2008年6月アーカイブ

今日の鉄道

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今日から1週間、山形に滞在する関係で子供を一人、連れていくことになった。今回は久々の長男(2才)。
大学の講義中、預ける場所はないので途中で草加の義父母宅にお願いし、帰りまで見てもらうことにした。ありがたいありがたい。

というわけで今日の経路。
つくば→南流山→南越谷→新越谷→新田→義父母宅→新田→新越谷→南越谷→新秋津→秋津→元加治→大学→元加治→秋津→新秋津→南越谷→新越谷→新田→義父母宅→新田→新越谷→南越谷→南浦和→大宮→赤湯→羽前成田→家

鉄道14本、計11時間の長旅である。これから長男を迎えに行くところ。

上野泊

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今日は上野の安宿に泊まっている。本郷で論文集の発送作業、秋葉原でゲーム、夕方から会食。明日は朝から赤湯で研修会があるため、つくばに帰らず駅前に泊まることにした。
5500円ながら和室に布団敷き、大浴場もあり快適。昭和のレトロな感じがいたるところに漂っていて気に入った。明日は5時半起きで新幹線に飛び乗る。

今日はお寺で研修会。近隣の寺族さん(お寺の奥様方)が集まるというので、いつにも増して気合のこもった準備をした。私は前日の夕方にノコノコと参上したが、母は毎日のように草むしりや掃除でヘトヘトになっている。

大分からいらっしゃった布教師さんの法話を聞くのがメインだが、暑くもなく寒くもなく、天気も晴れていて快適な会になったと思う。新しい庫裡の和室も控え室としてうまく機能した。

休憩中、布教師さんに差別発言の注意点を伺う。全国を巡回している布教師さんたちが今一番気をつけているのがこの問題。無意識に言ったその一言で、聞く人を傷つけてしまってクレームがついたら(事情聴取はあるが)一発でクビなのである。

「箸は右手で、お椀は左手で」これはアウト。左利きの人に配慮していないという。正解は「箸は片方の手で、お椀はもう片方の手で」。「インドでは左手は不浄手といって衛生上の理由があるのではないですか?」「不浄手という考え自体がもうアウトです。」「合掌は両手の指をぴったりくっつけて」「お年寄りや指のない人などでそうできない人のことを考えている?」正解は「合掌はこのようにすることをお勧めしますが、できない方は心の中でそういうかたちにして下さい。」

そのほか経典などに出てくる文言にも気をつけなければならない。「眼横鼻直」は顔立ちがそうでない人に配慮していない。「上下」なども注意。『修証義』で説かれる三時業(今の行為の報いは、現世、来世、その次の来世に返ってくる)は、悪しき業論(現世の差別の原因を、前世に転嫁して現状肯定してしまう間違った説教)になる恐れが非常に高いので、「完璧に説明できない限り説かない」ということになっているそうだ。そんなことを言ったらさまざまな喩えが展開される『法華経』など、喩えの中には危ないのもあるので意味を分からないで読むしかない。

近年は単なるNGワードの列挙や言葉狩りというレベルを超えて、ひとつひとつの言葉の背景を深く考えるという研修を行っているそうだが、それでも聴衆が「何か差別発言をしないかな。言ったら即通報してやろう」と手ぐすね引いているような状況で法話をしなければいけないのはしんどい。そんな心境で法話の真髄である安心(あんじん)を説くことなどできるものか。そのうち布教師の資格を取るつもりだが、御詠歌の師範のほうが性に合っていると思った。

死者の思い

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昨日は所用で秋葉原に行って来た。会場は事件現場の交差点のすぐそばなので、報道ですぐ場所が分かった。衣姿で行って大悲心陀羅尼をあげてこようかと思ったが、頼まれていた荷物が多いのでいつもの娑婆服で。

通り魔事件からわずか3日後ということで、交差点には献花台が置かれ、警察や地元の商店会の方が立っていた。花だけでなくふたの開いたペットボトルがたくさん並んでおり、手をあわせる人も後を絶たない。商店会のジャンパーを着たおじいさんがお供えをしていった人に「ありがとうございます」と言っている。

新聞によると前日に地元の僧侶がお経をあげていったそうなので、私は黙祷をすることにした。現場で目を閉じると、冥福を祈るつもりだったのに亡くなった方の気持ちを想像してしまって恐怖の念が湧いてくる。何の理由もなく突然に命を奪われるということ。これまでの人生を振り返る間もなく、遺される人々のことを考える間もなく、ふたつの眼がたちまち暗くなる。

そこから先のことは想像がつかないが、息絶えるまでに少しでも何か思う時間が残されているならば「こんなところで死にたくない」と思うことだろう。もしその思いが死後も何らかのかたちで継続するとしたら、献花台にいくら花があがったとしても少しも慰めにはなるまい。もちろん、献花する人だって意識的であれ無意識であれそこまで分かっていて、でもほかに死者と向かい合う術がないからそうするわけだが。

死者の思いは死後も継続するのか。それとも身体の消滅と共に消え失せ、あとは遺された人の記憶や想念にすり替わるのか。前者ならばそれはどこに存在し、私たちがどうやって知るのか。そんなことを考えながらの帰り道だった。

表題の答えは、サーバーが日本の法律が適用されない国外にあるからというそれだけだが、管理人ひろゆき氏のインターネットの見方が面白かった。

Web2.0といってまるでインターネットが世界を変えていくような話になっているが、ひろゆき氏によればそれは絵空事である。グーグルもミクシィも既存の技術を上手に売り出したに過ぎない。CGM(消費者が生み出すメディア、「オーマイニュース」など)も、RMT(仮想通貨が実際の通貨と交換可能になる、「セカンドライフ」など)も自ずと限界があり、買いかぶりは禁物である。今後も技術的な発明は生まれないという。

そうなるとWeb2.0の革新性を紹介している佐々木俊尚氏の意見はどうなるのかと思うと、対談がこの本に入っている。この見方が結局ひろゆき氏の性格に帰せられてしまっているのは残念だが、インターネットの正義は多数意見か公共性かというメディア論は考えさせられた。ソーシャルブックマークに多数リンクされているからと言って、正しいとは限らないのである。

最終章ではプログラマーの小飼弾との対談が掲載されているが、テクニカルなのと話が飛びすぎているのとでよく分からなかった。業界関係者向きか。

祈り、働け

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今日は8時から法事、位牌開眼、法事、墓地開眼、祈祷と5件。うどんを食べて午後は夕方まで境内清掃に汗を流す。夕食後は明日の会議の資料作り。やっと終了。

昨日の午後に講演会があって、終わってからの質問で坐禅の功徳の話になった。坐禅をすれば精神が修養されて慈悲深くなったり、よりよい人間なったりするのかという問題である。講師は道元の句を引いて、それを目的としていてはダメだが、ひたすら打ち込むうちに自然とそうなるだろうと仰った。

境内の作務も坐禅と変わらない。これは修行だなどと考えないで、ひたすら目の前の作業に打ち込む。まるでそれが本能であるかのように。ほかに目的を設定した途端、雑念が混じってしまう。「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」(瑩山)

といっても実際はお客様が来るからみっともないのは嫌だと思って掃除しているだけで、何のことはない、見栄にすぎないのだ。掃除をしているうちに汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟った釈尊の弟子、周利槃特を少しは見習いたいと思う。

昨日、首都高の小菅ジャンクションに「追い越したって行き先は別」という相田みつをみたいな垂れ幕が張ってあって感心した。南直哉氏は「真理はひとつ」ということの危険性と無意味を説いている(『語る禅僧』)。世界には多種多様な宗教・宗派があるが、登り道が別なだけであって頂上はひとつだという話はよく聞くが、そんなことはない。人もそれぞれ別の行き先に向かって歩いている。たまたま途中で一緒に歩いたりするが、いずれはまた別れていくだろう。

箒で落ち葉を掃きながら、僧侶としても学者としても親としても趣味人としても中途半端な自分にはっとしてそれを思い出した。追い越した、追い越されたというところにばかり気になって肝心のこと、自分がどこに向かっているのか忘れているのではないか。

……そんなことを考えながらの境内清掃。普段運動していない体は悲鳴を上げたけど、よい気分転換になった気がする。

不飲酒戒

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僧侶を酒気帯び運転で逮捕

公務員だけでなく、民間でも飲酒運転はクビになりつつあるが、僧侶は法事で飲むのがひとつの仕事みたいになっているせいか(いい身分だ)処分はそれほど厳しくないような気がする。衣姿というだけで検問をスルーできた時代もとうに過ぎ去り、こうやってマスコミで取り上げられるようになると何か変わるかもしれない。

律蔵で飲酒は「波逸提(はいつだ)」に属し、長老のもとで懺悔すれば許されると規定されている。最も重い波羅夷(はらい、教団追放)からみると相当軽い。しかも現代においては「酒に溺れて生業を怠ることなかれ」と緩く解釈されている。飲酒運転は十分溺れていると思うが、飲酒自体も問われ続けるべきだろう。「この飲酒は利他行なのか?」と。

昨年は15回ほど飲酒をしてしまったが、今年は5月までで5回。内訳は寺の役員会で2回、法事で1回、友人と2回である。師匠のところで懺悔はしていないが、これからも節制していきたい。飲まなければ飲酒運転もしないですむし。

参考:仏教と飲酒の問題(浄土真宗やっとかめ通信)

牛久大仏

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近くにあって気になっていた牛久大仏に昨日行ってきた。家からは車で30分くらいである。全長120m、鉄骨に青銅製の巨大な阿弥陀仏。作ったのはまたもや浄土真宗である。東京ボーズコレクションNET縁など現代に適応した活動を展開しているが、すでに10年以上前にこのような建造物を作っていたとは先進的である。

120mもあって、成田発着の飛行機からもよく見える大仏さまだが、車で行くとなぜか途中までまったく見えず、霊園に入ったとたんいきなりそびえたってくる。車でぐるっと回って駐車場に入るのだが、どこにいっても追いかけてくるようで、お釈迦様と対決した孫悟空を思い出した。

JAF割引で大人600円、子ども300円。この2、3倍払ってもいい内容である。大仏さまの後ろに入り口があり、靴を脱いで入ると扉が閉じて1分間真っ暗闇になる。心の闇や煩悩を表すのだという。そして奥の扉が開くと一筋の光。阿弥陀仏の智慧の光である。建造の写真や模型を見て、エレベーターで地上85m、胸のあたりまで一気に上る。

東西南北に小さく開いた窓から眺める外界は、雨のため霞んでいたのがかえって天上界に来た気分を引き立てた(後ろに見えたのはツムラかどこかの工場だったが)。下の階のお土産屋さんはスルーしてエレベーターで3階へ。写経をしたり、法話を聞いたり、法要をしたりする施設もあって心奪われる。地震が来たらどうなるかは分からないが、大仏の胎内にいるという安心感に包まれる。悪魔外道繋留すること能はじ。

全館カーペットが敷き詰められており、空調も完備、照明も荘厳である。これはまた来たいと思った。

さらに大仏さまの奥には動物公園があり、お猿の曲芸を定期的に開催している。ウサギやリスの放し飼いも見ものだ。食堂あり、仲見世もありで子どもたちもすっかり満足。採算が取れているか心配ではある。

帰りは江戸崎近くのゴミ処理場に併設されている「湯ったり館」(焼却熱で沸かすのか?)で入浴。家族で久々に過ごすのんびりした週末となった。次に土日休みなのは1ヵ月後。

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