坐禅

紀尾井シンフォニエッタ寒河江公演

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紀尾井シンフォニエッタ東京の山形公演が、来月の6日(日)の午後から寒河江市民文化会館で行われる。私は裏方でのお手伝いで、いつもどおりプログラムの原稿作成と、当日の司会をすることになった。

プログラムはモーツァルトのフルート四重奏曲、ホルン五重奏曲、アイネ・クライネ・ナハトムジーク、そしてチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。私が当初希望していたフォーレかラヴェルのパヴァーヌは(予算の都合で)叶わなかったが、それでも十分魅力的なプログラムである。ベートーヴェンは眠くなるし、ブラームスは落ち着きが悪い私だが、モーツァルトはすごく現代的で楽しい。チャイコフスキーはあのくどさが好き。

その曲解説原稿。プログラムの曲解説は学生時代からやっているが、当時は図書館で調べて書いていた。今はウィキペディアがあるから便利だ。我田引水なところはご容赦を。
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モーツァルト:フルート四重奏曲第1番ニ長調 K285
1777年、21歳だったモーツァルトは、仕事を探すためパリに向かいました。その途中、ドイツのマンハイムに立ち寄り、ヨーロッパ有数だった宮廷オーケストラへの就職を希望します。就職はかないませんでしたが、このオーケストラのフルート奏者の紹介で、オランダ商人のフェルディナント・ドゥジャンという人物から作曲を依頼されました。ドゥジャンはフルートが趣味だったので、フルートのための協奏曲を依頼したのです。こうして作曲された3つのフルート四重奏曲のうち、本日演奏されるのはその1番目の曲です。
ちなみにドゥジャンはほかにも何曲か依頼しましたが、モーツァルトは結局作らなかったので、謝礼は半額になってしまったそうです。モーツァルトは、「フルートの音色が嫌いなのに作曲しなければならないのでうんざりしている」と、お父さんに愚痴の手紙を書いています。もっとも、モーツァルトはフルートが出てくる作品をほかにもたくさん作っていますから、依頼者が好きではなかったというだけのことかもしれません。

モーツァルト:ホルン五重奏曲変ホ長調 K407
フルート四重奏曲を作ってから4年後、モーツァルトはパリでの職探しも結局うまくいかず、旅に同行したお母さんが亡くなり、失恋も味わって、故郷ザルツブルグからウィーンに移り住みました。幸いにも、その翌年にアロイジアの妹のコンスタンツェと結婚し、その直後、モーツァルトが26歳で作曲したのが、このホルン五重奏曲です。
この作品は、友人のホルン奏者ヨゼフ・イグナツ・ロイトゲープのために作曲されました。ロイトゲープはザルツブルクでの友人で、この後にも4曲のホルン協奏曲が彼のために作曲されています。この五重奏曲でホルンは独奏が多く、華麗で技巧的に書かれていることから、協奏曲を作る前に、ホルンの演奏技術を試す意味があったとも言われています。ヴィオラが2本使われているところが特徴的で、内声部が充実するとともに、ホルンとヴァイオリンと1対1の掛け合いが鮮明になっています。

モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調 K525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
1787年にこの曲を作った31歳のモーツァルトは、『フィガロの結婚』がプラハで大ヒットしたり、大作曲家ハイドンから認められたりするなど知名度を上げていました。15歳年下のベートーヴェンが訪れたという話もあります。
セレナーデとは、バカンスの夜に歓談のBGMとして流れる曲です。モーツァルトがこれまで作曲してきたセレナーデは、ほとんど管楽器によるものでしたが、第13番は一転して弦楽曲になります。また、もともとは5楽章あったのに、第2楽章を意図的に削除したという説もあります。さらに、この曲はモーツァルトの存命中に一度も演奏されなかったと言われています。これらを考え合わせると、この作品は、発表を意図せず実験的に作られたものと考えられます。セレナーデのドイツ語訳「アイネ・クライネ・ナハトムジーク(ある小さな、夜の音楽)」をわざわざ副題に添えている点も、実験的な感じがします。それゆえに、斬新で印象的なメロディが後世に残り、彼の代表作となったのではないでしょうか。
そしてモーツァルトは、この傑作以降もうセレナーデを作曲することなく、4年後に35歳で死去しました。

チャイコフスキー:弦楽セレナーデ ハ長調 Op.48
1880年、40歳でこの曲を書いたチャイコフスキーは、ヨーロッパ周辺を転々と渡り歩き、大作から遠ざかっていました。遡ること3年前、熱烈な求婚を受けて9歳年下のアントニーナと結婚したものの、彼女は夫の仕事に対して全く理解がなく、結婚生活はたちまち破綻。チャイコフスキーは自殺を図るほど強度のノイローゼにかかってしまいます。結局3ヶ月足らずで結婚は解消し、衰弱していたチャイコフスキーは転地療養を余儀なくされたのです。
弦楽セレナーデは、古典派モーツァルトのセレナーデ形式と、基本的な音階であるハ長調が用いられました。チャイコフスキーは、書簡の中で「この曲は強い内的衝動によって書かれ、芸術的な価値に欠けるところはない」と述べています。帝国主義やナショナリズムを謳う作品が多かった当時、チャイコフスキーはあえて普遍的な音楽を目指したようです。
迷ったら初心に帰るというのは、何についても言えることかもしれません。チャイコフスキーは、離婚後10年かけてようやく、交響曲第5番やバレエ「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などの大作に取り組むことができたのです。

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このページは、おの2009年8月18日 23:13に書いたブログ記事です。

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