2009年7月アーカイブ

住職あいさつ

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お寺の護持会だよりに寄稿。

セールス

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先日はコピー機のセールス。
「コピーする枚数を考えると、出していいのは月2〜3千円までですね。それだとリースもないでしょう。中古のリースはないですか」
「中古というとなかなか。プリンタやファックス機能もついていますよ」
「はほとんどパソコンで印刷しますし、プリンタは壊れても1万円くらいで買えますから」
「ほかのご寺院さんでもご利用いただいております」
「ええ。よく置いてあるのを見ますが、たくさん使っているのはほんの一部のようですね」
「ははは(笑)」

今日は衣のセールス。
「私は立派な衣を着ることにためらいがあるんですよ。お釈迦様の教えに背くんじゃないかと。見かけは安そうで、本当は高い衣なんてありませんか?」
「えーと(笑)。糞掃衣を作ったことがあります。先代さんが使っていた衣やお袈裟を頂いて、つぎはぎして袈裟にするものです。染め直して、刺繍を入れて、刺し子も入れるので、結構かかります。」
「おいくらだったんですか」
「94万円です。しかもその方は2枚作りました」
「うーん、それは高くないかもしれないですね。自己満足かもしれませんが」

もちろん笑顔でやりとりしたわけだが、もしかしてどんどん偏屈な和尚になってる?

赤湯泊

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御詠歌の先生の祝賀会で赤湯温泉に一泊。一次会、二次会、ラーメンと来て今風呂に入ったところ。お酒は一次会のみにして、二次会からはウーロン茶だったので二日酔いは最小限に抑えられそうだ。

一次会では、先日の結制の本則を解説された林泉寺の方丈様に、その真意を単刀直入に伺った。お釈迦さまが「ここに寺を建てよ」といったら帝釈天がやってきて草を1本立て、「これで寺が建ちました」といった話である。この話を収録する『従容録』には、お釈迦様は主人公だから帝釈天が客としてやってきてお寺が建ったとあるが、いまひとつ腑に落ちなかった。また、布教は所を選ばずという解釈もあるが、分かり易すぎて真実味がない。

方丈様の答えは「その寺は空無である」という、予想をまったく裏切るものだった。帝釈天が作った「寺」は畢竟草であって、寺ではない。しかしそれならば本当の「寺」があるのかといえば、いくら大きな伽藍があったとしても、それは木や瓦の集合であり、寺ではないと言えるだろう。「寺」であるためには、寺として用い続けることが必要となる。それがきっと仏教的なあり方なのだろうと思って腑に落ちた。

でも方丈様は「あまり深く考えないように」と注意された。それは酒の席だからということだろうが、実際深く考えれば疑団や戯論に陥る恐れがあるだろう。よく考えて深く考えないようにするのは、よくよく難しいことである。

それとまったく同じ構造をもった話が二次会で出た。地元に住んで10年も経てば世間づきあいも少々ではなくなる。中には出たくない会合もあるだろう。そんなときに使う口実が、世間では見抜かれてしまったり、たとえ見抜かれなくても自分の首を絞めてしまうことがあるという話だった。例えば「来客があって」なんていうのは見え透いているし、その時間を来客があるように過ごさなければならなくなる。

そんなときに必要なのは鈍感力とでもいうべきもの。つまり自分自身でも気付かない無意識の言動である。すべてに意識を払っていては疲れ切ってしまう。しかし意識して無意識の領域を増やすというのは難しい。

努力して無意識に行ったり、深く考えないようにするということ。またその努力も努力しないでできれば望ましい。望ましいと思うことも本当はないほうがよい……。パラドキシカルだが、これから地元で長い間やっていくときのコツがここにあるような気がした。

「宗教共同体が常に危険をはらむのは、たった一つの答えがあるという前提で集まっているからだと思います。答えを認めない、わからない人はダメ、というやり方でグループを閉鎖してしまいますから。ここに大きな危険がある。しかし、同じ問題を抱えている人間が集まろうよという話になれば、方法は何でもいいわけです。一生懸命自分のことをやっていれば、それが人につながっていく道があるんじゃないかと思っているんです。」(28ページ)
「ところが現在、寺院も社会の変化を否応なく経験するわけですから、再度体系を開いて社会とつき合わせないと、仏教に先はありません。だから私は、外に学びながら仏教の内部に引っ張り込み、また内部から出たものを外の人に見てもらうという作業を、やりたいと思っているんです。」(56ページ)
「多くの人が、自由というのはどうにでもできることだと錯覚しています。例えば、フリーター。あれはフリーでも何でもない。「ドリフター(漂流者)」ですよ。」(97ページ)
「パズルのように凸凹を短絡的に結び付けてはいけませんがね。というのは、存在における原初的な喪失というのは、代償物では埋まらないと思うからです。」(104ページ)
「ブッダの生き方や道元の生き方を見ていて思うのは、最後の土壇場になすべきことをなし終えたと思えるかどうかですな。ここで自己肯定ができるかできないか。腹の底から自分がなすべきだと信じたことをなし終えたんだと断言できるところまでいったら、この世における解脱だと思うんですよ。」(125ページ)
「私は昔から、理解するとかわかるというのは、わからないことを隠すことだと思っています。むしろ「わからない」というのが考える前提だと思う。」(138ページ)
「ブッダが因果を説くのは、「あらかじめ因果によってものごとは決まっている」ということではなくて、人が努力し未来に希望を持ち、自分が自分として立っていくために絶対必要な考え方だからというわけです。だから、因果を信じろと。」(142ページ)

心に響く南語録。

一方、対談している茂木氏は終始圧倒されているようだ。「クオリア」「偶有性」など茂木氏が唱えてきた概念について南氏が積極的に質問しているのに、茂木氏はそういう概念を説明する立場であるはずの脳科学者であることを放棄し、まともに答えていない。脳科学者という立場を離れ、一個の人間として何か言おうとしたようだが、「生きる実感」などというステレオタイプな言葉しか出てこなかった。それならば南氏と同じ土俵に下りずに、あくまで脳科学者として自身の意見を説明するほうがよかったのではないかと思う。

法事の歴史と名前

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 インド仏教は出家主義で、死者儀礼には関わりませんでした。しかし中国に伝来したとき、社会に受け入れられるために、儒教が説く「孝」の観念を無視することはできませんでした。こうして孝を最高の道徳として重んずる中国社会で、仏教は変容することになります。

 そこでインドで説かれていた中陰説(死後四十九日までに転生するという説)を取り入れ、5〜6世紀に『梵網経』や『灌頂経』など、追善供養を勧める経典が作られました。そこでは十王(地獄の10人の裁判官)信仰と五経のひとつである『儀礼』も取り入れられ、三回忌までの10回の追善供養(初七日から四十九日までの七日の行事、百日、一周忌、三回忌)が数えられました。

 初七日から四十九日までは七日ごとに供養を行いますが、これはインドで七日という数字を時間の単位として重視していたことに基づきます。そして『儀礼』においては、百か日に死者の霊を祖廟に合祀し、合祀してから12ヶ月後と24ヶ月後にまつりを行うことが規定されており、この習慣が取り入れられて百か日、一周忌、三回忌となりました。

 このように中国では儒教の習慣に基づき、三回忌が最後の供養になっています。

 日本では、平安時代に天皇・貴族社会で一周忌まで行われていた記録があります。鎌倉時代になると中国社会の影響も受け、武家社会を中心に三回忌まで行われるようになりました。しかし日本はこれに留まりません。

 12〜13世紀になると、七回忌、十三回忌・三十三回忌の3つが追加され、供養の数は13回に増えます。そしてそれぞれの守り本尊として十三仏が配されました。七回忌はインドの七日という単位を年に拡張したもの、十三回忌は七回忌から数えて七年目にあたるものとして追加されたと考えられます。三十三回忌については、観音の三十三身や、釈尊が三十三歳で忉利天にのぼってマヤ夫人に説法したという説明もなされていましたが、日本の「弔い上げ」(死霊は三十三年をかけて安定・浄化されて祖先神になる)という民俗によるところが大きいようです。

 さらに16世紀には十七回忌、二十五回忌を加えて十五仏事とし、江戸時代に入ると二十三回忌、二十七回忌、五十回忌が加えられるようになります。これらは七回忌の考え方の応用で、「名の七」(一の位に七がつく名目上の七)と「数の七」(七のつく年忌から七年目)の組み合わせによります。二十五回忌、五十回忌はきりのよい数字、または神道の「まつりあげ」に関係しているのかもしれません。

 さらに現在では、三十七回忌、四十三回忌、四十七回忌というように五十回忌まで全部の七を数えるお寺や、百回忌、百五十回忌、二百回忌、三百回忌……と五十年や百年ごとに法事を行うお寺もあります。全部あわせれば五十回忌まででも21回の供養になりますが、実際は取捨選択があります。どの回を行ってどの回を行わないかは、宗派によって設定されているわけではなく、住職の裁量に任されていることが多いようです。また、時間が長くなるにつれて追善供養よりも報恩供養という意味合いが強まります。

 さて、これらの供養にはそれぞれ法要名がついています。『諸回向清規』(1566)によると、以下の名前が確認できます。たくさんありますが、それぞれ冒頭に挙げた名前が、今日禅宗で一般的に用いられている名前です。

 名前の少ない十七回忌、二十五回忌、百回忌は本尊も定まっていないものもあり、後から追加されたことを示唆します。また、七回忌ではなく七周忌になっているところもどうしてそうなのか、興味深いところです。

初七日 初願忌・所願忌・始善忌・哭添忌
二七日 以芳忌・以訪忌・到彼忌・總分忌
三七日 洒水忌・孝力忌・光喜忌・何經忌・阿經忌
四七日 阿經忌・阿況忌・相等忌・延芳忌・遠方忌・暗命忌・何經忌・向圍忌
五七日 小練忌・小斂忌・芳明忌・小飯忌・離延忌・今離忌・重苦忌・法命忌・上賓忌

六七日 檀弘忌・前至忌・脱光忌・休新忌
七七日 大練忌・大斂忌
百箇日 卒哭忌・出苦忌・幽回忌・百朝忌・齒若忌
一周忌 小祥忌・邊哭忌
三年忌 大祥忌・休安忌
七周忌 休廣忌・周遠忌・遠波忌・超祥忌・七霜忌
十三年忌 稱名忌・遠方忌・寂語忌
十七年忌 慈明忌
二十五年 大士忌
三十三年忌 本然清淨忌・冷照忌・阿圓忌・須陀圓忌
百年 一會忌

さらに、後から付加された法事を中心に、以下のような名前もあります。

一周忌 益光忌
三回忌 常光忌
七回忌 本光忌
十三回忌 永空忌・真光忌
十七回忌 義光忌
二十三回忌 思実忌・円光忌
二十五回忌 永光忌
二十七回忌 忍光忌
三十三回忌 大然忌・徳光忌
五十回忌 阿円忌・道光忌
百回忌 大光忌

 それぞれの名前の由来について解説されている書物は、浅学のため分かりませんでした。ただし以下のものは、儒教からの影響が見られます。

小斂忌(三十五日)……儒教では死の翌日、衣服を着替えさせ、安置場所を移し、「奠(てん)」という肉などの供物を供える日とされる
大斂忌(四十九日)……儒教では死の三日目に行われる、小斂の儀式を大きくしたもの
卒哭忌(百か日)……儒教では死者の霊を祖廟に合祀する日(百日目を推奨)の前日のまつり。これ以降、哭するのは朝夕の二度と定められる
小祥忌(一周忌)……祖霊を合祀してから1年後のまつり
大祥忌(三回忌)……小祥から1年後のまつり

 三十五日と四十九日についてはずれが大きいですが、そのほかの時期から見ても、また意義から見ても、これらは儒教から取った名前であることが分かります。儒教の百か日は、現在我々が営んでいる四十九日に近い内容です。

新潟の東龍寺様の法話「失ってはじめてわかる尊さ」には以下のように解説されており、ためになりました。

開蓮忌 佛になって蓮の上に生まれる事を願う
初願忌 不動さま、次の生まれる処をはじめて願う
以芳忌 芳は煙り、つまり、仏様の食事。
洒水忌 文殊様の智慧の水を灌いで頂き罪業消滅の供養
阿経忌 普賢様に阿弥陀様と同じ、光の存在となってを見守ってほしいと願う
小練忌 閻摩様の小吟味
檀弘忌 弥勒さまが来れるまで、残された者は追善の布施行を誓う
大練忌 自他共に薬により心も體も安らぎ救いを願う供養
卒哭忌 観音様が、もう人前で泣くのを卒業しなさい
休広忌 広く休息すること
称名忌 となえ(となへ)。おおやけにいう名前
慈明忌 慈しみを明らかにする事
思実忌 本当の事を思い巡らす。
清浄本然忌 人の手を加えず自然のままであること。もともとのすがた
阿円忌 阿は始め、円くなる。尽界にひとしくなった

参考文献:渡辺章悟『追善供養の仏さま十三仏信仰』渓水社(1989)

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