坐禅

反論しつつ相手を立てる

コメント(0)

お寺さんの会議に出ることが多くなったが、これがなかなか気を遣う。

日本人は論理よりも感情に流されやすく、自分の意見を否定されると全人格を否定されたように感じる人が多い。かく言う私もそうだったし、今でもそう思うことがあるが、可謬主義というものを知ってから、自分の意見を自分自身と切り離して相対化できるようになった。

そこで反論するときには、同時に相手の人格を立てるところに最も神経を使う。敵対心は全く持っていないこと、それどころかたいへんな敬意をもっていること、だからこそ、相手の力になりたいがゆえに、私は反論せざるを得ないという調子である。ただし、前置きは長すぎないよう。

幸い仏教の僧団は本来、人より法を重んじる。年長者であっても、偉い方であっても、はたまた師匠であっても、筋が通っていないと思うことには積極的に異を唱えなければならない。

-----
たちの悪い先生がいて、なにか罪を犯し、それを隠していたとする。だが、その現場を弟子が見ていた。弟子は先生の秘密を知っている。この、サスペンスドラマ的状況で、弟子はどうしたらよいのか。そのこともちゃんと仏教の法律に書いてある。弟子は先生に向かって、「先生、あなたのやったことは犯罪です。そのことをきちんと公にして、相応の罰を受けてください。それが修行者としての正しい道です」といって説得しなければならない。弟子が先生を導くのである。(佐々木閑『日々是修行』)
-----

もちろん筋の通し方も一通りではないはずだし、原理主義を掲げて孤立するのもまたおかしい。なかなか複雑なお坊さん社会、適度に交わり、適度に自分の考えを出して、うまく付き合っていきたい。

※可謬主義……知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうるという哲学上の学説。真実とは、現在のところ反論が成り立たないということにほかならないから、反論に依存していることになる。

コメントする

このブログ記事について

このページは、おの2009年9月 8日 11:10に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「長女の運動会」です。

次のブログ記事は「お地蔵様の前掛け」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

アーカイブ

リンク用バナー