2010年6月アーカイブ

ダライラマ講演会

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本山の横浜・総持寺にダライラマ14世がやってくるというので聴講を希望し、聴きにいってきた。総持寺が能登で火災に逢って横浜に移転してから100周年を迎える記念事業だったので、入場料は無料である。

関係者限定の講演会だったが警備は厳重で、リストバンドをしないと入れないようにしてあった。警備員だけでなく金色のバッジをつけたSPがたくさん見張っている。受付で並び、クロークで並んでようやく入場。1000畳敷の本堂は本山の修行僧、寺院関係者、鶴見大学関係者、鶴見中高の学生総勢1700人でいっぱいになった。司会が携帯電話の電源を切るようにと5回くらい繰り返している。

ダライラマ14世は堂行と本山の重鎮に導かれ、足を引きずるようにして入ってきた。一斉に合掌をしてお迎え。本尊に五体投地してから、線香を拈じ、位に着いた。高台の上には演壇の後ろにソファーが置いてあり、くつろいだ調子で話し始める。英語交じりの中国語で通訳つき。

はじめに中論の『帰敬偈』を唱えてから、ここにいる皆さんで般若心経を読んでくださいというリクエスト。始まる前はきゃぴきゃぴしていた鶴見高校の生徒も一緒に読む。読み終わると般若心経の解説が始まる。一切は皆空であり、自性をもたないものである。人には仏性があるが、煩悩のために隠されている。般若心経の呪願文を唱え続けることで智慧が完成し、煩悩を取り除かれるとともに、自利と利他がつながるという。

そして世界の宗教は平和を目指す点で教えが共通しているにもかからず、これだけ紛争が絶えないのは看板だけ掲げて信仰していない人が多いからである。信仰する人が増えれば、世界は平和になると結んだ。

話は40分ほどで終わって質疑応答。予め決められていた鶴見高校の学生と本山の修行僧が質問する。鶴見高校の学生は輪廻について訊いた。人は死んだらどこに行くかという質問に対し、法称の『量評釈』を引用し、始まりのない意識が、習化と因果によって次の意識を生み、それが連続していくという、哲学的な答えを出した。

正月には神社、結婚式は教会、お葬式はお寺という日本人の節操のなさについては「楽しいですね」の一言。宗教は内面的なものであるというダライラマ14世の考え方からすれば、こういった行事がどんな形であろうとかまわないのかもしれない。宗教と文化は別物だとも。

修行僧の質問は、自分のことに精一杯という人がほかの人の苦しみにも目を向ける方法やダライラマ14世の説く普遍的責任について。全ての生き物も物体も、私たちに縁のないものはないというつながりの意識が必要だという答えだった。

決められた質問者が終わり、手を挙げての質問。最後に当てられた鶴見大学の職員は、シングルマザーとして苦しんでいること、自分の宗教がもてないこと、でも毎日本堂で手を合わせていることを話し、来世で自分は幸せになれるでしょうかと尋ねた。質問の途中からもう感極まって涙ぐんでいる。

これに対して、意志があれば必ず実るという話を因果関係をベースに話す。朝、美味しいものを食べたいと思って買い物に行けば、夕方に実現する。子どもによい教育を受けさせれば、子どもは十年後、何十年後に幸せになる。このように、結果がすぐ現れるものもあれば、時間がかかって現れるものもある。あなたの来世も、幸せになりたいと思うならばなれるだろう。ただし、意志が叶う条件を整えなければならない。それは今をしっかり生きることだ。

因果応報(特に三時業)の教えは、説き方によっては差別などの社会問題を現状肯定する恐れがある。そのため、来世よりも今が大切だという教えがよく説かれるようになってきているが、未来への意志や夢を蔑ろにしてはいけない。因果関係の「因」に直接的原因と間接的条件の2種類があることから、未来志向と現在の努力の2つを説明したのは見事としか言いようがない。

仏教哲学は、実存的な問題には無力だと思っていた。でも、法称や世親の難解な哲学を引用しながら、このように人の悩みに答える説き方もあるのだ。この頃は般若心経が分かりにくいからと初期仏典に傾倒していたが、もう一度宗門の伝統に沿って見直してみようかとも思った。拍手で送られていくダライラマ14世に、法悦の心で合掌した。

終わって駅に直行。昼食を取る時間がないのでコンビニで買おうかと思ったが、奮発して駅弁にした。考えてみたら昨日上京して以来、買い物をしたのはコンビニの水だけだった。

先週に引き続き、まちの楽校・本町館で開かれた「男の育児」講座に参加。今回は東北文教大学の先生。といっても教職に就いたのは定年後で、保育師として37年務め、学者でなく実践者を自認しておられた。

講演は父親の育児参加に関する世論調査、父親の役割についての学説紹介、先生が経験した実話に基づく子供の目線、そして学生アンケートによる父親観という構成。理論にも実践にも偏らず、押し付けがましくもなく、聴きやすくてためになった。

特にまとめで、子育てにマニュアルはなく、理想的な父親像などというものもないこと、それゆえそれぞれの家庭で、子どもとの関係性の中で違ったかたちの父親像が紡ぎ出されるという話と、子ども時代は将来への準備期間ではないのだから、今を楽しむこと、生ききることが大切だという話は心にしみた。

子ども目線というのは言われてみないと気づかないことである。朝、子どもが起きたとき、もう大人は起きているわけだが、早くと言われてしまうと出遅れ感(会議に遅刻したときのような乗れない気分)をもってしまう。そこでは「今日一日始まるよ」と一日の見通しを語るほうがよいという。

また、子どもが手に取るものはものではなく子ども自身であるから、むやみに取り上げるべきではないというお話や、お父さんの仕事を聞かれたら、幸せを作る仕事だとかっこよく教えましょうというお話、保育園に早くお迎えに行った理由を聞かれたら「会いたかったから」とか、お下がりはかわいそうといわずに「お兄ちゃんみたいにかっこよくなれるよね」とか、事実でなくとも、自分があまりそう思わなくとも、言ってあげることであるという(4歳前半くらいまで)。もちろん、自分が思っていることもきちんと伝えることが大事で、こういったことが子どもの心情や意欲に結びつく。

先生は保育科の学生に、まず自分の親のことを考えさせるという。自分がどのように育てられ、何物だと思っているかが、子育てに大きな影響を及ぼす。自分の考え方が母親寄りなのは、主夫をしているという以上に、父親がいないことと深い関係があるのかもしれないなと思った。

子育ては親育て。こうして自分自身を振り返るきっかけとしても、こういう講座はありがたい。

昨日の日記に合わせるかのようなニュース記事を発見。イクメンとは、子育てを楽しみ、自分自身も成長する男性のことで、イクメンが多くなれば、妻である女性の生き方や子供たちの可能性、家族のあり方までが変わり、社会全体も豊かに成長していくはずだという。へえ。

子育てを楽しむ余裕があるというのは結構なことだが、たいへんなところは奥さんに押し付け、子育ての真似事のようなことをちょっとだけして満足しているのは頂けない。まずはルーティンにして、楽しいとかたいへんだとか思わなくなって、そのうち充実感に満たされてくるというのが真のイクメンだろう。

同年代のお寺さんとしゃべっていると、おかあさんといっしょ(NHK教育)の話が合ったりする。「この時間だけが息抜きで、外でタバコを吸ってくる」「歌は全部覚えた」とか。子育ても修行と同じで、はじめは嫌だったものが、次第に何とも思わなくなり、そのうち楽しくなってくるものでありたい。

家族のあり方や社会全体まで変わるとは思えないが(むしろ逆で、家族のあり方や社会全体が変わらないとイクメンは増えないと思う)、子育てをする男性がもっと自信と責任をもち、世間がそれを受け入れてくれるなら、わざわざ厚労省が推進する意味もあろうというものだ。日中に男がスーパーで買い物をしてもジロジロ見られないで済むとか、そんな世の中になってほしい。

厚労省が「イクメン」を促進 (毎日新聞)

イクメンプロジェクト:ホームページ(登録してきました)

「男の育児」講座

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保育園からのお知らせで、市民講座があったので昨日行ってきた。保育園のお迎えの後、3人の子供を連れて買い物を済ませ夕食をかきこむ。子供たちに食べさせるのは母に任せて出発。

場所は「まちの楽校本町館」。桑島記念館かと思っていったらそうでなくて、江口玩具店のおじさんに訊いたらフェリカ跡だった。NPOの運営で仕事や趣味などいろんな講座を開設している。今回の受講料はたったの200円。

全3回の講座で、今回のテーマは「仕事も育児も楽しむ生き方」。講師は山形新聞社の社員ということだったが、行ってみてびっくり、高校の同級生だった。卒業以来約20年ぶりである。

受講者は6名。はじめに詳しい自己紹介(家族構成など)をして打ち解けた後、講師のお話。父親として1ヶ月の育児休業を取るまでの根回しから、たいした家事もできなくて奥さんの評価は辛口だった話まで。驚いたことに、山形新聞社で育児休業を取ったのは、彼が男女通じて初だったという。どんだけ後れているのか、山形。

とはいえ、近所のお父さんを見ていると、不況もあって育休どころか仕事があるだけで御の字という様子である。奥さんも、一家の大黒柱として育休など取らず働いてもらわないと困るという意見が大勢で、道のりは遠そうだ。現在1%程度の男性の育休取得率を、政府はあと10年で13%にしたい考えだが、育休を取ることが目的になってしまって、日常の育児にしわ寄せがいくのでは意味がない。

まずは、月間160時間という労働時間を短縮し、子供が寝る前にお父さんが帰宅できるようにするところからだろう。早く帰ってこれれば家事ができ、家事に慣れていれば、育休でも役に立てる。一足飛びに育休をとっても、飲みに行ったりゴロゴロしたりと、自分のためだけの休みになってしまって奥さんの不興を買いかねない。

私は育休年間365日といってもいいくらいなので、世間ずれも甚だしいが、ほかの受講者の話を聞くと、職業・年齢・子供の人数などによって世間も決して一様でないということに気づかされた。それぞれにいろんな悩みを抱え、それを乗り越えていこうとしている。子育ては独りでできるものではない。自分ばかり大変だと思いがちだが、家族に敬意を払い、互いに協力してやっていこうと思った。

帰宅すると子供たちがお風呂に入らないで待っていた。子供たちにかける言葉がいつもよりも優しくなったのは言うまでもない。

『坊主DAYS』

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臨済宗の住職を兄に持つ著者が、兄の修行時代をマンガに描き起こした本。建前と本音、表と裏のギャップに笑いつつも、伝統的な仏教の修行は絶対譲れない部分がある。

類書に『ファンシィダンス』があるが、ストーリーはなく、仏教の解説やツッコミを加えながら楽しく伝える。

曹洞宗は無想禅ということもあって禅問答は形式的なものになっているが、臨済宗は厳しい。1700もの公案を全部クリアして初めて印可がもらえるのだとか。

薪割りはしなかったけれど、修行僧だったころを懐かしく思い出しながら読んだ。

一昨日、本山から派遣されていらっしゃった布教師の法話を聞く集まりが近くであった。年に1回このような会があり、私は聞くのを楽しみにしている。養成所で研修を重ね、さらに実地で経験を積んできた方々の話は、内容も話しぶりも徹底的に磨き抜かれていて、自分が檀家さんの前でお話しするときのよいお手本になる。

今回のお話の中で、ひいおばあさん4人の名前を全部言えますか?という質問があった。言える人はほとんどおらず、私も2人しか分からない。わずか数十年前に生きていた人でも、記憶がある人は急激に減っていく。私だって、それなりに年を取って死んだら、50年経って覚えている人などほとんどいないだろう。

その話から布教師さんは、我々の命がそういう名前も知らないたくさんの先祖によって受け継がれてきたものだから、大事にしなければいけないですよという話に持って行った。

私も子供たちの前で、そういう話をすることがある。両親は2人、祖父母は4人、総祖父母は8人……と2倍2倍と増えていって、7代前まで合計すると(延べ)500人以上になる。そのうち1人でも欠けていたら、今の私はなかったかもしれない。今の私があることをご先祖様に感謝しなければいけないですよと。

でも今回ふと考えた。もし人生に悩み苦しんでいる人、お釈迦様の説く「一切皆苦」をしみじみその通りだと思っている人にこのような話をしても、少しも役に立たないのではなかろうか。もしかしたら、苦しみに満ちた人生を与えた先祖や親を怨むことになるのではないかと。

もちろん、人生が苦しいのは先祖や親のせいだというのは責任転嫁も甚だしい。「誰も産んでくれなんて頼まなかった」と憤る子供のようなものである。先祖や親が与えてくれたのは命であって、実存的な自我ではない。しかし、苦しみのもとである自我の原因は先祖でないからこそ、ある意味関係のない先祖を引き合いに出しても救われないのである。

自我の根本原因は無明や煩悩であり、それを乗り越えるために仏教がある。先祖の入る余地は(少なくとも教義的には)ない。

しかし実際、日本仏教は先祖教である。お釈迦様をさておいて、先祖を崇め奉っている人が多い。それに合わせて僧侶も、自己の成仏得度よりも先祖が大事だ、先祖を拝もうという話をしがちだ(葬儀も法事もそれが主目的だからなのだが)。

民俗と絡み合って発展してきた日本仏教の事情がある以上、先祖が大事だという話は不可避であろう。でもそれが結論ではいけないと思う。実存的な苦しみを取り除き、仏心、道心、菩提心を植え育てる話に進まなければならない。お経の最後の回向で「願わくは我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを」と願うではないか。

でもそうすると出道や出家の話にならざるを得ないわけで、じゃあ袈裟をつけている僧侶はいったい仏道を歩む見本になっているのかが問われる。布教師さんが本山での修行を終えて挨拶を回っているとき、ある方から「あなたはなぜ袈裟をつけるの?」と問われたという。布教師さんは「お坊さんだからです」と答え、その方は「袈裟をつけているということは、いつでもどこでも仏教を説きますということなんだよ」と教えたそうだが、実に重い問いであると思う。

というわけで自分の生活ぶりを棚に上げるために、先祖の話でお茶を濁してしまっていないか、反省している最中だ。

葬儀の平均費用は231万円、そのうちお布施は54万9000円。普段の信仰もないのに、いざというときだけ知らない僧侶を呼んで、こんな金額を出すくらいならば、直葬や家族葬、戒名を自分たちでつけた葬式をしてもいいのではないか、という提案の書。なので葬式自体を否定している本ではない。

日本仏教の歴史やお寺の経済事情まで加味した上での提案なので、お寺の側から見ても一方的ではなく、納得できる内容である。特に寺の檀家であるということはひどく贅沢なことであるというくだりは全くその通りだと思う。

<<寺の住職は、毎日勤めをし、本尊の前で読経などを行う。その際には、寺の檀家になっている故人たちの冥福を祈る。檀家にはそうしてもらっているという意識や自覚がほとんどないが、檀家になることで、私たちは先祖の供養を委託しているのである。(中略)その特権を護るためには、それ相応の負担をしなければならない。それは、当たり前の話である。ところが、私たちは、こうしたことを明確に意識もしていなければ、自覚もしていない。>>

実際、直葬は東京で20パーセント(私が聞いたところでは30パーセント、40パーセントとも)と増加傾向にあり、地方にも波及しそうな勢いであったり、この本が25万部も売れているという事実を、仏教界は重く受け止めなければならない。地方でも「家の格」に見合った振る舞いが求められなくなり、上記のような檀家の自覚が希薄になっており、古来の法式だけでよしとせず葬儀の意義をきちんと説かなければいけない時期に来ている。

個人主義の世相、親子の家業の分断、葬祭業者の台頭など、寺院を取り巻く状況に愚痴をいっている暇はない。「今のお寺は葬式仏教すら果たしていない」「仏教はなくならないが、寺院は近い将来なくなっていく」そんな言葉に真正面に向かい合って、危機感をもってやっていきたい。

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