ドイツの従兄弟

従兄弟がドイツから来日し、10日ほど家に住んでいた。前回の来日は1歳のときで、実に23年ぶり。私は一昨年にドイツで会っていたので久しぶりでもなかったが、親戚の多くは初対面みたいなものだった。
国際結婚した叔母の子供である従兄弟はドイツ語と英語が話せるが、日本語は挨拶ぐらいしか知らない。車が好きで、大学で機械工学を勉強しようとしたが止め、今年から大学でメディアコミュニケーション論を学んでいる24歳。アルバイトもしているが、来日費用は全額叔母もちだ。
経済的に依存しているにもかかわらず家族の連絡はほとんどなくて、従兄弟がいつのフライトで来るのかを、叔母は知らなかった。3日前になって、お金が足りなくてチケットが買えないという連絡を受けて初めて、来日日程が分かったという次第だ。
成田からはレンタカーで山形まで来るつもりだったらしいが(日本語を読めないで、初めての左レーン・左ハンドルでよくそんなつもりになるものだ)、叔母に止められて、外国人用のJRパスを買って新幹線で来た。主目的である祖母の米寿祝の前日である。
本堂か小屋に泊まってもらおうかとも検討したが、結局私のゲーム部屋に。叔父叔母が子供部屋に泊まっているため、ボードゲーム棚に加えて、子供たちのおもちゃや本も押し込めてある。でも狭いほうが居心地がいいらしい。
飛行機も新幹線も全く眠れなかったそうで、翌日は昼まで寝ていた。だがこれが時差ぼけでないらしいことは、だんだん分かってくる。
叔父と叔母は観光しながら神奈川から神戸に行き、関西空港から帰国したが、従兄弟は一緒に着いていくでもなく、毎日のんびり。起床は午後1時。昼食を食べて散歩をして、シャワーを浴びるともう3時過ぎ。長女は下校し、長男も保育園バスで帰ってくる時間だ。このため遠出する間もなく、夕食になってしまう。我々は夜9時頃寝てしまうが、従兄弟は朝の4時頃までネットをしたり雑誌を読んだりして過ごしている。そしてまた起床は午後。この繰り返しだった。何と1日の短いこと。
ご飯を出す母と、日本を見せたい祖母は、そんな生活にお冠だったが、私は放っておいた。私もそうだったが、20歳前後にとって、昼間に寝られるのはとても幸せなものだからだ。従兄弟が「東京に行く」と毎日言いながら、ずるずると先延ばししたのは、結局居心地がよかったということだと思う。もう1人の孫として、祖母の生活をじっくり見てもらえたのもよかった。
お出かけといえば市街地に買い物に行くのに付き合う程度。タスパークホテルの物産館はお値段が高めということもあって長井紬の名刺入れを1つ買っただけだったが、ヨークベニマルではハローキティの財布やタオル、うさるさんのぬいぐるみなどファンシーなものを買い込んでいた。財布はタグがちょっと曲がっているとか店員にクレームをつけたら2割引に。私は通訳しだったが、よくやるものだと感心。
薬局では咳止めの成分にこだわり、1つ1つ吟味。この成分しか入っていないものはないかなどと言って店員を困らせていた。お菓子を買うにも内装があるかないかなどといちいち調べるので時間がかかる。
食品売り場では何を食べたいか聞いても、よく分からないから任せるの一点張り。食べ物は子供の頃から叔母に鍛えられているお陰で、醤油味をとても好むので選択の幅は広い。芋煮など、鍋に残しておいたのを夜中に起きてきて全部平らげていた。
お出かけのときは一番準備に時間がかかるので子供たちが名前を連呼。携帯を忘れた、水を忘れたといちいち家に戻るのは母や私に似ている。
こんなふうに、ごく普通の山形ライフを送っていた従兄弟だが、先延ばししたお陰で、最後に遠出するチャンスに恵まれた。連休で妻の友人が遊びに来たのである。
10人乗りのハイエースをレンタルして、初日は白鷹の鮎祭りと飯豊のイタリアンレストラン、二日目は近くのそば屋と米沢までドライブした。前日に登った長井の大石も含めて、地元の風景をたくさん見せることができた。
米沢駅に着いたのが新幹線が出る1分前で、満足に見送ることもできなかったが、都内に2泊して、今日成田から無事ドイツへ帰った(と思う)。
気前よくお菓子をくれたり、アイスを買ってあげたりしていたせいか子供たちには人気で、言葉が通じなくてもよく話しかけられていた。私は始終ドイツ語だったが、不思議と日に日にしゃべる量が増えてくるから不思議だ。妻と母は英語、祖母は容赦ない山形弁。振り返ると、面倒を見るのも結構楽しい10日間だった。次はいつになるか分からないけれど、また近いうちに来日してほしい。

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