遺偈

新しく買った絡子の裏が真っ白のまま年を越してしまったので、以前から作ろう作ろうと思って先延ばしにしていた遺偈(ゆいげ)をささっと作り、書き込んでみた。
遊空一期 至心詠己
成光無為 何以慙愧
(空に遊ぶ一期 至心に己を詠ず
 光と成りて無為 何を以ってか慙愧せん)
「菩薩であろうとしてこの空なる世の中を心の赴くままに過ごしてきた一生であった。真面目に自己自身を見つめ、伝えようとしてきたつもりである。今、光となって仏の世界にゆく。どうしてこれまでの人生を恥ずかしがることがあろうか。」というのが大意。
遺偈というのは禅僧の遺言である。いつ亡くなってもいいように、毎年元旦にしたためておくようが薦められる。たしなみというか。
住職になって10年、これまで150人の方を送ってきた。ほとんどがお年寄りだが、私より若い人もいる。そんな中で、自分だけは死なないという気持ちがどこかにある。頭ではそんなことはありえないと分かっているのに。
生死即涅槃、遺偈というのは死ぬ前の書置きではなく、日々新しい自分を生きるための覚悟なのだろう。
お正月から縁起でもないなどと言わず、皆さんも遺書を作ってみてはいかが?

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