻、良妻、”共”妻(最初「悪妻」といい間違えそうになったが、それもまたよしではないか)」という話、新婦の恩師である商学部教授が「失敗をたくさんすること、自分のことをよく説明すること」という話、新婦の手紙の中の「お寺の若奥さんになる」という話が心に残った。
結婚が極めてプライベートな話になっている現代において、僧侶と結婚するというのは特別なことなんだなと実感。就職や入信も伴ってしまうのである。遠くに住んで仕事をもっている私の妻の場合はちょっと違うが、私が住職である以上彼女もお寺とは全く関係ありませんというわけにはいかない。
そんなことを考えると何だか気が重くなってしまったが、前途多難なほうが取り組み甲斐もあるというものだろう。短い人生のわずかなひと時を一緒に歩んでいく若き二人に幸多かれと応援していきたい。

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