挨拶は必要か

先日、お寺の近くにお坊さんが庵をかまえて住んでいるというので訪ねてきた。恩師のお兄さんでもともと知らない方ではなかったが、まさかこんな近くに住んでいるとは知らず驚く。普段はなかなか話せない仏教のこと(皮肉なことに住職同士では仏教の話をほとんどしない)をじっくり話せて満足した。
でも近隣のご寺院さんたちはそういう方がこんな近くに住んでいるというのを知らないようなのである。そこで何人かに「こういう方がいる」とお話してみた。お檀家さんを取るようなつもりはないと伺っていたし、よくよく言葉を選んで紹介したのだが好意的な反応がない。無関心かネガティブな感想ばかりだった。田舎は余所者に厳しい。
そこで近隣のご寺院さんたちと顔見知りになっておいたほうがよいのではないかと思い、そのお坊さんに、要職に就いている方2,3名に挨拶に伺うよう提案。私が案内するということで一度は乗り気になったのだったが……。
そのお坊さんがまず電話をしたところ、もう予定が入っているとかで断られたらしい。私には「日を改めてということになった」という連絡がきたが、いつになったか分からない。そこで今日電話してみた。
そのお坊さんはなぜか態度がずいぶん硬化していて、自分から挨拶にいく理由はないと仰る。反対に、挨拶が必要だという考えは江戸時代の一村一カ寺の発想だから、そんな古いことに拘るべきでないとも。
いつもなら「はいそうですか」と引き下がるところだが、相手はこういう議論をしても気を悪くなさらない方だろうと思ったので反論を試みる。これは江戸時代の発想ではなく、釈尊の時代から受け継がれてきた僧伽(僧侶の教団)の考え方なのだと。すなわち僧侶は集団としてひとつなのであり、集団である以上は組織がある。僧侶であるということは、組織の一員ということであり、同志と仲良くやっていくために挨拶は必要であると。
いつもだったら私自身が先輩から言われそうな台詞を、よく年配の方に偉そうに言ったものだ。「あなたに言われることではない」と拒まれたのは当然だろう。だがそのうち、そのお坊さんは孤高を貫こうとしている自分の態度が小乗的と言われれば分かると仰った。私の言おうとしていることは伝わったようだ。
議論はさらに続く。そもそも仏教は普遍宗教だから挨拶したほうがよいというのは視野が狭いと言うので、仏教は教理だけではなくて、地域に根ざした文化という側面も見なくてはならないと返す。文化である以上は様式があり、儀礼も形式だからといって無視できない。ましてや曹洞宗では「威儀即仏法、作法是宗旨」といって形を非常に重んじる。
後から振り返ればこれもあまりよい理由ではない。「文化」という指示範囲の非常に広いマジックワードを提出している時点でやや詭弁の匂いがする。対機説法が仏教の基本だが、仏教の教理に大きな価値を見出している方には、仏教の言葉で説得するべきだった。
そういうわけで結局伝わらず、挨拶に行くという説得は失敗。反対に「あなたは東大印哲出てて、奈良先生とか竹村先生の後輩なんだから、そんな小さいことに拘ってはいけないよ」と言われる。「一山の住職ですと、マクロな視点とミクロな視点の両方をもちあわせていなければならないんですよ」と、一応立場は理解していただいた。また遊びに行きます、こちらにも来てくださいと言って電話を切る。
20分ほどだったが、これだけまともに相手に反論しあったのにさわやかな気持ちで電話を切ることができたのは親子ほどの歳の差があったからかもしれない。自分の意見を否定されることと、自分の人格を否定されることの区別がつかない人が非常に多い。私もそうだったが、どんなに無茶苦茶でもダメ元で言ってみる人が多いインドでずいぶん”良い加減”になった。
理論と実践は、どちらが欠けていてもダメだと思う。経論を読んで教理への理解を深めつつ、ご寺院さんやお檀家さんと俗っぽいお付き合いもする。問題なのは、気がつかないうちにどちらかに偏ってしまっていることだ。今日の議論で、君子の礼儀がいつの間にか小人の媚びへつらいになってしまっているのではないかと反省したところである。
「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ一人歩め。(『スッタニパータ』)」

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