2009年5月アーカイブ

お布施セミナー

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6月13日の15:00から明治大学でお布施セミナーが開かれる。葬送支援を進めるお坊さんの有志「寺ネット・サンガ」と、明治大学死生学研究所の共催。4月6日に築地本願寺で開かれた第1回セミナーに続く開催となる。

テーマは「「お布施」について困ったことはありませんか?」寺ネット・サンガに寄せられた相談で最も多かったのがお布施に関する相談とトラブルだったという。『仏教テレフォン相談10万件の中身 寺と僧への世間の期待と批判・苦情』という本があるがそこでも特に金額に関するものがよく目に付く。

問題なのは、お布施をするかしないかではなく、金額はいくらか、そしてその金額の根拠は何かというところである。

第1回のセミナーで講師をした二村祐輔氏は「一般の方が考えるお布施のお気持ちは六万五千円、僧侶が考えるお布施のお気持ちは三十万」と具体的な金額を出して語ったという。この溝がトラブルの種になる。

お布施自体の意義を説く僧侶は多いが、「お気持ち」がそれくらいの金額である根拠を説く者は少ない。金額の根拠として考えられるのは、地域の相場、喪家の経済事情、お寺の運営上の必要経費などであるが、お坊さんが贅沢や浪費を繰り返していれば説得力はない。それに、しかるべき根拠があったとしても、葬儀や説法がお粗末では納得してもらえまい。

実際の金額は地方によってかなり差があり、都市部にいくほど上昇する傾向がある。ただ金額がいくらにせよ、葬儀は安ければ安いほどいいというものでは必ずしもないし、ぼったくられているという疑いが払拭できない恐れも大きい。

結局、喪家と寺院のコミュニケーションと信頼関係が不可欠で、葬儀を出す前から日常的に築いておかなければならないという結論になるのかな。

昨日の日記で、亡くなった人は葬儀までに成仏するというモデルを提示した。この場合、人間に生まれ変わるということがどう組み込まれるかを考えなくてはならない。

成仏するということは、如来であるお釈迦様のいる兜率天(いわゆる極楽)に生まれるということで、我々の住む人間界とは境を異にする。そしてお釈迦様が再びこの世に戻ってこないのと同様に、こちらに戻ってくることはない。極楽は心の中にあるという禅宗の教えもあるが、それでも凡夫たちの心とは区別されるだろう。

そうすると、死後の道を2つ考えなければならない。成仏して本当の意味での還らぬ人となる場合と、人間界に戻ってきて生まれ変わる場合とである。この区分は日本人なら感覚的に受け入れられる考え方だし、インドの輪廻説の嚆矢である「五火二道説」や、道元禅師の『正法眼蔵』道心の巻からも支持される。

ただし、生まれ変わるとしても昨日の日記の1番目のモデルを採用しない以上、生まれ変わるのは人間界か天界(天国)とする。「人身得ること難し」といって、仏教では古来より人間に生まれ変わる確率が低い(つまり動物や虫に生まれ変わるほうが多い)ことを述べてきたが、少なくとも受戒して仏教を実践する者は、人間に生まれ変われると信じたい。

それでは人間に生まれ変わる場合、いつ生まれ変わるかというと、インド的な49日以内と日本的な33年以降という考え方ができる。

49日以内だとすれば、魂がどこかのお母さんの胎内に入って約9ヶ月、ちょうど一周忌のあたりに生まれてくる計算になる。かなり早く、遺族は悲しむ必要がなくなる(野島伸司『スコットランドヤード・ゲーム』)。ただ、親戚に出産予定がない場合、赤の他人にならざるを得ないという問題はある。

一方、33年以降だとすればずいぶん長く、1世代飛ばして生まれ変わってくることになる。亡くなったおじいちゃんはひ孫くらいになるだろう。この考えなら一族の中で再来する希望が持てるかもしれない。

先日どちらがいいか、お寺に来ているおばあちゃん方に聞いてみたが、80年以上も生きているので33年くらい休みたいそうである(笑)。一方、若い人やせわしい人は49日以内を選びそうだ。本人の希望が閻魔様に通るかは分からないけれども。

この生まれ変わりもたくさん繰り返していれば、やがて嫌気が差してくるか、すばらしい縁にめぐり合ってもう生まれ変わることがなくなるのであろう(佐野洋子『100万回生きたねこ』)。そのときが本当の成仏である。

こうして考えると、「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」の「諸仏」は、将来仏になることは約束されているが、まだ輪廻していたい存在、つまり「菩薩」と考えたほうがよさそうだ。亡くなった人々はぜひ菩薩として生まれ変わり、自他共に幸せな人生を送ってほしい。

以上、この頃法事でいろんな話をしているうちに頭の中が混乱してきたので整理のために記す。

法事を行うにあたって、亡くなった人をどうみなすかという問題がある。大きく分けて2つあると思う。

1つ目は亡くなった人は浮かばれていないので成仏してもらうために供養しなければならないという考え方。

我々は六道を輪廻する存在であり、欲が深かったり、悪いことをしたりすれば餓鬼界、修羅界、畜生界、地獄に生まれ変わる可能性がある。人間の業は深く、無欲で悪事を全くしていないなどという人などいないから、その可能性は高い。

そこで、親族が本人に代わって善行を積み、その功徳を回向することで亡くなった人にポイントを貯めてもらい、そういう世界から脱してもらうために法事を行うと考える。

この代表がお盆で、餓鬼界に落ちた母を救う話が載っている『仏説盂蘭盆経』は、中国撰述の偽経であることが判明しているが、そのオリジナルであるパーリ経典『餓鬼事』の存在を先日知った。お釈迦様が、餓鬼界に落ちた亡者を救う方法を提示していたという。

たとえお釈迦様に遡る教えだとしても、このモデルは、宗教者にあるまじき恫喝に取られかねない。「ご先祖が苦しんでいます。お布施をして功徳を回向してください」というのは、遺族の不安を煽って儲けようとするインチキ新興宗教と変わらない。また、悪業を強調すれば「悪しき業論」に陥る恐れもある。「病気や貧乏で苦しんでいるのは前世に問題があったからだ」というのは、現状を肯定し社会問題や人権問題をうやむやにしてしまう。

そこで2つ目、亡くなった人は葬儀までに成仏しているという考え方がある。浄土真宗的な考え方に近いが、曹洞宗でも「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」として受戒=成仏とみなす。「即」がポイントで、次第に成仏していくということではなくていきなり、そのままである。「頓悟」の伝統教説とも一致する。

このモデルでは、成仏のために法事をする必要はもうない。もっとも「修証一如」という考え方もあるから、法事をし続けている限り成仏しているのであって、法事をやめれば成仏も止まると言えなくもない。しかしそれも、供養する側とされる側が一緒に修行し、一緒に成仏するのであって功徳のやり取りをするのではない。

ではどうして法事をするのかというと、亡者に功徳などを与えるのではなく、逆に亡者から何かを頂く、あやかるためであると考えられる。頂くものは思い出であり、教えであり、恩である。仏壇やお墓で静かに手を合わせ、亡くなった人が今の自分を見たらどんな顔でどういう言葉をかけるだろうかとあれこれ想像する。「死者の声を聞く」という作業である。そしてそれを励みにして、恩返しのつもりでこれからの自分を生きていく。

葬式や法事は生きている人のためにするものだという意見もあるが、亡くなった人を偲ぶことができなければ手間隙をかけて葬式や法事などできない。亡くなった人はやはりそこにいてもらわなければならない。

一見してよさそうなこのモデルも、信じれば信じるほどモラルハザードの恐れが高まる。どんな悪いことをしていても、自堕落な生活でも、死んですぐ成仏できるなら、善い生き方など目指さなくてもよい。だったら他人の迷惑など顧みず、好き放題のことをして死を迎えようということになってしまう。もっとも、このモデルを聞いてタガが外れるほど、普段から神仏を畏れて生きている人も少なくなってきているのかもしれないが。

この頃の法事の法話は、2つ目のモデルに基づいている。一番の理由は、遺族の安心が故人の成仏につながると考えられるからである。循環論法のようになるが、故人が成仏していると和尚さんが言えば遺族は安心し、遺族が安心すればそれを見た故人は成仏できる。だから成仏を先取りするのである。

家庭訪問

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月曜日は長女の担任の先生が家庭訪問にいらした。ぎりぎりまで用事があり、先生より遅れて帰宅。妻と長女が応対し、母がお茶を出す。

先生は優しい方で笑顔でお話されているのに、私は妙に緊張。自分が小中学生の頃、月1回は何かやらかして(友達を殴ったとか、ガラスを割ったとか、スカートめくりとか、ファミコンのカセットを有料で貸し借りとか)さんざん叱られていたので、家庭訪問というとそんな悪事の数々を親の前で暴露されるのではないかとびくびくしていた。それがいまだに尾を引いているようだ。

身に覚えがないけど、言われてみれば確かにというような件で誰かに怒られるのではないかという感覚は、今回に限らず、私の基層にずっとある。父親がいないというのも関係しているのかもしれない。それに実際、お寺関係や趣味関係でいまだに怒られることもあって、なかなか克服できていない。こういう感覚は普通なのだろうか。

ひきつった笑顔の父の横で、先生に向かって得意気にいろんなことをしゃべる長女。先生によれば、全く問題ないとのことで、たくさん褒めて頂いた。これは時代の流れか、この子が優等生なだけか。

先生がお帰りになるときは、「これからもどうぞよろしくお願いいたします」と床に手をついてご挨拶申し上げた。まるで自分をもう怒らないでと嘆願しているかのように。

あるお寺さんで、寺院会計と護持会会計を一緒にして、総代が使い道を決めたいという声があったという。つまり、大きな建物を作るので、寄付を低く抑えるために和尚にもっと出させたいということらしい。

寺院会計とはお布施のことで、住職の裁量で経費・給与・貯蓄に分配される。護持会会計とは、いわゆる寺費のことで、本山に納めるお金や保険、境内の整備などに充てられる。どちらもたいていの場合、毎年決算額の作成が義務付けられているが、寺院会計のほうはわざわざ配布しないこともあって(請求があったときのみ開示)、中身をよく知らない人が多い(だから「坊主丸儲け」と言われる)。

その寺院会計の分配は、誰が決めるのが正しいのだろうか? お布施の使い道は誰が決めるべきか?

規則上では、宗教法人の責任役員である。責任役員は複数おり、代表役員である住職もこれに含まれる。住職以外の責任役員とは、法類の和尚さん、寺族、檀信徒代表などであり、総代であることが多い。つまり、住職と総代の協議の上で決めることになる。責任役員の議決権は平等なので、住職がイエスといっても総代全員がノーといえば通らない。反対も然り。

したがって「和尚さん、ちょっとお布施たくさんもらってるんじゃないの? その中から百万くらい今度の建物に寄付しなさいよ」という意見が総代の大勢ならば、住職は百万出さなければならないことになる。

上述のお寺さんではまさにそういう状況になっている訳だが、住職はこう言っていた。「そのお布施は、私がお経を読んで頂いて来たものです。お経を読まなくても皆お布施をお寺に納めて下さるなら文句は言わないけれど。」

お布施は確かに喜捨であって労働の対価ではない(その点で「お経料」「戒名料」という言葉は正しくない)。だが、住職の活動によって生まれたものであることも間違いはない。住職のお経や法話を聞いて、あるいは日ごろの振る舞いを見て、この人のもとにお金を送れば意義がある、世の中に役立ったと言えると判断する。でなければドブに捨てるのと変わらないことになってしまう。

であれば、そうやってお布施を生み出した住職の裁量を、不文律的に尊重してもらうほうがよいということになる。もちろん住職はそれに甘えて私腹を肥やしてはいけない。できるだけよい使い道を自律的に考えなければならない。このあたりが、会社とお寺の違いと言えそうだ。

問題は、住職が「この和尚なら使い道を任せても間違いない」という信頼を総代から勝ち得ているかであろう。パチンコ入り浸り、高級外車を乗り回し、夜は飲み屋を飲み歩きでは、お布施も泣く。

山形に帰ってきてから、私の収入はお寺一本になった。遊ぶのは副収入でですという言い訳はもう効かない。ストレスをためないように、かつ無駄遣いをしないようにバランスよく使っていきたい。

長井線で小旅行

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休日なのに珍しく法事がなかった本日。母校の吹奏楽の定期演奏会でも行こうかと思っていたら訃報が入る。入棺は夕方なので米沢まで行くのは無理。

悔しいから夕方の入棺まで家族で小旅行だ!ということで、長井駅まで車で行って長井線で荒砥駅まで。いつもは羽前成田駅で降りているので、その先は子供の頃以来かもしれない。

長井線は短い時間だったが、観光客がずいぶん乗っていた。小桑〜鮎貝間の緑のトンネル(今泉〜西大塚間並みの迫力)、四季の郷〜荒砥間の最上川にかかるイギリス鉄橋(当時日本には技術がなくてイギリス製を使ったとか)が見ものである。長男は窓にしがみついて立ちっぱなし。

荒砥駅から国道まで20分ほど歩いてホットモットで弁当を購入。さらにやまりできびだんごを買って、荒砥駅前で食べる。道中、子供たちはタンポポの綿毛とばしに夢中だった。

1時間半の滞在で上りの長井線に乗り、再び長井駅へ。駅前に再オープンした喫茶店「山の下」で休憩。子供たちは抹茶アイス、私はクランベリージュース、妻はマンゴージュース。隠れ家みたいな感じでよい。

それから親戚の家に寄って、藤川スタジオで撮ったばかりの写真のプリントを頼んで帰宅。入棺にはぎりぎりだった。

明日は朝から河川清掃、法事、出棺、法事、法事と夕方まで余裕がないので今日がこどもの日である。

「頭の良い人」が最大の利益をもたらす使い方が想定された黎明期、才能を世から知られない人々を浮かび上がらせた成熟期を経て、現在は「普通の人」「バカ」向けの暇つぶしとして使われることが大勢となったウェブ。結局話題はテレビばかりだし、ウェブだけで商品の販促は無理。そんな現実と、ネットの世渡り法を指南する。

第1章「ネットのヘビーユーザーは、やっぱり暇人」では、「お前にどんな迷惑をかけたんだよ」という輩が有名人や大企業に怒ってバッシング。もう何を言っても無意味な批判は収まらない。「すべてがフラットでフェアな世界であるネットでは、『誰が言うか』ではなく『何を言うか』が重要」は夢物語である。

第2章「現場で学んでネットユーザーとのつきあい方」では、プロの物書きや企業にとって、ネットはもっとも発言に自由度がない場所であること、ネットが自由な発言の場だと考えられる人は、失うものがない人だけであることを例示。正しいことも、誹謗中傷を恐れて書けない。

第3章「ネットで流行るのは結局テレビネタ」では、「テラ豚丼」「アサヒる」「スイーツ(笑)」などネットで流行っていても一般にはほとんど知られていない現状を報告。ネットの常識が一般といかに乖離しているか。

第4章「企業はネットに期待しすぎるな」では、うまくいくための5か条を提示。特にネガティブな書き込みをスルーする耐性(バカは無視してOK)、B級なネタを発信する開き直りが強調される。ネットでは納豆、チロルチョコ、ガリガリ君が御三家なのだという。ネットは居酒屋のような場所で、居心地の良い店に自然と人が集まり、楽しんでいく。そこに相応しいのはスーツを着た中年男の能書きではなくて、キャンペーンガールやイケメンのノリのよいトークである。

第5章「ネットはあなたの人生をなにも変えない」では、ネットに対する過剰な期待を戒める。ネットによって生き方や趣味嗜好は細分化されておらず、むしろ均一化されている。ネットの進化はもう何年も前から止まり、リアルな生活にさほど大きな影響を与えていない。

ブログ炎上の顛末やオーマイニュース閉鎖、足クサ川柳など、ネットで起こっている最近の出来事がたくさん例示されていて面白く、意見に説得力があった。佐々木俊尚氏がウェブの明るい未来を描く著書がこの頃胡散臭く感じられてきたのは、時代の変化によるものなのかもしれない。

いろんなブログをチェックしていると、日本語が下手だったり、全然ものを考えた形跡がなかったりして読む価値を感じないものが確かに増えている。そんなものに時間を取られるよりも、「リア充」ができるならネットはほどほどにしたほうがよいのかもと、この頃ずっとパソコンの前に座っている生活を反省した。あと、自分のブログではもう少しB級ネタを心がけようかな。

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