2008年7月アーカイブ

『坊主のぼやき』

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むちゃくちゃな生活を送ってきた作家が、体調を崩したのをきっかけに人生にリセットをかけようと僧侶になった。人里離れたところで心静かに修行に励む、なんていう理想とは裏腹の現実が待っていた!

まず最初のハードルは正座だったという。様式の生活で3分ももたないのに、僧侶は30分くらい当たり前。道場ではそれっきりだった。

道場を出てからは今度は法事や葬儀の忙しい日々が待っている。説教を始めると2,3分でもう誰も聴いちゃいない。でもやがて仏教や念仏で救済された人との出会いを通じて、自分なりの仏道実践を見つけていく。

「ぼやき」というタイトルとはかけ離れた、卑屈なまでの低姿勢ぶりが、上から目線で話してしまう典型的な僧侶と一線を画していて読み物として楽しめた。もっとも、それは作家としてのレトリックなのかもしれない。

葬儀の過剰なイベント化(孫の手紙などの泣かせ演出)に釘を刺しつつ、法要の力・美しさ・荘厳さをもっと磨かなければならないという意見、葬儀は生きている人のためと言い切る態度、祟りの否定など、すがすがしさもある。ただし葬儀のお布施が高いのは僧侶が全生涯をかけて行うからというのはいささか詭弁という気もしないではない。

僧侶の生活とお寺の仕組みをネガティブな視点も交えつつ説き明かす書。

第1章では肉食妻帯高級車、日本の僧侶がどうしてそんなふうになってしまったのかを建前と現実から説明。第2章は檀家制度と寺院運営について説明し、宗教法人としての課税・非課税の線引きを探る。第3章ではお葬式についてでお金のかからない自宅密葬の提案など。第4章ではお墓の今を見る。

第5章の本末制度と第6章の13宗57派では各宗派の問題点や改革の道筋などを考え、運営への平等な市民(檀信徒)参加を呼びかける。第7章では仏教再生に取り組む活動を紹介する。そして第8章では宗教法人法をもっと厳しくする、介護系のNPOを立ち上げるなどの提言を行う。今のお寺の凋落は僧侶だけの問題ではない。一般の人とともに新しい活動を模索していかなければならない。

既存の書籍の受け売りが多数という感じがなきにしもあらずだが、京都景観論争の結末、大阪・応典院の若者向けプログラムや現代仏教化ファイル、死後のことに関する生前契約を扱うNPOりすシステムなど現代の事例が紹介されていたのがよかった。

事務員

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35歳前後といえば、世間では中堅だがお坊さんの世界では赤ん坊もいいところである。80歳くらいでやっとありがたみが出てくるまであと45年もある。

だがこの年代によく回ってくるものがある。それはいろんなお坊さん団体の事務という仕事。私にも昨年あたりからぼちぼち回ってきて、3つになった。御詠歌の研究会、本山への奉仕団体、市の仏教会である。主な仕事は資料の作成、会場の予約、会員への連絡など。

前に御詠歌の先生から「頼まれたら断らず、私でよろしければと引き受けること」と教えられて以来、安請け合いしているが引き受けてみて結構たいへんだということがわかった。資料の作成は前役員から引き継いだテンプレートがあるが、会場の予約は費用や集まりやすさを考慮に入れなければいけないし、会員への連絡が文書だと発送の手間がある。そしてその一々を会長さんに確認しなければならない。

一方、我が家の家系は「泥棒来てから縄綯い」がモットー。中学校のテストは前日になるまで勉強する気が起きなかった私にもその血が流れている。インドに行ってからはさらに拍車がかかり、明日のことは明日考えるという風になってしまった。事務には一番向いていないタイプである。

先週末も夜遅くになってからハガキを印刷したり、思い出したように電話したり。何か忘れているような感じがいつもするのは気持ち悪い。世情に詳しくなるというメリットもあるが、これから5年くらいはこういう仕事が続くと思うとちょっと気が遠い。

『察知力』

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体格でも足の速さでも劣る中村選手は、味方や監督が試合中に何を求めているか「察知」し、それに対応する技術を磨くことでこれまでやってきた。そんな中村選手のこれまでとこれから。

中3のとき、チームが変化して組織的なプレイが求められていたのに気づかずひとりよがりなプレイを繰り返してユースチームから外されてしまった「トラウマ」が今につながる原動力だという。満足感・達成感をもたずにひたすら危機感を持ち続けること。自分には何が足りなくて、何が必要なのかを考えること。失敗をその後の未来に活かすこと。

「サッカーノート」を作り、短期(1年後)、中期(3年後)、長期(それ以上)の目標を書いておく。目標を設定してクリアするのはRPGみたいなものだという。楽しくなければ続かないものだ。ただし、それは楽なほうに逃避するということではない。未来の自分、なりたい自分を想定し、そのために必要な環境を選ぶこと。外国人が苦労するといわれるセリエAの下位チームに所属していたのはそういう理由だったという。

そして「察知」に次いでよく使われるのが「引き出し」という言葉。積み重ねた経験から生まれる対応力のことである。「たくさんの引き出しがあると、自分を信じることができるから、相手が誰でどんな場面だろうと、妙なプレッシャーを感じることはない。」「しかし、体験しただけじゃ引き出しは増えない。その体験を未来にどう活かすか、足りないことを補い、できたことをもっと磨く、そういう意識がなければ引き出しは生まれない。」(p.62)

「察知」とはいえ、日本人の察する文化には同意していない。「でも、日本人はあまり言い合わない。高いレベルの選手同士なら、要求し合うのも当然のことだと、受け止めることができるだろうけれど、多くの場合は違う。中には、要求されたことを、「怒られた」と感じてしまうことも多いと、聞いたことがある。(中略)何も言わないよりは、言ったほうがいい。何か言うことで、言われた選手は意識し始める。」(p.147)

中学生の作文みたいな構成ではあるが、それがかえって著者の意志の堅さを物語っていて気迫が伝わってきた。

今年前半の給与

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6月が終わると恒例の源泉徴収をしなくてはならない。うちのお寺は小さな事業者ということで半期に一度の申告になっている。例年だと正確な額は年末調整に回すことにして前年の実績に基づいて申告しているのだが、今年は庫裡建設の返済があるため、帳簿をエクセルに入れて計算してみた。

その結果、宗教法人としての前半期総収入(お布施)は422万円、総支出(経費・返済)は380万円。差し引きで42万円が給与ということになった。源泉徴収はゼロ。この給与でどうやって暮らしているのかと税務署が立ち入りそうなくらいである。

実際には毎月の返済分は妻が負担している(形式上は生活費を仕送りしている)ので毎月30万円弱を山形の生活費として使える。あとは貯金を取り崩したり、祖母の年金を融通してもらったりして急な出費をしのいでいるという状況だ。昨日の車検は10万来た。

お寺というのは物入りが多くなるとなぜかお葬式が増えて何とかやっていけるという不思議な法則がある。来年から私が子どもたちとともに山形に住むようになると年間60万円くらいの交通費が浮く反面、大学の給与がなくなるから差し引きゼロといったところだろう。後はまあ今の調子でやっていけそうだが、そのためには何より心身ともに健康でないと。

というわけで明日は仙台の遊友会へ。仙台に宿泊して明後日は上山で御詠歌を習い、かみのやま温泉から新幹線でつくばに帰ります。

『賭ける魂』

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競馬、カジノ、麻雀……若い頃からギャンブルにどっぷり浸ってきた植島教授の半生記。世界のあちこちでギャンブルに興じてきた思い出を振り返り、そこから人間の強さ・弱さを透徹した目で掘り下げる。

著者いわく、日本人はギャンブルを特別悪いことだと教えられてきたが、今や貯蓄思想はすっかり破綻してしまっている。中国人が2年間屋台を引いて200万貯めたらためらうことなくカジノにでかけ、500万にする賭けを打つ。勝てば翌日から店をもつことができ、負ければまた2年間屋台で働く。そういう割り切り方が日本人にはできない。日本人は負けを怖れすぎている。失うのを怖れているくせに、現状にもまた不満を抱いていることで、心が病む。負けることで得られるものは大きい。自分自身を発見する秘訣が隠されている。

ギャンブルは完全な運ではない。「何かを信じても勝てるとは限らないが、何かを信じないで賭ける人間はほぼ100パーセント負けてしまうのである。」また世間では運よりも実力で勝負すべきという考えがあるが、実力はつかうと確実に減る。だからギャンブラーは実力を温存し、なるべく運で勝つように心がけるのだという。「実力で勝つうちは二流」(p.55)というのは至言。

遊びをほどほどにするよりも、ほかのムダな時間を徹底的に排除したほうがよい。「遊んでいると自覚しているムダな時間のほうが、仕事をしていると錯覚しているムダな時間よりもはるかによい。(p.93)」同じく「仕事ならバカでもできるが、遊びはバカにはできない。(p.125)」

競馬で勝つ秘訣は、超大穴を見つけることである。そのためには負け続けても挫けない精神をもたなければならない。「ギャンブルの勝ち負けなんて死んでみなければわからんということである。(p.137)」

ギャンブルに否定的な日本で生きてきた著者の自己正当化を書き連ねただけなのかもしれないが、道楽人の見方は何かほっとするものがある。

今月1日発売の月刊誌『寺門興隆』(旧・月刊住職)に「ボードゲームを日本に広める青年住職の技」という記事で私が紹介された。私の生い立ちから『ウサギとハリネズミ』の遊び方まで詳しく紹介されていて、嬉し恥ずかしである。

インターネット経由で取材依頼があり、秋葉原で取材に応じた。数日前にはゲーム関係でインタビュアーとなったイエサブ下のルノワールで、今度は私がインタビューされる側というのも不思議な気分である。しどろもどろだったが、記事ではきちんと伝えられていた。さすがプロ。

終わってから上の階に移り水曜日の会で遊ぶ様子を撮影。つなきさんとかが冷やかすのでにやけてしまったが、幸い遊んでいる写真だけが掲載された。

取材でしどろもどろだったのは、お寺とボードゲームに接点がほとんどないという理由もある。先日、韓国の方と"Are you praying every morning?" "Yes, if I stay in the temple." "Playing every morning?!" "No, no, p'r'aying! ... but maybe that's why I p'l'ay boardgames."なんていう会話をした話でお茶を濁したが、なぜ住職がボードゲームをしているのかなんて考えたこともなかった。

お寺に人を集めるため? 人間の観察眼を鍛えるため? コミュニケーションスキルを上げるため? それとも単なる暇つぶし? う〜ん、どれも結果的にそうなっているのであって、目的ではないなぁ。きっとこういうのを遊戯というのかもしれない。無為であることが尊い。

遊戯(ゆげ)……菩薩の自由自在な活動。とくに仏国土から仏国土への移動。仏の境地に徹して、それを喜び楽しむこと。心のままに無礙自在であること。ゆきき。遊化とも書く。(佛教語大辞典)

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