お金が信心を奪う

朝日新聞「声」11月17日「戒名断り、母は無宗教の墓へ」
お母さんが亡くなったとき、菩提寺が遠いので別の僧侶に通夜と葬儀をお願いしたが、菩提寺の境内に納骨しようとしたら、住職から「戒名を授けて本葬儀をしないと、母は浄土にいけない」「戒名50万円、本葬儀60万円のところを計80万円にする」と言われたという。そこで戒名を断ったら「出ていってくれ」と言われ、お墓を宗教的な制約のないところに移転し、俗名を刻んだという。この選択について「これが正しかったのか。孫子のために良かったのか。結論はもう少し時間が掛かるかもしれない。」とまだ納得できていない様子だ。
23日付けの「声」では別の方からの返事として「信心するなら、普段からお寺と付き合って仏教を知ってください。」「今後、自分はどう死んでいくか。折にふれて考え、納得のいく準備をしておくと良いと思います。」とある一方、俗名では成仏できないとした菩提寺は正しいとする。
今日付けの「声」では「戒名は仏弟子になった証しではありますが、何十万円もの価値があるとは到底思えません。」とし、無宗教のお墓に移ったのは子孫のためによかったと励ましている。
一度お葬式をしたのに、菩提寺に頼まなかったがゆえに納骨の際にまたお葬式をしないといけなくなるのを、『坊主丸儲けのカラクリ』では「ダブルお布施地獄」と呼ぶ。この件についての私の考えは「もうひとつの戒名問題」で述べた。
この背景にあるのは戒名料が利権化しているという実態である。さらに言えば戒名を頂くのにお金がかかるという実態である。「声」の投稿者が「整然仏の道に功徳を積んだ人間に、位の高い戒名を与えると言うが、実際はお布施を払った後に授かることになる。それなら販売と言ってくれた方が分かりやすい。」というのは至極当然の意見である。
お寺の側からすれば、信心のない者ということになるだろうが、その信心を育てなかったのはお寺の責任である。葬式・法事だけの付き合いでは、信心よりお金の話が先に立ってしまうのも(お互いに)無理はない。
戒名がないと成仏できないかといえば、成仏をどう考えるかによる。受戒して修行を積んで仏になるのだという考えや、受戒することがそのまま仏になることだという考えならば、戒名なしには成仏できないが、人は誰でも死ぬまでには光に包まれ、尊厳に満ちて涅槃に入るという考えならば、戒名がなくても自動的に成仏できる。しかしいずれにせよ「戒名がないと浄土にいけない」などというのは「供養しないと祟りが起こる」と同様、単なる脅し言葉なので言ってはいけないことである。
おそらくこの方は戒名がいくらだとか言われなければ、黙ってそのお寺のお墓に納骨していたことだろう。お寺としては先祖代々支えてきて下さった檀家を1軒失ったことになるし、我々僧侶にとっても大事な仏教徒を1人失ったことになる。その損失はお金で換算されるものではないだろう。ほんとうに残念なことだし、我が身を振り返って、こういう事態が起こらないように常日頃からよくよく注意したいと思う。
※宣伝ではないが、うちのお寺は戒名料を一切頂いていないし、そういうお寺も少なくない。ただ、何でも安ければ安いほどよいというのはお寺の存続から言っても、菩薩道における布施の心から言っても正しいとは思わない。日常の信頼関係に基づいて、与えるほうにとっても頂くほうにとっても適正な金額になるのが望ましい。

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