2011年2月アーカイブ

人権教室

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昨日、今日と2日間にわたって、近くの小学校で人権教室が行われ、講師として行ってきた。人権擁護委員の活動のひとつで、毎年市内の小学3年生を対象に、いじめについて考えてもらっている。

教材として使用したのは、法務局が作成した「いっちゃん、ごめんね」という教材。1年生のたけちゃんは、いっちゃんが紫色のランドセルだったことを馬鹿にしていじめたが、翌日は自分が、古い筆箱でからかわれていっちゃんの気持ちを分かったというお話である。いじめられっ子が固定されず、自分がいついじめられるか分からない現状にマッチしていて、明日は我が身かもしれない子供たちも真剣になる。

教室には7〜8名の人権擁護委員が全員入り、進行、板書、最後のお話などの係に分かれる。自己紹介と人権擁護委員の仕事について簡単に説明をしてから、物語を読み、登場人物を整理し、たけちゃんがどんな気持ちに気づいたかを書いて発表してもらう。

打ち合わせで確認したのは、押し付けがましくならないこと。日頃、人権相談で一番注意していることでもある。授業ではある程度一方的にならざるを得ないが、和やかな雰囲気で進めることができたと思う。

5クラスの授業で、最後のお話の係が2回あった。先日、地元の小学校のPTA研修会で講演をしてきたと言ったので当てられたのかもしれない。とはいえ、お寺の住職としてではなく、一市民として話すわけだから、別のことを話さなければならない。

いろいろ考えた結果、自分が子供の頃に言われて嫌だったことを話してみた。(今は結構かっこいいヘアスタイルでもあるが)坊主頭をハゲと言われたこと、(今は結構普通になりつつあるが)片親と言われたことなどである。ネガティブで、ややプライバシーに関わるため、自分をさらけ出すのは恥ずかしかったが、そういうことは学校ではなかなか聞けないだろうと思って話した。子供たちの心に少しでも響いてくれればよいと思う。

私は心の教育みたいなものには否定的で、心自体は自由で秘密であるほうがよいと思う。それが具体的行動に表れるときにだけ、他人や自分を傷つけたりしないように教える。個々の微妙で深遠な精神世界を、画一的なスローガンで縛るのは効果がないどころか、逆効果になることだってある(心理的リアクタンス)。

話のまとめでも、建前だけの精神論ではなく、具体的な対処法を話すように心がけた。いじめの現場で「やめろよ」と止めるのは確かに立派だが、そんな勇気を誰でも持ち合わせているわけではないし、言ったところで止まる確率も低い。それならば上手に話題をそらすとか、事後、いじめられた方のケアに回るとか、いじめた方をこっそりたしなめるとか、その人なりにやり方を考えればよい。無関心(を装うこと)が最も悪い。

そして応援している仲間がクラス・先生・家族・地域にたくさんいるということを伝え、自信をもつよう励ました。社交テクニックでカバーできない子供には、多くの手助けが必要である。

偽善なのかもしれないが、子供たちの前でこんな話をすると、将来のある子供の役に立てたかもしれないということに、言いようのない満足感が起こる。教師のやり甲斐とは、このようなものなのだろうか。1日目は終わってから、コンビニで買ったおにぎりを車の中で食べて午後からお葬式。2日目はほかの委員の先生とゆっくりお昼を食べて帰ってきた。

地元の公民館の主催で、昨年に引き続き写経教室(全4回)が開かれ、講師として呼ばれた。大雪の中、毎回12〜13名の参加者があり、こうして仏教に興味を持って下さる方がいらっしゃることが嬉しい。

上田紀行氏が立命館大学で行ったアンケートによると、仏教に対していいイメージをもっている人は9割にのぼるのに、「日本仏教に対して」と聞くと65%、「日本のお寺さんに対して」は25%、「日本のお坊さん」に対しては1割になってしまったという。仏教の講座を開くなら、お寺よりも公民館のほうが人が集まりやすいということは言えそうだ。

昨年は般若心経の読解を試みたが、いくら平易な言葉にしても般若心経は難解だということを痛感した。そこで今年取り上げたのが初期経典の『ダンマパダ』。後世の創作が多い大乗仏典とは対照的に、お釈迦様の生の声とされる初期経典は非常に直截的で分かりやすい。

中村元先生の岩波文庫版をもとに、パーリ語の原典を見ながら自分にしっくりくる訳語を検討し直した。パーリ語自体はまともに勉強したことはないが、語彙も文法もサンスクリット語から推察できるものが多い。またもとの韻文の雰囲気が出るよう、できるだけ短くした。『ダンマパダ』は全部で26章あるが、毎回1章を取り上げ、冗長な部分は抜粋にしてある。

1回目は第1章「ひと組ずつ」。唯心論的世界観が述べられる。
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ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその者につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその者につき従う。影がその体から離れないように。
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだく者には、怨みはついに止むことがない。
「あの人は、私を侮辱した。あの人は、私を殴った。あの人は、私を負かした。あの人は、私から奪った。」このような思いをいだかない者には、ついに怨みが止む。
実にこの世においては、怨みをもって怨みが止むことは決してない。怨みをすててこそ止む。これが永遠の真理である。
「ここにいる我々は皆、死を免れない」と知らないから人々は争う。このことわりを知れば、争いはしずまる。
悪いことをなす者は、この世でも、来世でも悔いに悩む。「私は悪いことをした」と悔いに悩み、地獄におもむいて、さらに悩む。
善いことをなす者は、この世でも、来世でも歓喜する。「私は善いことをした」といって歓喜し、天の世界におもむいて、さらに喜ぶ。
たとえためになることを数多く語っていても、それを実行しない者は、牛飼いが他人の牛を数えているように、出家者ではない。
たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、欲望と怒りと迷妄とを捨てて、正しい理解につとめ、感情的にならず、執著しない者は、出家者である。
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2回目は第8章「千という数にちなんで」。量より質を重んじる態度は、後代の道元にも引き継がれている。
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無益な言葉を千たび語るよりも、聞いて心の静まる言葉を一つ聞くほうがすぐれている。
無益な言葉の詩が千あっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。
戦場で百万人に勝つよりも、たった一つの自己にうち克つ者こそ、本当の勝利者である。
自己にうち克つことは、ほかの人々に勝つことよりもすぐれている。常に行いを慎み、自己を整えて、自己にうち克った人を負かすことは、神にも、天人にも、悪魔にも、梵天にもできない。
百年の間、毎月千回ずつ祭祀を営んでも、自己を修養した人を一瞬でも敬うならば、百年の祭祀よりもすぐれている。
この世で功徳を求めて一年間神を祀り捧げ物をしても、行いの正しい人々を尊ぶ功徳の四分の一にも及ばない。
つねに自己を修養している人を敬えば、四つのものが増大する。すなわち寿命が延び、顔色がよくなり、健康になり、体力がつく。
素行が悪く、心乱れながら百年生きるよりも、善き行いに励み、思い静かに一日生きるほうがすぐれている。
愚かに迷い、心乱れながら百年生きるよりも、智慧をもって思い静かに一日生きるほうがすぐれている。
なまけて、無気力に百年生きるよりは、自己を向上する努力をふりしぼって一日生きるほうがすぐれている。
諸行は無常であると知らずに百年生きるよりも、諸行は無常であると知って一日生きることのほうがすぐれている。
不死の境地を知らずに百年生きるよりも、不死の境地を知って一日生きることのほうがすぐれている。
最上の真理を知らずに百年生きるよりも、最上の真理を知って一日生きることのほうがすぐれている。
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3回目は第12章「自己」。大乗仏教の原理と相容れないくらいの、徹底した自己責任が展開される。少林寺拳法で唱える「聖句」はここから取られている。
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自己が愛しいと思うならば、自己をよく守りなさい。賢い人は、人生のどの時期でも目覚めている。
まず自分を正しく整え、その次にほかの人に教えなさい。賢い人はそうするから非難されないのである。
ほかの人に教える通りに、自分でも行わなければならない。自己を整えた人しか、ほかの人を整えることはできない。自己は実に整えにくいものだから。
自己にとって自己こそが主である。どうしてほかの人が主となろうか。よく整えた自己によってこそ、得難い主を手に入れる。
自己が作り、自己から生まれ、自己から起こった悪が、愚かな人を打ち砕く。ダイヤモンドが宝石を打ち砕くように。
徳のない者は、敵が望むような不幸を自己に対して行う。蔓草が沙羅の木にまといつくように。
悪いことや、自己のためにならないことは為しやすい。ためになることや善いことは、極めて為しがたい。
愚かにも、悪い考えのために、徳の高い人や、聖者の教えを罵るならば、自身が破滅する。カッタカという草の実が熟すると自身が滅びてしまうように。
自ら悪をなせば、自ら汚れ、自ら悪をなさざれば、自らが清らかである。清きも清らかざるも、自己による。人は、ほかの人を清らかにすることはできない。
たとえほかの人にとってどんなに大事なことでも、そのために自分のつとめを捨て去ってはならない。自分の目的をよく考えて、自分のつとめに専念せよ。
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4回目は第15章「楽しみ」。ちょうど2月15日は涅槃の日で、平安を楽しみ生死を超えるという涅槃について理解を深めた。
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怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく楽しく生きよう。怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく暮らしていこう。
悩める人々のあいだにあって悩むことなく楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって悩みなく暮らそう。
貪っている人々のあいだにあって貪らず楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって貪らないで暮らそう。
一切のわずらいなく楽しく生きていこう。光り輝く神々のように、喜びを食物とする者となろう。
勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで生きる。勝敗を捨てた穏やかな人こそ、安らかに生きる。
愛欲ほどの火はほかにない。憎悪ほどの罪はほかにない。このかりそめの身ほどの苦しみはほかにない。心の平安ほどの楽しみはほかにない。
飢えは最大の病であり、我が身は最高の苦しみである。この真理をあるがままに知ったならば、涅槃という最上の楽しみがある。
健康は最高の利得であり、平安は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、涅槃は最上の楽しみである。
孤独の味、心のやすらぎの味を知ったならば、真理の味を味わいながら、恐れもなく、罪過もなくなる。
愚人と共に歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、仇敵と共に住むようにつねにつらい。心ある人と共に住むのは、親族と共に住むように楽しい。
したがって智慧ある賢者、よく学び、忍耐強く、戒めを守る、貴い聖者・善き人、英知ある人に親しみなさい。月が星の進む道に従うように。
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講義の後は写経。毎回漢訳の般若心経ばかりでは芸がないので、今回も写仏(仏像の絵を写す)と、新たに梵字の般若心経を選べるようにした。現代のインドで使われているデーヴァナーガリー文字よりも、弘法大師が伝えた悉曇文字のほうが重みがあっていい。写仏は、塗り絵などすれば文化祭に出せるのではないだろうか。

参加者の多くは昨年からのリピーターで、毎回楽しみにして通っているとのこと。本当にありがたいことである。公民館長によれば、また来年の冬に行われる予定だという。今度はどんな話にしようか、1年かけて考えておきたい。

除雪出動ライン

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国道は0cm、県道は5cm、市道は15cm以上で1日1回。

これは近くで除雪作業をしている知り合いに聞いた、除雪命令の出る積雪量ラインである。国道は圧雪状態にしないよう、雪が降っている限り除雪車が走り続ける。一方の市道は、もう今年の予算を使い切ったので最低限しか除雪できない。財政力の違いがあからさまだ。

そのため、このところ市道は道幅が狭い上にあちこちに起伏ができて、ほとんどオフロードである。保育園バスが2回、吹き溜まりから出られなくなってしまった。除雪業者によって腕の違いもあるそうだ。

県道でも、除雪で飛ばされた雪が道の両脇に積もって、車を半分くらい出さないと左右確認ができなくなっている。一方、道を走っているときに急に車が出てきても滑って止まれないから非常に危険だ。毎日ABSをガガガ、ガガガと作動させながら保育園の送り迎えをしている。

昨日は、坂道で乗用車が横転しているのを見た。運転席のある右側が下になったので、運転手は助手席のドアを開けて上から降りているところだった。スピードを出しすぎたのかもしれないが、そうでなくてもいつどんな弾みでこうなるのか分からないから恐ろしい。

お寺の境内は寺費の中で、寺役員さんにお願いして除雪していただいている。良心的な額だが、それでも毎日のように出動しているので、財政的にほかの事業を圧迫することは間違いない。5年前の大雪では、雪が消えてから外灯の修理が必要になってさらに費用がかかった。車もよく見ると、バンパーがいつの間にか歪んでいる。この修理費も安くはあるまい。

屋根の雪下ろしはさらに危険である。この冬の雪の事故による死傷者は、例年の2倍以上のペースだというが、ほとんどは屋根の雪下ろし中の事故である。高齢者がやむを得ず屋根に登ることが多い。業者に頼んでも、予約でいっぱい。先日は白鷹町のお寺の除雪作業中に、役員さんがロータリーに巻き込まれてお亡くなりになるという痛ましい事故も起きた。

家の裏は2階の屋根から軒下まで雪がつながってしまった。会う人はみな、天気予報でいつから晴れだという話ばかりしている。

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